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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   四五、ビスケット


 グラスを持った手が痛いほど冷たい。真琴のレモネードと、自分の氷水。こぼさないよう、静かに。談話室が明るい。窓は西を向いている。陽が傾きはじめたのだ。午後のお茶ならぬ、奇妙なドリンク・バーだ。イングリッシュ・アイビー越しに、真琴の頭がちらちらと見える。お待たせ、とでも声をかけようか、そう思ったとき、真琴の差し向かいに新たな客がいることに気づいた。

 子どもたちだ。

 <施設>では入所者たちのあいだで暗黙の境界が引かれていると思う。たとえば、老婦人たち古株の入所者たち、明日香たちの若年層、そして、子どもたち。大まかにわければこの三つ。例外はあるが、たいてい世代間の交流はない。

 指先のしびれるような冷たさが、やがて明日香の全身に伝播する。胸の奥まで。

 真琴は例外だ。子どもたちに慕われている。少なくとも明日香にはそう見える。慕っているのでなければ、子どもたちのほうから談話室にやってくることなどない。オルガンの伴奏でもねだっているのか、はたして彼らにそんな子どもらしい一面があるのかどうか、明日香はいぶかしんだ。限りなく作り物のような瞳は澄みわたっていた。そういえば、いつかあの環境調査員、怜が言っていた。ここの人間の目が澄んでいる、と。

 自分の目も澄んでいるのだろうか。曇りは晴れているのだろうか。

 真琴の向かいに小さな頭がふたつ並んでいた。てっきり座っているのかと思ったら、立ち話だった。沙耶香と翔太、真琴から聞いたふたりの名前は確かそんな名前だった。屋上の温室の守で、いつも寄り添うようにして一階の廊下を歩いている。小児棟は音楽室のさらに奥、図書室へ向かう途中で枝分かれする廊下の先だ。行ったことはないし行きたいとも思わないが、この建物の存外な広さにあらためて気づいた。

 しびれる指をいまさら思い出した。明日香はなにも言わず、真琴の前にレモネードを置いた。気配を消していたわけでもないのに、真琴も子どもたちも明日香が戻ってきたことに気づかなかった様子だ。きょろりとした双眸が二組、明日香を見上げていた。けれど明日香は目を合わさなかった。

「ただいま」

 たった数分給湯室へ行っていただけなのに、真琴の時間と明日香の時間には大きな隔たりがあるように感じた。子どもたちのせいだ。明日香はそう決めつけることにした。

「おかえり。ほら、沙耶香ちゃんと翔太君。ね、このお姉ちゃんが、明日香ちゃん。ね、わかった?」

 まるで初等課程の新任教師と新入生だ。だったら自分は、先生に紹介された六年生? お姉ちゃんとは、むずがゆい。けれど子どもたちの前ではそんな意識が消し飛ぶ。不愉快さだけが残る。理由は、ある。

「こんにちは」

 幼い子どもにありがちな舌足らずなしゃべり方ではない。鳴海も顔負けの、平淡でいくぶん早口の挨拶をしたのは、沙耶香という少女だった。翔太はこくりとうなずいただけだ。

「……こんにちは」

 無視するのも大人気ない。それは自分のスタイルに反する。だから、沙耶香に負けず、感情をこめない挨拶を返した。

 自分のグラスを持ったまま、明日香は突っ立っていた。座ろうにも、椅子をわざわざどけて、そこに子どもたちが立っている。むげにどけろとも言えない。子ども相手にそれはできない。いくら嫌いでも。だから明日香は突っ立ったままだ。

「座れば」

 グラスをテーブルに置き、明日香は相手の顔を見ず、呼びかけた。そう、子どもたちに。

「いいの。もう、すぐ帰るから」

「帰る? どこに」

「お部屋に」

 自分たちの棟か。明日香は、自分がいま、ひどく外にたいして敏感になっていることに気づいていた。

「はやく帰れば。ここはあなたたちの来るような場所じゃない」

 いらだちを隠しきれない、いやらしい口調になった。明日香は言ってから失言だったと後悔した。

「明日香ちゃん……」

 上目遣いに、真琴が悲しそうな目を向けた。

「うん、帰る。じゃあね、お姉ちゃん」

 沙耶香はさっと身をひるがえすと、足音もたてずに駆けていった。翔太の手を引いて。沙耶香が言った「お姉ちゃん」が真琴を指し、明日香を指したものではないことくらい、自分でもわかった。悲しみといらだちと後悔と。負の感情にめまいがする。明日香はグラスをあおってごまかした。

「ちょっと、ひどいんじゃないかな」

 グラスを戻し真琴を向くと、まっすぐに明日香を射る瞳が揺らいでいた。

「なんで明日香ちゃんがあの子たちを嫌ってるのか知らないけど」

「べつに嫌ってなんかいないよ」

「嫌いじゃなかったら、あんな態度はとらないでしょ」

「わたしはとりあえず嫌ってみるのよ。わかってるくせに」

「何年いっしょにいると思ってるの?」

「三年だっけ?」

「ちがうちがう。あの子たちよ。小さな子を相手に、明日香ちゃんらしくない」

「わたしらしくない?」

 子どもたちが去った椅子に明日香は腰をおろした。

「とりあえず嫌ってみるって、それはなんとなくわかるけどさ」

 結露したレモネード入りのグラスを取りあげ、ちびりとひとくち。唇を潤わせるように。

「たとえば白石さんにたいしてとか、そういうのとぜんぜんちがうから」

「あの環境調査員?」

「嫌いじゃないでしょ、べつに」

「嫌いとか、そういう次元でもないって。ただの外来でしょ。<機構>の人間だもの。そもそも住む世界がちがうのよ」

「あの子たちは、おんなじ世界に住んでいるのよ」

「同じ建物の中で暮らしているってだけよ」

 もうひとくち。

「ここは<施設>だよ。沙耶香ちゃんは稲村先生にかかってるの。鳴海さんと同じ」

「そうなの? 稲村先生、小児科の先生だったのか」

「明日香ちゃん」

 諌めるように。真琴が声を荒げるのはめずらしい。少々気圧され、明日香はグラスの氷を回した。くるりと、一回転半。

「どうして?」

 真琴の顔を正面からまともに見ることは少ない。いつもうつむきがちで、上目遣い。鳴海を正面から見ることが少ないのと同じ。あのひとも誰かと正対することがない。考えれば、ここの人間はみんな。医師たちですら、身体半分をデスクに向け、視線だけがこちらを向く。

「なにが?」

「どうして、あの子たちが嫌いなの? だって、嫌うほど明日香ちゃんはあの子たちを知らないでしょう」

「生理的に受けつけない」

 言ってしまってから、明日香はひどい自責の念にかられた。言うべきではなかった。けれどポケットからこぼれ落ちた言葉はもう拾えない。

「なに、それ」

 瞬間、真琴がなにか異物でも見るような目を向けた。明日香は顔をそむけた。痛い。視線が痛い。

「なに、それ」

 明日香が思わずこぼしてしまった言葉が、まだ談話室の壁面をころころと転がり続けている。目で追うだけで、拾いに席を立つことができなかった。真琴の視線が痛い。

「わかってたでしょ、わたしはこういう人間。だから、こんなところに押しこめられて、もう帰ることもできなくて、やることといったら、真琴とふたりで住むこともできない家を建てたり、役にも立たない気象通報を聞くだけ。……このまま歳をとっていくのかと思うと、ぞっとする」

「じゃあ、外へ出ればいいじゃない。鳴海さんみたいに」

「いや」

「どうして」

「外に出たって、何もないもの。わたしだって、あの環境調査員ほどじゃないけれど、少なくとも真琴なんかよりは、いま世界がどうなっているのか知ってる。衛星写真だって何枚も見た。外に出たって、もうなにもないのよ」

 子どもたちを嫌うことと外の世界の話と、いったいどんな関係があるのだろうかと、内心では訝りつつも明日香はべつなポケットに入れたままだった言葉をぶちまけた。

「だから、わたしはここしかいる場所がないの」

「あの子たちだってそうよ。わたしたちよりずっと、外の世界を知らない。ここがあの子たちの世界なの。だから、わたしたちは同じ世界に住んでいるはずなのに、どうして、明日香はあの子たちが嫌いなの?」

「真琴、知ってるんでしょ」

「……なにを?」

 明日香のグラスは減っていくのに、真琴のレモネードは減らない。クラッシュアイスが融け、上澄みがまるで鉱石のようだ。

「あの子たちのでどころ」

「……でどころ?」

 うなずくかわりに、明日香は残った氷水を飲み干した。

「あの子たちはみんな、双子でしょ」

「双子? 沙耶香ちゃんと翔太君が?」

「ちがう。小児棟にいる全員」

「言ってる意味が、わかんないんだけど」

 明日香は融けてやせた氷を噛み砕く。歯に沁みた。この<施設>の医師たちは、歯科にも通じているだろうか。だったら一度診てもらったほうがいいかも知れない。

「ビスケットの話をしてあげようか? それともあの子たちが世話をしているトマトの話がいい?」

「何のこと?」

「あるところに働き者の農夫がいました。その年は豊作で、立派なトマトがたくさん実りました」

「何の話?」

「まあいいから聞いて」

 真琴も応えるかわりにレモネードを飲んだ。それでもグラスの半分も減っていない。

「けれど農夫は不安でいっぱいでした。次の年も、また次の年も、立派なトマトが実るのでしょうか。その年の夏はさりとて天気がよいわけでも、また丹念に手入れをしたわけでもありませんでした。だからなおさら農夫は不安でした。きっと偶然、そのトマトは実ったのです」

 奇妙な音をたてて天井のエアコンが起動した。冷風、けれど穏やかな。作られた秋風だ。

「農夫は思いました。今年植えた苗木と同じものをそのまま来年、使うことができたら。そう、ビスケットを型にはめて焼くみたいに、同じトマトを作れたら。いくらでも同じトマトが作れるような、そんな肩抜きがあったら」

 真琴は明日香の意図を感じたようだった。悲しげな瞳を伏せた。

「そんなとき、白い服を着た男があらわれました。彼は見たこともない機械をいっぱい持っていました。そして毛抜きよりも小さな、虫眼鏡でも見えないくらい小さなピンセットで、トマトの種から糸を一本、抜きだしました。機械はそう、ビスケットの型抜きでした。白い服を着た男は、立派に実ったトマトと同じ、」

「わかったわ、やめて」

 肩を落として真琴はつぶやいた。

「知ってるんでしょう、あの子たちのでどころ」

「……そういう意味だったのね。知ってるわ。でも、それがどうして?」

 真琴の額がグラスのふちに触れそうだ。それ以上うなだれないで。グラスが倒れちゃう。明日香は意識の端でそんなことを考えていた。

「わたしも、同じだからよ」

 真琴がふせていた顔をあげた。

「どういうこと?」

「わたしも、あの子たちと同じなのよ。双子。施設にいたことはなかったけど。ううん、ここじゃなくて、そういう『施設』ね。そのへんはツイてたのかもしれないけど、でも、いっしょよ、あの子たちと。わたしもビスケットなの。とびきりおいしい。べつにそれがここに入れられた原因じゃないけれどね」

「……なんて言っていいのか、わからない」

 顔をあげた真琴の頬が、グラスを通してゆがんで見えた。それが場違いなくらい滑稽に映った。

「べつになにも言わなくていいわ。本当のことだもの。……わたしは望まれて生まれてきたわ。両親はわたしが欲しかった。心底、わたしのことが欲しかった。ううん、ちがうわね。わたしみたいな女の子が欲しかったのよ。お店でビスケットを選ぶみたいに。簡単なのね、お金さえ出せば。<機構>は奨励していないけど、禁止されていないんだから、認めてるのも同じ。そして、わたしが選ばれたの。両親の味覚にかなったのね、わたしっていうビスケットが」

「明日香ちゃん、もう、いいよ」

「なにがいいの? わたしが温室の野菜を食べないのも、あの子たちを嫌っているのも、理由はそれよ。同じだから。ぜんぶ同じ。違いなんてない。つまらないの。そう。、わたし、コピーなのよ。きっとどこかに、わたしとまったく同じ遺伝子をもった女の子がいっぱいいるわ。オリジナルが誰かももうわからない。ベストセラーらしいから。でも、大量生産品には、たいてい何パーセントか不良品が混じっているのね。気がつけばわたしはここにいた。どうして狂っちゃったのかわかんない。わたしがコピーだから声が聞こえたのかも知れない。そもそもが欠陥商品で、きっと世界中の『わたし』が壊れちゃったのかも知れない。でももうそんなことは関係ないわ。

 この<施設>って、不良品の掃き溜めね。わたしは大量生産品の失敗作。鳴海さんは見えなくてもいいことが見えちゃう不良品。真琴はなんでも先回りしちゃう欠陥品。あの子たちは、大量生産のあげく、飽きて捨てられちゃったおもちゃ。ひどいものよね。こんな世界に、誰が出て行きたいと思うの?」

 真琴には返す言葉が用意できなかった。明日香の自虐的な言葉を返すことができなかった。

「でも、鳴海さんは出て行った」

 やっと見つけた言葉は、ただの事実。

「新しくはじかれた欠陥品に連れられて?」

 最初のころ、ひとり浮いていた怜。嵐の中に駆け出した鳴海を連れ戻した怜。そうか、彼も欠陥品だったのか。永遠に引き伸ばされた時間が流れる<施設>にいて、真琴は自分たちが「欠陥品」であることをときに忘れる。忘れようとする。

「もう、いいよ」

 真琴はレモネードをぐっと飲んだ。子どもたちが育てたレモンだ。おいしかった。変に酸っぱくもなく、熟したレモンは、実は甘い。本当によくできたレモンだ。

「明日香ちゃんは、鳴海さんが好きなんでしょう?」

 三つめのクラッシュアイスを砕こうとした明日香の動きが、止まる。

「とりあえず嫌ってみるっていうけど、好きな人だっているんでしょう?」

「どういうことよ」

「わかるよ。明日香ちゃん、鳴海さんのことが好きなんだって」

「好きって、なに」

「そのままの意味だよ。ちがう?」

 明日香はすぐに返事ができない。真琴の話は飛躍していた。

「見ていればわかるわ。明日香ちゃん、鳴海さんにはきついこと言わないもの。最近、ときどき鳴海さんの部屋に遊びに行っているんでしょ。消灯時間過ぎてから」

「……監視してるの?」

「ちがうよ。わかるのよ。だって、いつもは聴こえる気象通報が聴こえないことがあるもの。明日香ちゃん、気象通報が始まる前に寝ちゃうことって少ないでしょ? 考えればわかるわ。談話室は明かりが点かないし、だとしたら行く場所なんて知れてるでしょ。鳴海さんの部屋」

「有田さんの部屋かもしれないよ」

「明日香ちゃん、いつから有田さんと仲良くなったの?」

 たたみかけるような真琴。

「わかったわ、やめよう」

 頭が痛い。ひとまず明日香はそれを氷のせいにした。

「言いすぎた。どうかしてた、わたし」

「簡単にそんなこと言うなんて、らしくない」

「言いすぎたのは確かだもの。嫌いじゃないわ、苦手なの、あの子たちのこと。これでいい?」

 話を切りあげたくなった。話をするのが面倒になってきた。もうきょうはカーテンの話もどうでもいい。部屋に引っ込もうか。かといってひとり理科年表や天文年鑑を読むのもつまらない。明日香ははたと気がついた。もう、ここにも居場所がない。正確には、行く場所がない。

「簡単に嫌わないで」

「わかったよ」

「んん、明日香ちゃん、きっとわかってないよね」

 真琴がいつもの上目遣いになった。なんだかほっとして、明日香は目をふせた。グラスが冷たい。

「さあ、たぶんわかってないと思う」

 明日香が言うと、真琴は聞き分けのない子どもを前にした母親のような顔をして、嘆息をひとつ。

「……そう言えば、有田さんは?」

 明日香はしばらく思考の端にぶら下がっていた疑問を口にした。

「有田さん?」

「わたしより、真琴のほうが仲がいいでしょ」

「さあ、たぶん鳴海さんがいちばん仲がいいと思う。有田さんとは」

「ときどきなんか話してるもんね」

「有田さんが一方的にしゃべってるような気もするけど」

「同感」

「で、有田さんがどうしたの?」

 真琴のレモネードがようやく減った。

「きょう、姿が見えないから」

 明日香が言うと、真琴はぐるりと一周、談話室を見渡した。

「部屋にいるんじゃないかな」

「いつもだいたい、お昼過ぎたら談話室にいるよね」

「うん」

「どうかしたのかな」

 どうしていまごろ老婦人のことが気になるのだろう。いままで気にとめたことなどほとんどなかったのに。明日香のなかで、老婦人は風景の一部だった。たとえば部屋になじんだカレンダーを、暦が変わって取りはずしたとき、ふっと壁が遠くなったような、そういう感覚だ。老婦人は<施設>にとっては取りはずしのできないカレンダーに似ていた。

「きのうは、いたっけ」

 老婦人がいつも座るテーブルは空席だ。見通しがいい、窓がよく見える。

「午後はいなかったような気がする」

 真琴がいやに確信を持った言い方をした。

「午後? 夕飯のときは、いなかった?」

「いなかった」

「へえ。どうしたのかな。風邪でも引いたのかな」

 明日香はそう言ってから、自分の言葉の重要さに気がついた。風邪でも引いたのかな。心が風邪を引いているのはみんな同じ。けれども、身体が風邪を引いたら、たとえば何か病気になってしまったら。

「お見舞い、行ってみたら?」

 真琴のレモネードがようやく、空になった。ぶんと音がして、空調が停止した。窓の向こうの木立が微動だにしていない。風がない。風力発電は稼動しているのだろうか。

「お見舞いね。鳴海さんが帰ってきたら、訊いてみるわ。あのひと、わたしなんかよりずっと有田さんとは仲がいいみたいだし」

 明日香のグラスにいくつか残っていたクラッシュアイスは、形をとどめず雫になっていく。結晶から、不安定な液体に。

「暑いね」

 真琴がつぶやいた。彼女はもう、何かに気づいていた。びっしりついたグラスの汗を人差し指でぬぐっていた。

「暑いね」

 明日香も同意した。彼女はまだ、真意に気がついていなかった。想像はできても。あまり愉快ではなかった。

「もう一杯、飲む?」

 真琴におかわりをすすめたが、軽く右手を上げて遠慮のサインをよこした。

「いいよ、飲みすぎちゃうと、汗かいちゃうから」

「そういうものなのかな」

「明日香ちゃん、あんまり水も飲まないよね、めずらしいよ、きょうは。氷水なんて飲むから」

「食事のとき、飲んでるじゃない」

「普段はぜんぜん飲まないでしょ。蒸留水だから嫌いなのかと思ってた」

「これ、蒸留水じゃないよ。味がするもの。蒸留水なんて、まずくて飲めないよ」

「ふうん」

 明日香は融けた氷を口に含んだ。冷たい。

 夏だから、冷たい。それが、心地いい。

 外の夏は、いまいったいどうなっているんだろうか。声に出そうと思ったが、真琴がテーブルに落ちた雫を伸ばして何かを書いていて、それを見てやめた。なにを書いているのかさっぱりわからないけれど、文字なのか絵なのか、真琴がいちばん外の世界と無縁に思えた。子どもたちとここで暮らし、いつか海岸線が間近に迫ってここが閉鎖されるときまで、きっと彼女はかわらない。

 ならば、自分は?

 明日香はぎょっとした。

 ここを出たあとの自分を、わたしは考えている。どんな形にしろ、きっといつか、ここを出る日がきてしまう。べつな施設へ移管されるのか、それとも冷たく、息が止まった自分がここから運び出されるのか。明日香は直接見たことはなかったが、数年に一度、そうしたかたちでここを出て行く患者がいるらしい。

 そうはなりたくないと、漠然と思った。

 真琴はまだ、指先に雫をつけ、何かを白いテーブルに描いていた。明日香には二次関数のグラフに見えた。

 不愉快だった。



   四六、ペダル


 沼地のような川を渡った。ひびだらけのアスファルトと、錆だらけでリベットがいくつか抜け落ちたあとが見えるトラス橋。水面は橋げたのすぐ下にあって、のっぺりと流れていた。ところどころで渦を巻きながら。

 潮の満ち干で海水が逆流し、このあたりに淡水魚はいない。葦が繁る河原ははてしなく広く、どこからどこまでが湿地なのか境界はひどくあいまいだ。左手に水没した工場を眺めながら、怜はステアリングをそっと握っていた。

 助手席で揺れていたひまわりは、いまは鳴海のひざの上にある。二本、寄りそい、夏の思い出。陽射しがまぶしい。

「まだ見えないかな、ほら、まっすぐ。あれ、森だよ」

「森?」

「野幌の。国道は森に飲まれてしまったらしいよ。そもそも街全体が、森と川にはさまれて、<機構>の強制執行どころじゃないみたいだ。住んでる人はもうずいぶん少ないって聞いてる。君の住んでいた町は、でもここじゃないんだろう?」

 橋を渡りきり、市街地に入る。捨てられた家、空き地、そしてそこここに繁茂する樹。塩害のせいか、このあたりはまだ背の高い樹がはえていない。けれど家々の屋根越しに、黒く広がる原生林が見えた。

「ここ、来たこと、ないわ」

「じゃあ、森のちょうど反対側だね。ずっと向こうだ。あっちも森がずいぶん広がっているらしいけど、まだ人が住んでる。いや、こっち側にも街はあるんだけど」

「くわしいのね」

「仕事で来たことがあるだけだよ」

「さっきの橋を渡って?」

「いや、国道沿いにね。べつに沼地だけが仕事場ってわけじゃない。たまには森にも入るさ」

 自嘲めいて言った怜の横顔は、けれど自虐的ではなかった。鳴海はひまわりに目を落として、丘のふもとで別れた男のことを考えていた。彼はひとり、まだあの道を歩いているのだろうか、と。もうどこかの集落にたどりついて、あの人を食ったような顔をして食事でもしているだろうか。こうして鳴海が「誰か」のことを考えるようになったのは、いつからだったろうか。少なくとも怜が外来として現れるまで、鳴海の思考は時間といっしょに止まっていた。

 車は右手に工場跡地を眺めながら、市街地に入った。市街地といっても、木立と木立に隠れるようにしてぱらぱらと家が並んでいる程度。ささやかな市街地だ。ささくれだったアスファルトからは雑草が繁り、視界の先には黒々とした森がある。鬱蒼とした、という言葉がぴったりとくるような森の中に、白く浮き出ているのは無数の風車だ。この地域では最大規模の風力発電施設がここにある。強制執行がかけられている旧市街より、この街は標高が一〇〇メートルほど高い。石狩湾から吹きつける風は一年を通して安定して強く、だから<機構>はここに風力発電施設を造った。

「また、風車」

 ひまわりをひざに乗せ、鳴海はつぶやいた。

「風車だね」

 ステアリングを握る怜もまた、風車を数えた。数えきれないほどのプロペラが風を受け、一心に回転を続けていた。

 君の家はどこにあるんだい?

 怜は鳴海に向けてその言葉を放ろうとしてためらっていた。彼女は「戻りたくない」といつか言っていた。いや、「戻れない」だったか。帰る場所がない。けれど、君の家はまだ建っているんだろう?

 車は国道との交差点に出た。右に折れ、直進。沈黙した信号機と、道を行く人々。ウィンドシールドの向こうに生活があった。雑多で、つつましい生活だ。

 窓を開けた。土ぼこりの匂いと、かすかに潮の匂い。ここは森に抱かれつつある街でもあったが、川の街でもある。川はすぐ先で海に溶け込んでいる。だから海の匂いがする。夏空に浮かぶ雲を数え、いま鼻腔に漂う海の匂いがけっして不愉快ではないことに、怜は驚いた。

「海の匂いがするね」

 前を向いたままに言ってみた。もとより返事は期待してはいなかった。けれど鳴海は応えた。

「なんだか、ハッカのみたいな匂いがするわ」

 彼女は海の匂いを感じていたのではなかった。

「複雑だね、この辺は」

 国道がゆるやかに左に弧を描く。続いて右へ。牧草地とサイロ。かつてこの地を象徴するのに必ず用いられたランドスケープだ。ひょっとしてあのひまわり畑で別れた男も、首都をはなれて海を渡るとき、真っ先に思いついたのは牧草地とサイロかもしれなかった。サイロに並んで建つ小屋のマンサードの屋根は深緑、壁はくすんだ赤。誰か、まだ住んでいるのだろうか。すぐ背後には原生林が迫っていた。森の匂いが強く、もう潮の匂いは届かない。

「……帰ろう」

 まわる風車の風切り音が届きそうな道だった。鳴海は小さく、言った。帰ろう。

「帰る?」

 このあたりの国道はさして荒れていない。<機構>の車両もここを通るからだ。ステアリングを握る指はやや弛緩していた。だから鳴海の言葉をそのまま、怜は返してしまった。

「帰ろう、もう。明日香ちゃんが待ってる」

 実際、鳴海は思い出していた。朝、<施設>を出るときにふと見た二階の窓から手を振っていた、明日香の顔を。

「疲れたの?」

「ちがう。……やっぱり、わたしは外に出ちゃいけなかった」

 鳴海の口調がうってかわって憂鬱そうに沈んでいた。さきほどまでとはずいぶんちがう。

「どうして」

「理由なんてない。海を見たいなんて、そんなことを言ったのがいけなかった」

 車は市街地方向に向けて、夏空の下を走る。

「……君の街が近いからだよね」

 怜が言うと、鳴海はひざからひまわりを落としてしまった。落としたことにも気づかないようだった。

「君の家、もう近くなんだよね」

 彼女を向かなくても、鳴海の視線が怜を射ているのがはっきりと伝わった。なのに表情がわからない。

「もう、……帰りたい」

 怜はガスペダルから少しだけ足を浮かせた。排気管から不完全燃焼のガソリンが火を吹いている。消化しきれない意識が唇をはなれると、ときに細かく炸裂するように。

「<施設>へ?」

「あそこが、わたしの場所だもの」

「君の家、誰も住んでいないわけじゃないだろう?」

「父さんが、たぶん。まだ」

「べつに会おうっていうわけじゃないよ。たしかにきょうは、海を見に行っただけさ。ただ、なんとなく近くを通ってみようって、そう思ったんだよ。そんなに気持ちを高ぶらせることもないよ、ただ通るだけなんだ」

 鳴海はシートベルトに頭をもたれて目を閉じていた。

「誰にも会いたくないわ」

 かすれた声。

「誰にも?」

「もう、みんないなくなってしまったから」

「お父さんが住んでいるんだろう?」

「さあ」

 閉じた目が開かない。怜はペダルを踏み込んだ。優しい加速だ。風力発電施設が遠ざかる。

「君にとって、<施設>が家なのかい?」

「……そう思ったことはないわ」

「でも、君の場所だと思えるんだろう」

「そんな気がするだけ」

「じゃあ」

「わからない。でも、家じゃない」

 家じゃないから、明日香も真琴も老婦人も子どもたちも、稲村や河東ら医師たちも、家族ではない。

「家じゃない、か」

 陽はまだ高い。わずかに空腹。けれど食欲がない。いつも怜はこうだ。<施設>ではもう食事が終わり、あの老婦人はマグカップを片手に談話室にいるのだろうか。明日香と真琴は顔を突きあわせ、ささやくように笑いあっているのだろうか。

「家……じゃ、ないわ」

 鳴海もまた、意識は<施設>に戻っていた。<施設>の談話室の、白い椅子に腰かけていた。明日香と真琴が向かい合って何か話している。そうだ、明日香と真琴は家を建てているのだ。二人にも見えない家、二人いっしょに訪れることもできない家、もちろん誰かを呼ぶこともできない家を。きっと二人が考える家は、おたがい微妙に違うものになっているにちがいない。鳴海は彼女たちの家を、部屋を想像することができなかった。明日香は<施設>の自室で気象通報を聴くのが似合っている。真琴は子どもたちを相手にオルガンを弾いているのが似合っている。わたしはそれを眺めているのが似合っている。怜は……、隣でステアリングを握る彼の家は、いったいどんなだろう。すると不思議と、彼の家も見えてこなかった。怜は待合室の日陰で煙草を喫っているのが似合っている。そう思うと、なぜか笑みがこぼれそうになった。奇妙な味の笑みが。

「白石さん」

 届くだろうか。呼びかけてみた。

「なに」

「白石さんの家は、どんな?」

「僕の家?」

「うん」

「どんなって、どういう家かってこと」

「そう」

 ステアリングを握って、怜はしばし考えていた。前を向いたまま。窓の向こうで森が切れた。

「なにもない部屋だよ。君は<団地>に来たことはないんだよね。そうだな。ああ、<施設>に似ている。そうだ、<施設>に似ているんだ」

「似てる?」

「そう。いまわかった。似ているんだ。いや、本当はぜんぜん似ていないと思う。でも、あの無機質な感じだとか、とりわけ僕の部屋にはね、なにもないんだ。作り付けの棚やテーブルがあるだけでね。君の部屋みたいに。広さは違うし、<施設>と違ってつい最近建てられた建物だから、そういうところはぜんぜん違うんだけど。似てるよ」

「なにもない?」

「だから、広いんだ。なにもないよ」

「わたしの部屋は、狭い」

「広くはないよね」

「狭いわ。でも、わたし、あの部屋を自分の部屋だって感じたこと、ない」

「そうなの?」

「そんな気がする」

 陽が傾きはじめていた。まだ強く白く、太陽は腕を焼くのだけれど、ウィンドシールドの向こう側で、たしかに太陽は傾いていた。

「居場所なんだよね?」

「居場所だと思う。だけど、わたしの部屋だと思ったこと、ないわ」

 なら、君の場所は、どこなんだい? その言葉を怜は飲み込んだ。中庭を所在なく歩んでいた鳴海の横顔がオーバーラップした。

「君の部屋だろう?」

「わたしがいる部屋よ。あそこはわたしの家じゃないもの」

 鳴海は繰り返した。家じゃない。そして胸の内で続けた。でも、わたしは家には住めない。両親や兄が待っている、「わたしの家」には住めない。

「そう考えると、きっと<団地>の僕の部屋も、『家』じゃないんだろうな。居心地はいいんだけど。たしかに僕の居場所はあそこなんだけど、『家』じゃないんだろうな」

 沈みかけた街や住人がいなくなった沼地を歩き、そして<団地>に帰る電車に乗り、自室のキーをポケットに確かめたとき、怜はどこかで安心している。自分の場所に帰るのだ。そっけなく、無機質な<団地>の自室は、怜の「場所」なのだ。

「<施設>に帰るかい? もう、まっすぐ」

 この国道は旧市街の中心まで一直線。<施設>は市街地の北のはずれだが、中心街を経由してもさほどの距離ではない。小一時間もあればあのポンプ場の角を曲がれる。

「君の場所に」

 鳴海はシートベルトにもたれたまま、応えを返さなかった。窓の向こうに首を向け、鳴海は応えなかった。黒い森と、尖塔か見えた。開拓記念塔だ。北海道に鍬が入れられてから、百年を記念して建てられた、前世紀の遺物だ。さらにその向こう、尖塔に負けない高さで、風力発電施設が並ぶ。老婦人はこの風景を知っているのだろうか。おそらく彼女が知っているこの場所と、怜が、鳴海がいま見ている場所はもう、同じ風景ではない。アパートの店子が入れ替わり、間取りだけ同じに家具や壁紙を張り替えたあとのように、移ろっていく風景はめまぐるしい。

 怜はペダルをさらに深く踏み込んだ。けれど加速していることを鳴海に感じさせないくらい優しく。速度計の針が時計の秒針のスピードで加速する。怜は正面、時折ミラーを一瞥して、視界の端に鳴海のひまわりが揺れる。ささやかな「休日」は傾きはじめた太陽を追いかけていた。怜は鳴海の応えをそれでも待っていた。このまま帰っていいのだろうか。鳴海に外を見てもらいたかった。<施設>の外をだ。怜の目には、鳴海は外の空気を欲しているように見えていた。彼女の兄の話をするとき、絵を眺めるとき、怜が開け放った窓から飛行機雲を見上げたとき、鳴海の意識は「出たがって」いるように見えた。海を見に行こうと誘ったとき、鳴海の目に光を見た。

 怜が応えを待ってるとき、鳴海は流れる家並みを目で追っていた。住む人の絶えた街だ。森にゆっくりと飲まれようとしているのは、さきほど通過した河口の街と似ている。だが決定的にちがうのは、いま鳴海が追っている街並みは、彼女の知っている風景だということだった。

 わたしの街。

 シートベルトにもたれたまま、自然に視線は自分の家を探していた。この風景、見覚えがある。あの日、父の車で家を出て、<施設>に向かった朝、鳴海はやはりシートベルトにもたれて街並みをながめていた。ぽつぽつと灯った街灯と、青く沈んで眠る街。もう帰ることもないだろうと、父の喉から時折あふれる咳を数えて鳴海は思っていた。もう、あの家に帰ることもないだろうと。

 鳴海の家は斜面に建っている。桜の木、兄の部屋から見えた塔、きしむ階段、わたしの家の匂い。それらが不意に湧き出した泉水のように、鳴海の瞼によみがえってくる。鮮やかに。

 国道沿いから彼女の家は見えない。住人が減っても、街は残る。だから住宅街の真ん中の鳴海の家はここからは見えない。けれど鳴海はともすればこぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえながら、自宅の屋根を探していた。ああ、わたしの家はどんな色をしていただろう。母さんが待っているかも知れない。父さんは、どうしているだろう。

 これまで扉の向こうに鍵をかけて閉じ込めていたはずの記憶が、残酷なほど鮮やかによみがえってくる。彼女が自宅の扉を開けると、みんなが待っていた。

 おかえり。

 灯りが暖かい。忘れかけていた色だった。<施設>の照明は蛍光灯が多い。

 おかえり。

 みんな、いる。みんなが、待ってる。

 鳴海は目を閉じる。怜の車に揺られていることなど、もう忘れていた。

 わたし、帰ってきたんだわ。

 鼻腔の奥がつんと痛い。わたし、泣いてる? どうして? 帰ってきたのに、どうして悲しいんだろう。

 それはね、

 声が聞こえた。誰かの声が。となりの怜には絶対に聞こえない声が。

 もう誰も待っていないって、君は知っているからだよ。

 鳴海はかまわず階段を駆け上がった。追憶の中で、鳴海は自宅の匂いに包まれていた。階段を上がり、わたしの部屋はこっちだ。疲れた、もうしばらく帰っていなかったから、部屋の掃除をしなくてはならない。ずいぶん長いあいだ留守にしていた。わたし、どこに行っていたんだろう。階下から鳴海を呼ぶ声が聞こえる。母か、祖母か。ああ、みんないる。みんながいる。

 もう涙がこぼれていくのを止められなかった。自分が泣いていることも、しばし忘れることにした。身体が震えた。嗚咽が漏れた。

「鳴海さん?」

 聞きなれない誰かの声が自分を呼んだ。鳴海はそれを無視した。誰だろう。聞き覚えはあるんだけど、誰かわからない。

「大丈夫?」

 大丈夫って、なにが? いま家に着いたばかりで、なにが大丈夫なのだろう。

「鳴海さん?」

 わたしをそう呼ぶ人間は、少ない。家族はわたしを呼び捨てにする。さん付けで呼ぶのは、……誰だったろう。

「鳴海さん、どうしたの?」

 助手席で嗚咽を漏らして涙を流す鳴海に気づき、怜はあわてて車を停めた。アンチスキッドが作動する寸前だった。

「鳴海さん?」

 通る車などほとんどない国道だが、路側帯に車を寄せ、ハザードランプを点ける。車を完全に停止させて、怜は一瞬ためらったが、鳴海の肩をゆすった。

「あ……」

 ようやく鳴海が瞼を開けた。あふれる涙に濡れた瞳は、赤く充血していた。頬が上気していた。ひまわりの茎を握る指が、真冬の風に震えているようだ。

「どうしたの? 気分でも、悪いの?」

 鳴海は瞳まで震えていた。おびえているわけではなく、怜はそんな鳴海を知っていた。

 怜は放心したような鳴海の肩をゆすり続けた。震える瞳は焦点が合っていない。夢から覚めたのに、覚めたことに気づいていないかのように。だから怜は言った。

「悪い夢でも見ていたのかい」

 笑って。もし本当に悪い夢を見たのなら、笑って呼びかければそれは冗談になるかもしれない。

「白石、さん」

 よこでようやく鳴海の瞳の震えがとまった。完全に覚めた、そんな感じだ。

「やあ」

 奇妙な応対だ。ずっと同じ車内にいたはずなのに、けれどきっと鳴海はいままでの十数分間、怜の知らないどこかへ出かけていたのだ。ひさしぶり、どこまで行っていたんだい?

「埃っぽいな、窓を閉めよう」

 エンジンはかけたままだ。発電量はアイドリング状態でも潤沢だ。軽やかにスピーディに、窓は閉まる。エアコンの温度設定を少し上げた。

「ここ、どこ?」

 まっすぐに怜の目を見て、鳴海が訊いた。

「ここは……」

 怜はいったん鳴海から視線をはずし、クリップボードの地図を見た。

「白石だよ、白石」

 僕の名前だ。

「白石。……白石さんの街?」

「僕の家は<団地>だよ。偶然だよね。地名と同じ名前なんだ」

 鳴海はそっと微笑んだ。怜も微笑んだ。夢から覚めたばかりの彼女が、すんなりと現実に帰ってこられるように。君はここにいるんだよ、と。

「まだ、<施設>には着いていないのね」

「まだ、着いてないよ。まっすぐ帰るかい?」

 少し前にも訊いた質問だ。繰り返す。訊くと鳴海は目を伏せた。

「……うん」

「わかった。まっすぐ、帰ろう。きっと、みんな心配してる。僕が君を拉致して帰さない気じゃないかってね」

「みんな?」

「西さんや芹沢さん、稲村先生」

 知った名前だ。鳴海はまだ追憶と現実の境界に立っていた。だから怜が口にした名前と、鳴海が憶えている顔がなかなか一致しない。昔、こういうことがよくあった。記憶と現実がつながらない。

「君の場所へ、帰ろう」

 怜はそう言うと、姿勢を正してステアリングを握った。

「わたしの、場所」

 明日香、真琴、稲村。読書青年、有田老人、チェスの二人組、子どもたち。ようやくすべてが戻ってきた。鳴海の現実が。

 手のひらでひまわりの茎はつぶれていた。そんなに強く握ったつもりはなかったのに。

「帰ろう」

 怜は応えを待たず、車をスタートさせた。


 豊平川を渡る。旧市街を南北に流れる川だ。かつて豊平川は本流である石狩川と合流してから、海に注ぎ込んでいた。けれど海水位が上昇をつづけるいま、豊平川は海に河口を持つ川になってしまった。もっとも、河口といっても汽水湖のようなあいまいな湿地帯が広がっているだけなので、そこを海と呼んではたしていいのかどうかはわからない。衛星写真で見ればたしかに河口から先にはなにもない。やはりもうそこは海なのだ。

 鳴海は豊平川に架かる橋の上で車を停めて欲しいと言った。往来のほとんど失せた橋の上で、怜はパーキング・ブレーキのレバーを引いた。錆びた欄干と、傾きかけた街路灯、そして両岸に並ぶ高層住宅。旧市街の中心部で、半世紀前までならここでこうして車を停めることなどできなかったにちがいない。けれどいまはちがう。時間がひどく間のびして、橋を渡るひとたちはみな一様に川面をのぞきこんだり、流れの先に目をこらしたりと、川を意識しているようだった。橋の下には川が流れているのだと、ようやく気づいたかのように。

「なにをするんだい?」

 白石を出てからしばらく、鳴海は何か考えこんだように言葉を発しなかった。車が橋にさしかかり、前方の空がふっと広くなったとき、鳴海は言った。

(川?)

 怜は応えた。

(豊平川だよ。知ってるだろう?)

 鳴海はかすかにうなづいただけだったが、車が橋桁のつなぎ目の一つ目を過ぎたあたりで、

(停めて)

 そう言った。

 怜は鳴海に応えず、だまって停めた。

「降りるの?」

 鳴海はドアノブに手をかけた。こくりと首を縦にふって、彼女は橋の上に立った。ひまわりを一輪、手に。怜もシートベルトをはずし、車を降りた。道端には砂がたまっていた。

 二人、並んで立った。上流を望む。さえぎるものがなにもない橋の上で、いくら日が傾きかけているといっても、まだ暑い。じっとりと首筋に汗が浮かんだ。

 鳴海は一輪持ったひまわりを、欄干から突きだした。

「どうするんだい」

 怜は訊いたが、彼女がいったいなにをしようとしているのか、もうわかっていた。夏の思い出を一片、流そうとしているのだ、彼女は。

 怜の視線を鳴海は無表情に受けとめた。澄んだ瞳だとあらためて思った。つくりものめいていて、色がない。瞳をのぞいても、怜に鳴海の表情が読めない。けれど、いまはほんの少しの憂いがその瞳に混ざっていた。陽射しを浴びた頬はかすかに上気していた。彼女がほんの少し前に見ていた夢のなごりが、そこにあった。

「流すのかい?」

 鳴海は怜の問いには答えず、目を閉じた。そして次の瞬間、開いた彼女の瞳に海を見た気がした。深く、紺色に近い彼女の瞳は、まるで夏空の下の海のようだった。その海が波立ち、一滴の海水がこぼれ落ちた。

 ひまわり。

 一輪のひまわりが、鳴海の手をはなれる。怜は落ちていくひまわりを、見送った。彼女の手をはなれたひまわりは、もう取り戻すことはできなかった。思い出が一片、取り戻せない流れの向こうへ行ってしまう。怜はだまって見送った。鳴海もだまって見送った。思い出を解放した彼女自身、まだ指に残る茎の感触もそのままに、流れに乗ったひまわりを見送った。橋をくぐり、ひまわりは消えた。とたんに怜の耳に川の流れがよみがえる。流れは澄んでいた。怜が知る水は、みな濁りよどんでいた。こんな水もあったのか。

「行きましょう」

 鳴海の声は流れにまぎれ、ようやく怜の耳に届いたころには、彼女の白い横顔は伏せられていて、身をひるがえし、車に乗り込んだ鳴海の背中は少女のように頼りなかった。いや、彼女はまだ実際に少女だ。怜とさほど歳も違わないはずなのに、鳴海はあまりに頼りなく、華奢だった。

 なぜ彼女はひまわりを流したのか、それも一輪残して、それはなぜか。怜は訊かなかった。車をスタートさせ、旧市街を走り抜け、砂埃が舞う港湾道路に入っても、答えを求めなかった。助手席で彼女は、残った一輪のひまわりを、そっと抱いていた。

 LRTとすれ違い、ようやく電停のプラットホームが見えてくる。怜が歩く防風林沿いの道へ左折して、ポンプ場を右折する。風車が回っていた。白い壁、<施設>だ。ひまわりを抱いたまま、鳴海は顔を上げた。エントランス前に車を寄せて、怜はエンジンを止めた。鳴海は二階の窓に明日香を探していた。今朝のように、怜の車の排気音を聞きつけて、彼女が出迎えてくれているような気がしたのだ。けれど、窓に人影は現れず、エントランスにも誰も出てこなかった。もとより出迎えは期待していなかったが、鳴海は明日香の顔を見たかった。一言彼女に言いたかった。帰ってきたよ、と。

「ありがとう」

 ひまわりを揺らして、鳴海は言った。怜に向かって。

「こちらこそ」

 怜は軽く頭を下げた。

「休んでいきますか?」

「水を飲みたい」

 怜が言うと、鳴海はそっと微笑んで、車を降りた。怜も、降りた。

 エントランスは冷え冷えとしていた。はじめてここを訪れたときの記憶が、なぜか浮かんだ。冷めた空間、止まった時間、ぽつりと置かれた灰皿。

「上がらないんですか?」

 階段に足をのせた鳴海が、ついてこない怜をふりむき、呼んだ。

「煙草を一本、喫ってから行くよ。いいかな」

「どうぞ。わたしは、談話室にいます」

 怜は片手を小さく挙げて応え、待合室のベンチに、いつもの席に腰を下ろして煙草に火を点けた。

 待合室は西を向いているから、正面に太陽がまぶしい。室内をくっきり陰と陽に切り取る光の帯の中、怜の指先から濃密な螺旋階段が立ちのぼる。運転中は喫わないので、あの奇妙な男と別れたひまわりの丘からこちら、久しぶりの煙草だった。座り心地のけっしていいとはいえない長椅子に腰かけ、背後からはあの雨だれのようなタイプの音が聞こえる。すっかり顔なじみになってしまった受けつけの女の子は、けれど薬を処方してもらうときに合わす視線は、初心患者に対するそれとどうちがうのか、あの嵐の日のほかに、怜は彼女の口から「お大事に」以外のセリフを聞いたことがなかった。そしていつでも彼女は受付にいた。席をはずしているところを見たことがない。もちろんここに泊まった夜、待合室に鳴海の姿を探したとき、受付はカーテンを閉めて眠りについていた。あの女の子もまた、<施設>の住人なのだ。そして、鳴海や明日香や真琴と同じく、ここに居場所を見出してしまったひとりなのだ。きっとそうだ。

 居場所。

 怜は<施設>で自分はいつまでも客人なのだと、煙草を深く吸い込みながら感じていた。少なくともここは自分の場所ではない。最初のころ、時計の針が止まったような<施設>の雰囲気に、怜は安息を感じていた。けれどここの安息はあまりにも異質だった。ここにいると、十七号棟の自室がはてしなく遠くに感じる。TVをつければ流れてくる<機構>のアジテーションも、<施設>で思い出すとどこか現実味を帯びてこない。それは<施設>にTVがないからではない。間違いなくここは、世間と、怜の知る世界と乖離している。おたがいに拒絶しあっている。

 怜は指にはさんだ煙草からのぼる煙をながめ、あの老婦人のいつかの言葉を反芻していた。

 ここは、鏡だ。

 意味はわかる。しかし双方の世界を行き来して、怜は合わせ鏡の迷路に放り込まれたかのような、微妙な居心地の悪さを隠すことができなかった。どちらの鏡も自分の姿を映している。映る自分がさらに鏡に反射して、果てしない。

 豊平川に架かる橋で、鳴海は男がよこしたひまわりを一輪、流れに投じてしまった。男は鳴海と怜、それぞれに一輪ずつのつもりで手折ってくれたにちがいない。けれど鳴海はその片割れを捨ててしまった。捨てられたのははたして自分だろうか、それとも鳴海自身だろうか。

 静かだった。

 受付の女の子がキーをタイプする音のほかは、何も聞こえなかった。いつも感じることだが、二階の気配が待合室にいるとまったくない。自分がたった一人の外来で、ほかはすべて<施設>に住む入所者たちだけだというのが信じられない。最初に来たときも思った。ここはまるで病院とは思えない。

 エアコンが稼動していないようだが、待合室正面の中庭に通じる窓が全開になっていた。けれど風がない。だから煙草の煙が一直線に立ち上る。鳥の声も風の音も聞こえない。あまりに静かすぎる午後だった。怜はそれが心に引っかかった。いつもと、ちがう気がする。静かすぎるのだ。廊下の角を曲がれば、医師たち二人の診察室がある。なのに物音ひとつ聞こえない。誰もいないのだろうか。受付から事務室をのぞいてみたい衝動にふと駆られたが、怜はここの事務員を受付の子ひとりしか知らない。薬を受け取るとき、彼女の背後に人の気配を感じたことがない。

 暑かった。

 長椅子と背の間に、じっとりと汗が染みているのがわかった。せめて風があれば。

 鳴海が降りてくる様子もない。もともと怜は部外者だ。彼女がなかなか上がってこない怜を気にかけて降りてくるとも思えなかった。今ごろ明日香につかまって、あれこれ詰問されているのかもしれない。怜はゆっくり煙草を一本灰にして、それでもしばらく長椅子に腰かけていた。

 一日いっぱいをかけた外出ではなかった。朝ここを出て、帰ってきたのは午後の五時前だ。いくら夏至を過ぎたとはいえ、まだ五時をまわったばかりで日は高い。たしかに日は傾きはじめてはいるけれど、斜光が待合室の奥深くまで届くほどではない。なのに怜は、もう一日が終わったような気分でいた。もう帰ろう。今度は、僕が帰る番だ。水を一杯もらったら、鳴海に一声かけて帰ろう。明日香がいつもの斜にかまえた不敵な笑みを浮かべて何か言ってくるかもしれない。あの老婦人は、談話室で一日の終わりをどう過ごしているのだろうか。彼女もまた、鏡と向かい合っているのだろうか。しばらく老婦人と会話をしていない。

 ふと、怜の耳に誰かの足音が届く。気のせいか、空耳だろうか。駆けていくような、あわただしい足音だった。それは一瞬で、だから怜は気のせいかと長椅子の背に頬杖をついた。なかなか二階に上がるきっかけがつかめない。なぜかきょうはひどく自分の部外者意識が加速する。

 まただ。足音だ。それは誰かが誰かを追っているような、まさに足が地についていないような、いくつもの足音だった。

 怜は身体をひねって振り向いた。階段を誰かが駆け下りてくる。誰だろう。

「待って、どこ行くのよ」

 明日香だ。明日香の声だ。追っているのは、明日香だ。すると、追われているは、駆けているのは誰だろう。

「鳴海さん!」

 つんのめるようにして階段を駆け下りてきたのは、鳴海だった。明日香の声が追いかけてくる。すらりとした鳴海の長身が、立ち止まり怜を向いた。肩が上下している。

「鳴海さん!」

 明日香の声が意外によく通ることを、怜はいまはじめて知った。一階中に凛とした明日香の声が響いた。

 明日香が降りてくる。鳴海は頭を抱えていた。はじけそうになる頭蓋を必死で押さえているような、そんなしぐさだった。追いついた明日香が鳴海の両肩を抱きとめた。

 こんな光景、知ってる。

 怜の口腔に苦い潮の匂いが広がった。頬を打つ雨のつぶてと、幾たびも瞬く稲妻と。

 鳴海は明らかに取り乱し我を忘れているようだった。怜は彼女の豹変ぶりに、椅子から身体を浮かすことができなかった。なにが起こったのか、まるでわからない。

 頭を抱えた鳴海はひきつけを起こした子どものような、か細く病的な悲鳴を漏らしていた。立て付けの悪い扉を強引に開くような音。

「……白石さん」

 明日香はそこでようやく怜に気づいて名前を呼んだ。駄々をこねてストライキを起こしてしまった子どもにおろおろする母親のような、困惑を隠そうともしない視線を怜に向けて。そんな明日香を怜ははじめて見る。

「鳴海さん」

 怜はまだ座ったまま、振り向いた姿勢のまま、鳴海を呼んだ。けれど鳴海の瞳は空を泳いでいて、怜に気づかない。怜のことをすっかり忘れてしまったかのような、怜などまったく視界に入っていないかのような、おびえた瞳からは、涙があふれていた。離れているのに、怜には見えた。

 明日香は鳴海の肩をつかんだまま、視線は怜を捉えて放さなかった。

「どうしたの?」

 怜はやや青ざめた明日香を向き、立ち上がって訊いた。

「白石さん」

 明日香はその場で小刻みに足踏みをしていた。明日香もまた我を忘れている、そんな雰囲気だった。なにがあったのだろう。場違いながら、怜は空腹だった。

 鳴海の瞳が震えていた。焦点が定まらず、どこを見ているのかわからない。いや、いまの彼女には何も見えていない。何かから逃げようとしている目だ。ひたすら、逃げ道を探している。それを必死にとどめようとしている明日香ですら、しだいに鳴海に連れられて、どこか別な場所へ逃げ込もうとしている。怜にはそう見えた。

「なにがあったの?」

 鳴海はもはや怜の存在に気づいていない。だから怜は明日香に訊いた。

「……有田さんが」

 しぼり出すような声で明日香が答える。有田さん? 老婦人か。老婦人が、どうしたのだ?

「有田さんが、急に具合が悪くなって、それで……。そのことを鳴海さんに伝えたら、もういきなり」

 老婦人が、どうしたって?

「有田さんの具合が? どこか悪かったの?」

 <施設>に入所している人をつかまえて「どこか悪かったの?」とはおかしな質問だ。言ってから怜は思った。

「わたしは知らなかった」

「なにが……」

「お昼を過ぎても有田さんが談話室に出てこなくて、それで、河東先生が部屋に行ってみたら、意識がなかったって」

 明日香は急激に声を落とした。

「意識がなかった?」

 怜の言葉に反応したかのように、鳴海はその場にへたりこんでしまった。

「鳴海さん」

 明日香と怜が同時に呼びかける。

「鳴海さん、部屋に戻ろうよ。……疲れたんだよ、慣れない外出で」

 およそ彼女とは思えない、慈悲にあふれた口調で、明日香は鳴海を抱きしめた。

「明日香ちゃん……?」

 鳴海のつぶやき。怜は突っ立ったまま。

「戻ろうよ。お腹がすいてるんじゃない? 真琴も心配してた」

 そういえば、朝ここを出てから何も食べていない。怜も鳴海も食欲を表に出して主張するタイプではなかったから、食事を怠った。

 明日香は鳴海を立たせて、抱えるようにして階段を上った。階段に明かりはなかったが、斜陽が壁を階段を、天井をのっぺりと薄色に塗りこめていた。怜は、そのまま帰ろうかと逡巡したが、二人にそっとついていった。

 プロペラが回りだしている。風切り音が耳についた。また、風が吹きはじめていた。きょうはずっと、穏やかな一日だったのに。

 鳴海の嗚咽が待合室の奥まで届いているようだった。

 どうして泣いているんだろう。

 怜は空腹を感じていた。


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