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第54話 香る、因果②

 ベルギッタが淹れた柑橘入りの紅茶の香りを、光玄は瞑目し深く吸い込んだ。


「良いお点前で。昔を思い出す香りでござる」


 『昔』と言われ、イングリットは光玄の過去について何も知らないことに気が付いて、思わず問いかけてしまった。


「昔……ですか?」


「うむ。妻がこういった香りが好きでな。みかんの皮やらで、匂い袋をよく作っており申した」


 その言葉に、サーリアは仰天した。

 この唐変木で朴念仁な男を受け止められる女がいたのかと。


「つっ、妻ぁ!? ミツハル様、既婚者だったんですか?」


 サーリアが信じられないとばかりに青い目を見開く一方で、イングリットは息を飲んだ。


「……ッ」


 ずきりと、イングリットの胸の片隅に棘の生えた何かが顔を出す。


「うむ。お静という名のおなごでござる」


 『お静』。その名に聞き覚えがあったベルギッタがおずおずと口を開いた。


「あの、初めてお会いした時、わたしのことを見て『オシズ』とおっしゃいましたが……もしかして、その方が?」


「うぅむ、なんというべきか、ベルギッタ殿は妻によく似ておったのでな。その節は大変失礼仕った」


 そう話す光玄は気まずいのか、頭を掻いた。


「そう、だったのですね」


 ベルギッタの大きな青の瞳が揺れる。

 そして、つい、尋ねてしまった。


「その、差し支えなければ、どんな方かお聞きしても?」


 光玄は頷くと、快く答えた。


「うむ。幼き頃より共に育った、同い年の幼馴染というべきでござろうか。

なんというべきか……どこか抜けておって、放っておけぬおなごでござった」


「へぇ、幼馴染ですか」


 サーリアの瞳が輝く。どうやら恋愛脳が目を覚ましたようだ。


「うむ。お静は村一番の美人でな。

十五を過ぎる頃には、遠く江戸の商家の大旦那から縁談が来るほどでござった」


 江戸という地名には聞き覚えはなかったが、商家の大旦那という言葉で何となく栄えた街を想像したのか、誰も詳しくは尋ねてこなかった。

 代わりに、メリッサが続きを促してきた。


「それでそれで? その縁談はどうなったの?」


「ふふっ」


 そこで、光玄は突然柔らかい笑い声を漏らした。

 思い出し笑いといった風だ。

 一度も聞いたことのない声、一度も見せたことのない優しい顔に、イングリットの胸が小さく跳ねる。

 光玄は懐かしい思い出をなぞるように目を細めて語り始めた。


「お静は普段はのんびりしているくせに、あの時ばかりは断固として縁談を拒んでおりましてな。何せ、相手との歳の差が随分とあった故」


 そして、光玄は何やら楽しげに手振り身振りを交えながら続きを話した。


「あいつときたら。崖の縁に行って、『みっちゃんと一緒になれないなら、飛び降ります!』と。

結局、それで相手方が諦めて縁談はなかったことになり申した」


「わぁ……なんというか、素敵です」


 恋愛脳サーリアはその話に耳を傾け、ほぅとため息を漏らす。

 愛し合う二人を引き裂く試練に打ち勝つ。これもまたサーリアの大好物な展開の一つだ。


「ふっ、その後、お静のやつは足を滑らせて、本当に崖から落ちて大怪我をしており申したが」


「えぇっ」


 サーリアが大好きな物語に余計な蛇足をつけられた読者のように、がっかりした表情を浮かべ、逆にベルギッタはその話のオチがだいぶ気に入ったのかクスクスと笑った。


「うふふ、面白い方なのですね」


 そんなベルギッタに、ミラがジト目をしてつっこむ。


「お母さんだって、似たようなもんでしょ。

昔、お父さんと大喧嘩したとき、井戸に飛び込んでやるって――」


「ミ、ミラ!」


「で、足滑らせて、本当に井戸に落ちちゃって足折っちゃうし」


 かぁっと、ベルギッタの顔が耳まで真っ赤に染まる。


「なんか、想像つかないですね? ベルギッタさん、おっとりしてるし」


 にんまりと笑って見つめてくるメリッサの視線を、そして意外とばかりに目を丸くする光玄の視線を、ベルギッタは両手で顔を覆って遮った。


「む、昔のことですから」


 娘ミラは鼻を鳴らして更につっこむ。


「どうだか。お母さんったら、昔も今も天然なとこあるし」


「も、もうっ。わたしのことはいいでしょう? 今はラッセル様の話の途中よ」


 それを受け、メリッサが話を光玄に戻す。


「で、ラッセルさんはオシズさんと結婚したというわけですね」


「うむ。そのことがあってから、お静の親父殿から是非にと言われましてな。

少々早かったが、ちょうど今のイングリット殿くらいの歳で祝言をあげ申した」


 その言葉に、メリッサは首を傾げた。


(早いかな……?)


 光玄の話によれば、彼は十五か十六歳で結婚したということになる。

 メリッサの常識では丁度結婚適齢期だ。

 貴族の令息や令嬢は十八歳前後に婚礼を挙げるのが一般的ではあるが、農村部の平民はもっと早い。十五か十六歳くらいで結婚するのが一般的なのだ。


 しかし、光玄はそれを早いと言った。

 どこか常識が少しずれている。

 メリッサの微妙な反応には気が付かぬまま、すっかり思い出に浸った光玄は語り続ける。


「すぐに息子にも恵まれましてな。

大人しく、親を困らせることなどない子でござった。

お静も、貧しくとも文句一つこぼさずに某を支え、息子を育てて……

――まこと、某には過ぎた嫁で、息子でござったな」


 ここで、一同はあることに気が付いた。

 ――過去形だ。


 そして、そう淡々と語った光玄はゆっくりと目を閉じた。



◆◇◆



「みっちゃん、駄目! この雪の中じゃ、あなたまで……」


 焦った女性――お静の声が響く。

 彼女は、吹雪が荒れ狂う外へ出ようとする夫、(みつ)を必死に引き留めていた。


 真冬。雪で閉ざされた山村。

 ある日突然、息子の与助が熱を出した。

 医者など、望むべくもなく。

 煎じ薬などでは熱は全く下がらず。

 あまり悠長にはしていられない。小さい命は、今この瞬間にも潰えようとしていた。

 

「いや、このままでは、与助がもたない。俺が町医者の元まで連れていく」


 二歳になったばかりの息子、与助。

 (みつ)は、剣の道に生きるのだと言って、仕えるべき主を探してあちこちを転々として、ろくに父親らしいことはしてあげられなかったという自覚があった。

 こういう時こそ父親として、息子の命を救うのだ。

 たとえ猛吹雪の中だろうと、突き進むのみ。

 その決意のもと、(みつ)は息子の小さい体を抱き、掛け布団で隙間なく包んで自分の身体に固定した。


「行ってくる」


「駄目! お願い、行かないで!」


 お静が手を伸ばした。

 だが、(みつ)はそれより速く身を翻し、吹雪の中へ飛び出した。


 お静の必死な声を背にして、ひたすら前へ進んだ。

 一面の雪。

 いつもの山道が真っ白に塗りつぶされ、前後左右がわからない。


「よし、与助。すぐ、父ちゃんが医者のところへ連れて行ってやるからな。今しばらくの辛抱だ」


 胸の中の息子はただ荒い息を繰り返すだけ。

 進むべき道は依然として分からない。

 焦りが募り、それを誤魔化すように(みつ)は何度も何度も息子へ声をかけ続けた。


 手足の感覚が鈍くなっていっても、(みつ)は歩みを止めなかった。

 その間も、(みつ)は息子を絶え間なく励まし続けた。

 その甲斐あってか、徐々に息子の苦しげな息遣いは収まり、心なしか熱も下がってきたように感じた。


 そうやって吹雪の中を彷徨い、深い雪に足を取られ、ずいぶんと長い時間をかけようやく麓の町に降りた途端、雪は止み、空は嘘のように晴れた。


 やっとの思いで町医者の家へ辿り着いた(みつ)は、戸を叩き、出てきた町医者に胸の中でぐったりしている息子を見せた。


「悪いが、息子を診てはくれないか? 熱を出していて危うい」


 だが、年老いた町医者はしばらく与助を見つめては、ゆっくりと首を横に振って言った。


「いいや、お主の手足の凍傷の処置が先じゃろう」


「いや、俺より先に息子を――」


「――残念じゃが、息子さんはもう亡くなっておるよ」


 言われ、(みつ)は腕の中の息子を見下ろした。

 ――あまりにも必死で気がついていなかった。

 息をしていない。

 ただ、熱が下がってきたのだと、そう思い込んでいた。


 途端にぐらりと、世界が傾いた心地がした。

 気が付けば、町医者の家の軒先に膝をついてしまっていた。

 (みつ)は、そのまま空を見上げた。

 ――あまりにも澄み渡った、美しい冬の空だった。


 それからのことはよく覚えていなかった。

 覚えているのは、手足の凍傷を治療しろという町医者を振り払い、息子の亡骸を抱えてそのまま村へ引き返したことだけだ。


 そして、雪泥に塗れ、ボロボロになって戻ってきた夫の(みつ)を見て、お静は酷く憔悴した顔に、一瞬ホッとした表情を浮かべた。


「戻って、来たのね」


 そして、夫の腕の中で青ざめ、ぐったりしている息子の亡骸を見て涙を流し、その顔をくしゃりと歪めた。


「――わたし、もうあなたのこと、待てない」


 それは、若い夫婦の縁を断つ言葉となった。



◆◇◆



「――こんな不甲斐ない亭主など、離縁されて当たり前でござるな」


 夢を追いかけ、家を、妻を、子をないがしろにした。

 挙句、子を死なせたのだ。


 雑貨屋ミラベルの店内の空気は重く沈み込んでいる。

 イングリットの目元には、涙が浮かんでいた。

 単に光玄の話が悲しかったからではない。

 この話をする光玄の表情や声が、まるで世間話でもするかのように、あまりにも淡々としていて、落ち着き払っていたからだ。

 一方で、彼の瞳には言葉では言い表せない痛みだけが浮かび上がっていた。


(どこまでも、不器用な人)


 この男は悲しみ方がわからないのだろうか。

 依然として、彼は淡々とした様子で続ける。


「別れの日、俺――いや、某は旅立つお静に、ただ詫びるほかなかったのでござる。

だが、お静は某に詫びてほしくなんかなかったと言っており申した。

――何と言えばよかったのか、某には未だにわかりませぬ」


 イングリットは辛うじて口を開き、尋ねた。

 いつの間にか口の中は乾ききって、上手く言葉を紡げない。


「そ、その後、オシズさんは……」


「離縁してもう十余年。お静がどうなったかは知りませぬ。

ただ、お静は美しく気立てのよいおなご故、きっと善き男の元へ嫁いで幸せに暮らしていたのでござろうな。

……そう、願っておりまする」


 ベルギッタは静かに光玄を見つめた。

 何となく、この人なら別れを乗り越える方法を知っていそうだと思い込んでいた。

 ――だが、この人は、まだ別れを乗り越えられてなんかいない。

 別れを、痛みをただ胸の中に抱きかかえたまま、今も生きているだけだ。

 息子の死、そして妻との別れから十余年。

 それほどの時を経てもなお、悲しみを捨て去ることができていないのだ。


 彼から望む答えは得られなかった。

 しかし、不思議と失望はなかった。

 家族との別れという、同じ痛みを抱く人に出会い、ベルギッタはどこか救われる思いがした。

 そして、ベルギッタは、同じ痛みを抱えていたであろうもう一人、光玄の元妻、お静に思いをはせた。


(本当に、オシズさんはラッセル様と別れたかったのかしら)


 お静もまた光玄と全く同じ痛みを抱えていたはずだ。

 息子を失い、夫と別れた。

 その痛みを、悲しみを忘れて、その後幸せになれただろうか。

 そんなはずはない、とベルギッタは思った。

 夫を亡くしたばかりのベルギッタになら分かる。

 お静だって、彼女なりの後悔と苦しみを抱えていたはず。


(オシズさんが欲しかった言葉は、もしかして……)


 ぼんやりと、ベルギッタはその言葉を想像していた。


「――オシズさんは、最後に一度だけ、引き留めてほしかったのではないでしょうか」


 勝手に口をついて出た言葉。いけない、とベルギッタが思った時にはもう遅かった。


「……!!」


 光玄の黒い瞳が激しく揺れる。


「ご、ごめんなさい。わたしったら、つい差し出がましいことを……」


 第三者が軽々しく口にすべきことではなかった。

 ベルギッタは慌てて謝罪の言葉を口にした。


「――そうかも、知れませぬな」


 それは、ただのベルギッタの推測でしかない。

 それでも、それを聞いた光玄はなぜか腑に落ちてしまった。

 みっともなくとも、女々しくとも、お静に縋りつき引き留めていたのならば。

 ――彼女は光玄の元を去らなかったのかも知れない。


「ベルギッタ殿、まことに忝い。胸の奥につかえていたものが、少しだけ取れた心地にござる」


「そんな……わたしはただ、オシズさんのお気持ちを少し想像してみただけです」


「然様か。――むっ」


 ここにきてようやく一同の顔が曇っていることに気がついたのか、光玄は努めて朗らかに声をあげた。


「おっと、このままではせっかくの茶が冷えまする! ささ、皆の者、いただくとしましょうぞ!」


 その様子を見て、イングリットは思わず膝の上で強く拳を握りしめた。

 彼はあっという間に、いつもの朗らかで飄々とした、イングリットのよく知る光玄の姿に戻っていた。

 だが、よく知るその姿こそが、彼が無理して演じている仮面のような気がしてならなかったからだ。

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