二十一、スタジオ
その電話は、部屋でくつろいでいた僕とビックリさせた。
「あたしよ、判る?」
電話に出た僕は、電話の相手が誰だか、すぐに判った。
「阿川さん、ですよね?」
真理は、高い声で嬉しそうに答えた。
「覚えててくれたのね。嬉しいわ」
だが、真理の声は急に低くなった。
「ところで、明後日の土曜日は空いてる?」
僕はスケジュール帳を見るまでもなく、顔をしかめた。
「土曜日はちょっと……」
僕は言葉を濁した。その答えに真理は、ちょっとむくれた。
「練習するって言ったでしょ」
そして、真理は少しだけヒステリックな言い方をした。
「土曜日の午後、どうしても空けてよ!」
僕は唸った。土曜日は律子とデートの約束だったのだ。
僕がずーっと黙っていると、真理は懇願するように言った。
「お願いよ、どうしても聞き入れて欲しいの」
真理は声のトーンを更に低く変えた。
「理由はね、スペシャルゲストが来るのよ。その人に、どうしても駿平のペットを聴かせたいのよ」
僕は、それが意味が分からなかった。だが、僕のペットを聞かせる相手とは誰なのかが気になった。そして、おずおずと訊いてみた。
「スペシャルゲストって、誰ですか?」
真理は(しめた)と思って途端に元気になった。
「桜沢宗和よ」
僕は色めき立った。僕の知らない名前ではなかった。というより僕の憧れだったのだ。
「え! アメリカで売り出し中の……、あのジャズトランペッター!」
真理は得意そうに言った。
「えぇ、そうよ。来日公演のオフ日なんだけどね、面白そうだって、来てくれることになったの」
僕はドキドキして、ついこう口走った。
「桜沢さんに逢えるんですか!」
僕の、その反応を聞いた途端に真理は声色を使った。
「どぉ? これでも予定、空けられないかしら?」
僕は一も二も無く即答した。
「行きます、行きます!」
真理は勝ち誇ったようにしゃべり始めた。
「土曜日の午後二時に、Nスタジオに来てね。じゃあ、待ってるわ」
そう言い終わると真理からの電話は切れた。
僕はしばらく、その余韻に酔いしれた。
「桜沢宗和、かー」
「彼の喇叭が聴けるんだー」
「そして、彼と一緒に吹けるんだー」
僕はしばらくボーッとしていたが、しばらくして興奮が冷めてくると、改めて大変な事態に気付いてきた。
『ダブルブッキング』である。
律子とデートか、それともジャズトランペッターの桜沢宗和か。
どれだけの時間、悩んだだろう。数秒だったか、数分だったか、分からない。
僕はいつの間にか、律子に電話を掛けていた。
「あ、律子? 駿平だけど」
「あのさ、今度の土曜日なんだけどさ」
「うん、そう、デート、だよね」
「急に用事が出来ちゃってー」
「うん、……そうなんだ」
「……うん。どうしても抜けられないんだ」
「ごめんね。ホントにごめん」
「今度、埋め合わせするから」
「じゃあ、また」
僕は、深い罪悪感の中にズブズブと沈んでいく自分を見出していた。
土曜日の午後、僕はNスタジオに向かっていた。
真理に管理するように言われたトランペットを持って。
受付で名前を告げると、二階の三番スタジオだと教えてくれた。
スタジオのコントロールルームに入ると、既に二人はスタジオの中でセッションを始めていた。
マネージャーらしき人が、僕に声を掛けてきた。
「戸倉駿平クンだね。ちょっと、ここで待っててくれる? もうすぐブースから出てくるから」
そう言ってマネージャーは、壁際のソファへ座るよう案内してくれた。
それから十分ほど、途切れることなく演奏が続いた。
目の前に、憧れの桜沢宗和がいる。
しかも、聴いているのは数える人達だけ。
そう考えると、鳥肌の立つような興奮に包まれた。
音楽が鳴り止むと、重いブースの扉が開いて、真理と桜沢が出てきた。
「お疲れ〜」
「最高だったよ」
マネージャーやエンジニアが二人に声を掛けた。
真理は目ざとく僕を見つけると小走りに近寄ってきた。
僕がソファから立ち上がると、真理は僕をハグした。
「駿平、よく来てくれたわ。待ってたのよ」
真理は、振り向いて桜沢に僕を紹介した。
「こちら、さっき話した戸倉駿平クン」
僕は、モジモジしながら頭を下げた。
「あ、は、初めまして。戸倉と言います。お会いできて光栄です」
真理は更に付け加えて言った。
「いい音を聴かせてくれるのよ」
桜沢はニヤリと笑って僕に握手を求めてきた。
「桜沢です。よろしく」
僕はもう恍惚状態だった。
「阿川から聞いたよ。ずい分と気に入られたんだね」
僕は少し照れた。
「じゃあ早速、一緒にやってみよう。雨宮先生の楽譜だったよね、阿川?」
真理は罰の悪い顔を一瞬したが、すぐに笑顔に戻って返事をした。
「えぇ、そうよ」
桜沢は、僕をブースへと誘った。僕は、楽器を取り出し楽譜を抱えてブースの中に入った。
スタジオでは、ほとんど個人レッスンのようだった。
桜沢は丁寧に、しかし厳しい声も掛けて、僕をうまくリードしつつ、僕を伸ばそうとしていた。
コントロールルームでは、密かな話が進んでいた。
まず、エンジニアが喋った。
「彼、音響的にいいモノを持ってるね。音の輪郭がハッキリしている。それでいてメロウな部分もちゃんとある」
今度は、マネージャーが喋った。
「あの子、ルックスはいいよね。ピアノも、そこそこ弾けるんでしょ。美味しいかも」
真理は、ガラス越しの駿平を見ながら言った。
「雨宮先生の頼みだったので渋々だったんだけどね」
真理は頭を振った。
「雨宮先生は昔からやり手で通ってたけど、娘の為に娘の恋人を横恋慕しろだなんて」
真理はフッと息を吐いてから言った。
「ちょっと信じられなくなったわ」
真理はもう一度、溜息を吐いてから話を続けた。
「でもね、彼に会って彼の演奏を聴いて気持ちが変わったわ。彼を私のバックに付けたいと本気で思ったのよ」
マネージャーがボソリと呟いた。
「全く、真理さんも我がままなんだから」
マネージャーは、エンジニアと顔を見合わせながら呟いた。
「でも、いい素材であることは間違いないね、うん」
真理はマネージャーを見てニヤリとした。
マネージャーも真理と目が合った瞬間、ニヤリとした。
四十分が経過したところで、桜沢は僕に声を掛けた。
「唇がツライだろ。少し休憩しよう」
僕はそうでもない感じだったが、ペットを口から外すと唇がジーンとした。
ブースの中から出てきた桜沢はこう言った。
「阿川、彼をアメリカに連れて帰っていいかい?」
真理は慌てた。
「ダメ、ダメ。ダメよ! 私が先よ」
桜沢はニヤリとして苦笑した。
「やっぱり、ダメか」
僕は、異常に照れ臭かった。
しばらく雑談をしていたが、真理は痺れを切らしたように言った。
「さあ、セッションよ、セッション」
真理はエンジニアを振り返って言った。
「ちゃんと録音してちょうだいよ。それもとびっきりの音でね」
エンジニアは真理に敬礼した。
「了解。バッチリ録りまっせ」
真理は僕を見て微笑んだ。
「さぁ、楽しい音楽の始まりよ」
三人はブースの中に消えて行った。




