十九、密談
とあるスタジオで、阿川真理はピアノを弾いていた。
ショパンのエチュードを弾き終えた真理は、ジャズのアドリブフレーズを弾き始めた。
しばらく弾いたところで、一人の男がスタジオに入ってきて拍手をした。
「阿川君、上手くなったね。見違えたよ」
真理は途中で弾くのを止めて、男の顔を見た。
「アメリカでずい分勉強したようだね」
スタジオに入ってきた男はそう言った。
「ありがとうございます。雨宮先生直々のご教授のお陰です」
その男は、雨宮健一だった。
「再来月には録音に入るそうじゃないか。ついにデビューだね」
真理はうつむいて頬を染めた。
「まだまだ、先の話です」
雨宮は誇らしげに言った。
「何を言っているんだ。世間は君を認めてるんだよ。自信を持ちなさい」
顔を上げた真理はうなずいた。
「えぇ、そうですね」
雨宮はピアノの縁に手を掛けて言った。
「そんな忙しい時に変なことを頼んでしまったな」
真理は嬉々として言った。
「そんなことありませんわ。私自身、興味が湧いてきましたから」
雨宮は少しホッとした様子だった。
「慣れない役回りだから難しいとは思うが、何とか律子に『憂い』を教えたくてね」
真理の顔が少し曇った。
「それを思うと、ちょっと胸が痛みますわ」
雨宮はキリッとした顔で言った。
「いや、これは必要なことなんだ。奈津子もそうして会得してきたんだから」
真理はそれでも浮かない顔をしていた。
雨宮は話を少し逸らした。
「ところで、戸倉駿平はどうだね? 面白い『素材』じゃないかね?」
真理の顔は、急に嬉々としてきた。
「えぇ、彼はいいモノを持っています。私自身、指導してみたいと思いました」
雨宮はニヤリとした。
「いいんだよ、指導しても。その段取りは、もう付けたんじゃないのかね?」
真理はちょっと赤くなった。
「よくご存知ですね。先生の計画通りに進めているだけですけど」
雨宮は、フフフと笑った。
「まぁ、いい。ところで、戸倉君の指導は誰か、知っているか?」
真理は首を横に振った。
「藤巻だよ。藤巻要一」
真理はビックリした。
藤巻要一のピアノを聴いたのがキッカケで、真理は音楽を目指したからだった。
「え? あ! そうなんですか。……だから、私、彼のピアノに心が動いたんですね」
真理は感慨深げに言った。
雨宮は更に話題を変えた。
「戸倉君に例のモノは渡したのかね?」
真理は、気持ちを切り替えた。
「えぇ、渡しました。喜んでいたというよりビックリしてました」
雨宮は無表情だった。
「律子から聞いた情報だ。間違いはないよ」
雨宮はニヤリとした。
「私からのプレゼントだよ、プレゼント」
真理は、雨宮の表情がちょっと悲しかった。
今度は真理が話を変えた。
「トランペットを渡した時、律子さんに会いました」
雨宮は真理の顔を見た。
「そうか、会ったのかね。今の娘は『恋する乙女』だったろう」
真理は探るように雨宮に言った。
「ホントに戸倉君のこと、好きのようですね。仲睦まじくて羨ましいって感じでした」
雨宮は興味無さそうに言った。
「今はそれでいい。だが、それだけではダメなのだ。『清姫の憂い』が必要なのだ」
それだけを吐き捨てるように言うと、雨宮は振り返ってドアに近づいて行った。
「時々、報告を頼む」
雨宮は後向きでそう言って、スタジオを出て行った。
真理はしばらくドアを見つめていた。
そしてピアノの前に座った。
「戸倉、駿平……か」
真理は、鍵盤の上に指を置いた。
「当て馬だなんて……」
真理は、何事もなかったかのように、再びピアノを弾き始めた。