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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   四七、稜線


 談話室に上がった。灯りのない部屋は茜色の斜陽に切り取られていた。明日香に抱かれるようにして、鳴海は椅子に腰をおろした。明日香にいつものシニカルさが見られない。母親のような、ちがう、まるで姉のようなふるまいだ。けれど確か明日香は鳴海よりも年下だ。しかしいま、鳴海は熱にうなされベッドで目覚めた子どものように、ひどく何かにおびえ、泣いていた。怜は涙をぬぐうこともできない鳴海を見、彼女とついさきほどまでいっしょにいたことが信じられなかった。豹変だった。

 鳴海はいったん明日香に連れられて自室に帰った。談話室に戻ってきた明日香は、焦燥を隠そうともしなかった。怜の向かいに座ってもにこりともしなかった。いや、それはいつものことか。しかしいまの明日香の瞳のふちには、色濃い疲れが見えていた。

「きょうは、たいへんな一日だったわね」

 まるで他人事のようにつぶやいた明日香は、不思議とふだんよりずっとまともに見えた。怜をまっすぐに見ているからだ。

「僕は、べつに」

 いつもの明日香をまねて、はぐらかしてみた。

「こっちの話よ」

 真琴がいない。

「芹沢さんは?」

「真琴なら、音楽室じゃないかな」

「下にいたけれど、なにも聞こえなかったよ」

「じゃあ、子どもたちのところね、きっと。さもなきゃ温室だわ」

「屋上の?」

「わたしたちの中で、あの子は唯一子どもたちに受け入れられてるみたいだから。知ってるでしょう、子どもたち。温室の管理人」

 明日香は肩をすくめた。そのしぐさが自然だ。学生時代の彼女はいつもこんな風だったのだろうか。

「受け入れられてるって? 君の言いかただと、子どもたちに気に入られないと、温室には入れないみたいだ」

「そうよ」

「僕は入ったよ」

「入ろうって気を起こそうとする時点で、あなたはやっぱりここの人間じゃないのね」

「どういうこと?」

「子どもたち以外は、ここに温室があるってこと、みんな忘れてる。興味がないのよ、自分以外のことにはね。だから、子どもたちに誘われでもしないかぎり、温室に行ってみようなんて酔狂は、いないのよ」

「僕は変人ってこと」

「ここではね。あなたの世界に帰れば、まともなんでしょうよ」

 明日香と一対一で話をするなんて。

「まともじゃないから、ここに来てるんだよ。いつかも言ったじゃないか」

「自分で言っていれば世話がないわね」

「……強烈だな」

 疲労がそうさせるのか、口調がきつい。そしてはっきりわかるほどに、明日香の顔色が悪い。

「具合でも悪いの?」

「誰が」

「君が」

「わたしが? なんで」

「顔色が悪い」

「どう?」

「青白いよ。鳴海さんみたいに」

 怜がそう言うと、明日香は一瞬あっけにとられたように黙った。そして吹き出した。

「鳴海さんね。顔色悪いもんね、いつも。でもああいうのを『色白』っていうんじゃないの? それに、日焼けした顔のほうがよほど不健康よ。そうじゃないのかな? 環境調査員さん」

「紫外線のことを言っているんだったら、そのとおりだよ」

「あなただってずいぶんと色白じゃない」

「職場環境がそうさせたんだよ。日焼けは罪なんだ。快晴の日は防護服を着ていく」

「本当に?」

「嘘だよ。半分本当だけど」

「どこまでが半分なのよ」

「防護服を着て仕事をするってことは本当だよ。快晴の日に、という部分が嘘さ。せいぜい長袖を着るくらいだね。夏はひどく暑いんだ、あれ」

「知らないわ」

「だろうね」

「ちがう。興味がないってことよ」

「興味がない、か」

 なぜこんな半分けんか腰の会話をしなければならないのだろう。明日香の青白い唇は、低体温症寸前の水難者を思わせた。

「レモネード、飲む?」

「レモネード?」

「冷蔵庫に入ってるのよ。給湯室の。飲みたいのなら、持ってくるわ」

「いいのかい?」

「いいのよ。真琴も飲んでたし。誰かが飲み干したって、べつの誰かが補充するわ。ここはそういうところだから」

 言うが早いか、明日香はもう席を立った。せわしない。何かをしていないと落ち着かない、そんな様子だった。鳴海の「発作」、明日香の言動。老婦人に何かがあった、そのことは痛感した。しかも、重篤な何かだ。それに思い至って、怜は少し気分が悪くなった。空腹のせいか、胃が痛い。

 明日香が行く廊下は、夕日を受け、リノリウムの床が水面のように波立って見えた。数時間前に鳴海と立っていた海岸を思い出す。あれは本当にきょうのできごとだったのだろうか。ひまわりを手折ってくれた男は、いまどこにいるだろうか。無事、どこかの町にたどりついたのだろうか。彼がくれたひまわりは、いまどこにあるのだろうか。鳴海に訊いてみたかったが、それは無理だ。彼女が手放したもう一輪はどうだろう。もう波間を漂っているのだろうか。

「どうぞ」

 明日香が持ってきたレモネードは、えらく黄色が濃かった。

「ありがとう」

「レモンはね、ここの温室で採れたのよ」

「知ってる」

 怜はうっすらと露をまとったグラスを取り、ひとくち飲んだ。マーケットで見かける飲料とはずいぶんちがう。酸味が強い。夏向けの味だと思った。

「おいしい?」

「おいしいよ」

 明日香は無言でうなづいたが、かといって自分のグラスを取りに行こうとはしなかった。

「飲まないの、西さんは」

「いらないわ」

 グラスをテーブルに置いて、正面から明日香の視線を受け止める。なにか言いたそうだ。必死に言葉を探っているのが手に取るようにわかった。口数の多さは、彼女が選び損ねた言葉がこぼれ落ちているからだ。本当に投げかけたいのは、いったいどれだ?

「きょうは、楽しかった?」

 明日香は怜から視線をはずした。本命ではない。

「暑かったよ、さすがにね」

「海は見られた?」

「そのために出かけたんだ。見られたよ。久しぶりだった。いや、まともに海を見たのなんか、ひょっとしたらはじめてかもしれない」

「……」

「晴れてよかったよ」

 視線をはずし、明日香はテーブルについた露を指で伸ばし、なにかを描いていた。円、螺旋、曲線。こういうとき、人は直線を描かない。曲線を描き、指は最初に戻る。

「鳴海さん、楽しそうにしてたのかな」

「さあ。いつもとかわらないように見えたけど」

 怜は、鳴海が厚別のあたり、原生林を抜けた国道で突然涙を流したことは、伏せた。引き金に指をかけたのは自分かも知れない。

「白石さん」

 怜が顔を上げると、はじめて見る明日香の表情があった。悲しげに眉をゆがめ、瞬きすらしない瞳が、やはり澄んでいた。

「きょうの午後かな。いつまでたっても有田さんが部屋から出てこなかった。わたしはほとんどあのひととはしゃべったことがないけれど、真琴は気にしてた。わたしも気になった。いつも談話室で食事をしているはずなのに、お昼にもこなかったわ。最初、有田さんの部屋を河東先生が出入りしてた。わかるでしょう、あの、髭面の」

「わかる」

「そのうち、稲村先生も上がってきた。わたしも真琴もここにいたから、先生たちふたり、妙にあせっているのがわかったわ。稲村先生なんか、階段を駆け上がってきた。あのひとがよ、駆け上がってきたの。血相を変えて。だからわたし、気づいたわ。なにかあったんだって。有田さんになにかがあったんだって。でもわたしは気づかないふりをした。真琴と向かい合って、カーテンの話をずっとしてた」

「カーテンの話?」

「わたしたち、家を建ててるのよ。二人だけの家を」

「<施設>を出るの?」

 怜が驚きを隠さず急きこんだように言うと、明日香はやんわりと笑った。笑って否定した。

「ちがうわ。空想の話。もうここまで行っちゃったら、妄想ね。真琴とふたりで、二人の頭の中に家を建ててるのよ。微笑ましいでしょう。真琴が稲村先生にこの話をしたら、止められたって。止めても無駄なのにね。たとえば『誘拐を考えた』だけじゃ、罪にはならないのに」

 車の中で鳴海と交わした会話を嫌でも思い出す。家の話だ。明日香や真琴にとっても、ここは「家」ではないのだろうか。たぶんちがうのだ。だから、ふたりで住むことのできない家を建てているにちがいない。

「で、稲村先生が上がってきたかと思ったら、ほら、白石さんも知ってる、あの子どもたちまで上がってきたのね。普段はめったに二階になんて来ないのに。屋上へ行くときだって、この階段は通らないのに。で、子どもたちはまっすぐ、有田さんの部屋に入っていったわ。そうそう、わたしね、有田さんの部屋がどこにあるのか知らなかった。笑っちゃうでしょう。笑ってよ。わたしが知ってる部屋ってね、自分の部屋に真琴の部屋、鳴海さんの部屋だけよ。ほかの部屋に誰が入っているかなんて、ぜんぜん知らない。きっと白石さんが入所しても、あなたがどこの部屋に入ったかも、わたしは知らなかったと思うわ。ここはそういうところ。なのに、あの子たちは有田さんの部屋を知っていたの。いったいいつから知ってたのか、こっちはぜんぜんわかんないけど。で、いよいよ子どもたちまであらわれて、わたしはやっと知らないふりをやめたの。真琴もそわそわしはじめてた」

 誰かがカーテンを引いた。明日香と真琴の家のカーテンではない、談話室のカーテンを。西日が差し込み、まぶしい。だからカーテンが引かれたらしい。窓辺にハードカバーの本を持った青年が立っていた。

「カウンセリングのときじゃなきゃ口も利きたくなかったけど、わたし、河東先生をつかまえて訊いてみたの。『有田さん、どうかしたんですか?』ってね。カウンセラーをやってるわりに、河東先生も落ち着きがなくて、そわそわしてた。で、なかなか答えてくれなかったんだけど、そこに稲村先生が来てね、こう言ったの。『有田さんとは、お別れだ』って」

 怜は瞬きもできなかった。周囲の空気が瞬時に真空へ反転したような、信じられないほどの息苦しさを感じた。

「どういうこと?」

 ようやく口を飛び出したセリフは、それ以上の意味をもたなかった。

「そのままの意味よ。有田さん、もうこの<施設>にはいないわ」

「……」

「くわしいことは知らないけど、もっとまともな病院に移るんだって、白石さんたちが帰ってくるちょっと前、出て行ったわ。白い車が迎えに来て」

「……有田さん、転院したのか」

「そうよ。どうなったと思ったの?」

「てっきり、……」

 怜はそれ以上なにも言わなかった。縁起が悪い。ひどい早とちりだ。けれど、明日香や鳴海の様子を見れば、誰だってそう思うにちがいない。よかった。怜は胸をなでおろしていた。どうしてだろう、数回口を利いただけの老婦人を、自分は気にかけていた。

「……悪かったのかな、どこか。身体の」

「有田さんが? さあ。でも、さっきここを出て行くときは、一度も姿を見なかったわ。リフトを使ったのね、きっと。起きて歩けなかったって聞いた。そうよ、意識がなかったんだから」

「……そう。君は、その話を鳴海さんにしたのかい?」

「わたしが? ちがうわ。真琴よ、あの子が言ったの。真琴によれば、帰ってきたばかりの鳴海さんは、有田さんを探していたんだってさ。そう見えただけなんだろうけど。真琴の悪い病気ね。で、くわしい話を聞いてしまった鳴海さんは、ああなっちゃった」

 天井からエアコンの稼動音が聞こえた。

 ブン。

 ここが巨大な冷蔵庫の中のような気がした。穏やかな冷気が肌を刺す。

「みんな、病気なのよ。すっかり、忘れてた」

 怜は目の前のグラスにまだ残っているレモネードをただながめていた。うっすらと結露した表面を。天井で蛍光灯が点灯した。時刻は、いまいったい何時だろう。<施設>についてからとたんに時間の流れが遅くなった。怜は手持ちぶさただった。言うべき言葉が見つからない。

「有田さん、発電所の事故の後遺症なんだって」

 明日香は、まるで夕食のメニューを読み上げるように、言った。

「発電所の?」

「稲村先生が言ってたわ。それで、ずっと身体が弱かったみたい」

「<施設>にいて、どうして事故なんか」

「知らないわ」

 言ってから、明日香は上目遣いに怜を見た。白目と黒目が妙にくっきりとわかれた、ここの人たち特有の目。こちらを向いているのに、じつはなにも見えていないような、一歩常軌を逸した視線に感じられ、怜は目をそらした。

「真琴の真似」

 平淡に言い、そして怜のグラスを取りあげた。

「もらうわね」

「どうぞ」

 そうして、怜が口をつけたのとは反対側から、彼女はレモネードをひとくち飲んだ。

「ずいぶん酸っぱいのね、これ」

「おいしいよ」

「どうだか」

「おいしくないかい?」

「まずくはないわ」

「素直じゃないね、君は」

「とりあえず、嫌ってみるのよ、わたしは」

「鳴海さんは」

「嫌いじゃないわ」

「ちがうよ、彼女、大丈夫なのか?」

 怜の言葉を待たず、明日香はぐっとレモネードを空けてしまった。

「酸っぱい」

 グラスを放り投げるようにしてテーブルに戻し、嘆息。

「わたし、好きな人なんていない」

 嘆息にまぎれて、そんな言葉が怜の耳に届いた。

「どうしたって?」

「わたしはね、たとえば誰かが具合が悪くなったとしても、きっと心配なんかしない。気にかけたりもしない。白石さんの病気が悪くなろうが、よくなろうが、わたしには関係ない。だから、有田さんが倒れたって聞いても、本当のことを言うと、なんとも思わなかった。『それがどうしたの、わたしには関係ないわ』って」

「冷たいんだな」

「聞いて。まだわたしの話は終わってない」

 怜は空になったグラスに触れた。まだ冷たかった。

「『わたしには関係ない』」

 明日香は繰り返した。

「たとえ、ここの人たちがみんないなくなっても、わたしは平気だと思ってた。真琴がいなくなっても、鳴海さんがいなくなってもね。もちろん、あなたが来なくなっても」

「僕はもともとここの人間じゃないからな」

「関係ないわ。話の腰を折らないで。嫌われるわ、そういう性格」

 じろりとにらんだ明日香の顔は、けれど一瞬疑いたくなるほどあどけなく見えた。

「それは失礼」

「いいんだけど。でね、きょうの朝、鳴海さんが出て行った。あなたに連れられて。あなたのあのけたたましい車に乗せられてね。わたしは、そこの窓から見送ってた」

 明日香は、首だけを階段室の横の窓に向け、顎をしゃくった。

「気がついたらわたし、手をふってた。『さよなら』って。ここから出て行く人は、あなたが思っているほどに少なくはないのよ」

 朝、助手席でじっと<施設>を向いていた鳴海の姿がよみがえる。鳴海は明日香の見送りに気づいていたのか。

「わたしね、鳴海さんはもう戻ってこないような気がしてた。あなたに連れられて、もう帰ってこないような気がした。そう思うと、わたし、ものすごく腹が立ったわ」

「……どうして」

「鳴海さんは、簡単にここを出て行った。わたしは出て行きたくても出ていけない。出て行こうとも思わない。なのに、鳴海さんは簡単に出て行けた。卑怯だって思った。だからもう、二度と会わないかもしれない。そう思ったから、手を振ったのよ。『さよなら』って」

「でも、帰ってきたじゃないか」

「帰ってきたわね。不思議な気分だった。きっと有田さんがあんなことにならなければ、わたしは帰ってきた鳴海さんを嫌いになっていたと思う」

「どうして」

 さっきからそればかりだ。怜は煙草を喫いたい気分だった。明日香はつづける。

「とりあえず嫌ってみるからよ、わたしは。初対面の人間をね」

「初対面?」

「だってそうでしょ、ここを出て行ったんだもの、わたしが知っている鳴海さんは。わたしが知ってる鳴海さんは、どこの誰かもわからない<機構>の人間に連れられて、<施設>を出て行ったのよ。で、夕方、また<機構>の人間に連れられてあらわれたのは、心の病気を抱えたどこかの女の子。鳴海さんじゃないわ。別人。わかる?」

「わかりづらいな。まあ、なんとなく」

「とりあえず嫌ってみようと思ってた。なのに、真琴が真っ先に鳴海さんを見つけた。真琴は、階段を足音も立てずに上ってきた鳴海さんに気がついた。で、有田さんがここを出て行ったことを、話しちゃった」

「鳴海さんが訊いたんじゃなかったのか」

「どうして? あのひと、わたし以上に他人には無関心よ。そんな人が、入所者が一日どうしてたか、訊くと思う? 『有田さん、きょうも元気にしてた?』なんて、河東先生だってそんなことは言わない。真琴が全部しゃべっちゃったのよ。そしたら、鳴海さんはおかしくなっちゃった。わたしがよく知ってる鳴海さんだった。嫌う必要がなくなっちゃった」

 帰ってきた鳴海。駆け寄っていく真琴。少し離れて冷たい目をした明日香。怜にはそのときの情景が見える。たった十数分前の光景が。

「どうしてわたしが、とりあえず嫌ってみるか、わかる?」

「さあ」

「裏切られたくないからよ。好きになって、信頼して、そして裏切られるのが嫌なのよ。鳴海さんが他人を寄せ付けないのはまたぜんぜんべつな理由らしいけど。わたしはそういう理由」

「……そう」

「そうよ」

「じゃあ、僕のことも嫌いなんだね」

「嫌いよ。大っ嫌いよ。<機構>の人間なんて」

「そうか。だったら、どうして僕をつかまえてそんな話をしているんだい?」

「話す相手がいないからよ。べつにあなたでなくてもいい。そこのファイカスツリーでもいいのよ。でもそんなことをしてたら、ここを追い出されちゃうもの。狂っちゃったって思われる。昔いた病院に戻されちゃう。それはごめんよ。だから、仕方なくあなたに向かってしゃべってるのよ、わたしは。わかる?」

「わかるよ」

「それならいいわ」

 レモネードのグラスは、冷たさを失って、すっかりただのガラスに戻ってしまっていた。

「でも、どうしてそんな話を?」

 怜が訊く。煙草を喫いたい。

「それは……ね」

 明日香は目を伏せた。遠くからオルガンが聞こえる。穏やかで、悲しげな、そんな旋律。

「鳴海さんがうらやましかったのかも知れない」

「うらやましい?」

 およそ明日香には似つかわしくないセリフだ。怜は抱いた感想を言おうとしたが、明日香の伏せた目に色を見て、やめた。鳴海の瞳を思い出す。夏の海のようだった、紺色の目だ。いま明日香の鳶色の目も、色を宿していた。ガラス球には見えない。

「他人のことで、泣けるんだもの。ちょっとちがうかもしれないけどね、鳴海さんの場合。でも、間違いなく、あのひとは有田さんのことを思って泣いてた。それが、わたしはうらやましい」

「君も、泣けばよかったじゃないか」

「どうやってよ。悲しくもないのに、どうやって泣くのよ。わたしはさっきも言ったけれど、有田さんが倒れたって聞いても、なんとも思わなかった。悲しいとも思わなかった。そもそも、悲しいってどういうことなの? わたしは涙なんか出なかった」

 そういう明日香は、泣き笑いのような顔になっていた。君には表情があるんだよ、鏡を見てみるといいよ。階段の下で鳴海を抱きとめていた明日香、その表情を、彼女自身は知らない。

「君は、鏡を持っているかい?」

 たまらず、怜は訊いてしまった。

「鏡?」

「そう。自分の顔を見る、鏡だよ」

「洗面所にあるわ」

「自分では持っていないのかい?」

「持ってないわ。そんなものどうするの」

「自分の顔を見るためさ」

「わたしには必要ないわ。あなたは持ってるの?」

 怜は瞬きの間、自室の間取りをたどった。引き出しの中、ナイトテーブルの上、ベッドのまわりにもデスクのまわりにも、鏡などない。洗面所だ。

「持ってないよ」

「じゃあ、なんで鏡の話なんかしたのよ」

 目を細め、首をかしげ、いつもの明日香が戻ってきていた。不安定だ。風の強い空では、雲の形はころころ変わる。それに似ている。いっときも安定しない。それが人間なのかもしれないが、いまの明日香は激しすぎる。雲の形がくるくる変わる午後は、そのうち雷雲が立ちこめ嵐になる。

「君は、自分の顔を見たことがあるんだろうかって思ったのさ」

 怜が言うと、明日香は半身を起こし、そして目を見開いた。突然異国の言葉で話しかけられ、言葉の意味をつかみかね、反芻しているような表情だ。

「自分の顔を? バカじゃないの?」

 もとどおり椅子の背にもたれて、小柄な彼女は笑った。談話室には怜と明日香以外に誰もいない。読書青年もいつのまにかいなくなっていた。みんな自分の部屋にこもっている。出てこない。扉は開かない。開けられない。扉のない談話室で、ふたりはなにを話しているのだろうか。

「あるに決まっているじゃない。自分の顔を見たことない人間なんて、いるの? いるんなら教えてよ」

 怜はだまって人差し指を明日香に向けた。

「わたし? わたしが、自分の顔を知らないっていうの?」

「さっき、君は涙が出ないって言っていた。悲しいってどういうことかわからないって言っていたよね。そう言っていたときの君の顔を、鏡で見せたかった」

「……わたしをバカにしてるの?」

「ちがうよ。さっきの君は、ちょっとね、悲しそうな顔をしてたから」

 とたんに明日香の瞳が右往左往しはじめた。ちょうど少し前の自分を探しているように。どこにいったんだろう。そんな顔をしていたって? 嘘だ。明日香の目がそう言っていた。

「バカになんかしていない。僕にはそう見えたってだけの話だよ。きっと君はさびしがり屋なんだよ。気づいていないだけで」

「わたしが、さびしがり屋だって?」

 明日香の声が甲高い。廊下の向こうまで飛んでいった。

「ちがうのかい?」

「ちがうわ」

 にこりともせず、明日香は濃い眉をしかめた。そして怜は気づいた。ふとした瞬間に顔をのぞかせる明日香のあどけなさは、きっとこの濃い眉にあるにちがいない。太いわけではない。ただ、くっきりと黒い眉なのだ。その眉は、鋭い瞳や斜にかまえた態度以上によく動く。彼女の感情はきっと、よく動く眉に現れている。もっと早くに気づけばよかった。

「あなたは、どうなのよ」

 くっきりした眉をしかめたまま、明日香は言った。

「僕は、さびしいと感じたことは、ないよ」

「本当に」

「さあね。でも、僕は<機構>に入る前、学生をやってたころからずっとひとりだった。けれどさびしいと思ったことはなかったよ。ひとりでいるのは、苦にならない」

「じゃあ、どうして鳴海さんを誘って海を見に行ったりしたの? ひとりで行けばよかったんじゃないの?」

 怜はしばし考える。ひとりで行けばよかったのかもしれない。なにも彼女を連れて行くことはなかった。ひとりで海を見、そしてやはりあの男に出会ったのだろうか。そしてあの男とひまわり畑を歩き、手折ったひまわりを助手席に載せて帰ってきたのだろうか。

「僕は、鳴海さんは、ここから出たがっているように見えたんだ。ここが嫌で出て行こうと思っているとか、そういうことじゃなくて、単に、外に出たがっているように思えたんだ。そういう風に見えたことがないかい?」

 君も、外に出てみたくはないのかい? 怜はつけくわえようと思ったが、やめた。

「鳴海さんが? 談話室にいるより自分の部屋にこもっていることのほうが多いのに?」

「見たことないかな。あの子が下の中庭をぶらぶら散歩しているのを」

 地雷原を歩くように。

「こう、足元を確かめるように、頼りなく、芝生の上をね。踊ってるみたいなこともあったよ。僕は何度か見たことがあるんだ。そんな鳴海さんを見て、外に出たいんじゃないかって、思ったんだ」

「中庭を?」

「そう」

「知らないな。鳴海さん、ときどきカウンセリングのあと、なかなか上がってこないことがあるけど、そうなんだ、中庭にいたんだ」

「君は、中庭に出たりはしないんだね」

「しない」

「どうして」

「用もないのに、一階に下りたくはないわ。子どもたちがいるし。なにが面白いのか知らないけど、真琴はしょっちゅう下りていくけど」

「君は子どもたちが嫌いなのかい?」

「嫌い」

「どうして」

「理由は、……真琴に訊いて。全部話したから」

「言いたくないんだったらいいさ」

 蛍光灯の照明が、もうすっかり明るい。それだけ外が暗くなってきたにちがいない。カーテンが引かれた窓から外はうかがえないが、あれほど騒いでいた陽の光は、もう談話室には逃げ込んでこなかった。夜だ。夜がはじまっている。陽は闇に追い出されてしまった。そして話題が散漫な二人の会話は、まだ続きそうだった。怜は煙草を喫いたかった。手持ちぶさたになると、ポケットの中のライターに無意識に触れている。明日香は喉が乾いていた。飲み慣れないレモネードが喉を焼いて、痛みすら感じていた。だからいまはひたすら、真琴が飲んでいたクラッシュ・アイスいっぱいの氷水が飲みたかった。

「鳴海さん、部屋にいるのかい?」

 明日香と向かい合っていると、なぜか息が詰まる。いや、鳴海と向かい合っていてもそうだ。ちがう、自分は誰かと対峙するとき、きまっていつも気が詰まる。いままでは沈黙でそれに耐えた。同僚の調査員たちもそれを心得ていた。怜の前で無駄口をたたく人間はいなかった。怜は職場で応えを期待されていなかった。まだ観測機器のほうがましだ、操作に反応した。自分はアプリケーションの一部だとそのうち考えるようになった。感情を露にすると発狂しそうになる。とりわけ、捨てられた街を歩くときは。

「知らない。いるんじゃない」

 明日香はテーブルの下で組んだ両の指に視線を落として、伸びはじめた爪が気になっていた。切らないといけない。爪切りは、どこにしまってあったっけ。前いた施設では、刃物は厳重に管理されていた。凶器として扱われていたわけではなかった。自傷防止のためだった。それでも月に何人かは発作的に自らの腕や脚を切りつける患者が絶えなかった。そんな場所にはもう戻りたくない。みんな同じ療養服を着せられ、午後六時になると、エントランスと病棟をさえぎる防火壁のような扉が閉まる。あれではまるで収容所だ。戻りたくない。まだ、ここのほうがましだ。

「有田さん、どこに行ったんだい?」

 明日香が老婦人の行き先を知っているとは思えなかった。でも、訊いてみた。

「どっか」

 予想された返事だ。ある意味彼女は期待を裏切らないのかもしれない。

「知らないの?」

「知りたくもないもの」

「芹沢さんは知っているのかな」

「さあ、わたしの知ったことじゃないわ」

 明日香はまだ爪をいじっていた。毎日シャワーを浴びている。垢がたまるはずもない。入所者のなかには、入浴を嫌悪しているのかと思うほど臭う人間もいる。稲村や河東が放っているのが信じられない。

「ひとつ訊いてもいいかな」

「どうぞ」

 いじっているうちに、右の人差し指の爪の先が欠けた。栄養が偏っているのだろうか。知らないわ、あの子たちが育てた野菜なんて食べたくない。

「君は、どうして鳴海さんには好意的なんだ?」

 指の動きが止まる。瞬きも止まる。呼吸も、一瞬ではあるが止まった。

「どういう意味?」

「見てて思ったんだ。さっきもね。鳴海さんがああなってしまって、君があとを追って下りてきた。君のあんな優しい声ははじめて聞いたよ。いまとは別人みたいだ」

「なにが……」

「鳴海さんを見ていれば、誰でも優しくなれるのかな。僕も不思議だよ。あのひとの顔を見ていると、なんだか崖っぷちに立っているような気がしてくる」

「鳴海さんのことが好きなの? 調査員さん」

「まさか、そんな意味じゃない。君はどうなんだ」

「ただ、わたしは、あのひとを放っておけないような、そんな気がするだけよ。あのひと、目を離した隙に、消えてなくなりそうだから」

「なるほど。わかった」

「わかってないわ、たぶん」

「たぶんね。……今度、君も連れて有田さんのお見舞いに行こうか」

「冗談はよして。外になんか出たくないわ」

「鳴海さんもいっしょに連れて行くさ。それならいいだろう」

「やめて」

 口調とは裏腹に、明日香は嘲笑。何を笑ったのか、怜にはわからない。

「いいかげん、もう帰ったら?」

 明日香の声音はいつもの彼女のものだ。鳴海を追って階下に下りてきた彼女とは、まったく別人だ。どこで入れ替わったのか。鳴海の肩を抱いて青ざめていた明日香が、ひょっとすると真実なのだろうか。普段の彼女は虚勢をせいいっぱい張っているのだろうか。けれど怜はそのことを明日香に訊くことができない。いまの明日香は完全装備だ。怜の向ける言葉のすべてを跳ね返そうと、それに躍起になっているように見える。怜は彼女が自分より年下であることを、すっかり忘れて話をしていた。

「帰るさ。帰るよ。きょうは、ひさしぶりに疲れた」

「診察もないのに、こんなところによく来るわ。やっぱり鳴海さんのことが好きなのね」

「そんな感情、残念ながら僕は持ち合わせていないよ。ただ、そう、君と同じさ。放っておけないんだよ」

 あのひまわりを、鳴海はどうしたろうか。それだけでも確かめたかった。

「いま、鳴海さんの部屋に行くのは、まずいんだろうね」

「行こうとしたら、わたしが止めるわ」

「そうか。わかったよ」

 怜はそう言うと腰を浮かせた。たしかにきょうは疲れた。わかった。もう帰ろう。

「あのひとは、あなたなんかに渡さない」

 そう明日香がつぶやいたのを、怜は聞いた。怜の動きが止まった。帰ろうと席を立ち、軽く手をあげ明日香に別れを告げようとした動きが、止まった。

「お疲れさま」

 明日香はもう怜を向こうとしなかった。ふたたび爪をいじりながら、脚をだらしなく放り出していた。

 怜ももうそれ以上彼女と話す気にもならず、ちらりと廊下に目を向け、鳴海の部屋の扉を探す。廊下に並ぶすべての扉は閉ざされていて、等間隔で並ぶ蛍光灯のせいか、距離感が希薄だ。だからどの扉が鳴海の部屋の入り口なのか、怜にはさっぱりわからなかった。

 階下からオルガンが聞こえていた。



   四八、青い花


 ミルクの空き瓶に、きょうは怜の知らない花が活けてあった。青い花だ。葉の緑が濃く、花弁の青が浮き立っていた。ほのかに漂う香りは、怜がいつも使っているシャンプーに似ていた。そう、ちょっと作り物めいた、大げさなほどの香りだ。診察室の窓は閉じていて、エアコンが稼動していた。稲村は白衣の下も長袖だった。怜もまた、長袖だ。仕事の癖はいつまでたっても抜けない。紫外線を恐れているのかというと、<機構>が呼びかけているほどには恐れていない。ただ、起きて外が晴れていると、つい長袖を選んでしまうだけだ。服務規程にそう書いてあったからだ。自分はまだ調査員だ。ただ、休職しているだけ。

「今週から、薬を減らしてみましょう。もう、悪い夢もほとんど見なくなったんでしょう?」

 あいかわらず、稲村は半身のみをこちらに向ける。左手のペンがクリップボードの上で流れるように走る。

「あまり」

 怜は床のうねりを数えていた。タイルに入った亀裂の枝を数えていた。遠くに聞こえるセミの声のような、エアコンの稼動音が耳障りだった。

「まだ見ることがある?」

「いえ、前みたいなことは、もうほとんどないです」

 それは本当だ。全身汗みずくになり、ベッドから跳ね起きるようなこともなくなった。就寝前に処方された薬を水で流し込む。そして、ベッドサイドの灯りを消し、瞼を閉じる。調査員時代は、その日のできごとが早回しでよみがえった。ずぶりと踏み込んだ沼地に脚を取られ、ベッドの中にいるのがわかっていながら、はてしなく自分が沈んでいくような錯覚に陥ったり、廃墟を観測機を抱えて歩き回ったその重さがどっしりと両腕に戻ってきた。眠れない夜とはよく言ったもので、無理に眠ろうとすればするほど、目がさえた。夜が疎ましかった。

「よく眠れているのなら、言うことなしですね」

「そうなんですか」

「少なくとも、顔色がいい」

 顔色。自分の顔をまともに見たことなどない。他人の顔色ばかりが目に付く。稲村の顔色は、蛍光灯のせいだろうか、よくわからなかった。蛍光灯の下では、誰もが死人のような顔色になる。

「稲村先生は、鏡を持っていますか?」

「なんだって?」

「鏡です。顔を見る」

 稲村のペン先がとまった。

「洗面所にありますよ」

「自分では持っていないんですか」

「わたしはね。化粧をするわけでもないから、洗面所にある鏡で十分ですよ」

 稲村は苦笑した。

「そうですか」

 怜はなかば稲村の答えを予想していた。

「でも、どうしてそんなことを訊くんですか? いきなり鏡のことなんて」

 ふたたびペンを走らせ、稲村は視線をクリップボードに戻した。いったいなにを書いているのか、怜にはまったくうかがい知ることができない。小気味よい音をたててペン先は滑っていくのだけれど、怜はその稲村の姿が、受付の女の子とダブってしかたがなかった。

「ここの人たちはみんな、自分の顔を見たことがないみたいだから」

 怜の言葉に稲村はしばし口をつぐんだ。ペンを持った指もはたと止まってしまった。怜は自分の言葉がいささか不用意だったのかもしれないと、もはや投げかけたセリフを回収することができなくなったいま、首筋を二度かくことでその気持ちをごまかした。

 稲村がペンを置いた。ペンはクリップボードの上を転がり、そしてあのミルクの空き瓶に当たり、カツンとかすかな音をたてて止まった。

「ずいぶんあなたは……」

 ペンを置いた稲村は、ゆっくりと瞬きをしてつぶやいた。そして続けた。

「変わった」

 変わった? 誰が変わったというのだ。怜は稲村の言をしっかりと受けとめることができなかった。

「僕が、ですか?」

「ええ。四ヶ月前、はじめてここに来たときとはずいぶん違う。いい意味でね」

 四ヶ月。医師に言われ、怜は気づいた。季節が移ろったのは知っている。けれど、四ヶ月という時間が流れていたことには気がつかないでいた。暦が日一日とめくられていくことを、時計の針がけっして止まることなく時を刻み続けていたことを、怜は危うく忘れるところだった。

「夏がきてしまった」

 医師はつづける。まるでモノローグのように。

「けれどときどき思うんです。こんなに春と夏の区別があいまいだったかとね。春は春、夏は夏、きっちりと分けられていたのではないけれど、それなりに区別があったような気がする。どうです、白石さん。環境調査員のあなたなら、なぜわたしがそう思うのか、説明できるんじゃないですか?」

「説明もなにも。春が昔よりも早くきて、夏が昔より強烈になっただけですよ。緯度が、ちょうど十度は低くなった計算です」

「あなたは昔の気候を知らないから」

 稲村は席を立った。席を立ち、怜の横を過ぎて入り口に向かった。出て行くのかと怜は思ったが、稲村はドアの横、壁に埋め込まれたパネルのボタンをいくつか叩いただけだった。

「エアコンを止めてみましたよ。白石さん、気象通報は聞いてきましたか? きょうの最高気温は何度です?」

「さあ……知りません」

「外気温計はもう三一度を指してる。十一時前だというのにね。湿度は、ああ、八七パーセント。このあたりは海からの湿気がひどいんです。どうです、来るとき暑くはなかったですか?」

「暑かったですよ。でもここは風が吹くから」

「風か。窓を開けてみましょうか」

 稲村は言うが早いか窓を開け放ち、腕を組んで外を向いていた。開け放った窓からは、樹の匂いがした。怜はあの外出の日の、ひまわりの丘を思い出す。

「エアコンを止めれば、こうだ。暑い。ずいぶんわがままだと思いませんか」

「なにがです」

「わたしたちがです。勝手気ままに暮らしたあげく、こんな世界にしてしまった。わかっています。じき、ここは海の底に沈みます。三年後か、五年後か。そう遠くはない時期にね。そしてみんなバラバラになる。わたしもきっとどこかに転勤だ。<機構>の人間ではないから、いったいどこに赴任させられるか、皆目見当もつかない。友人がひとり、オハの海上プラットホームで医師をやってる。ひとりで一五〇人の作業員の面倒を見ているんだそうです。知っていますか、海上プラットホーム」

「メタンハイドレートの採掘基地でしょう。うちの簡易測候所がありますよ。メタンは温室効果のバロメーターですから」

「三六○度が海だ。けれど一日プラットホームの中にいると、いまが昼なのか夜なのか、わからなくなると友人はぼやいてましたよ。そんなところにでも赴任したら、わたしが彼の患者になってしまう」

 稲村の白衣が風をはらんで舞っていた。エアコンよりよほど心地いい。

「先生も電話を使うことがあるんですか」

「どうしてです」

「その、プラットホームのお友達とは電話でやりとりをしているんじゃないんですか?」

「それこそ<機構>の人間でもないのに、専用回線をもっているはずがないじゃないですか。手紙ですよ。時代は変わっても、郵政公社は優秀なんです」

「僕は一応<機構>の人間だけれど、電話は持っていなかった」

「呼び出しはどうしていたんですか?」

「個人携帯用の端末があるんです。単に<ターミナル>って呼ばれてましたけど。見たことないですか。リアルタイムの音声通話はできないけれど、文字のやりとりはできる」

「知りませんね」

「休職してからこっち、電源を入れたことがないんですけどね。持ち歩いたこともない」

「嫌いなんですか」

「拘束されるのは」

「なるほど」

 医師は振り向いて、一、二度うなずいた。それがなにを意味しているのか、なににたいしてうなづいたのか、怜には読みとれなかった。稲村はそのまま診察台に腰かけた。ピンと張ったシーツに幾本ものしわが寄るのを、怜は何気に数えていた。

「暑くないですか」

「暑いですね」

「それが、わたしはあんがい暑くない。体機能障害でしょうかね」

「体質じゃないですか。僕は暑すぎるのも寒すぎるのも嫌いです。<団地>なんかに住んでしまったからかな」

「みんながうらやましがるんじゃないですか? その歳で<団地>住まいなんて」

「僕が<機構>の人間だからですか。でもきっと、稲村先生が思っているほど、<機構>は選民思想を持っていないと思いますよ」

「けれど、わたしの知り合いで<団地>に住んでいる人間はあなた以外にいない」

「外に、お知り合いがいるんですか」

 言外に驚嘆を露にした怜に、稲村は首を軽くかしげて微笑んだ。

「しばらく会ってはいませんけどね。わたしもここの住人だ」

「すみません」

「どうして謝るんです。謝る必要などない。けれど、きっとあなたから見れば、わたしもここの入院患者と同じなんでしょう? 違いますか」

 微笑を浮かべたままの稲村に、怜は無抵抗にうなずくところだった。たしかにそう思っていた。

「そうです。わたしも、もう気がつけばここに入院している人たち、綾瀬さんや芹沢さんたちと同じ、すっかりもとの世界へは戻れない人間になってしまったのだと思う。戻りたいとも思わなくなってしまいました。ときどきここを出て、旧市街のすぐそばまで散歩に出かけます。この話はしたことがありますよね」

 怜はうなずく。

「けれど、帰ってきてしまう。街の手前でね。すぐそばまで出かけても、街に入って買い物を、なんて気は起こらなくなってしまった。まして、街の人間となにか話をするなんてね。おかしなものです」

「僕も街の人間です」

「その前に、あなたはわたしの『患者』だ。わたしはそう見てしまう。だからあなたとはこうして話しができる」

 怜は居住まいを正した。というより、ベッドに腰かけた稲村に身体を向けただけだ。椅子がきしんだ。耳障りな音。

「けれどだんだんあなたと話がしづらくなってきたのもまた、事実だ。どこかね、噛み合わない。もうわたしたちは医師と患者の関係ではない」

「じゃあ、どんな関係だっていうんです?」

「一療養施設のカウンセラーと、統合社会管制機構の環境調査員、とでも言えばいいのかな。少なくともわたしにはそう思える」

「どういう意味です」

 回りくどい稲村の物言いが、きょうの怜には少々居心地が悪かった。

「あと、三回。きょうを入れれば、あと四回で、つまり今月いっぱいで、あなたの診察は終了します。それが言いたかった」

「終了?」

「通院は、終わりです。あなたはもう、復職しても大丈夫だ。でもまだ様子を見なければならない。そのための通院です。あなたには言っていなかったが、ここ二週間、あなたに処方していた薬の濃度をね、半分に減らしていたんです。それでも悪い夢も見なくなったのだという。もちろん、回復期の患者さんにこんなことを言っては逆効果のこともあります。でもあなたには本当のことを告げても、もう大丈夫だ。あなたはすっかり、街の人間の顔に戻っていますよ。それこそ、鏡を見てみてください」

 診察室のドアは開け放ったままだ。そうしないと退室するたびに稲村に呼び止められ、ドアを開放するように指示される。だから窓から吹き込む風が、そのまま廊下へ抜けていく。頬を額をなでつける空気が、たしかに暑い。

「治った、っていうことですか」

「端的に言えば。けれど白石さん。いまだから言うが、あなたがはじめてここの椅子に座り、わたしと対面したときも、わたしはあなたのどこが悪いのか正直よくわからなかった。ひどく重症のようにも見えたけれど、どこも悪くないように見えた。紹介状を読んでも、まだあなたが<病>に冒されているなんてね、思えなかったんです。たしかに検査の結果だけを追えば、あなたは正常値を逸脱していた。それも著しくね。わたしはマニュアルにしたがって処方箋を書いていただけだ。いつかあなたに言ったこと、そう、あなたが<機構>の人間だと知って、<機構>が意図的に送りこんできた調査員じゃないかと疑ったことがあった。それは、あなたはどこからどう見ても、わたしが知っている街の人間そのままの顔をしていたからだ。まあ、裏を返せば、街の人間は全員、もちろん<機構>の人間も含めてね、全員がもう正常ではないことの証だったのかもしれないが、もしかりに街の人間全員が正常でないのだとしたら、もはやわたしたち<施設>の人間が正常なのではなくて、もうこの世の中の人間全員が正常じゃないということになる。もしそうなら、わたしにはお手上げだ。

 白石さん。あなたは環境調査員だ。あなたはこの世の中が変わっていく風景を最前線で見つめてきた。綾瀬さんが『見える』という『終わり』を、あなたはその目で実際に見てきた。『終わり』ではなくて、『終わった』風景を。そうですよね」

 怜はただうなずく。

「わたしはね、綾瀬さんや西さん、それにあなたを特別おかしいとは思わない。むしろ正常だ。旺盛すぎる想像力が生み出した副作用だ。わたしから見れば、あなたや綾瀬さんを異常だと決めつけた『向こう側』の人間たちがよほど異常だ。すべてに終わりが来ることを、みんな忘れている。気づかないふりをしている。ええ、なにごとも、すべて、いいことも悪いことも、みんな終わりがあるんだってね。そうですよね」

 稲村はベッドに腰かけたまま、しかし彼の意識がしだいに熱を帯びはじめているのがわかった。怜は思った。これは、氷に不意に触れてしまったとき、一瞬指先が熱さを感じてしまうのに似ていると。ある一定以上の温度に触れたとき、人はそれが熱いのか冷たいのか、瞬間的には理解できない。

「『向こう側』?」

「『終わり』がくることを認めたくない人たち。そう言えばいいのでしょうか。有り体に言えばね」

 夏の風が空き瓶の名前もわからない花を揺らしていた。それがかつてこの街の初夏を彩った花であることを、怜は知らなかった。もはや盛夏と呼べるこの季節に、デスクの上の空き瓶の中で、失われた季節の断片が無造作に放り込まれていることなど、気づかなかった。

「僕はただ」

 揺れる小ぶりな房をながめ、怜はつぶやいた。そうしないと稲村の熱い冷気が花を枯らしてしまうように思えたからだ。

「『終わり』を、ただ終わっていく風景を見ていただけだ。鳴海さんのようにまだ終わってもいないものを見て、その……『終わり』の姿が見えるなんてことはなかった」

 言って自分の言葉がひどく回りくどくわかりづらいものであると、壁にぶち当たって戻ってきたセリフを聞き、感じた。稲村の耳には届いただろうか。

「あなたはたとえば水没していく街や海岸線を歩いて、それを『終わっていく風景』だと思った。では訊きましょう。あなたの同僚で、あなたの知り合いで、そういった風景を見て、『終わっていく風景だ』と感想を漏らした人がいましたか」

 レーションをまだ口に残し、<ターミナル>片手に泥の路地を歩いていた同僚の姿を思い出す。彼はなにも感じていなかったのだろうか。怜と同じく、この街に住み、三ヶ月ごとに書き換えられる地図をクリップボードにはさんで、食欲もない胃を満たすだけのレーションをかじっていた彼は。

「そんな質問、したことがない」

「質問はしなくても、あなたは訊いた。だから、あなたは同僚に『感受性が豊か過ぎるんだ』とからかわれたことがあったんじゃなかったですか」

 稲村はカルテも見ずにさらりと言ってのけた。よく憶えている。流行り病に冒されたと、奇妙な熱にうなされてつい目の前のカウンセラーにこぼした熱のかけらを、当の本人はすっかり忘れていたのに、ベッドに腰かけ涼しげな顔をして掘り起こす。

「あなたは、『終わり』を自覚していた。すべてに『終わり』があることに気づいた。それだけでも十分です。あなたと綾瀬さんが決定的にちがうことはね、あの子は『終わり』を『見て』しまうだけだが、あなたは『終わり』を受け入れているってことだ」

「そうですか?」

「最初ここに来たときは違った。まだあなたは『終わり』がくることに納得していなかった。そんな顔をしていた。けれどいまは少し違うようです。あなたはある程度納得している。すべてに『終わり』があるんだってね」

 怜はずっと考えていた。遠くから聞こえる稲村の声を感じながら、デスクの上で揺れる青い、いや、紫がかったこの花の名前をだ。見たことがない、それは間違いだ。僕はこの花を知っている。ただ、こんな季節に咲いているから、場違いだから、僕の記憶のページがおかしなところで欠落してしまったんだ。

 Lilac。

 思い出した。しかも怜は花の名を英文で読みあげていた。

「おや、この花の名前ですね。きれいでしょう。子どもたちが上で栽培しているんですよ」

「こんな季節の花じゃないはずです」

「水耕栽培ですよ。子どもたちは植物を育てるのが上手なんだ。あなたもここの野菜は食べたでしょう。おいしくなかったですか」

 怜は応えなかった。そして、いま怜は、明日香がなぜ子どもたちを嫌っているのか、わかる気がした。『終わり』が来ることを知りすぎるのもよくない。なるほど、あきらめだ。<施設>に通うようになった最初のころ、入所者たちに諦観の色を見たのは、間違いではなかった。みんな、あきらめている。子どもたちですら、あきらめている。だから『終わって』しまった世界を、自分たちの手のひらの中で作り出し、それを愛でている。そこに思い至って、怜はぞっとした。稲村が『向こう側』と呼ぶ街の人たち、つまるところ<機構>がやっていることと目の前で揺れるライラックは、同じだ。『終わり』を認めたくなくてしきりにもがき、風車をあちこちに建てひまわりを植え付けることと、『終わり』を認め、あきらめを土のない畑にまき、ライラックやトマトを育てることと、どう違うのだろう。

「僕は、本当に変わったんですか。病気は、本当に治りかけているんですか」

 稲村を見ず、空き瓶のライラックの花弁を数えながら、窓の外で葉がざわめくのを聞きながら、怜は訊いた。

「もともと、あなたは病気じゃないんです。眠れない、不安だ、恐ろしい夢を見る。そんなものは病気じゃない、はるか昔から人間が罹ってきた軽い風邪のようなものだ。いずれ治る。きちんと療養すればね。あなたは自分が風邪をひいたことに驚いたんだ。ひとは病気になると、弱くなる。心がね。関係のないことまで、全部病気のせいにする。いまの時代、それが強烈なだけです。みんな、病気に驚いて、すべてをその軽い風邪のせいにしたがっている。それだけの話だ。あなたの風邪はもう治っている。どこかおかしい、そう感じるのは、風邪が治ったからだ。熱にうなされることもなくなったから、ものごとがすべてくっきりと見えるようになったんですよ」

「じゃあ、鳴海さんや西さんは、風邪が治っていないんですか」

「それも、少し違う。治っていないわけじゃない。治そうとしていなんだ。あの子たちはね。熱が引いてしまうと、悪い夢を見ても熱のせいにできなくなる。見えないものが見える、聞こえない音が聞こえる。そんなことも、風邪を引いていれば、『熱にうなされた』、この一言で済まされるから」

 怜はそっと、汗をぬぐうふりをして、手の甲を額にあててみた。予想外に冷たかった。気化熱だ。蒸発する水分は気化するさいに体温を奪っていく。熱は冷めた。本当に? ただ、下がらない熱を布団の中で毒づきながら、額に浮いた汗をふらつきながらぬぐっただけではないのか? 目を回しながら。だから怜はこんどは手のひらをあてた。

 手のひらは、熱かった。

「暑いですか。エアコンを入れましょうか」

「大丈夫です」

「本当に」

「ええ。ただ、僕は熱が下がったのかどうか、……確かめたかっただけで」

 すると稲村は微笑んだ。大丈夫、もう心配いりませんよ。熱も下がったし、あときょうと明日ゆっくり休めば、来週から学校に行けますよ。小さい頃、『本物』の風邪に罹って訪れた医院で、母親の横に座って見た初老の医師の笑顔と稲村が重なった。

「大丈夫。もう心配いりませんよ。もう少し休めば、仕事に戻れます。戻りたいと思えばね」

 怜ははっとして稲村を向いた。彼はただ穏やかな笑みを浮かべて、診察台に腰かけたままだった。

「もっとも、わたしはカウンセラーだ。残念ながら内科医じゃないんでね、あなたの熱が下がったのかどうか、本当のところはわからないんですよ」

 稲村は声をたてて笑った。低く、肩を揺らして。

 診察は終わった。稲村はデスクに戻り、処方箋を書いた。あいかわらずなにを書いてあるのかさっぱりわからない彼の字で。<機構>の管理下にあってもなくても、いまどき手がきの処方箋だ。怜は立ち上がり、一礼。開け放ったドア、開け放った窓。吹きぬける空気、揺れるライラック。<施設>に抱くイメージはいまもかわらない。ここでは、時間が止められている。意思を持った誰かに。

 熱は下がった、か。

 怜は身を翻し、診察室を出ようとした。が、稲村に一言、質問があった。ずっと用意していた質問だ。自分についてではなく、他人について。

「鳴海さんは、元気にしてますか」

 すると何事かペンを持ち書きものをしていた稲村は顔を上げ、怜を向いた。さきほど見せた笑顔はなかった。

「あなたと出かけた海のことを、このあいだ話してくれました」

「なにか、言ってましたか」

「楽しかった、と」

 左利きの医師はゆっくりと瞬きを繰り返す。ライラックの香りが漂っていた。こんなにも香りの強い花なのだろうか。

「そうですか。あの人、そう言ってくれましたか」

「驚きましたよ。……なにがそう言わせたのか知りませんが、わたしは綾瀬さんの口から『楽しかった』なんて言葉を聞くことになるとは、正直思っていなかった。意外でした」

「二階にいるんですか」

「おそらく。有田さんが出て行ってから、あの子はずっと部屋にこもったきり、出てきませんよ」

 そう言えば。ずっと気になっていたことがもうひとつ。あの老婦人はどこへ行ってしまったのか。どこに収容されたのか。息災か。

「有田さんは、いま、どこに?」

「もっと医療設備のととのった、街の病院です。あの人の場合、心じゃない、身体が問題になってしまったから」

「そんなに悪かったんですか」

「年齢が年齢だ。大事をとってね。あなたが心配するほどに悪くはない。けれど楽観的になれるほどに良好でもない。そんな具合です」

「ここへは、戻ってこられるんですか」

「もうここを離れるあなたが気にすることじゃない。そう言うと少し冷たいかな。ええ、おそらくもう、ここへ戻ってくることはないでしょう」

「会えますか」

「あなたが?」

「僕以外の誰が?」

「……、会えますよ、たぶんね。面会謝絶だとは聞いてない。病院といっても、ここより多少設備がましなだけで、やはり療養施設のようなところに入ったんです。会おうと思えば会えるでしょう。あなたに会おうとする気持ちがあって、そして有田さんもあなたに会ってもかまわないと思えばね」

「会ってはくれませんか」

「それは、わたしに訊かれても困る。わたしは有田さんでも、有田さんの主治医でもない」

「だったら、河東先生に訊けばわかるんでしょうか。僕は話したことはないが、河東先生は有田さんのカウンセラーだったんでしょう」

 言うと稲村は大きくうなずいた。

「けれど、いまは違う。もう有田さんはここの入所者ではなくなったんですよ」

「では」

 怜は稲村と正対した。

「僕が訪ねて行っても、とりわけ問題はないってことですよね」

「あちらがいいと言えばね。ま、あなたは<機構>の人間だ。発電所の事故の後遺症を調べているとでも言えば、フリーパスだ。きっとね」

 きょうの稲村はひどくシニカルな物言いをする。まるで、明日香だ。

「お見舞いに行くなら、よろしく言ってください。有田さんはもう、わたしのことなど忘れてしまったかも知れないがね」

 稲村はそれだけ言うと、もとどおり視線をデスクに戻し、それっきり怜を向こうとはしなかった。ペンが滑る音が外から流れ込む葉のざわめきに負けていなかった。怜は踵を返し、そして診察室を出た。

 廊下がいやにひんやりとしていた。あたりまえだ、エアコンが効いている。


 待合室で煙草を喫った。<施設>の空調は、なかでもエアコンは大げさすぎる。少し効きすぎなのだ。電力はあんがい潤沢なのかもしれない。やはり<施設>のガラスというガラス、外壁という外壁はすべて光発電パネルだと考えるしかない。ぼんやりと煙草をはさんだ指を眺めながら、怜はそんなことを考えていた。彼をとりまく時間の流れは、いままた流れはじめていた。環境調査員を休職し、淀みにはまったつもりでいたのに、ひそかに時間は流れ続けていた。だから稲村は治療の終了を予告したのだ。

 徐々にフィルターへと近づく火を意識することもなく、怜は電車を待っていた。正確には、待つふりをしていた。彼が待っているのは、帰りの電車ではなかった。彼女だ。

 あの外出以来、怜は<施設>を訪れなかった。そもそも診察以外で病院を訪れる患者など、見舞い客をのぞいてはいるはずもない。しかも自分は正真正銘医療保険の適応を受けた患者だ。患者が用もないのに病院に訪れるなど聞いたこともない。ようするに目的がなかった。だから来なかった。あの外出は、いわば見舞いだった。鳴海を見舞いに来たのだ。回復を願って<施設>を連れ出したのに、結果、怜は鳴海の錯乱を二度見ることになってしまった。自分に原因があるのだろうか。帰り道、助手席に一片のひまわりの花びらを見つけて、怜は考えた。白昼夢を見、涙をためていた鳴海の横顔や、橋からひまわりを投じた彼女の背中を思い出しながら。怜は何人もの彼女を知っていた。鳴海はひとりだけではない。彼女は彼女の中に何人もの鳴海を囲っている。その一人一人が彼女の感情であり、舞台が暗転する間もなく役者は入れ替わる。あまりに唐突に。

 怜自身も自分の中に何人かの白石怜がいることを知っている。けれど全員はつながっている。役者が交代するときも、観客に気づかれないよう、慎重に巧妙に表情を変える。しかし鳴海の場合は違う。それぞれの彼女たちはつながっていない。入れ物だけが同じで、内側に湛えられた限りなく液体に近い彼女は、唐突に表情を変えてしまう。結晶化できない、やわでもろい存在だ。

 煙草をはさんだ指が熱い。火はフィルターを焦がしていた。あわてて灰皿に押しつけ、消した。エアコンが稼動しているから、煙の層もできやしない。

 怜は待っていた。

 鳴海が一階に下りてくるのを。

 怜はもう、二階への階段を上れなかった。稲村に治療の終了を予告されたからではない。もう怜はわかっていた。結局自分は<施設>の人間ではないのだということ。エントランスから待合室、廊下を経て診察室まで、そこまでが外の人間に立ち入ることの許された空間なのだ。階段に一段脚をのせた瞬間から、怜は完全な客人になる。そう、二階は彼女たちの世界だ。それは入所者たちがほとんど一階へ下りてこないことからもわかる。怜がいま腰かけている談話室の長椅子の、その数メートル頭上に広がっている彼女たちの世界を、遠く感じていた。

 ひとつのストーリーが終わろうとしていた。鳴海が感じる『終わり』でもない。怜が見てきた『終わった世界』でもなかった。ひどく限定されたひとつの流れが、フェイド・アウトしようとしているのだ。やがて怜はそのストーリーから切り離される。あたかも春からこちら過ごしてきた日々が、物語本編とは無縁の、短い閑話休題の数ページであったかのように。そのことを怜は確信を持って実感していた。

 インターミッションに登場した人物たちは、本編には登場しない。環境調査員として復職した自分が、いったいいつどこでここの入所者たちと出会う機会があるというのだろうか。

 あと、数週間。

 そこでぷっつりと、彼女たちとの関係は永遠に途切れるだろう。それは間違いない。

 だから怜は待っていた。

 彼女を。


 彼が来ることは知っていた。たまたまカウンセリングが自分と同じ曜日なのだ。しかも、彼の次の診察が自分だ。何度か待合室で顔をあわせたのは、寄る辺ない気分で自室を出、談話室にもいられず階段を下り、カウンセリングまでの時間を古ぼけた長椅子に腰かけて過ごそうと思ったからだ。

 彼がはじめてここを訪れた日のことは憶えている。灰皿を前に思案している風だった。自分がまだ外にいたころ、すでに喫煙は犯罪行為に等しく叫ばれ、喫煙者は同情と軽蔑と糾弾と、いろいろな感情がないまぜになった目で見られていたから、怜が灰皿を前にしてライターに点火しなかった理由もわかる。だから、言ってみた。

 喫わないんですか。

 気配を消していたつもりはなかった。それにしてもあのときの怜の驚きようはなかった。まるでいたずらを見つかった子どものようだった。せかされるように火を点けた煙草をはさむ指は、父のそれよりも長く細かった。

 怜がなぜあの日待合室にいたのか、初対面ではわかるはずもない。よもや外来の患者だとは思わなかった。思いもしなかった。とはいえ見舞い客にも見えなかった。ここに誰かの見舞いに来る奇特な人間はめったにいない。彼がそのめったな客人なのかとも思ったが、自分には関係ないと思った。なにより怜の顔に見覚えがなかったから、自分とはまったく関係のない人物であることはすぐにわかったが、彼がいったいなにをしに<施設>にやってきたのかがわからなかった。

 後日明日香は怜を指して門外漢呼ばわりをしていたが、鳴海はあの日はじめて出会った怜を、即座に街の人間とも思わなかった。もちろん<施設>の人間だとも思わなかった。彼はどこの誰にも見えなかった。あんがい稲村に新しい入所者だと紹介されても納得したかもしれないし、ただの見舞い客だと紹介されてもうなずいたかもしれない。初対面の怜はつかみどころのない人間だった。

 暑い。

 ここ数日、とうとう<施設>のエアコン使用制限が解除された。数年来の猛暑だと、明日香は言っていた。今年の夏は暑いよ。うんざりね。彼女は暑い夏が嫌いだ。談話室でクラッシュ・アイス山盛りの氷水を飲み続ける真琴の姿を、明日香は恨めしげな顔をして眺めている。明日香は素直に夏の暑さが苦手だと告白できないのだ。わたしにも冷たい水を頂戴と、真琴に催促できない人間なのだ。夜中窓を開け放っていると、数部屋隔てた明日香の窓から、低く気象通報が流れてくる。誰も文句を言わないのは、希少なラジオを明日香が持っているからだ。外に出ることがなくても、入所者たちは明日の天気が気になる。その気象通報も、四日前から聞こえなくなった。エアコンの使用制限が解除されたから、明日香は窓を閉めきって、ひとり冷蔵庫にこもりラジオを聞くようになったからだ。昼間は談話室に出て行くが、真琴とふたりで建てている家も、しばらく工事はストップしたままらしい。

 <施設>の空調装置は、たとえば怜が住んでいる<団地>の設備よりは数段劣っているにちがいない。それくらいの予想は外の世界にうとい鳴海にも想像がつく。要はサーモスタットが旧式なせいで、きめ細かな温度調節ができないから、ある設定温度を保とうとするエアコンは、勢いあまって過度な冷却を提供してくるのだ。だからこの部屋は寒い。

 鳴海は汗をかくのが嫌いだ。身体がべたつくし、何より自分の匂いが嫌いだ。無味無臭の典型の<施設>に暮らしていると、嫌でも匂いに敏感になる。食事の匂い、洗面所の匂い、廊下の匂い、エアコンのダクトからもれてくる独特の匂い、シーツに転がったときの匂い、明日香の匂い、真琴の匂い、稲村の匂い、怜の匂い、樹の葉の匂い、風の匂い、夏の匂い、海の匂い。

 不意に談話室の匂いが戻ってくる。かすかな薬品の匂いにまじって、長く閉ざされた空間がもつ独特の匂いが。壁や床や天井や、ありとあらゆる塗りこめられた感情がすべて、そこにいる人間を包みこむ。黒い長椅子、壁の水彩、油彩、受付の蛍光灯、中庭へ通じる掃き出し窓、脚の長い灰皿、そして煙草の匂いだ。

 部屋を出た。

 天井から低く空調の音が響くだけで、廊下も談話室も静かだった。磨き上げられた床がきょうも水面のようで、一歩踏み出したとき、廊下に本当に波紋が広がるのではないかと、鳴海は一瞬動きをとめた。

 朝食が済んだ談話室には、あの読書青年がひとり窓際でページをめくっているだけだった。彼が誰かと話をしているのを見たことがない。真琴も明日香も見たことがないという。不思議な人物だった。年齢もわからない。つややかな頬は少年にも見える。細めた目は老人にも見える。けれど彼もまた、<施設>の水に染まった人間だ。もう、街へは出られないにちがいない。

 読書青年が一定のペースでページを繰る音と、エアコンの稼動音、それ以外に何も聞こえない。<施設>は彼以上に不思議だ。廊下にならぶドアからは、部屋の中の息遣いがまったく伝わってこない。人の気配を感じない。だから鳴海はときどき、ここにたった一人で住んでいるように思えてしかたがないときがある。

 談話室の前で鳴海は思案していた。階下からも物音がしない。きょうはオルガンも聞こえない。風力発電のプロペラも止まっているのか、風切り音も聞こえない。耳の底から湧き上がる金属音、それとエアコンの稼動音。鳴海は自分が巨大なダクトの中に閉じ込められて、吹き抜ける匂いのしない風に追い立てられる姿をイメージする。それがあんがいぴたりとはまり、背筋を寒気が駆け抜ける。目を強く閉じて、奇妙なイメージを振り払う。

 そして見えたのは、黄色い花だった。

 ひまわりだ。

 けれど風車は見えなかった。青かった空も見えかなった。一面のひまわり畑は意識のかなたでうずくまっていた。だから見えたのは、一輪のひまわりだけ。水面を流れていくひまわりだけ。

 別れを告げたつもりはなかった。もし手折ったひまわり一輪を川の流れに投じたとして、それが誰に、何に対する別れなのだというのだろう。鳴海はわからなかった。しかし鳴海はあのとき、たしかに別れを告げた。あのひまわりを持っては、<施設>へは帰れないとも思っていた。

 橋の上から、ただ流れていくひまわりを目で追った。そしてしばらくは振り向かなかったつもりだった。自分ではずいぶんと長い時間を数えていた。じゅうぶんに待ってから、言った。行きましょう、と。

 目を開き、顔を上げれば、そこはいつもの談話室だ。いやに白っぽい壁が目について、しかもそれがひどくまぶしい。鳴海の瞳は露出がオーバー気味。多すぎる光の中で、鳴海はテーブルのひとつに目をやった。忘れよう、考えないでいようと思っても、ここ二繰れば嫌でも思い出してしまう。ひとつの、終わってしまった、記憶。

 老婦人は行ってしまった。ここを出て行ってしまった。ろくに話をすることもできず、ずいぶん長いあいだいっしょに住んでいたはずなのに、自分は老婦人のことをなにも知らない。ときおり交わす言葉は電報のやりとりのようで、味気がなかった。それでも怜が現れてから、怜について交わした言葉は鳴海の中に残っていた。老婦人が言っていた、鏡の話だ。それは、おそらく怜と持つ共通の「老婦人の記憶」だ。老婦人は怜とも鏡の話をしたという。けれど老婦人は、鏡の向こうへ行ってしまった。

 また、残されてしまった。

 鳴海の意識に響き渡るのは、がらんと誰もいなくなった部屋でひとり聞く、ドアの閉まる音だ。椅子にはみんなの温もりが残っている。ついさっきまでの話し声が、まだ部屋には残っている。そう、記憶の残響。サイドテーブルに載っているのは、あれは灰皿だ。つぶれたフィルターから、うっすらとまだ煙が立ち昇っていて、鳴海は頬杖をついたまま、煙の軌跡を追う。振り向かないで、みんなが行ってしまったドアはけっして探さないで。

 おなじみの妄想だった。妄想の中で、いつだってわたしはひとり、部屋に残されている。長椅子に取り残されたぬいぐるみを抱き上げる。斜光が部屋の奥まで届いていて、誰かが残した煙草の煙がたなびいていた。ぬいぐるみの顔をのぞきこむと、斜光を受けたイミテーションの瞳はまるで、潤んでいるように見えた。ぎゅっと抱きしめたくなる衝動を抑えながら、鳴海はこの妄想が実体験だったのか、それとも純粋に自分がつむぎ出した架空の悪夢のか、探っていた。

 ぬいぐるみは暖かかった。誰かが抱きしめていたぬくもりがそのまま残っていた。懐かしい匂いがした。知っている匂いだ。自分の匂いではない、自分に近しい誰かの匂いだ。表情などあるはずもないのに、鳴海はぬいぐるみがひどく寂しそうな顔をしていることに気づいた。君も、わたしと、同じね。

 だめだ、あふれる。

 こぼれそうになる涙は、彼らのあとを追わないかわりに、とどめることなく流すことにした。ぬいぐるみのつぶらな瞳が、まっすぐに鳴海を向いていた。そして問いかける。

(なぜ、泣くんだい?)

 鳴海はそれに答えない。理由を説明できない。だから返事のかわりにぬいぐるみを抱きしめる。君を抱いてくれる人間は、もうここにはいないから。わたし以外、もう誰もここにはいないから。

 魂など宿っているはずもないぬいぐるみを、鳴海は手放すことができない。彼女の手をはなれた瞬間、ぬいぐるみもまたこの部屋を出て行ってしまうような気がしていた。鳴海ではない、ほかの誰かに抱かれていた記憶を胸に、いつしか朽ち果てていくその姿が、ありありと目に浮かび、鳴海は流れる理由もない涙を止めることができなかった。

「ああ」

 ふと聞こえた自分の肉声に驚く。

 ここは、どこ?

 空調の音、まぶしすぎる陽射し、真っ白い壁、テーブルと椅子、窓、中庭……談話室。

「あ、」

 現実と妄想が交錯し、ふたつの世界をつなぐものは、頬を伝う涙だけ。鳴海は談話室の椅子に腰かけ、出て行った老婦人を意識の向こうに追いかけていたことに気づいた。もう、会えないかもしれない彼女のことを、追っていた。

 テーブルに突っ伏した。天板はいやにひんやりとしていて、気づかないうちに火照っていた頬に心地よかった。

「白石さん……」

 無意識につぶやいた名前に、ひょっとするとさほどの意味はなかったのかもしれない。けれどそれが合図だったかのように、鳴海は席を立った。頭の上で低く空調が鳴っていた。彼と見た海の、あの潮騒とは似ても似つかない、かすかに耳障りな作動音だ。

 鳴海は談話室を出た。階段室にまっすぐ。そこには小さな窓がある。そこからは中庭ではなく、エントランス外の車寄せが見下ろせた。あの日、明日香が鳴海を見送った場所だ。

 窓ガラスにそっと両手をついた。そして、頬を寄せるように外を見た。

 並ぶ送電塔、防風林、セイタカアワダチソウが繁る荒地と、ひびだらけのアスファルト、ポンプ施設と傾いた電柱。あの防風林の向こう側に港湾道路が走っていて、そこに電停がある。鳴海の視線は防風林から<施設>へと、彼の足跡をたどる。怜を、探す。

 時刻を考えれば、もう彼は<施設>をあとにしているにちがいない。電車の時間は知らないが、談話室に上がってこなかったのだから、もう建物からは出て行ったにちがいない。だから鳴海はアスファルトの道を帰途につく怜の後姿を探していた。そしてほどなく、彼の背中が防風林沿いの道へ左折するところを見つけた。長身、痩身、間違いなく、怜だ。

「白石さん……」

 帰っていく怜の後姿は、あの妄想の部屋を思い起こさせた。あのぬいぐるみがある部屋を出た怜は、きっとこんな風にして家へ帰っていくのだ。彼の場所へと。

 あの斜光の寂しい部屋の風景がまた鮮明によみがえってきたが、涙が出なかった。そして鳴海はその理由がわかった。

 続いているのだ。

 あの妄想の部屋の外には、なにもない。なにもないのだ。部屋の中だけが鳴海の世界であって、その外側と内側はつながってはいない。だから、いくらあの部屋の窓から外をのぞいてみたところで、ドアの向こうを去っていく人影を見つけることはできない。そもそも窓の外など見ることができないし、のぞこうと思ったこともなかった。しかしいまは違う。<施設>をあとにし、電停へ向かう怜の姿を追うことができる。<施設>の外もまた、世界は続いているのだ。ひまわりの丘も、海も、川も、街もみな、鳴海が見を置く世界と同じ、つながった共通の世界なのだから。

 そこまで思いいたってはっとした。わたしは、彼と同じ世界に住んでいる。遠ざかっていく怜は自分の部屋に帰るだけだ。別な世界へ帰っていくわけではない。しかし頭ではわかっているそのことが、まだ鳴海は呑み込めずにいた。両手の指をガラスに突き立てるようにして、鳴海は怜を追った。ワイヤー入りの強化ガラスがもどかしかった。

 怜は一度も振り返らず、角を曲がって防風林沿いの道を進んでいく。きょうは風車は回っていないのだろうか。風切り音が聞こえない。もし風が吹けば、彼は振り向いてくれるだろうか。わたしの世界を。

 けれど怜は振り返らなかった。まっすぐ、ときおり背の高い影に見え隠れして、そのまま防風林の向こうへ行ってしまった。帰って行ってしまった。

 鳴海は壁にもたれて、それでもしばらく防風林と港湾道路が交差する角をながめていた。長い時間ながめていたから、雲の形が変わっていく様もよくわかった。青空はわずかにくすんでいて、自分の色鉛筆ではけっして描くことのできない、夏の色に染まっていた。

 頬に感じるガラスが、ほのかに暖かかった。夏の体温を、鳴海は感じていた。


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