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1.視察という名の旅行

「旅行?」


 クララは焼き菓子を一つ摘まみながら、顔を上げた。


 午後の仕事を早めに切り上げ、工房の居間でお茶を楽しんでいたところだった。窓から入る風が心地よく、今日はなかなかよい午後である。


「そう!隣国のリュネールで今度、大きな服飾市が開かれるの。だからそれに合わせて……どう思う?」


「へえ、面白そうだね」


「いろんな国の織物や染色品が集まるんだよ。珍しい素材も見られるし、仕入れ先も探せるし、職人さんたちの実演もあるんだって」


「なるほど、視察旅行かあ」


「うん。工房としても、そろそろほかの国の服飾事情を見ておきたいなと思って」


 エミリアは机の上に案内書を広げた。色鮮やかな衣装や織物の挿絵が並んでいる。リュネールは古くから織物業で栄えた商業都市で、年に一度の服飾市には各地の商人や職人が集まるという。


 クララは案内書を手元に引き寄せた。前世の日本では、こうした催しに直接参加したことはほとんどなかったが、各地の技術や製品が一堂に集まるというのは、それだけで面白そうだった。


「ほら、これ。光の当たり方で色が変わる生地なんだって」


「魔導刺繍で?」


「ううん。糸の種類と織り方だけで、そうなるらしいの」


「へえ。それは見てみたいな」


 挿絵だけでは仕組みまでは分からないが、織り方によって色の見え方が変わるという話には興味がある。


「こういう生地が使えるなら、魔導刺繍の表現も変わりそうだね」


「でしょう? だから行ってみたいの」


「うん。いいと思うよ」


 エミリアは嬉しそうに笑い、手帳を取り出した。


「じゃあ、さっそく予定を立てようか」


「何日くらい?」


「移動に片道三日くらい。向こうでは五日くらい滞在できたらいいな」


「五日かあ。せっかくだから、おいしいものも食べたいね」


「もちろん。リュネールは料理も有名なんだって」


「それは楽しみだなあ」


「あと、大きな公衆浴場があるらしいよ。街の名物なんだって」


「お風呂?」


 クララの手が止まった。


「うん。広い浴場で、温かいお湯にゆっくり浸かれるんだって」


「いいねえ」


 クララは思わず微笑んだ。


 前世の日本には、温泉旅行というものがあった。山間の旅館に泊まり、温泉に入り、おいしい料理を食べて、好きなだけくつろぐ。ああいう旅行は、なかなか素晴らしい文化だったと思う。


「浴場には行きたいな。何回でも」


「お姉ちゃん、服飾市が目的だよ?」


「もちろん分かってるよ。視察もするし、お風呂にも入る。それでいいでしょう?」


「まあ、そうだけど」


 エミリアは笑いながら、手帳に予定を書き込み始めた。


「じゃあ、初日は服飾市を一通り見て、二日目は織物工房と染色工房を訪ねて、三日目は衣装資料館と――」


「ちょっと待って、エミリア」


「何?」


「それ、休む日はある?」


「え?」


「旅行なんだから、何もしない日も欲しいな」


「でも、せっかく遠くまで行くんだよ?」


「だからこそだよ。仕事の予定ばかり入れたら、普段と変わらないでしょう?」


 クララはお茶を一口飲んだ。


「街を散歩したり、おいしそうなお店に入ったり、気に入った場所でのんびりしたり。そういう時間も欲しいな」


 エミリアは手帳を眺め、少し考えた。


「じゃあ、四日目は予定を入れないことにしようか」


「いいね」


「その代わり、三日目まではちゃんと視察に付き合ってね」


「うん。面白そうなものがあったら、私も見たいし」


 こうして、二人の旅行はあっさり決まった。


 もっとも、クララにとっては少し不思議なことでもあった。


 以前、二人で遠くへ旅をしたときは、こんなふうに行き先を相談する余裕などなかった。祖国を離れ、父親の追手を警戒しながら船に乗り、ようやくたどり着いたのがソレイア共和国だった。


 あのときは、無事に国境を越えられるかどうかさえ分からなかった。途中で気になる店を見つけたところで、寄り道などできるはずもない。


 今は違う。


 工房には仕事があり、生活するのに十分な収入もある。休業する日を決めるのも、旅行先を選ぶのも、自分たちの自由だ。


 クララは、予定表を熱心に書き込んでいる妹を眺めた。


 あの船旅から、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。


「エミリア」


「何、お姉ちゃん?」


「旅行、楽しみだね」


 エミリアは顔を上げ、嬉しそうに笑った。


「うん。私もすごく楽しみ」


*


 翌日から、エミリアは準備を始めた。


 まず、工房の注文状況を確認する。旅行中に納期を迎える仕事は前倒しで仕上げ、急ぎの注文は受けないことにした。新しい仕事の問い合わせに備えて、不在期間を知らせる案内も用意する。


 次に、仕入れたい素材や訪問先を整理した。布地の見本、染色技法の資料、装飾用の糸、それに現地の職人との商談。せっかく遠方へ出向くのだから、工房の仕事にも役立てたい。


 旅行費用についても、エミリアはきちんと計算していた。


「馬車代と宿泊費、服飾市の入場料、工房を訪問するための費用。これは仕事の経費として帳簿につけておこうと思うの」


「うん」


「生地の見本を買う予算も用意しておきたいし……」


「お菓子代は?」


「それは自分のお金で買ってね」


「そうかあ」


 クララは少し考えた。


「じゃあ、今月のお小遣いは少し残しておこうかな」


「お姉ちゃん、そんなに買うつもりなの?」


「旅先のおいしいものって、なかなか次に食べられないからね」


「それもそうだけど」


 エミリアは苦笑した。


 旅行を名目に遊びに行くのではなく、ちゃんと視察の成果を持ち帰る。そのうえで観光も楽しむ、というのがエミリアの考えだった。


 一方のクララは、視察にも興味はあるが、せっかく遠出するのだから旅行そのものも楽しみたい。目的は少し違うけれど、二人とも出発が待ち遠しかった。


「そうだ、お姉ちゃん。服飾市で商談をするかもしれないから、作品の見本もいくつか持っていこうと思うんだけど」


「いいんじゃない?」


「お姉ちゃんの魔導刺繍も見せられるようにしたいな」


「うん。持ち運びやすいものを選ぼうか」


 クララは少し考え、指を折って候補を挙げ始めた。


「光る刺繍の見本と、温度調整の布。それから、エミリアがこの前作ったドレスもいいと思うよ」


「あの青緑色の?」


「うん。あれ、綺麗にできてたし」


「本当?」


「もちろん。あれならエミリアの仕事もよく分かるでしょう?」


 エミリアは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、持っていこうかな」


 机の上には、出発までに済ませる仕事が並んでいる。クララはその一覧を眺め、残りの日数を数えた。


「よし。早めに終わらせようか」


「お姉ちゃん、珍しくやる気だね」


「帰ってきてからゆっくりしたいからね。旅行の前後まで仕事に追われるのは嫌だな」


「なるほど」


 エミリアは笑った。理由はともかく、姉が積極的に仕事を片付けてくれるのはありがたかった。


 こうして、ヴァルテン姉妹の初めての視察旅行が決まった。

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