願いの条件
《実行条件 未確定》
表示は消えなかった。
佐伯が壁から手を離しても、青年が接続地点を離れても、同じ文字が記録媒体の中央に残り続けている。
「もう一度、確認します」
佐伯は壁の前へ戻った。
五つの点が表示された地下構造図を開き、その手前に自分の記録を重ねる。
「私は、元の場所へ帰ります」
低い声が壁へ届く。
記録媒体は反応しなかった。
壁の向こうから聞こえていた駆動音も戻らない。
佐伯は立つ位置を変えた。
青年の右側。
白い線を挟んだ反対側。
二人が並んでいた場所。
どこに立っても、表示は変わらなかった。
「戻って、調査を継続します」
今度は記録媒体へ向けて告げる。
「五人の所在を確認するため、元の世界への移行を求めます」
返ってきたのは、同じ表示だけだった。
《実行条件 未確定》
佐伯は記録媒体を操作した。
保存されている個体記録を呼び出す。
氏名。
所属。
調査参加者として登録された情報。
分断前に取得された位置記録。
画面上の項目を一つずつ選び、現在の佐伯と照合していく。
《個体記録を照合》
《氏名 一致》
《所属記録 一致》
続いて、五つの点が残る地下構造図を表示する。
佐伯がいた世界の記録。
最後に確認された地下区画。
そこへ重なる五つの位置。
《記録座標を照合》
《移行先を確認》
照合は進んだ。
だが、壁は閉じたままだった。
「記録が足りないんですか」
青年は画面を見た。
「氏名も所属も、帰る場所も一致しています」
「それでも条件は変わっていません」
佐伯は現在地と移行先を見比べた。
情報に誤りがある様子はない。
青年が接続地点へ近づく。
足元の白い線が壁へ伸びた。
記録媒体に六つ目の点が現れ、青年の動きに合わせて構造図の端へ移動する。
壁の奥から、低い音が返ってきた。
二つの構造図を結ぶ線が表示される。
《接続先を確認》
《移行経路を確認》
青年がその場を離れる。
経路を示す線が薄くなり、壁の奥の音も止まった。
「俺がいれば、経路は出る」
佐伯はうなずいた。
「ですが、実行条件が確定しません」
佐伯が青年から離れる。
記録媒体には六つ目の点と経路だけが残り、移行先の構造図が消えた。
再び青年の隣へ戻る。
佐伯の個体記録と地下構造図が現れ、経路の先へ重なる。
《移行先を確認》
それでも、処理は先へ進まない。
青年だけでは、経路の先に移行先が表示されない。
佐伯だけでは、経路そのものが現れない。
二人がそろえば、現在地と移行先は結ばれる。
だが、帰還は始まらなかった。
佐伯が壁へ手を伸ばした。
触れても変化はない。
青年が触れると、白い線が指先へ集まり、経路の表示が強くなる。
二人が同時に触れる。
壁の表面がわずかに揺れた。
それ以上の変化は起きなかった。
《実行条件 未確定》
佐伯は手を下ろした。
その動きが遅い。
壁から離れようとした足が途中で止まり、佐伯は浅く息を吐いた。
青年は通路の壁際を見回した。
床に落ちている金属板へ目を留める。
「あれを動かしても?」
佐伯は金属板と記録媒体を見比べた。
「反応はありません。慎重に動かしてください」
青年は金属板を持ち上げ、配管の下へ立てかけた。腰を下ろせるだけの場所を確保すると、佐伯へ目を向ける。
「少し休んでください」
「表示が残っているうちに確認します」
「消えたら、また俺が接続地点に立ちます」
佐伯は何か言いかけた。
だが、記録媒体を持つ手がわずかに震えている。
青年は鞄から水を取り出し、佐伯へ渡した。
佐伯はしばらく水を見ていたが、やがて壁際へ腰を下ろした。
「上へ戻ることもできます」
青年は壁の前に残った。
「五つの点が消える可能性があります」
「このまま続けても、条件は変わっていません」
佐伯は水を一口だけ飲んだ。
画面には五つの点が残っている。
どれも動かない。
応答もない。
その手前に、青年を示す六つ目の点が明滅している。
しばらくして、佐伯はもう一度立ち上がった。
記録媒体を持ち、壁の前へ進む。
「私は帰ります」
先ほどよりも、はっきりと告げる。
「ここに残るつもりはありません」
青年が接続地点に立つ。
白い線が壁へ届き、移行経路が再び表示された。
佐伯の記録も、移行先も一致している。
それでも、最後に現れた表示は変わらなかった。
《実行条件 未確定》
言い方を変えても届かない。
立つ位置を変えても、壁に触れても、条件は成立しない。
青年は、画面に残された文字を見つめた。
佐伯が帰りたいと伝えたことと、記録が帰還を選択したものとして受け取ることは、同じではなかった。
佐伯は移行先の表示を閉じた。
二つ重なっていた構造図のうち、元の世界にある地下区画が消える。
画面に残ったのは、青年たちがいる建物の構造図だけだった。
五つの点も表示されていない。
青年を示す六つ目の点は消えず、現在地に留まっている。
《接続を停止》
壁の奥から響いていた低い音が途切れた。
白い線も光を弱め、青年の足元へ戻る。
佐伯は壁から数歩離れた。
記録媒体が現在地の照合を始める。
《現在位置を確認》
《記録座標 未登録》
現在地が佐伯の記録に存在しないことは変わらない。
それでも、接続を止めたことで新たな異常が起きる様子はなかった。
佐伯の姿も消えない。
傷の状態も変わらない。
呼吸を整えながら壁際に立つ佐伯は、この世界に存在し続けていた。
「接続を止めても、何も起きません」
青年は記録媒体を見た。
「少なくとも、すぐに移動させられることはないようです」
佐伯は自分の手を見る。
指を曲げ、壁へ触れる。
金属の感触は失われていない。
「この世界に留まれる可能性があるということですか」
「現時点では、否定できません」
佐伯は慎重に答えた。
画面には、この建物の構造図だけが表示されている。
佐伯の元世界へ続く線はない。
それでも彼女は、記録に位置を認識されないまま、この世界に存在し続けている。
青年は階段へ視線を向けた。
「外へ出ても同じか、確認しますか」
佐伯はすぐには動かなかった。
傷を庇うように片足へ重心を移し、記録媒体の表示を見つめる。
「接続地点を離れる前に、もう一度だけ確認します」
佐伯は元の地下構造図を呼び出した。
壁の向こうに、五つの点が再び現れる。
《接続を再開》
青年の足元から白い線が伸びた。
六つ目の点が壁へ近づく。
佐伯が青年の隣へ立つと、元の世界にある地下区画が現在の構造図へ重なった。
五つの点は、先ほどと同じ位置にある。
動いていない。
応答もない。
佐伯は一つ目の点を選んだ。
《応答なし》
二つ目も同じだった。
残る三つも変わらない。
《応答なし》
「向こうへ戻れば、この位置から調査を始められる」
青年の言葉に、佐伯は五つの点を見たまま答えた。
「記録が現在も有効なら、です」
「五人がそこにいる保証はない」
「ありません」
「調査局へ戻れる保証も?」
佐伯は表示を切り替えた。
記録媒体には氏名と所属が残っている。
だが、現在地と元世界の調査局を結ぶ情報はない。
通信先を確認しても、応答は返らなかった。
《通信対象 確認不能》
佐伯は画面を閉じる。
「私の記録が、向こう側でどのように扱われているかは分かりません」
帰還できたとしても、五人が見つかるとは限らない。
調査局が佐伯を帰還者として認識する保証もない。
一度閉じた経路を、再びこちらへつなげられるかも分からなかった。
青年は六つ目の点を見た。
「俺の登録も残ったままです」
《登録状態 継続》
佐伯が戻れば、青年の登録が解除される。
その表示はない。
佐伯がこの世界へ留まれば解除されるという情報もなかった。
どちらを選んでも、青年が現象の外へ戻れる保証はない。
「私がここに残れば、これ以上あなたを接続地点へ立たせずに済みます」
佐伯は記録媒体を下ろした。
「少なくとも、帰還を成立させるための検証は続けなくていい」
「でも、五人は確認できません」
青年は壁の向こうにある点を見た。
「この世界からでは、そこへ到達できない」
佐伯は答えなかった。
五つの点が同じ周期で明滅している。
現在位置なのか、残された記録なのかも分からない。
生存を示しているわけでもない。
それでも、佐伯にとっては放置できない位置だった。
青年は佐伯の横顔を見た。
帰ることだけが、彼女に残された道ではない。
この世界に留まり、閉じた壁から離れることもできる。
その方が安全かもしれない。
青年をこれ以上巻き込まずに済む可能性もある。
だが、その場合、五つの位置を向こう側から確認することはできない。
佐伯は接続を停止した。
元の地下構造図が消える。
五つの点も見えなくなる。
画面には、現在の世界だけが残った。
閉じた壁。
青年を示す六つ目の点。
その隣に立つ佐伯は、記録上の位置として表示されていない。
それでも、消えることなくそこにいる。
「帰らなくても、ここにはいられる」
青年が言った。
佐伯は暗くなった画面を見つめた。
「その可能性は残っています」
帰還は、決められた手順の先にある唯一の結果ではなかった。
佐伯には、帰らない未来も残されていた。
佐伯は接続を停止したまま、記録媒体を見つめていた。
画面には現在の世界の構造図だけが残っている。
閉じた壁。
青年を示す六つ目の点。
佐伯自身の位置は、どこにも表示されていない。
青年は何も言わなかった。
帰るべきだとも、ここに残るべきだとも言えない。
どちらを選んでも、失われる可能性があるものを確かめる方法がなかった。
佐伯は壁際へ戻り、先ほど青年が用意した場所に腰を下ろした。
記録媒体を膝の上へ置く。
接続を再開する操作には触れない。
暗い通路に、遠くから落ちる水滴の音が響く。
青年は壁から少し離れた場所に立った。
足元の白い線は弱く光っている。
接続地点へ導こうとはせず、青年の動きを待つように揺れていた。
しばらくして、佐伯が画面を開いた。
記録として保存されている、元の世界の地下構造図を呼び出す。現在の構造図の横に、五つの点を伴った地下区画が表示された。
それぞれの点には、直前の照合結果が残されていた。
《応答なし》
佐伯は一つ目の位置を選ぶ。
通路の形。
隣接する区画。
分断前に残された記録。
画面を閉じ、二つ目の位置を開く。
同じ手順を、五つ目まで繰り返した。
新しい情報は見つからなかった。
「戻っても、五人が見つかるとは限りません」
佐伯が言った。
青年はうなずいた。
「記録だけが残っている可能性もあります」
「はい」
「調査局に戻れる保証もない」
「ありません」
佐伯は元の世界の構造図を縮小した。
地下区画の外側には何も表示されていない。
調査局へ続く経路も、地上へ出る道も、現在の記録からは確認できなかった。
「この経路が一度閉じたら、もう一度つながるかも分かりません」
佐伯の指が、二つの世界を隔てる壁の位置で止まる。
青年は六つ目の点を見た。
「佐伯さんが戻っても、俺の登録が消える保証はない」
「あなたを元の状態へ戻せるという表示はありません」
「残っても同じです」
青年がそう答えると、佐伯は顔を上げた。
「だから、俺のことを理由に決めないでください」
佐伯は何も言わなかった。
青年も言葉を続けない。
決定を促せば、それは佐伯自身が選んだことではなくなる。
青年は壁から離れた。
白い線が足元に沿って動く。
接続地点を外れると光は弱くなり、経路を示す輪郭も壁の奥へ沈んだ。
記録媒体には、現在の世界と元の世界の構造図が並んでいる。
佐伯は二つの構造図を見比べた。
現在の世界には、青年がいる。
地上へ戻る道もある。
ここに留まれば、傷を治し、記録を調べる時間を得られるかもしれない。
青年を接続地点へ立たせる必要もなくなる。
元の世界には、五つの点がある。
生存している保証はない。
到達できる保証もない。
それでも、向こう側からでなければ調査を始めることさえできない。
佐伯は五つの点を順に見た。
指先が最初の位置に触れる。
次の点へ移る。
五つ目まで確認すると、佐伯は手を止めた。
画面上の現在の構造図を選ぶ。
青年の点と、閉じた壁が表示される。
佐伯はその図面を閉じた。
残ったのは、元の世界にある地下区画だけだった。
五つの点が暗い画面の上で明滅している。
青年は動かなかった。
佐伯が自分で立ち上がるのを待つ。
佐伯は記録媒体を持ち、ゆっくりと立ち上がった。
傷を庇いながら壁へ近づく。
接続地点の前で足を止めると、元の世界の構造図を画面の中央へ固定した。
「見つからないかもしれません」
佐伯は五つの点を見たまま言った。
「戻ったことを、誰にも認識されないかもしれない」
青年は答えを待った。
「それでも、ここからでは確認できません」
佐伯は記録媒体を持ち直した。
「五人の記録が残っているなら、私は向こう側から調べます」
青年は佐伯の隣へ行かなかった。
白い線も、まだ弱いままだった。
「決めたんですね」
佐伯は壁の向こうにある地下区画を見つめた。
「はい」
それ以上の言葉はなかった。
佐伯は、現在の世界に留まる構造図を閉じた。
五つの位置が残る元の世界を選び、自分の足で接続地点へ立った。
帰りたいと伝えるのではない。
佐伯は、帰る未来を選んでいた。
佐伯は接続地点の前に立っていた。
記録媒体には、元の世界にある地下区画だけが表示されている。
五つの点は動かない。
佐伯が選んだ構造図の上で、同じ周期を刻み続けている。
青年の足元で、白い線が強くなった。
線は接続地点へまっすぐ伸びている。
青年が一歩進むと、記録媒体の端に六つ目の点が現れた。
さらに近づく。
六つ目の点も構造図の外側から移動し、閉じた壁の手前で止まった。
佐伯の位置とは重ならない。
白い線が青年の足元で枝分かれした。
一本は壁へ。
もう一本は、少し離れた床へ伸びている。
「そこです」
青年は線が示す場所へ移動した。
接続地点から数歩離れた位置だった。
青年が立ち止まると、六つ目の点が構造図の上に固定される。
記録媒体から低い駆動音が始まった。
佐伯の記録が画面に現れる。
氏名。
所属。
分断前の位置。
それぞれの情報から細い線が伸び、佐伯が選んだ地下構造図へ重なっていく。
《要求内容を確認》
佐伯は画面を見つめた。
前の検証では現れなかった表示だった。
「言葉に反応したわけではありません」
青年は白い線から目を離さない。
「さっきと違うのは、佐伯さんが自分でここに立ったことです」
佐伯は五つの点を確認した。
現在の世界の構造図は閉じられている。
画面に残されているのは、元の世界と、そこへ向かう佐伯の記録だけだった。
《移行先を確認》
壁の奥で音が響いた。
低い振動が床を伝わる。
記録媒体に、現在地から元の世界へ伸びる線が現れた。
青年を示す六つ目の点が明滅するたび、その線が少しずつ濃くなっていく。
白い線も同じ周期で光っていた。
「移行経路が戻っています」
佐伯の声は低かった。
青年が所定の位置を離れないかぎり、経路は消えない。
佐伯の記録も、移行先の構造図へ結びついたままだった。
《選択を記録》
画面の中で、現在の世界を示していた領域が暗くなる。
元の世界の地下構造図だけが中央に残った。
五つの点を含む区画が拡大され、その手前へ佐伯の記録が配置される。
佐伯は操作していない。
記録媒体が、彼女の行動を新たな情報として保存していた。
《変更要求として受理》
壁に細い光が走った。
青年にだけ見えていた白い線とは違う。
佐伯も同時に顔を上げた。
古い壁の継ぎ目に沿って光が広がり、人ひとりが通れるほどの輪郭を形づくる。
閉じた壁の向こうから、空気が流れ込んだ。
湿った土と金属の匂い。
佐伯が調査していた地下区画に残る空気なのか、青年には分からない。
光の内側で、壁の表面が揺れた。
一瞬だけ、別の場所が重なる。
暗い通路。
倒れた照明器具。
奥へ続く配管。
佐伯が半歩前へ出る。
壁の向こうに見えた空間も、わずかに近づいた。
だが、入口は開かなかった。
佐伯が触れる。
金属の感触が返ってくる。
青年が白い線の上で手を伸ばすと、六つ目の点が強く明滅した。
経路は維持される。
それでも、二つの場所を隔てる壁は残ったままだった。
記録媒体に新しい表示が現れる。
《実行条件 一部成立》
佐伯の選択は消えていない。
移行先も、そこへ続く経路も確認されている。
《実行条件 未確定》で止まっていた照合が、初めて先へ進んだ。
しかし、駆動音は続いている。
処理が完了したときの音ではなかった。
画面上では、佐伯の記録と六つ目の点が別々の位置に置かれている。
それぞれから伸びた線は、接続地点で交わる。
そこから先へは進まない。
《整合条件を照合》
表示の下に進行線が現れた。
途中まで伸び、止まる。
《整合条件 未確認》
壁に浮かんだ輪郭が弱くなる。
向こう側の通路も薄れ、古い金属の表面が戻ってくる。
接続を示す線だけは消えなかった。
佐伯は記録媒体を下ろした。
「選んだことは、認識されています」
青年は画面に残る表示を見た。
「でも、まだ足りない」
「はい」
佐伯が帰ると決めたことで、経路は初めて実行の手前まで進んだ。
帰りたいと口にすることではなく、残された可能性から一つを選ぶこと。
記録媒体は、その選択を変更要求として受け取っていた。
青年は閉じた壁を見つめた。
佐伯の選択は受理されている。
それでも、帰還を成立させるためのもう一つの条件は、まだ確認されていなかった。




