その八
昼過ぎに深川につくと、探す間もなく二人はすぐに立派な松の木の生えた通りで、一際大きな商家に出くわした。
相模屋と立派な文字が書かれた看板が、屋根の上にどっしりと構えている。
がやがやと大勢の人足や丁稚がひっきりなしに出入りしている、間口も広く立派な店で、かなり裕福な問屋である事が容易に伺えた。
下足番がせわしなく整理をしているのは、人足用の下足だろうか。
「流石、花魁を身請けするだけあらあ。どうしてこんな立派な家とぼろ長屋を間違えたんだか不思議で仕方ねえや」
喜市は感心して漏らすと、きょろきょろと辺りを見回して直ぐ、材木問屋の通り向かいにある蕎麦屋を指差した。
「清次郎殿、腹拵えをしよう。効かぬ守りを渡した詫びだ」
清次郎は断ったが、喜市は「よい、よい」といって半ば強引に蕎麦屋へと連れて行った。
入ってみれば、昼前にも関わらずに埃っぽい男達で座敷はほとんど一杯であった。
おそらく彼らの中の幾人かは、相模屋で働いているだろう。
喜市は掛け蕎麦を二つ頼むと、ほんの僅か空いていた座敷にねじ込むように座り、隣りに座ってそばをすすっていた人足であろう男に話しかけた。
「向かいの材木屋は随分でっかいねえ。アンタ、あすこに出入りしたことはあるかい。」
掛けそばをすすって鼻先についた汁を、かすれた色の袖で拭いながら、いかつい顔をした男は口の中をもごもごとさせながらうなずいた。
「ああ、ここいらじゃ有名だよ。先代が去年死んでからは、息子の若旦那が上手く切り盛りしてらあ。お蔭様でこっちはくいっぱぐれずに年を越せそうだよ。」
そばを飲み込むと、その顔からは想像できなかった気楽な口調で男が箸を振る。
跳んだ汁を再びその袖で拭くと、男はへへへとがんものような顔で笑った。
「へえ、やり手なんだねえ。ところで奥方や子供はいらっしゃるんだろうか」
しかし、続いて投げかけられた問いかけにふと笑顔を曇らせると、今度は不審気に顔をしかめ始めた。どっちにしろがんもに変わりはない。
「なんでそんな事聞きたがるんで」
声を低くした男が聞き返すと、喜市は頭をかいて
「いやあね、この相方と商売始めようと思ってね。今日はここらへんを調べて歩いてたのさ。
そしたらまあ立派な大店があるじゃねえか。早速ご挨拶に伺いたいのだがね、まずは手土産何ぞで奥方様のご機嫌取れりゃあ万事上手くいくってなもんでね。」
立板に水のごとく、憶せず作り話を繰り出す喜市に清次郎はただ感心しきりだった。
男はそれがすっかり本当の話だと思ったらしく、がははと笑うと傍らの楊枝を取り出して咥えた。
「そりゃあ確かに。かかあが怖いのは金持ちも人足もかわらねえからな。
でも、あそこの奥方は安い手土産じゃ効かねえぜ。なんせ花魁だったからな。しかも昼三ときたもんだ。」
そこに突然、掛け蕎麦を持ってきた女将が口をはさんだ。
「でも、最近めっきりみやしないよ。
噂じゃ死んじまったか出てっちまったんじゃないかって言われてるさ。まあ元より悪所の女に堅気の商家の御内儀なんぞ務まるはずもないのさ。死んだにしても逃げたにしても、若旦那も高い買い物をしたもんだよ。」
喜市は女将の話に大袈裟に感心して相槌を打っている。
「やっぱりおかみさんみたいなしっかりもんがいてこそお店は盛り立つってもんだよなあ。しかし、せっかく惚れて揚げた女がそれじゃあ、若旦那も大層気を落とされているなあ。」
すると女将は喜市と清次郎、そしてがんもの男のそばに顔をついと寄せると含むような笑いを浮かべ
「それがそうでもなさそうだ。」
と話始めた。




