その十二
「ああ、丁度きているよ。」
土間に降りて腰高障子をひけば、そこには妙に生気に満ちた喜市に顔があった。
おそらく相模屋が見つかったと言う朗報を引っさげていると思ったのだろう、ふと濃紫に目をやれば、申し訳なさそうに眉尻を下げて首をかしげている。
「なんだ、もう来てたのか。そりゃよかった。早速で悪いんだが」
「喜市殿、万事もう良くなった。濃紫殿はもう政之助殿を恨んではおられぬようだ。」
喜市が言い切らぬうちに、清次郎はまるで遮るように急いて事情を口にした。
「ほう、なんでまた。まあ丁度良い、会わせたい人がいるんだよ。」
一瞬、言葉を引っ込め、驚いたような顔を見せたものの、喜市の顔は一つも陰る事がなかった。
それどころか一層顔を穏やかにして後ろを振り向き「どうぞ、入ってください。」と、誰かに促していた。
狭い土間に体をねじ込むように入ってきたのは、硬い面持ちの年の頃十八ほどの女と、その母であろう白髪交じりの女だった。
寒いのか、それとも緊張しているのか、若い女は両の手を前でぐっと握り締めている。
清次郎はどきりとした。
間違いない、これが例の浮気の相手だ、と確信した。
喜市の得意面の正体は、政之助の相手を見つけたと言うことだったのだ。
政之助を恨むなら、この相手を恨めということなのか。
せっかく心持を落ち着けた濃紫にとっては余りに酷な出会いであった。
「喜市殿、この方は」
息が喉に詰まるようで、清次郎はそれだけ言うと、ごくりとつばを飲み込んで二人の女を見つめていた。
それ以上言えなかったわけではない。つい先ほど見せた、安らかで儚げな濃紫の笑顔が失われると思うと、このまま聞かぬほうがよいのかも知れぬとさえ思ったのだ。
濃紫以上に顔を蒼白にさせる清次郎を目の前にして、喜市は余裕ありげににやりと笑ってみせた。
「濃紫殿よ、あんたの記憶は間違いなかったようだ」
それが何事を指すか分からず、しかし二人の女が何者なのかには感じるものがあったらしく、濃紫は眉間のしわを深めて怪訝な顔をしている。
その刹那、白髪交じりの女は草履も脱ぎきらずに座敷を膝で滑りながら濃紫へと近寄り、震える手を伸ばした。
濃紫は身を捩りよけたが、女はそのまま倒れこみ濃紫を抱くように手を回した。
「一体なんじゃ」
もちろん触れられることなどない濃紫は、女の手をすり抜けるとついに声を荒げて喜市を睨んだ。
一体何のつもりなのかと、清次郎までもが喜市に問いかけようとした時である。
喜市は倒れこんだ女の手を取り起こすと
「濃紫よ、おっかさんにそれはねえよ」
と笑いながら口にした。
濃紫も清次郎も、混乱して声すら出なかった。
「どういうことか、説明をしてくれぬか」
ようやく搾り出すように言ったのは清次郎だった。
見れば、若い女は入り口で顔を覆って泣いている。母だというその女も、喜市の腕にすがり同じように嗚咽を上げていた。
「濃紫、あんたが旦那の相手だと思ったこの娘は、あんたの妹のつねだよ。こちらはあんたのおっかさんのきよさんだ。」
事の重大さにそぐわぬ明るい口ぶりで喜市が説明をしても、二人はまだ理解できないでいた。
母の丸まった背中をさすりながら、喜市は話を続けた。
「あんたの旦那は。征之助どのは、家族の無いあんたを不憫に思ってあんたがどこから売られてきたのか調べてたそうだ。
だがね、もしも家族がもう全員死んでた、なんてことになれば余計にあんたを悲しませると思って、教えなかったそうだよ。」
不意に、後ろにいたつねが涙を拭き喉をしゃくらせながら、口を開いた。
「旦那様は、こちらに住まないかと何度も使いをくださいました。その度お断りしたのですが、なれば一度だけでも姉様にあってほしいと、江戸に呼んでくださったのです。」
良く見れば姉に似た面差しのつねが話すにつれて、濃紫の顔がどんどんと切ないような、穏やかなような顔になっていくのを、清次郎は傍らで見つめていた。
濃紫はそんなことも気づかないように、つねの話に耳を傾けゆっくりと座りなおした。
「しかし、江戸に来たのはいいんですが」
そこまで言って、うつむき言いよどんだつねにすかさず喜市が言葉を足す。
「あんたを売っちまったって背負いがある手前、やはり今更会いにいけなかったのさ、おっかさんがね。
それで相模屋の旦那が江戸に引き止めて、二人を泊めている旅籠まで足を運んで説得していたのさ。
逢引をしていたわけじゃねえよ。」
笑いながら言う喜市とは正反対に、濃紫の母親は「すまなかった、すまなかった」と、壊れるんではないかと思うほどに泣いていた。
濃紫はしばし呆然としてその様子を見つめると、まだ母の背中をさすってくれている喜市に向けて俄かに頬を緩め、泣いている母の上に覆いかぶさるように抱きしめる仕草をした。
「ありがとう、おっかさん。わっちは恨んでなんかありんせん。おっかさんも、つねも生きていて、それだけで全ては報われんした。」
言いながら目を細めて微笑むと、目の端から涙が一筋静かに流れる。
「つねも、よくおっかさんを守ってくれんした。おおきくなりんしたなぁ。」
流れるままの涙も拭かずつね手を伸ばすと、つねの方もすぐさまその手にしがみつくように体を寄せ、再び堰を切ったように泣きだした。
「清次郎殿。」
三人を慈しむように見つめていた清次郎に、喜市が小声で囁き、その鼻先で部屋の外を指し示す。
やっと自分の野暮さに気づいた清次郎は、音を立てぬように静かに部屋を後にした。
「今更ではあるが、後もう少しご家族がくるのが早ければ一緒に暮らせたやもしれんのにな」
喜市の部屋に腰を下ろし、火を入れたばかりの火鉢に手をかざし、清次郎は先ほど三人を見つめていた満足そうな顔はどこへ消えたのか、すっかり気落ちした様子で呟いた。
すると喜市は何か思い出したような含むような顔をしてにやりと微笑むと
「清次郎殿。小紫は成仏なんぞできぬぞ。」
といたずら小僧のような顔をして口角をにっと上げた。
数日後、二人は件の材木問屋の前にいた。
店先には、客を見送る若旦那の横でしっとりと微笑む女がいる。
「いやあ、まさか生霊だったとはね。」
頬張っていた団子を飲み込むと、喜市が笑った。
「しかし、倒れてきた材木に頭ぶつけてのされちまうなんて、そんなやわで材木問屋のご新造が勤まるのかねえ。」
そんな喜市の話を聞いて、清次郎も笑ってはいたが、その顔は優しくも寂しげだった。
どうやらあの後、目を覚ました濃紫は何も覚えていなかったらしい。
しかし、「化けて出た」などと知れば本人も傷つくであろうからと、みなで黙っていることに決めたのだ。
花魁だったその女は「濃紫」ではなく、今は「おうの」という名前であるらしい。
陽の光の中で見るおうのはあの儚さが嘘のようにきびきび動き、ちょっかいを掛けてくる人足をさらりとあしらったりしている。
「それじゃ、帰るかね」
どちらとも無く言うと、二人はまたいつもの長屋に戻っていった。
「あら、いい香り」
材木問屋の奥方が言った。旦那はくん、と鼻をひくつかせると
「ああ、蝋梅か」
と微笑んだ。