六人目
封鎖された建物は、夕闇のなかで輪郭だけを残していた。
窓は内側から板で塞がれ、正面入口には太い鎖が巻かれている。
外壁の一部は黒く変色し、長いあいだ人の手が入っていないことを示していた。
青年は建物を見上げた。
昼間にも目にしていたはずだった。
それでも、いまは違う建物のように見える。
記録媒体に表示された構造図では、この場所に地下通路が存在している。
だが、青年はそのような話を聞いたことがなかった。
「正面からは入れませんね」
青年が言う。
佐伯は鎖と扉の隙間を確認した。
無理に開けられた痕跡はない。
扉の下にも、最近誰かが出入りしたような跡は残っていなかった。
「別の入口を探します」
佐伯は建物の側面へ視線を移した。
一歩踏み出したところで身体が揺れる。
青年が腕を支えると、佐伯は小さく息を吐いた。
「やはり、今日は休んだ方が」
「明日も残っている保証がありません」
佐伯は記録媒体を見る。
《接続地点 未確認》
表示は変わっていない。
「白い線は消えかけています。接続が一時的なものなら、時間を置くほど手掛かりを失う可能性がある」
「中に何があるかも分からない」
「だから確認します」
佐伯の声に迷いはなかった。
青年は正面入口の奥を見る。
板で塞がれた窓からは、内部の様子を確認できない。
光も、人の気配もなかった。
「入れる場所が見つかったとして」
佐伯が青年へ向き直る。
「先に確認しておきます」
声がわずかに低くなる。
調査員として指示を出すときの口調だった。
「危険を感じた場合は、すぐに引き返してください」
「佐伯さんを置いて?」
「私が残ると言ってもです」
青年は答えなかった。
佐伯は続ける。
「内部にあるものへ、私の指示なく触れないでください。壁や床も含みます」
「壁も?」
「何が反応するか分かりません」
記録媒体を持つ指に力が入る。
「見えるものに変化があった場合は、どれほど小さなことでも伝えてください」
青年は、白い線を思い出した。
街の誰も反応していなかった光。
自分だけが見つけ、ここまで辿ってきた痕跡。
「最後に」
佐伯は画面を青年へ向けた。
「何かが表示されても、自分だけで意味を決めないでください」
「表示が正しいとは限らない?」
「記録と現実が一致するとも限りません」
その言葉のあと、佐伯は黙った。
青年へ話していない経験がある。
そう思わせる沈黙だった。
「分かりました」
青年は頷いた。
「危険なら戻る。勝手に触れない。変化があれば伝える。表示を決めつけない」
佐伯も短く頷く。
「それで構いません」
二人は建物の側面へ回った。壁際は伸びた草に覆われ、足元がほとんど見えない。青年は佐伯が通れる場所を選びながら、先に立って進んだ。
側面を回っても入口はなく、並んだ窓はすべて板で塞がれていた。換気口らしきものさえ見当たらない。
「こちらには何も」
青年が言いかけたとき、視界の端に白いものが残った。
草の間。
光を失った細い筋が、建物の裏手へ続いている。
「佐伯さん」
青年は足を止めた。
「線があります」
佐伯が地面を見る。
「私には見えません」
その返答に、青年の背筋が冷えた。
白い筋は確かに残っている。
昼間より弱く、注意しなければ見落とすほど薄い。
だが、消えてはいない。
「どこへ続いていますか」
「建物の裏です」
青年は線から目を離さずに歩いた。
佐伯がすぐ後ろをついてくる。
裏手は正面以上に荒れていた。
壁際には枯れ枝と廃材が積み重なり、人が通れるような場所には見えない。
白い線は、その奥へ入り込んでいる。
青年は廃材の隙間を覗いた。
壁と壁の接合部分。
そこに、細い空間があった。
「入口があります」
「扉が?」
「違います」
青年は首を横へ振った。
壁の一部が、奥へずれている。
崩れたようには見えない。
破片も、ひび割れもなかった。
最初からその形だったかのように、人ひとりが横向きで通れるほどの隙間だけが残されている。
佐伯が近づく。
記録媒体を隙間へ向けた。
《接続地点 未確認》
表示は変わらない。
それでも、媒体の奥から低い駆動音が聞こえ始めていた。
「この隙間を知っていましたか」
佐伯が尋ねる。
「いいえ」
青年は暗闇の奥を見る。
外から差し込む光は、数歩先で途切れている。
その先に床が続いているのかさえ分からない。
「建物の入口には見えません」
青年が言う。
佐伯は壁の境目を見つめた。
「入口ではないのかもしれません」
「では、何ですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
記録媒体の駆動音が、わずかに大きくなる。
青年にだけ見える白い線は、隙間の奥へまっすぐ続いていた。
青年は、隙間の奥を見つめた。
白い線は暗闇のなかへ続いている。
外から差し込む光では、その先まで見通せなかった。
「俺が先に行きます」
佐伯はすぐには頷かなかった。
記録媒体と青年を交互に見る。
「線を追えますか」
「まだ見えています」
「では、あなたが先に。ただし、私から離れないでください」
青年は身体を横にし、壁の隙間へ入った。
衣服が両側の壁へ触れる。
数歩進むと空間が広がり、正面を向いて立てるほどの幅になった。
「足元は?」
背後から佐伯の声がする。
「床があります。段差はありません」
「壁には触れないで」
「分かっています」
青年は一歩だけ奥へ進み、佐伯が入れる場所を空けた。遅れて隙間を抜けた彼女は、壁へ手をつきかけ、直前で思いとどまる。狭い場所を通るだけでも、負傷した身体には大きな負担らしい。
傾いた腕を青年が支えると、佐伯は短く息を整えた。
「進めますか」
「ええ」
二人が入った場所は、細い通路だった。
壁は外側と同じ古い建材に見える。
床には埃が積もり、天井から剥がれ落ちた小さな破片が散らばっていた。
それでも、青年には一つだけ不自然なものが見えていた。
白い線。
床の中央を通り、暗闇の奥へ伸びている。
「線は?」
「このまま真っ直ぐです」
佐伯が記録媒体を向ける。
低い駆動音は続いているが、画面の表示に変化はなかった。
《接続地点 未確認》
青年は周囲を見回した。
「建物の中に、こんな通路があるんですね」
佐伯は答えず、入口の方角を振り返った。
外から入り込む光が、壁の隙間を細く縁取っている。
「おかしい」
「何がですか」
「外から見た建物の大きさです」
佐伯は通路の奥を見る。
「この方向に、これほどの奥行きはありません」
青年も建物の形を思い返した。
側面から裏手へ回ったとき、壁の向こうに別の区画があるようには見えなかった。
この通路が真っ直ぐ続いているなら、すでに建物の外へ出ているはずだった。
「でも、壁があります」
青年の声が小さく響く。
佐伯は記録媒体を操作した。
簡略化された構造図が現れる。封鎖区域へ戻った際に表示された、地下構造物の通路図だった。
ただし、二人の現在位置を示す印はない。
「この通路は、調査記録にありますか」
「似た構造はあります」
「同じではない?」
「断定できません」
佐伯は画面を閉じなかった。
「私たちが入った地下構造物では、記録と実際の通路が一致しないことがありました」
青年は足を止めた。
「さっき、記録と現実が一致するとは限らないと言っていたのは」
「このことです」
佐伯はそれ以上説明しなかった。
青年は白い線へ視線を戻す。
線は変わらず奥へ続いている。
「進みます」
二人は足元を確かめながら歩いた。
青年が先に進み、佐伯が数歩遅れてついてくる。
靴底が埃を踏む音だけが、狭い通路に重なっていく。
壁には扉も窓もない。
曲がり角すら現れなかった。
同じ景色が続いている。
青年は一度、背後を振り返った。
入口の光は、もう見えなかった。
「佐伯さん」
「止まらないで」
声はすぐ後ろから聞こえた。
姿も見える。
それでも、青年は胸の奥に残った違和感を消せなかった。
入口から、それほど歩いたはずはない。
だが、戻る方向には暗闇しかない。
「歩いた距離が合いません」
「私も確認しています」
佐伯は記録媒体を見る。
距離を示す数値は表示されていない。
現在位置も、依然として確認できないままだった。
「引き返しますか」
青年が尋ねる。
佐伯はすぐには答えなかった。
危険を感じたら戻る。それは、建物へ入る前に佐伯自身が示した条件だった。
そのとき、記録媒体から短い音が鳴った。
画面が明滅する。
《位置情報を照合》
佐伯の指が止まる。
続いて、新しい文字が現れた。
《記録座標 取得》
構造図の上に、一つの点が浮かぶ。
二人の現在位置だった。
点は地下通路の内部に示されている。
「ここです」
佐伯が呟く。
「私たちが調査していた構造物と、位置が重なっています」
青年は周囲を見る。
古い建物の内部にしか見えない。
だが記録媒体は、ここを別の地下構造物として認識している。
「なら、この先に」
青年が言いかけたとき、白い線が揺れた。
それまで床を真っ直ぐ伸びていた光が、少し先で下へ折れている。
青年は慎重に近づいた。
通路の終わりに、暗い開口部があった。
地下へ続く階段。
手すりはなく、壁の間を細い段差だけが降りている。
建物の外からは想像できなかった深さまで、闇が続いていた。
「階段があります」
佐伯が隣まで来る。
記録媒体の構造図にも、同じ位置から下へ伸びる通路が表示されていた。
《接続地点を確認》
《下層記録 照合開始》
低い駆動音が止まる。
代わりに、階段の下から微かな音が聞こえた。
一度。
間を置いて、もう一度。
誰かが暗闇の奥で、床を踏んだような音だった。
足音は、それきり聞こえなかった。
青年は階段の縁から下を見た。白い線は段差に沿って降り、光の届かない底へ吸い込まれている。佐伯も記録媒体を傾けたが、その画面に階下の様子は映っていなかった。
「降ります」
「待ってください」
佐伯は青年の腕を借り、息を整えた。傷を庇う動きは隠しきれていない。それでも彼女は前へ出ようとした。
「先に行きます。線が見えるのは、俺です」
わずかな沈黙のあと、佐伯は頷いた。
「足音がした場所に、人がいるとは限りません。何か見えても、呼びかけないでください」
青年は一段目に足を置いた。
階段は狭く、踏面には細かな砂が積もっていた。だが、青年の靴底が残すもの以外に足跡はない。先ほどの音を立てた何者かがここを通ったなら、その痕跡だけが欠けていた。
十四段目で踊り場に着いた。そこからさらに階段が折れ、下へ続いている。
壁の材質が変わっていた。上階の灰色のコンクリートではなく、薄い緑色の塗膜に覆われた鉄板が継ぎ合わされている。継ぎ目には黒ずんだ水滴が浮かび、一定の間隔で埋め込まれた照明は、すべて消えていた。
背後で、佐伯の呼吸が止まった。
「知っている場所ですか」
「似ています」
佐伯は壁面を見つめたまま答えた。
「私たちが入った施設の下層区画に。ただし、同じではありません」
青年が問い返すより先に、記録媒体が低く震えた。
画面に地下構造の線が浮かび上がる。途切れていた通路が一本ずつ補われ、いま立っている階段を中心に、複数の区画が枝のように展開していった。
《下層記録 照合完了》
《記録位置 五件》
地図の上に、五つの点が現れた。
赤でも青でもない、色の抜けた白い点だった。それぞれは別の通路に置かれ、互いに離れている。ひとつは階段の東側、ひとつは閉鎖区画の奥、残る三つは地図の外縁に近い場所で静止していた。
佐伯が画面を握る指に力を込めた。
「この位置を知っているんですね」
「……五人の記録です」
声が掠れていた。
「私と離れた時点では、全員が同じ区画にいました。こんなふうに散らばってはいない」
青年は五つの点を見た。どれも動かず、明滅もしない。現在そこに誰かがいることを示す表示ではなく、消えずに残された印のように見えた。
そのとき、階下から音がした。
一度。
間を置いて、もう一度。
靴底が硬い床を踏む音だった。今度はさらに遠く、地図の東側にある点の方角から聞こえた。
続いて、別の通路から一度。
また別の奥から二度。
佐伯が記録媒体を持ち上げる。音がするたび、五つの点が順に淡く膨らみ、元の大きさへ戻った。五番目の点が反応したあと、下層は再び沈黙した。
「応答しているんですか」
「判断できません」
佐伯は即座に答えた。
「位置記録と音が同期しているだけかもしれない。ここで意味を決めないでください」
青年は頷き、階段の先へ目を向けた。
白い線が変化していた。
一本だった線は踊り場で五つに分かれ、地図の点と同じ方角へ伸びている。暗闇の奥へ消えるその枝とは別に、細い線がもう一本だけ、青年の足元へ戻っていた。
それは靴先を囲むように弧を描き、そこで止まっている。
「佐伯さん」
「何が見えますか」
「線が分かれています。五つと――」
青年は言葉を止めた。
記録媒体の画面で、五つの点の中央に空白が生まれていた。地図の線がそこだけ押し退けられ、何も表示されていない円形の領域をつくっている。
佐伯もそれに気づいた。
画面の下部に、新たな文字列がゆっくりと浮かび始めた。
《追加照合を開始》
青年の足元で、白い線が脈を打った。
《追加照合を開始》
表示の下で、細い進行線が伸びていく。
佐伯は記録媒体を操作したが、画面は入力を受け付けなかった。五つの点は変わらず静止し、その中央に生じた空白だけが、ゆっくりと輪郭を狭めていく。
「そこから動かないでください」
青年は足元を見た。
白い線は靴先を囲んだまま脈打っている。その明滅は記録媒体の進行線と重なり、光が強まるたび、床の下からかすかな振動が返ってきた。
《位置情報を取得》
《記録座標を照合》
画面の地図に、新しい線が引かれた。
五つの点から伸びた線が中央の空白へ集まり、ひとつの輪を形づくる。空白の位置は、青年たちが立つ踊り場と一致していた。
佐伯が顔を上げる。
「あなたには、今も線が見えていますか」
「見えています。五つに分かれた線と、俺の足元に戻っている線が」
「戻っている?」
「ここが始点みたいに」
答えた直後、階下で足音が鳴った。
一つ目の点が淡く光る。
別の通路から足音が続き、二つ目が光った。三つ目、四つ目、五つ目。音は順に近づいてくるのではなく、それぞれの位置で一歩だけ踏み出し、そこで止まった。
五つの点が同時に明滅する。
青年の足元で白い線が強く輝いた。
床を走った光は五本の枝へ流れ込み、暗い通路の奥へ消えていく。青年には、それが五つの位置から集まっているのか、自分から五つの位置へ向かっているのか判別できなかった。
記録媒体から、短い電子音が響いた。
《照合対象を確認》
《既存記録 五件》
《未登録対象 一件》
佐伯の指が画面の上で止まった。
中央の空白に、六つ目の点が現れた。ほかの五つより輪郭が明るく、一定の間隔で明滅している。その周期は、青年の足元にある白い線と同じだった。
「未登録対象というのは、俺ですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
記録媒体を傾け、青年の位置と画面上の点を見比べる。青年が半歩だけ横へ動くと、六つ目の点も同じ方向へずれた。
「動かないでと言ったはずです」
「確認したかったので」
「この場所では、確認のための行動が結果を変える可能性があります」
佐伯は青年を元の位置へ戻し、再び画面を見た。
六つ目の点が中央に収まる。すると五つの点を結んでいた線が組み替わり、六点をひとつの形として囲んだ。
《構成人数 六》
《記録単位を再編成》
青年は佐伯の横から画面をのぞき込んだ。
「五人の記録に、俺が加えられた?」
「そう見えます」
「どうしてですか」
「分かりません。あなたが線を見たからなのか、ここまで記録を追ったからなのか。それとも――」
佐伯は言葉を切った。
画面の六つ目の点に、小さな印が重なっていた。五つの位置にはない、開いた門のような記号だった。
青年は、その形を見つめた。
「その印も、記録にあるものですか」
「いいえ」
佐伯の声が低くなる。
「少なくとも、私が持っていた記録にはありません」
通路の奥で、五つの足音が同時に鳴った。
その直後、青年の背後でも一歩だけ音がした。
振り返っても、階段には誰もいない。砂の上に新しい足跡もなかった。ただ、青年の足元を囲んでいた白い線だけが消え、記録媒体の中に六つ目の点として残っていた。
《照合完了》
《対象を記録に追加》
佐伯は表示を読み終えると、青年を見た。
「この記録は、あなたを六人目として認識しています」




