その七
「これだから吉原の花魁は気ぐらいばっかり高くてならねえ」
煙管をくわえたまま、褪せた畳にごろんと横になると、横に投げ出したままだった掻い巻きを空いた手で引き寄せて清次郎に背を向けた。
「濃紫殿の件、よろしく頼む」
ちらりと振り返れば、頭を下げて見せている清次郎のお人好しっぷりと、先ほどの花魁の態度にイライラして、喜市はかしかしと煙管の吸い口を噛んでいた。
「清次郎殿よ。アンタは人殺しをするつもりか」
遠くで鳴く野良犬の声が沈黙を縫って聞こえる。
きょとんとした目で、意味を捉えられぬままでいる清次郎に、喜市は深く溜め息を付きながら、煙草盆の淵に煙管の先をかんと打ち付けると珍しく声を荒げた。
「あの女郎に宇部何とやらを呪い殺させる気か。
ぼんやりもいい加減にしやがれと言ってるんだ」
事実、花魁は恨めしさの余りこの世で彷徨っているのだ。
女の情念の高ぶりなら、殺したとておかしくは無い。
「その様なつもりは毛頭ござらん。ただ、毎日芯から震え上がるほど脅かして差し上げるのだ。」
声の勢いに驚いてか、目を真ん丸くさせた清次郎が慌てて口にしたが、喜市は煙管をかみつつ
「途中で殺したくなっちまったらどうするんだい」
とたずねた。
するとすぐさま清次郎は真直ぐな目で
「その時は成仏願う。
濃紫殿にも、居場所を探すかわりにと、聞き入れてもらった。
ただそれでも、俺の目の無いところではどうなるか分からぬ。」
「殺すんじゃないんなら、一体何をするって言うんだい。脅かすくらいで気が済むものか」
「そうじゃない。せめて濃紫殿に心からわびるように、毎日濃紫殿を思い出さずにはいられなくするのだよ。濃紫殿にした仕打ちを悔いるようにな。」
「もしまかり間違って殺すようなことがあったらどうするんだい」
「そのことも考えて明日から念仏を上げてもらうよう坊様に頼みに行く。
余計な力は持たせぬように計らう。
しかし、それまでは宇部の家にお払いなどが入らぬ様に見はらねばならぬ。」
すらすらと出てくる考えと、余りに真面目である清次郎に、喜市は少しほっとして眉を下げた。
「念仏なんか効くのかね」
「それが、濃紫殿は坊様に書いて貰った札を置いた私の文机だけはどうしてか触れられなかったそうなのだ。」
「それじゃあ、後は俺がその宇部なんとやらを探せばいいのだな」
ため息をつきつつのそりと体を起こして向き合って座ってみれば、清次郎は困惑した面持ちでこちらをみつめ
「ご主人の名は征之助殿でござるぞ。」
と真面目に言い放つので、喜市は一瞬沈黙した後吹き出してしまった。
そうだ、この様な真面目とお人好しが服を来て歩く男に、人を殺す手助けをするなどありえない。
自分の早とちりだったと思うと喜市は、しっかりしなければいけないのは自分だと思えた。
その日、夜が明け長屋の木戸が開くとすぐ、喜市はどこかへ出かけたようだった。
清次郎も、坊主を訪ねるため、支度を済ませると朝飯替わりに沢庵をかじり、部屋を出た。
外は藍とも薄鼠ともつかぬ空が高い所に張り付き、そこにはまだちかちかと星が幾つか取り残されている。
空っ風が落ち葉とともに駆け抜け、清次郎が思わず首をすくめるほどに寒さが強い。
襟元に巻いた布をぎゅっとかき集め、清次郎は本所の外れ、小梅村の近くで田んぼに囲まれている遵恵寺という寺を目指していた足を速めた。
その寺の坊主とは、清次郎が江戸に来てすぐに行き倒れになったのを拾って世話をしてくれ、以来色々と懇意にしてもらっている縁があるのだ。
清次郎のかじる沢庵もここの産物である。
たずねてみれば、事情を合点した坊主は一つの文句もなく快く引き受けてくれた。
濃紫という名前と、形代がわりに清次郎が描いた似顔絵を坊主に託し、念仏をあげてもらうことになったのだが、この似顔絵は清次郎が筆を走らせたものであった。
清次郎は浪人同然の暮らしぶりで、暇をもて遊ぶうちに手先ばかりが器用になっていたおかげで、自然と似顔絵などは朝飯前の腕前になっていた。形代には十分である。
ひとしきり礼を言った帰りがけ、坊主から握り飯や味噌、沢庵をもらうと、清次郎は喜市の知らせを待つため、もうすっかりと明るくなった家路を急いだ。
途中、両国のあたりに差し掛かった時であった。
「清次郎殿」
と呼び止める声がする。
いつものように笑みを浮かべては両腕を組み、手を袖の中に入れ悠々と歩いている男が袖から手をついと出して振る。
しかし喜市は清次郎の近くに寄ると、顔をしかめて仰ぐように手をひらひらと振った。
「清次郎殿。何を食ったらこんな臭いのがでるのだ」
清次郎は、はて、と首を傾げたが直ぐさま思い当たった沢庵の包みを袂から取り出した。
「誤解するな、この沢庵であろう」
「一体何をしに行かれたのだ」
「違う。これはお願いに上がった寺の坊主にもらったのだ。
何しろ絶品であるぞ、貴公も食べてみるがよい」
慌てて弁解をする清次郎に、喜市は今度は堪え切れぬと言わんばかりにげらげらと笑った。
「そうかそうか。こちらも収穫があったよ。
宇部ってえのは深川の材木問屋だよ。結構な大店だ。
どうだろう、ここからそう遠くも無いし、今から見に行かないかい」
そういうと二人は連れ立ち、溶け始めて緩くなった地面を踏みしめ、宇部家へ向かうことにした。
「そうだ、喜市殿。」
清次郎は思い付いた様に顔を歪めて懐からお守りを取り出す。
握り締めたためか、しわくちゃになったそれを差し出すと
「お主がくれたこの守り、水天宮は安産の守りだと坊主に笑われたぞ。
道理で効かぬわけだ。」
と、怒るでもなく困ったように顔をしかめる清次郎に、喜市は再び吹き出してしまった。