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夏の扉  作者: 能勢恭介
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   四二、扉Ⅲ


 男はまだ電柱にもたれて広場にいた。鳴海と怜が上がってきても、声をかけようともせず首の骨を鳴らしていた。

のぼりの階段は傾斜がきつく、鳴海の頬を汗が流れた。男は涼しい顔をしてなにやら本を開いていた。薄汚れた表紙、表題は見えなかった。紙面に落とした視線はまぶしそうで、口には火のついていない煙草を一本。怜は男を一瞥したが、ライターを取り出そうとはしなかった。求められたら応じよう、そんな気分なのかもしれない。

 不思議だった。海を見下ろす広場には三人しかいない。ほかには誰もいない。ぐるりと首をめぐらせても人影がない。遠く市街地がうっすら霞みでふたをしたように黒く見えるが、人の姿は見えない。遠すぎるのだ。

 怜は男からややはなれた場所にベンチを見つけて座り、煙草を一本抜き出して火をつけた。怜のライターは大きな音がする。聞く人間が聞けば、一発でそれとわかる音をたてる。だから男が煙草をくわえたまま怜を向いたとき、鳴海は危うく声を出して笑うところだった。男がひどく物欲しそうな、お菓子をねだる子どものような顔をしたからだ。怜はひとくち喫ってから、

「どうぞ」

 男を呼んだ。男は背を丸めた格好で電柱から離れ、ふたりのベンチに近づいた。

「悪いね、何度も」

「二度目ですよ」

 怜はライターを男に放った。受け取った男は慣れた手つきで火を点けた。

「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」

 ふたりの前に立ちはだかるようにして、男は白い歯を見せた。

「べつに警戒なんかしてないですよ」

「あんたが鉄砲を持ってるのはいいとして、俺はこのとおり丸腰さ」

 細い腰まわりを男は片手でたたいてみせた。鳴海は男ではなく怜の腰を確かめた。怜は苦笑を浮かべて右手を腰に伸ばし、銃を抜いた。

「おっと」

「こんなもの。僕はべつに持って歩くつもりはなかったんですけどね。知り合いがね、何かと物騒だっておどすものだから」

「たしかに物騒だな、あっちのほうはね」

「あっちのほう?」

「物騒な場所もあるってことさ。こっちは平和なもんだよ、苫小牧からこっち、口をきいた人間はあんたがたがはじめてだ。あとはもう、そうだな、千歳でキツネと遊んだくらいだよ」

 鳴海は目の前の男が嬉々としてキツネと追いかけっこをしている様を思って、また笑いそうになった。

「ところであんたらはきょうだいかなにかかい?」

 大事そうに煙草を喫いながら、男はしゃがんだ。鳴海は男のセリフに、いつかの砂浜の夢をまた、思い出す。

「きょうだい? そう見える?」

「似てないけどね。きょうだいなのかい、兄さん?」

「残念ながらちがいますよ、きょうだいじゃない。知り合いですよ」

 怜は銃をもとの腰に戻し、かわりに銀色の筒状のものを取りだした。

「そうか、知り合いね。いいね、知り合いがいるっていうのは」

 筒のふたを開け、怜はそこに火のついたままの煙草を入れ、そしてふたを閉じた。灰皿だ。

「あなたにはいないんですか。見たところとても人間嫌いには見えないですよ」

 怜が言うと男は煙草をくわえたままで考えこむようなしぐさになった。表情がよく変わる。誰かに似ている、鳴海はそれが誰に似ているのか、思い出せない。

「知り合いはいる。いるけど、みんなばらばらだ。こんどいつ会えるのかもわからない。でも、次にいつ会えるのかもわからない知り合いって、知り合いっていうのかね?」

 太陽が小さな雲に隠れた。広場だけが昏い。

「それでも知り合いじゃないですか? 相手がどこにいるのかを考えることができるんなら。見ず知らずの相手だったら、どこでなにをしていようが関係ないじゃないですか」

「それもそうだ」

 根元まで喫った煙草を、男はまた器用に頭をつぶしてポケットに入れた。

「いい天気だ。北海道に来てから、雨に降られていないんだ。気持ちがいいよ。なにより湿気がないのがありがたい」

「あっちの夏は、厳しいですか」

「厳しいね。空気がまとわりつくんだ。全身にね。ただ立ってるだけで汗をかくよ。風がぬるいからね」

「どこまで行くんですか」

「さあね。このまま北へ向かって海を渡るかもしれないし、釧路のほうへ行ってみようかとも思うし。湿原はぜんぶ海の底だそうだね」

「らしいですね」

 男はすっと立ち上がった。すると彼に合わせたように雲が晴れた。広場はまた光にあふれる。まぶしい。

「夏休みだっていうのに、寂しいもんだ」

 ちらりと男は目を細めて、ひどく悲しそうな声音で言った。鳴海ははっとして、日に焼けた男の顔を見上げた。

「夏休み?」

 思わず聞き返していた。

「そうさ、いまは夏休みさ。なのにどこへ行っても人がいない。とくに海にはね。山へ行けばまだ人もいるんだけど、海にはいない。いても俺やあんたらみたいな物好きばかりさ。もう海で遊ぼうなんて考えるやつがいないのかね」

「いろいろなものが沈んで、危なくなったから」

「そうなんだろうな、兄さんの言うとおりだ」

 きょうだいではないと言ったのに、男は怜を「兄さん」と呼んだ。

「遠くから見れば、なんにも変わりがないのに」

 男は昔の海を知っているような口ぶりだった。歳は自分たちとそうかわらないように見えるのに。

「発電所が沈んだりしてますからね」

「福島では、海まで行けなかった。封鎖されててね。ああ、このあたりにも発電所があったんだっけな」

「まだ離れてますけどね」

「海は見られなかったけど、おもしろいものは見てきたよ」

 おもしろいものを見たというわりに、感情のこもらない口調。

「なにを見たんですか?」

 怜が訊ね、鳴海は応えを待つ。

「ひまわり」

「ひまわり?」

 鳴海は稲村のデスクの空き瓶を思い出す。

「そう。一面のひまわり畑さ。丘の向こうまで、びっしりだ。立ち入り制限区域のずっと向こうまで、一面、びっしり。あれは見事だったな。沈んだ発電所のまわりを、もうびっしりとひまわりが植えてあるんだ。<機構>もなかなか味なことをするもんだと、俺はちょっと感心したよ、そのときはね」

 男はいったんそこでセリフを止めた。

「……放射能ですか」

 怜がひときわ低い声で言った。放射能?

「そうだ、放射能だ。あんたよく知っているな」

「ひまわりと放射能、どう関係があるの?」

 鳴海は小声で怜に訊く。

「ひまわりは土壌の放射能を吸収するんだ。ある程度」

 小声で答える怜。

「そう。あとで知ったよ。あのひまわりはぜんぶ、秋になったら刈り取られて、放射性廃棄物として処理されるんだそうだ。悲しいもんだよね。でも、あのひまわり畑は本当に見事だった。きれいだったよ。自分がまだ花を見て感動できるってね、それにも驚いたけどね。あれはでも、いや、きれいだった」

 腕を組み、目を細めて遠くへ視線を走らせる。

「ひまわり……」

 稲村のデスクに生けられていたひまわりを、鳴海は思った。子どもの手のひらほどの大きさしかなかった、黄色い花を。

「ここへ来るときもいっぱい咲いてたぞ。あんたら見なかったのか?」

「このあたりでですか」

「いや、苫小牧からこっちへ来る途中だ。べつに近所っていうわけじゃないよ。いや、そう遠くもないはずだがね」

「発電所の事故以来、<機構>はあちこちにひまわり畑を作ってるんです。仕事柄、何か所かは知ってるつもりだけれど、このあたりにあったかどうかは、憶えていない」

「仕事……、あんた<機構>の人間なのか」

 うっすら伸びた無精ひげをつまみながら、男がさっとしゃがみこんで言った。とたんに目が鋭くなっていた。

「人間……、環境調査員もやっぱり<機構>の人間なんですかね」

「環境調査員?」

「ええ、まあ。休職中ですけど」

「環境調査員が煙草を喫っているとはね。びっくりだ」

「べつに禁止されてませんから」

「なるほど。で、環境調査員さんよ、どうだい、俺はまたひまわり畑が見たくなってきたよ。道案内はするから、つれて行ってもらえないだろうかね」

 煙草の火をねだったときのような屈託ない表情は、磊落な男の風貌とは不釣り合いに見えて、困惑を隠そうともしない怜の横顔といっしょに、鳴海はどことなくおかしかった。けれど鳴海はそんな光景を「おかしい」と感じている自分には、気づいていなかった。

「どのあたりですか」

「それはOKってことだな」

「場所を訊いてるいるんですよ、遠かったら、残念ながらご一緒するわけにはいかないでしょう」

「近くだな」

「近くってどの辺です」

「遠くないってことさ」

「だから、どの辺ですか」

「俺は歩いてここまで来たんだぜ、歩いてもそう遠くないところさ。場所か? 海岸線だよ、風車がいっぱい立ってた」

「風車、白い?」

「そう」

「ああ、それならわかる。たしかに、そう遠くはないけど、べつに近くもないですよ。歩いたら半日はかかる」

「半日か、俺はそんなに歩いた記憶はないんだがな」

 すっかり男のペースに乗せられた怜は、ポケットの中をもぞもぞと探っていた。車の鍵か。

「よし、環境調査員さんよ、決まりだな。あんたもいいのかい?」

 男は白い歯を鳴海に向けた。だまってうなずいた。

「いいのかい?」

 怜が訊いた。責任転嫁ね。鳴海はそう思ったがうなずいた。

「わかりましたよ」

 立ち上がり、怜はいちど髪に手櫛を入れ、小さく息をついた。太陽がまた小さな雲に隠れた。鳴海は雲の向こうの太陽を探した。「向日葵」のように、太陽を追った。


 怜がエンジンに火を入れると、男は頓狂な嬌声をあげた。いったいこの男は何歳なのだろう。鳴海はあいかわらず助手席、男は後席、鳴海の後ろ。荷物一式もいっしょにつみこみ、男はそれにもたれるよう座っていた。もともと後席は長時間人が乗れるようには設計されていない。男はいくぶん窮屈そうだ。身体をひねって居場所を確保している様がルームミラーを通して見える。怜はけれど男にかまわずステアリングを切り、道路に出た。

 鳴海は助手席で来るときと同じように窓を向いていた。今は運転席側に海、助手席側は樹木の少ない丘。男は車を街の方向に向けるように言った。

「どこです?」

 怜が訊く。

「なにが」

 後席でぞんざいな口調の男。排気音がやかましい。だからか、男は半身身を乗り出していた。

「ひまわり畑です」

 行くあてもないドライブはひとりなら気楽だが、得体のしれない男を乗せてとなると話が違ってくる。しだいにペダルに載せた足から力が抜けていく。

「もうすぐさ、もうすぐ。そんなに離れちゃいないよ」

「どっちへ行けばいいんです?」

「しばらくまっすぐだ」

「もうすぐって言ったじゃないですか」

「そう急くなよ、まだ昼をすぎたばかりだ。どこかで飯でも食べようじゃないか」

「ひまわりを見に行くんじゃなかったんですか」

「行くさ。その前に食事だよ。彼女だってお腹がすいたころじゃないのかな?」

 男は片肘を助手席のシートについて、鳴海をのぞきこんだ。なれなれしいふるまいなのに、男のしぐさにはいやらしさがかけらもなかった。

「どう、鳴海さん」

 怜が呼びかけると、鳴海はうたた寝からさめたような顔をした。

「……?」

「食事はどうかってさ」

「べつに、お腹はすいてないわ」

「つれないな。俺もおすすめの店を知っているわけじゃないからね。兄さん、どんなんだい、どこかないのか。じつはきのうから何も食べていないんだ」

 男はすっかり前席に半身をのりだし、人懐っこそうな笑みをふたりに向けた。

「ひまわり畑で種でもかじればいいじゃないですか」

「おいおい、放射性廃棄物を食えっていうのかよ、あんたもなかなか人のよさそうな顔をしてひどいことを言うじゃないか」

「言いすぎでした」

「素直だね。その調子でどこか食べ物屋まで乗せていってくれないか」

「知らないんですよ」

「地元だろう」

「地元って。こんなご時世に地元も何もあったものじゃないと思うんですけど。街まで戻れば、知らないこともないですよ」

「それは遠い。それに、あんたらに悪い。せっかくのデートをね、つぶしちゃ失礼だ」

 怜は吹きだした。デートとは、背筋がかゆくなる言葉だ。そんなつもりはなかった。ただ、海を見にきただけだ。

「道路沿いで、果物だとか野菜は売ってたな」

 ひとりごとのように、男。怜は窓を開け放った。

「それでいいじゃないですか」

「あんたらはいいのかよ」

「僕はかまいませんよ。鳴海さんは」

「わたしは、べつに、お腹はすいてないから」

「じゃあ、適当に走ってくれよ。ああ、もう少し坂を下ったら、右だ。右に行ってくれ」

「右ですか」

「ひまわり畑に連れて行く約束だろう。途中で飯を食える場所があれば、それでいい。なかったら、俺はひまわりの種をかじることにするよ」

 男はそう言って後席の荷物に身体をあずけてしまった。

「ひまわりの種か。しばらく食ってないな。悪くない」

 風、そして排いはいはいいは気音にまぎれて、ぼそりと男がつぶやいた。

 樹木の緑はもう黒味がかっていた。濃く、季節が定着し落ちついた色だ。樹木のあいだを縫うように、白く照り返すアスファルトがつづく。オレンジ色のセンターラインはところどころがはげていた。通る車のない、道。怜はステアリングをゆったりと握ってふと思った。はじめて港湾道路のプラットホームに降り立ってから、三ヶ月以上がたとうとしている。長い休暇だ。以前、同僚と作業車に乗って海岸線を目指していたころとは、驚くほど気分がちがう。視線の端にちらちらと見え隠れする水平線が、いまは懐かしさをともなっていた。そして怜は気づいた。自分が、海に敵意を抱いていたことに。

 そうだ、敵意だ。

 けれど、海水位の上昇をまねいたのは、自分たち自身だ。だとすると、怜が抱いた敵意は、すなわち自分自身に対する敵意ということになる。

 そうなのか。

 半袖の腕が陽射しに暑い。

 ルームミラーの中で男がけだるそうに首筋を掻いていた。

「どこまで行っても、森なのね」

 シートベルトに頭をもたれて、鳴海がつぶやいた。男が指示した道は、両側がうっそうとした森だった。

「樹、樹、樹。街に住んでると、目に痛いよ」

「街には、樹がはえていないの?」

「はえてるさ。申し訳程度にね」

「いい匂い」

「樹の匂い? ちょっと、ハッカみたいだ」

 セミの声が聞こえる。森の道で、エンジン音はすっかりセミの声にかき消されていた。

「もうしばらく行くと、分かれ道がある。そこを左だ」

 男の声が眠そうだ。目を閉じていたから、怜はてっきり男は眠っているものと思っていた。

「起きてたんですか」

「寝てたよ。気持ちよくて」

「道案内はどうしたんですか」

「してるじゃないか」

「寝てたんでしょう」

「起きてたよ」

 後席ですっかり男はもうなじんでしまっていた。街を出たときからいっしょに乗ってきたかのような、そんな顔をしていた。

「あんたたち、別々に暮らしているのか」

 男の言葉に、セミの合唱が重なる。

「別々って」

「きょうだいとはいかなくても、いっしょに暮らしているのかと思ってた」

「なんでそう思ったんです」

「似ているからさ。なんとなく、雰囲気がね」

「似てる?」

「最初はそう思ったのさ。なにをそんな、無駄に考えこんでるんだって顔をして、フェンスの向こうからやってきたのさ。あんたらは」

「そんな顔をしてましたかね」

「さあね」

 ルームミラーの中で男は涼しい顔をして目を閉じた。人を食ったような物言いだが、怜は彼がじつは言葉に飢えているように思えた。よく似た人間を怜は知っている。滑走路の端でいつ来るともしれない客を待っていた、あの元飛行気乗り。

「おとなしいんだな、あんた」

 男は鳴海に向けて呼びかけた。けれど鳴海は男の呼びかけに気づかなかった。数える気にもならないほどの樹、樹、樹。彼女は森を見ていた。人の気配がまったくしないのに、かえって寂しさを感じない。森はにぎやかだった。

「お姉さん」

 男がからかうような口調で鳴海を呼び、ようやく鳴海は横顔を向けた。

「無口なんだな、すまんね、うるさい奴とご一緒で」

「いえ」

 男は無精ひげをぽりぽりと音をたてて掻き、そのあとは黙り込んだ。実際どこか眠そうで、しばらく車内が無言ならばそのうちいびきが聞こえてきそうな顔をしていた。

「訊いてもいいですか」

 前を向いたまま、視線をルームミラーに走らせて、怜が言う。

「俺か?」

「ええ」

「なんだい」

「ずっと、そういう暮らしをしているんですか」

「そういうって、どういうことだい」

「渡りっていいましたっけ」

「ああ。もう半年、かな。それがどうした」

「<機構>は行政区をまたぐ移動を制限していると聞いてたから」

「そうなのか」

「知りませんよ、僕は海を渡ったことがない」

 男は鼻を鳴らし、そして身を運転席に乗り出した。

「<機構>は首都が水没して、その騒動を静めるのに躍起だった。そう言えば納得するかい」

「本当のところ、どうなんです」

 男はいちどは質問をはぐらかさないと気がすまないたちらしい。

「べつに制限なんてくわえられちゃいないさ。飛行機や鉄道に頼らなければ。てきとうにぶらぶら歩きまわったって、誰も怪しみやしないよ」

「そんなもんですか」

「そんなもんだな。気楽なもんだよ」

「でも、半年も旅を続けてるんですか」

「たった半年さ」

「その前はなにをやっていたんですか」

「なんだと思う」

「少なくとも<機構>の人間には見えない」

「正解だな。俺は<機構>の人間じゃない。でも、あんただって<機構>の人間には見えないね」

 シートに手をかけ、ミラーの中で男の顔が揺れている。

「そうですか」

「ああ」

「いままでどの辺をまわってきたんです」

 怜が訊くと、男はふたたび背をシートにあずけた。よく動く。

「東京を出て、ぶらぶらここまできたさ。半年かけて」

「東京に住んでるんですか」

「沈んじまったけど、あそこはまだ東京なんだろうな。三鷹だ。俺の家があるのは。わかるかい」

「地名だけ」

「だろうな」

 鳴海はだまったまま。切れ長な目は閉じているのか開いているのか、怜には判別しかねた。

「ずっと東京を出たことがなかった。だからさ。なんとなく、北海道に行ってみたくなったのさ」

「優雅ですね」

「こんな時代にか? あんただって、こんな平日の真昼間に、かわいい女の子を連れてドライブじゃないか。いい身分だよ」

「いい身分ですか。あいにく休職中の身分ですよ」

「環境調査員さんよ、休職中っていうけど、いったいなにをやらかした?」

 海を離れ、車は森の中を走り続けていた。しかしたいしたスピードを出しているわけではない。変化に乏しい車窓に、怜は距離感がわからなくなる。いまいったいどの辺だろう。

「べつに、べつになにもしていないですよ。ちょっと身体をこわしただけで」

「身体をね。こんな時代だ、何でもありだな」

「どういう意味です」

「深い意味はないよ。でもまあ、あんたは病人には見えないな」

「病人には見えませんか。これでも、<機構>の健康保健のお世話になっているんですけどね」

「身体をこわしたってのは、嘘だろう」

「なんでです」

「勘だよ、勘。俺はあんたのとなりに乗っている、かわいい女の子が関係あると思うね。どうだい、お嬢さんよ」

 無遠慮だが、敵意のない瞳が鳴海を向いた。

「海を、見たかったから」

 つぶやいた声は男に届いただろうか。それにしても排気音がけたたましい。鳴海は流れる森の緑を瞳に受けとめて、そっと言った。

「海を?」

「彼女、海を見たことがないって、そう言っていたから」

「それで、あんたが連れ出したってことか」

「ええ。ずっと<施設>にいるよりは、いいかと思ったので」

 言ってから、怜は言葉が多すぎたことに気づいた。初対面の相手に、少なくとも<施設>の話はすべきではなかった。しかも、得体の知れない男に。

「<施設>?」

 男はしかし、さほど興味をそそられた様子もない。とりあえず聞き返してみた、そういう雰囲気。

「僕が通っている病院というかなんというか」

 怜はサイドミラーをのぞきつつ、鳴海の横顔を確かめた。あいかわらずの白い肌。表情が硬い。

「病院ね。連れ出したってことは、あんたら入院しているのか」

「いえ、僕は、外来で」

「お嬢さんか」

 鳴海はうなずきもしなければ、否定もしなかった。

「そろそろだぞ」

 男は無精ひげに似合わないしなやかな指を突きだすと、ウィンドシールドの向こうを指した。

「ひまわり畑?」

「ああ、そうだよ。車じゃ行けない。そこに停めるんだな」

 蔦がからんだ電柱が一本。路肩に怜は車を寄せ、停めた。エンジン、停止。とたんにセミの声が耳を打つ。怜が先に車を降り、続いて鳴海、荷物をかついで男が降りる。まだ森の真ん中、木の葉をとおして陽射しがアスファルトに細かな模様を描いていた。

「ここから登る。十分もかからないよ」

 バッグを肩にかけて男はさっさと森へわけいってしまった。羽虫が残されたふたりのまわりをぶんぶん飛び回り、湿気を帯びた森の匂いが強い。鳴海はレンズのような目をちられと怜に向け、瞳で訊いてくる。行かないの?

「行こうか」

 怜は腰の銃をそっと確かめる。男に悪意がなさそうなのは感じていた。けれど、うさんくささだけはぷんぷん漂ってくる。

「こないのか?」

 樹木のトンネル、セミの合唱。男が呼ぶ。怜は首筋にとまった羽虫を手ではらい、またも獣道に足を踏みいれた。あの男、あんがい人間ではないのかもしれない。そうだ、彼から発散される匂いは、街ではかぐことのできない匂いだ。怜は鳴海を目で呼んだ。行こう。

 鳴海が足元を確かめるように、そう、いつか<施設>の中庭でしていたように、靴で土を蹴っていた。砂ではない、土を。

「暑いね」

 苦笑をまぜて怜が言う。

「平気」

 笑わない目、けれど温かいものが奥に見えた気がした。

「おい、置いていくぞ」

 男がなおもふたりを呼んだ。男の声は張りあげているわけでもないのに、セミの大合唱に負けず、よくとおる。



   四三、絵日記


 せっかく家を建てる場所がきまったのに、基礎工事も始まらない。

 ぼってりと雲が湧く空は、油絵の具でべっとりと塗ったような青さで、談話室はエアコンが稼動していた。白いテーブルをはさんで、真琴が氷水をちびちびと飲んでいる。気象通報を聴くまでもなく、晴れ、無風。屋上の風切り音もきょうはおとなしい。昼食を終えて、明日香はなんとなく談話室に残っていた。きょうはカウンセリングもない。氷を噛み砕く真琴は、学生の頃記録映像で見た木の実をかじるリスのようだった。冬眠にはまだ遠い。いまは、真夏だ。

 ふたりの指定席。窓から遠いふたりがけのテーブル。ドラセナツリーはきっとよくできた作りもの。屋上の温室で本物が栽培されているのは知っている。真琴から聞いた。けれど明日香は思った。造花でいい。そのほうがわたしには似合っている。子どもたちが育てる野菜を食べられないのは、けっして子どもたちのことを嫌っているからではなかった。もちろん彼ら、彼女たちの青いくらいの白目と、くっきり境界が引いてある瞳とまともに視線をあわせられないのは、明日香が実際子どもたちを嫌っているからだ。好きではない。あの子たちはなにを考えているのかわからない。しかし、それと野菜を食べられない理由はつながらない。

 あのトマトもセロリも、談話室で枯れることのないドラセナツリーもユッカプラントも、おなじだ。作りものだからだ。人は生き物を粘度細工のように、いともたやすく造りかえる技術を手にしていた。土壌のない畑で、一本の木から数千個のトマトを生み出すこともできる。型抜きでクッキーを焼くように、まったくおなじ遺伝子をもった家畜を量産することもできる。仮に明日香が腕を失ったとしても、目をつぶしたとしても、<機構>は新品の純正部品を用意してくれる。失ったはずの自分の腕や目と、そっくりおなじものを。

 そこまで考えて、明日香は目を閉じた。目の前の真琴が邪気のない顔をして、氷が融けるのを待っていたからだ。

「何を考えてるの?」

 真琴の声がずいぶんと近くから聞こえる。差し向かいで座っているのだからあたりまえなのに、明日香はふと自分が遠くにひとりで座っているような気分になっていた。

「明日香ちゃん」

 目をあけると、真琴はグラスの中の氷をくるくる回していた。音もたてずに。

「何も考えてないわ」

「明日香ちゃんは飲まない?」

「いらない。水は」

「そう」

 両手で顔をぬぐった。脂が浮いているようで不快だった。顔を洗いたい。

「有田さん、きょうは出てこないよね」

 真琴が氷を砕きながら言う。まるであめ玉でもかじるように。

「暑いから、部屋にいるんでしょ」

「気象通報では、きょうの最高気温、何度だって言ってたの?」

「……知らない」

「え、どうして?」

 きょうは、気象通報をまだ聴いていないから。

「アンテナの調子が悪いのよ」

「ふうん」

 真琴は怪訝そうに首をかしげ、席を立った。何杯目の氷水だろうと明日香は目で追ったが、真琴はグラスをそのまま給湯室に置いてきたようだ。帰りは手ぶらだった。

「もう飲まないの」

「うん。冷たいものばかり飲んでても、身体に悪いでしょう」

「めずらしい」

「明日香ちゃんがしゃべらないのも、めずらしいでしょ。カーテンは選んでくれた?」

「え?」

「もう。居間の窓にカーテンをかけるから、生地を選んできてねって言ったでしょう」

「ああ、『家』の話」

 明日香はなんとなく、今度は自分が氷水を飲みたいと思っていた。

「きょうは変だね。ちゃんと寝ていないんじゃない?」

「そんなことはないよ。寝てるよ」

「まぶたが腫れてる」

 言われて、明日香は指先でまぶたに触れた。すぐ下の眼球を感じて、すこし気持ちが悪かった。

「真琴はさあ、いつも何時ごろ寝てるの?」

「ええと、うん、何時だろう。わたし、時計を持ってないから。わかんない。明日香ちゃんは?」

「十時の気象通報を聴いたら、寝てる」

「いつも?」

「たいてい」

 ゆうべはアナウンサーがウラジオストックの気温を告げる前に眠ってしまった。薄手のタオルケットをかぶって、自分の汗の匂いをかぎながら。

「夜起きてても、することがないから」

「セルフ・チェック・シートは書いてる?」

「書いてないわ、そんなもの」

「河東先生、何も言わない?」

「言うよ。でも面倒だからさ。たまってるわ、三か月分くらい。あれ、まとめてぜんぶ出さなきゃならないのかな」

「できるわけないじゃない、そんなこと。憶えてないでしょう」

「憶えてない」

 言うと真琴が上目遣いに笑った。この子はどうしてこういう目をするんだろう。

「暑いね」

 真琴がささやいた。そのわりに汗もかいていなかった。氷水が効いているのだろうか。明日香は額に浮いた汗を手の甲でぬぐった。おかしな汗だ。談話室はエアコンで二四度に保たれているはずなのに。

「カーテン、決めてくれた?」

 テーブルの上で指を組み、真琴の声はか細い。

「真琴が好きな柄って何だっけ。まさかペーズリーとかじゃないよね」

「カーテンだよ。格子柄とか、無地でしょう」

「色は?」

「わたし、青が好き」

「青か」

「うん」

「海の色だね」

「……そうだね」

 明日香は喉に渇きを感じていた。やれやれ、真琴が伝染ってしまった。冷凍庫の中にたっぷりと氷が入っているはずだ。水を飲みに行くたびに、真琴が補充している。

「居間のカーテンだけでいいの? 二階の、真琴の部屋のカーテンは?」

「おんなじでいいよ」

「それじゃ、つまんないでしょ」

「緑がいいかな。壁紙は白だったよね」

「オフホワイト。アイボリーだっけ」

「アイボリーだよ。明日香ちゃんの部屋はどうだっけ」

「壁紙? 白よ、白」

「カーテンの色は?」

「ブラインドにしようかな」

「ブラインド、冬は寒いよ。カーテンのほうが暖かくていいよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 すっかり席を立つタイミングをはずしてしまった。考えれば考えるほど、水を飲みたくなってしまった。喉が渇いた。

「でも、いまからカーテン選んでもね。まだ建てる場所が決まったばっかりでさ」

 なんだかきょうは気が乗らない。明日香はけれど、そのことを悟られないよう、さりげなく話を終わらせようとした。

「明日香ちゃん、具合でも悪いの」

 一筋流れ落ちた汗をぬぐった明日香に、真琴が訊いた。顔をのぞきこむようにして。

「どうして」

「顔色が悪いから」

「どんな色してる?」

「頬っぺた、赤い」

「それって、顔色が悪いっていう?」

 両手で頬をはさんでみた。熱い。風邪をひきはじめた夜のようだ。熱っぽい。

「悪いよ。かわいいけど」

「やめてよ」

「どうして? お化粧してるみたいな色だよ」

「わたしにかわいいなんて言わないでよ」

 意図したより語気が強くなった。真琴はでも堪えた風でもなく、小さな手のひらを明日香の頬に伸ばした。

「冷たい」

 真夏なのに、真琴の指が冷たかった。そう、氷水のように。

「水、飲む? 持ってくる?」

 頬から手をはなし、真琴は子どもたちに話すような口調で訊いた。

「お願い。喉が渇いちゃった」

「わかった。待っててね」

 にっこり微笑んだ真琴は席を立つ。明日香は真琴の背中を一瞥して、目を閉じ、また両手で頬をはさんだ。まだ、熱い。熱が出ているのだろうか。風邪でもひいたのだろうか。もし風邪だとしても、ここはまがりなりにも病院だ。医師だってふたりもいる。心配はしていなかった。どうせ、日々することはない。ベッドにもぐりこんでいるのも、ここで真琴と永遠に住むことのできない家を建てるのもかわりはない。けれどそう考えたとき、明日香はひどく寂しさを感じた。

 どうしているだろうか。

 明日香はずっと鳴海のことを考えていた。触れることもできないカーテンの話などは、きょうはどうでもよかった。真琴には悪いと思ったが、いつもいるはずの席に鳴海がいないことのほうが、気になった。もっとも、鳴海はいつでも談話室にいるわけでもないのに。

「はい」

 目の前に氷を満載したグラスが置かれた。なみなみと水をたたえ、氷は澄んでいた。

「ありがとう」

 グラスを持つ指が冷たい。明日香はすぐには飲まず、テーブルから少しだけグラスを浮かせて、指先が冷えるのを待った。グラスはもうくもりはじめていて、はたしてエアコンがあまり効いていないのだとわかった。

「飲まないの?」

「飲むよ。喉渇いてたから」

 ひとくち。冷たい。痛いほど冷たい。心地いい。ふたくち目ですっと身体の中心が冷えていく。明日香の身体は熱を持っていた。水が一瞬熱を奪ってくれたが、やがて体温と同化していく。熱は冷めなかった。

「おいしい」

 正直な感想。おいしかった。めったに氷水を飲みたいとは思わないのに。

「どうしていつも真琴が飲んでるのか、わかったわ」

「ん?」

「暑いもの。夏だもんね。いまは」

 グラスにはまだ三分の二以上の水、そして融けきらない氷。水滴がグラスの表面を滑り、テーブルに落ちる。露点。

「あ、あたりまえじゃない。どうしたの、明日香ちゃん」

 真琴はテーブルに落ちた雫を指で伸ばす。

「夏休みの記憶って、真琴、ある?」

 グラスを顔の前にかかげ、ゆがんだレンズの向こうに真琴が見えない。

「夏休み」

「うん、そう。夏休み」

「夏休み、夏休み」

 グラスの底から結露した水滴がこぼれていく。小さいころは、グラスや冬の窓にびっしりとつくこの雫が不思議でしかたがなかった。

「普段から学校行ってなかったもん、夏休みの思い出なんて、ない」

「初等課程のころは?」

「……憶えてない」

「うそォ」

「明日香ちゃんは?」

「ラジオばっかり聞いてたよ。部屋で」

「それはいまでしょ」

「変わってないのよ。昔もいまも。小さいころのことなんて、わたしも憶えてない。思い出をさ、ちゃんと作れるような幼少期をおくってたら、ここにいないと思うけどね。で、わたしが憶えている夏休みって、部屋でラジオをずっと聞いていたってこと。わたしの部屋からはね、空がよく見えた。雲、雲、雲。誰もどこへも連れて行ってくれなかったから、ひとりでラジオを聞いて、雲ばっかり見てた」

「寂しいね」

 真琴は目を合わさず、抑揚もなく、言う。

「寂しいね。たしかに。ここで鳴海さんなら、雲の絵でスケッチブックを埋めちゃうんだろうけど」

 明日香はそう言って笑ったつもりだった。けれど、真琴はいつものように笑顔で追随してはこなかった。

「昔、鳴海さん、わたしたちとうちとけてくれなかったころ、よく絵を描いてたよね」

 目を伏せたまま、真琴が言う。

「うちとけてくれなかったころ?」

「うん。わたしも明日香ちゃんも、入所したのって時期が近かったから、ときどき会ったら話とかしてたけど、鳴海さん、わたしが入ったときにはもういたから、話しづらくて。談話室にもほとんど出てこなかったでしょう」

「そうだったっけ」

「明日香ちゃん、憶えてない?」

「クロルプロマジンのせいかな」

 解けたばかりの氷水は痛いほどに冷たい。ひとくち。

「いまでもそうだけど、鳴海さん、よく中庭で絵を描いてた。晴れた日は。雨が降ってるときは、一日中部屋にこもってるみたいで、ぜんぜん出てこなくて。憶えてない?」

「いまとぜんぜん変わってないと思うけど」

「いまはほら、わたしや明日香ちゃんが話しかければ応えてくれるし、食事だってここで食べていくし、食事の後もしばらくここに残っていたりするじゃない。でも、昔は、一週間も二週間も顔を見ないことだってあったなって」

「そうだったかな」

「うん。そうだよ。だって、わたし、鳴海さんと仲良くなりたかったから」

「仲良くなりたかったって?」

「なんとなく。いっつも遠くを見たり絵を描いたりして、すごく寂しそうで。だけど、誰も寄せつけない雰囲気があるでしょ。だから。仲良くなれればいいなって思ってた」

「ここは学校じゃないんだよ」

「学校みたいなものだと思ってた。いまでもそう思ってるけど。で、わたしね、鳴海さんが下の待合室でひとりでいるとき、思いきって話しかけたのね。なんて話しかけたのかは憶えてないけど」

「へえ」

「そうしたら、言われちゃった。『ほっといて』だったか、なんかそんなこと」

「『終わりが見える』って?」

「ううん、そのことはもうずいぶんあとで聞いたの。そのときは、ただ、なんか『わたしにかまわないで』みたいなことを言われて、わたしショックで、そのまま部屋に戻って寝ちゃった」

「寝ちゃった?」

「ショックだったんだもの」

「そうか、真琴もまだ入ったばっかだったもんね」

「うん」

 切れすぎる剃刀。しかも刃は内側を向いているから、他人ではなく自分を切り裂いてしまう。

「春の終わりころだっけ。鳴海さん、嵐の日に飛び出していったでしょう。憶えてる?」

「それは、憶えてる。白石さんが通いはじめたころでしょ」

「うん。あれ、きっと白石さんが鳴海さんと仲良くなろうとしたのね。たぶん」

「そうなの?」

「さあ。くわしいことはわかんないけど。あの日、わたし音楽室でオルガン弾いてたの。子どもたちが歌って、わたしが弾いて。廊下から、鳴海さんがのぞいてるの、見えた。となりに白石さんがいた。そのすぐあとだもん。鳴海さんが外へ飛び出していったの。きっと、見えちゃったんだと思う」

「『終わり』が?」

「きっと」

「鳴海さんにくわしく訊いたことないけど、どういうことなのかな。『終わり』が『見える』って。真琴は知ってる?」

 真琴は明日香のグラスに指を伸ばし、曇った表面をつっとなぞった。雫が流れる。

「知らない」

「訊いてないの?」

「訊けないよ。なんか。やっぱり」

「ふうん」

 明日香はグラスを取り上げ、ぐっとひとくち氷水を飲んだ。味のない、水。限りなく蒸留水に近い、なんの変哲もない味。このあたりの地下水は塩分を多量に含んでいてとても飲めない。かぎりある電力で、蒸留しているだけだ。だから、味がしない。

「白石さんに連れて行かれちゃったね」

 グラスの中で氷が音をたてた。真琴の上目遣いが、明日香を向いていた。きょうの彼女の目は、おどおどとしたいつもの瞳ではなく、どこか優しさに満ちていた。

「帰ってくるんでしょ。夕方には」

「外泊の準備はしてなかったみたいだから」

「……行きたかったんでしょう?」

「誰が……?」

「明日香ちゃんが」

「どこへ?」

「外へ」

 外へ。真琴の肩越し、窓の向こうの夏。誰かがはずしたのか、タッセルが床に落ちている。ほどけたカーテンは揺れようともしない。風がない。

「前にも言ったでしょう。わたしは、行かないわ」

「海を見たかったんでしょう」

「誰が?」

 こんどは目で答える真琴。

「ただの水溜りでしょ。べつに見たくないわ」

 勢いをつけてグラスの水を飲み干した。きりきりと頭が痛い。ふと、記憶の扉がすっと開く。夏の思い出? アイスキャンデーをかじった昼下がりの、懐かしい頭痛。

「夏休み……」

 気がつくとつぶやいていた。

「夏休みだもんね」

 だから鳴海は行ってしまった。怜が誘ったのだ。(海に行こうよ)。

 季節感のかけらもない<施設>の談話室でふたり、せいぜいが氷水のグラスを空けるだけ。春もない、秋もない、冬もない。喉が渇く。

「もう一杯、欲しいな。真琴はいらない? 持って来るよ」

「水でいいの? 冷蔵庫にレモネードが入ってたよ」

「水でいいのよ。レモンっていったって、どうせ、ここの屋上で作ったやつでしょう? 水のほうがいいわ」

 席を立つと、真琴があきれたように首をふった。頑なすぎただろうか。でも、本音だ。子どもたちが手がけたここの植物は、できることなら触れたくなかった。

(わたしも、同じだから)

 たった数瞬、真琴に無言で話しかけてみた。けれど真琴はきょろりとした目を邪気もなく向けてきただけで、明日香の言葉は届かなかったらしい。

「じゃあ明日香ちゃん、わたし、レモネードね」

「冷蔵庫の中ね」

「すぐわかるところに入ってたよ」

「わかった」

 レモネードの場所はいい。席を立ってから気づいた。明日香はグラスがいったいどこにしまってあるのかを、知らない。



   四四、ひまわり


 鳴海はまぶしさにめまいがした。黄色、一面の黄色。隣で怜が嘆息を漏らしていた。

「こんなところあったんだ」

「おや、環境調査員さんよ、ここを知ってるんじゃなかったのか」

 ひまわり畑の入り口で、大きな花弁と背比べをするようにして立つ男が、怜をからかうような口調で笑った。

「来たことはなかった……地図でしか知らなかった。ここにひまわり畑があるってことしか」

 男はひどく満足げにこちらに背を向け、畑の真ん中へと分け入っていく。それにしても広い。丘の頂点まで、ひまわりの花は筆で塗りこんだように黄色く溶け込んで、そこに突き刺した風車……白い風車が一、ニ、三……八基はあるだろうか。空の青とひまわりの鮮やかすぎる黄色のコントラストが目に痛い。丘一面に咲き誇るひまわりは距離感を狂わせ、はたして風車がどれくらいの大きさなのかがわからない。怜がふらりと夢遊病者の足取りでひまわりにはさまれた通路を行く。背の高いひまわりはみないっせいに空を向いているのだけれど、おなじ方角を向いているものは少なかった。あんがいてんでな方を向いて、重そうな花を夏の風に揺らせていた。男はふたりを置いてずんずん進んでいく。気ままに。

 足元の土は乾いて硬くしまっていた。鳴海もまた、白昼夢を見ている気分だった。どこか身構えている自分に気づき、悲しくなった。けれど、見えなかった。不思議と『終わり』が見えてこなかった。ひまわりはみごとに咲いているが、けれど、感情を感じなかった。小さいころ、満開の桜を見上げて感じた底なしの寂しさを、いまここでは感じない。どうしてなのか、鳴海はこっそり気づいていた。この畑は見るものがいない。怜の話が本当なら、一面の花々はやがて焼却され、ガラス詰にでもされて地中深く埋められてしまうのだろう。ただ咲くだけに咲いている。そのことじたいが悲しかったから、その先の『終わり』が見えてこなかった。きっともう、すでにひまわりは『終わって』いるのだ。

「どうだい、捨てたもんじゃないよな」

 男が叫んでいた。いまにも走り出しそうな満面の笑みで、怜を呼んでいた。

「早く来いよ、こっちからの眺めがいいんだ」

 男はもう丘の頂点にさしかかろうとしていた。怜はまだ五合目にも到達していない。鳴海はさらに遅れて、まだ畑の入り口から少し。羽虫の羽音がうるさい。風車がゆったりと回転していた。

「誰もいないんですね」

 怜が男に向かって言った。声を張りあげるようにして。無言のひまわりの列を横目に。

「俺たちだけだ。いいじゃないか、貸切だ」

 両手を空に突き上げて、男が叫ぶ。奇妙な光景だった。およそ花畑など似合いそうもないはずの彼の姿が、くっきり見えた。浮いているのではなく、ひとつの構図として。

 森を抜けてどれくらい歩いたろうか、鳴海はそっと立ち止まり、ふりむいた。斜面は急ではなかったけれど、黒く繁る森は眼下にあった。道路はずっと深い森の中を走っていたから、丘陵を埋め尽くすこのひまわり畑には気づかなかった。それにしても、陽射しが強い。けれど風が流れていたから、暑くはなかった。見れば遠く、街がとろりとした熱気に沈み、ここから見ると海が広がってきているのがよくわかった。大雨が降ったあとの水溜りのように、でたらめな海岸線が平野を侵食していた。<施設>はどのあたりだろうか。鳴海は探したが、まるでわからなかった。

「鳴海さん、疲れた?」

 怜の声。いつから立ち止まっていたのだろうか、ずいぶん先を歩いていたはずなのに、追いついてしまった。鳴海の数歩先に、目を細めて首筋をなでる怜がいた。

「だいじょうぶ」

「調査員やってたころは平気だったのに、僕は少しやられてしまったよ。暑いんだ」

 額に汗が浮かび、怜は手の甲でそれをぬぐった。風がときおり強い潮の匂いを連れてくる。

「そんなに、暑い?」

 足元に黒く落ちた影。鳴海は照りつける太陽が頼もしかった。

「暑いよ。痛いくらいだ、陽がね」

 ひまわりが揺れる。いっせいに葉が擦れる音が丘いっぱいに漣のようだ。雲が白い。

「早く来いよ」

 男が頂で手をふっていた。旧知の友人を呼ぶように。なれなれしさより、人懐っこい笑顔がひどく寂しげに鳴海には見えた。無頼を気取っているふうだった男は、きっと寂しくてしかたがなかったのだ。そんな気がした。半年も旅を続けているから? いや、たぶんそれはちがう。

「行きましょう」

 怜は首筋をなでつつ、ふたたび歩きはじめた。頂までは、あともう少しだ。並ぶ風車はどれも大きい。どこかしら遠近感が狂っている畑の中で、白い風車はますます大きさがつかみかねた。まるで、不思議な夢の続きのようだ。一面のひまわり畑、濃密な夏空、見上げるほどの風車。現実感が乏しかった。夢でなければ、一枚のキャンバスに迷いこんでしまったのかも知れない。

 やがて丘の頂上にたどりついたふたりをむかえた男に、先ほどまでの笑顔がなかった。

「どうかしました?」

 無理にはしゃいで疲れてしまった子どものような顔。怜は彼の横顔に問うた。

「どうだい、ここは」

「こんなところがあるなんて、知りませんでしたよ」

 男は小刻みにうなずき、ひとつ大きく息を吸い込んだ。

「ひまわり、ひまわり。いったい何万本咲いているのか、見当もつかない。それに、どうだい、この色」

 目を細め、黄色に染まった丘全体を男は睥睨する。

「あんたらにどう見えているのか知らないけど」

「……きれい、ですよ」

「きれい、か」

 怜の言に男は小声で応える。

「俺には見えないんだ」

 鳴海ははっと男の目を探した。瞬きをほとんどしない男の目は、ガラス球にも似ていた。

「見えないって?」

 怜が問うと、男はその場に座り込んでしまった。

「黄色いんだろう、ひまわりって花はさ」

「見たままじゃないですか」

「あんたは、俺が自分と同じようにこの畑を見ているって信じてる。そうだろう」

「見えてないんですか」

「見えてるさ。風車も、ひまわりも、海も、空も」

「だったら」

「俺はね、色弱なんだ。色がわからない。ものの濃淡しか感じられないんだ」

 異様なほどに澄み切った男の目を、鳴海はのぞいていた。彼の横顔を。

「見えない……って、色が?」

「そうだ。環境調査員さんよ」

 風車が風をつかんでゆっくりと回っている。

「空の色も海の色も、灰色でしかないんだ。もっとも俺は、灰色がどんな色なのかもわからないんだがね。でも、花の色は感じることができるよ。福島でこことおんなじようにひまわり畑を見たとき、たしかに俺はひまわりだと感じだ。一面、おそらく黄色で埋まっているんだろうと、感じることができた。空の色とも、樹の色とも、もちろん海の色ともぜんぜんちがう。これがひまわりの色なのかってね。でも、俺はあんたらが見えてるひまわりを同じようには見えていないんだ。だから、よく見ておくんだね。俺の分も」

 鳴海は男の目をのぞくのをやめた。

「空と海が溶けるんだよ。俺の世界ではね。境目がはっきりしないんだ。ぼんやりとしていて、どこからどこまでが海なのか、どこからが空なのか。なんでも線を引きたがるんだな、人間ってさ。無理やり線を引こうとするから、道理が引っ込んじまうんだろうな。……環境調査員さんよ、火を貸してくれないか」

 怜はだまってライターを渡す。澄んだ金属音を鳴らして点火、手のひらで風を避けながら。

「この色は何色だ?」

 火を点けた煙草を深く喫って、まだ燃えつづけるライターを見つめて男はつぶやいた。

「わかるかい?」

 丘の頂点に三人、回転を続ける風車、ひまわり畑には誰もいない。

「腹が減ったな。昨夜から何も食べてないんだ」

「何か食べに行きますか?」

 怜も煙草を取り出した。点いたままのライターを男は差しだし、そしてそこで火を消した。風の音だけが残った。

「ひまわりの種はごめんだな。食べた気がしない」

「食べたことがあるんですか」

「あるさ。子どものころに。あれでなかなかうまいんだ」

「知ってますよ」

「まあいいさ。ひまわりの種以外だ。国道沿いに何か食わせてくれそうなところはなかったのかな?」

「三三七沿いには人っ子一人住んではいませんよ。江別まで出ればあるんだろうけど」

「遠いな。川を渡らなきゃならない。落ちてない橋を知ってるのか?」

「来た道を戻れば、一本、知ってますよ。通ってきたばかりだ」

「お嬢さんはもういいのかい、ひまわりは」

 煙草をふかすふたりは本当に旧知の友人どうしに見えた。鳴海はどう応えればいいのか、しばし考えた。

「わたしも、お腹がすいたから」

 そんな答えしか用意できなかった自分が、つまらない人間に思えた。

「よし、環境調査員さんよ、食い物を探しに行こう」

 うってかわって、おどけた調子で立ち上がり、男は煙草を消してポケットに入れた。


 給湯室のシンクは鏡のように磨き上げられていた。二畳ほどの広さで扉はない。廊下に面しているわけだから窓からの光を背に受け、蛍光灯をつけないと手元が暗い。冷蔵庫がサーモスタットを起動させていたから、低いうなりが終始耳を打った。給湯器を真夏のいま利用しようと思う入所者は少ないにちがいない。だからだろう、電源が入っていなかった。

 明日香が前に入っていた施設では、燃料電池の余熱を利用した給湯システムで、それこそ湯水のごとくお湯を使えた。けれどここは、この<施設>では、電力がけっして潤沢とはいえない環境だから、エアコンの温度設定も高いし、消灯時間にはきっかり、廊下の照明はすべて、常夜灯を残して消えてしまう。事務室で職員が配電盤を管理しているから、入所者がかってに廊下の照明を入れることもできず、したがって消灯時間以後は薄ぼんやりと足元だけを照らす常夜灯を頼りに出歩くしかない。

 冷蔵庫を開けた。開けてから、明日香は真琴のグラスを用意していないことに気づいた。小さな食器棚が冷蔵庫の対面にすえつけられていた。マグカップ、グラス、湯のみ、茶碗。持ち主の性格、容姿、それらが伏せて並んだ食器にあらわれている気がした。明日香のカップはここにはない。もともと明日香は自分のカップを持っていない。せいぜいが歯磨き用のカップくらいのもので、コーヒーも飲まず、真琴のようにクラッシュ・アイス山盛りの氷水を飲む習慣もないから、食事時にプレートといっしょに登場する、<施設>の備品以外のグラスに触れたことがない。何年か前まで、一階のエントランスの公衆電話の横に自動販売機が置いてあったらしいが、外来もなく、入所者の誰も利用しなくなってしまったのでいつのまにか撤去されてしまった。ジュース好きの真琴はそれを聞いて残念がっていたが、「屋上直送」のフレッシュ・ジュースを飲みはじめてからは文句も聞かない。明日香がまったく「屋上産」の果物や野菜に積極的に触れようとしない理由を、真琴は訊いてこない。訊いてこないから話さない。話すつもりもなかった。

 老婦人のマグカップが手前から二列目に伏せてあった。見覚えのある白く大きなマグカップだ。きょうは彼女の姿を見ない。部屋にこもっているのだろうか。今までそんなことはなかった。いつだって食事は談話室でとっていたし、食事のあとは窓辺近くの椅子に座って、このマグカップにお茶を淹れて飲んでいた。白髪、くすんだ肌、それはすべて本物。前世紀の記憶そのもの。明日香も真琴も鳴海も、もちろん稲村も河東も、あの環境調査員も知らない、こんなに変わる以前の世界を生きてきた証拠。

 明日香は老婦人と面と向かってしゃべったことがあまりない。老婦人もまた、自発的にしゃべろうとしない入所者と会話をしない。だから、明日香は老婦人としゃべったことがほとんどない。けれど、姿はいつも見ていた。いなければ、そこだけぽっかりと空白ができたようで居心地が悪い。たとえば白い横顔がいつも物憂げな鳴海がいないきょうのように。

 冷凍室の扉を開けると、山奥に流れる滝のように、ひっそりと音もなく、霜が流れた。部屋の中は永遠の冬だ。電源を切れば……自分たちの世界ができあがる。氷が溶け、流れ出る。

 明日香は自分のグラスにクラッシュ・アイスをつぎ込んだ。とがった氷は研究室で見た石英や、そうでなければ透明な石炭。南極から持ち帰られたという、バスケットボール大の氷の単結晶を見たことがあるが、それに較べればここの氷は純度が低い。混ぜ物だらけだ、地下水を蒸留しているはずなのに。

 すべて物質は結晶化することによって安定を得る。かたく外界と遮断し、内にこもる。するとここの入所者たちは結晶か。それにしては美しさがない。美しくない結晶など、明日香は認めたくなかった。だから、きっとわたしたちは結晶じゃない。

 食器棚をのぞきこむ。真琴のマグカップを探していた。そして気づいた。真琴のマグカップを、明日香は記憶していない。そもそも、さっき真琴が使っていたグラスがいったいどこにあるのかが分からない。上手に整理整頓をする人間は、他人が想像もしない場所に何もかもしまいこむ。逆に不便だ。真琴がそんなに几帳面な性格だとは知らなかった。

 食器棚の中段には扉がついていた。開けてみる。見つけた。整然と並んだグラスは水晶の洞窟だ。手前のひとつがしっとりとまだ湿気を帯びていた。真琴のグラスだ。開け放したままの冷凍室から、クラッシュ・アイスをひと山。給湯器の電源が入っていないことをもういちど確認して、蛇口をひねる。

 水流。

 人差し指を水流に突っこんでみる。

 冷たいのかぬるいのか。冷たいはずがない。いまは、真夏だ。地下水を蒸留しているとはいえ、濾過・蒸留の過程で水は真夏の空気に触れる。温度を失っていく。

 クラッシュ・アイスでいっぱいのグラスに水流を注ぐ。小気味いい音をたて、氷が溶けていく。真琴のグラスを満たしてから、自分のグラス。そこで思い出した。

(じゃあ明日香ちゃん、わたし、レモネードね)

 苦笑をせいいっぱいもらして、明日香は真琴のグラスをいったんシンクに空けた。なに、クラッシュ・アイスはいくらでもある。水がいくらでもあるんだから、氷だっていくらでも作ればいいじゃない。

 冷蔵室の扉を開く。

 トマト・ジュースの赤。これは毒々しくて嫌い。

 オレンジ・ジュースの橙色。これは着色したみたい。

 野菜のミックスは富栄養湖を思い出す。

 ボトルに入った透明な液体は、ミネラル・ウォーター? 誰かの私物か。

 トマト、トマト、トマト、オレンジ、レモン、レモン、ハムの塊がひとつ。レモネードの瓶はいったいどこだ。

 すぐわかるところに入っていると真琴は言っていた。

 ミルクの瓶、ミルクの瓶。ときどき食糧配達のおばさんが<施設>にやってくる。ミルクやハム、干し肉に生肉。魚。おばさんは音のしない車に乗ってやってくる。それが普通。今朝の喧騒を思い出す。暴力的な排気音、怜。ガソリン・エンジンなど、大学でも見かけなかった。戦闘機の余剰部品で組み立てたパルス・ドップラー・レーダーよりも珍品だ。

 ミルクの瓶を取り出した。まだボトルには三分の二以上のミルクが詰まっている。明日香はあのおばちゃんが運んできた(とかってに決めつけた)食糧なら問題なく食べられた。もっとも、出所はどこだか知れない。作り手も作られる場所もはっきりわかるここの野菜や果物のほうが、実はよほど信頼できるのかも知れない。でも、明日香はあの子どもたちが嫌いだった。子どもたちが育てる野菜や果物はもっと嫌いだった。

 ミルクの瓶の陰に、ひとまわり細い瓶が入っていた。薄い黄色がかった液体。レモネードはこれかな?

 瓶の口を開けて真琴のグラスに注いだ。明日香は不覚にも、レモネードから香る果実の匂いを心地よいと感じた。レモンの匂い。胸がすくような、爽快な香り。瓶の中にはスライスレモンが浮いていた。

 飲んでみたいと一瞬でも思ってしまった自分を、明日香は許せなかった。わけもなくいらだった。子どもたちの邪気のない残酷な笑みが眼前にふと浮かび、明日香はすんでのところでレモネードの瓶を取り落とすところだった。

 わたしは、水でいい。

 溶けかかったクラッシュ・アイスに、蒸留水。それでいい。ピュア。

 レモネードの瓶を冷蔵庫に戻し、明日香はシンクに背を向けた。正面に窓。向こうは怜の車が去っていった道路、そして荒地、並ぶ送電塔に架空線はない。

 戻ろう。両手にグラスを持ち、こぼさないようそっと給湯室を出る。出たところで読書青年とすれ違った。小脇にハードカバーの四六版を抱え、彼に表情はない。彼は明日香が入所したときにはもうすでに読書青年だった。<施設>には小さな図書室があるが、行ったことはない。大切な天文年鑑と理科年表は、明日香の私物だ。最新版が図書室に行けば手に入るかも知れないと考えたことはあったが、一階のずっと奥、職員宿舎近くにある図書室までは、なんとなく足が向かない。

 読書青年の足音が角を曲がっていった。彼の自室がどこにあるのか、なんとなくは知っていたが、やはりくわしいことはわからない。希薄だ。あらためて感じた。ここの人間関係は限りなく希薄で、ドライだ。

 自分と真琴、鳴海の関係が特殊なのかも知れない。それにしたって、明日香と真琴、そして鳴海が完全にうちとけているとはとうてい思えない。さきほど真琴はもう三人が旧知の友人どうしのような言い方をしたが、それは誤解だ。間違いなく。とりわけ鳴海は距離を隔てた向こう側にいるように思えた。透明な壁の向こう側だ。

 おそらく心の奥、それもあんがい表層に近い奥では、たがいを信頼していない。それがここの空気だった。

 手のひらの中でもうグラスはうっすらと汗をかきはじめていた。

 戻ろうか。真琴が待ってる。

 自分にとって真琴は、やはり友人なのかもしれなかった。

 ひとりでは、生きていけない。たぶん。

 意固地にならず、自分も真琴がすすめるレモネードをグラスに注げばよかったと、一瞬ではあったが明日香は後悔した。その後悔を自嘲で打ち消して、明日香は談話室へと戻る。廊下の天井で、エアコンが稼動していた。

 廊下は一直線、つきあたりの壁がずっと遠くに見えた。実際の距離はさほどもないのかも知れない。ただもう明日香は何年も外の空気を吸っていない。中庭に出たことはあっても、外出をしたことがない。面会もめったになく、あったとしても談話室で両親と差し向かいになって、まるで裁判の被告席に座らされたような気分で短い時間を数えるだけだ。明日香はもう、外がどんな世界だったのか、感覚的に覚えていなかった。理屈ではわかっているのだけれど。

 その外の世界に、いま鳴海はいる。<施設>の中から完全に彼女の存在が消えた。彼が、連れて行ってしまったのだ。


 丘を三人で下った。先頭は怜、続いて男、最後尾に鳴海。登るときはひまわりと風車、そして空しか見えなかった。帰り道はちがう。正面に平野が一望できた。背の高いひまわりにはさまれた小道と、乾いた土。前を行く男が不意に立ち止まる。

「どうしたんです」

 途絶えた足音に気づいた怜も立ち止まる。男はにやりと笑ってポケットからナイフを取り出した。怜はかすかに身構える気配を発したが、手を腰にまわりしたりはしなかった。

「護身用だよ、俺もね」

 男は笑顔のままで一本のひまわりに手を伸ばした。

「これがいいな」

 すばやくナイフを茎に当てると、花弁のすぐ下からひまわりを切り取った。

「どうするんです」

 怜の問いに、たったいま摘んだばかりの花を下げ、さあね、とでも言うように首を振った。

「あげようか」

 男は鳴海にひまわりを差しだした。大きく、たおやかで、黄色がまぶしい。

「放射性廃棄物はいらないか」

 笑顔はそう、差しだされたひまわりに似ていた。考えれば、三人は自己紹介もしていない。男をどう呼べばいいのか、鳴海は知らない。もちろん、男も鳴海の名を知らない。怜の名も知らない。

「ありがとう……」

 鳴海は差しだされたひまわりを受け取った。

「安心しなよ、放射能なんてたかが知れてる。俺が住んでいた街に比べれば、ここの汚染なんて取るに足らないよ。そうだろう、環境調査員さんよ」

 怜は答えに窮しているようだった。鳴海には受け取ったこの大輪が、目にも見えない毒をたくわえているようにはとうてい見えなかった。

「君みたいなかわいい女の子に手渡すのがひまわりとはね、俺もデリカシーがない」

 言いながら男はまたべつの一本にナイフを当て、新たなひまわりを摘んだ。

「環境調査員さんも欲しいか?」

 男は答えも聞かずに、切り取ったひまわりを半ば強引に怜に渡した。

「種はまだ食えないけど、部屋にでも飾ってくれよ。夏の思い出だ」

 歯を見せて男は笑った。笑顔に屈託はなく、言動に躊躇がなかった。

「夏の思い出、ね」

 受け取ったひまわりに視線を落として、怜は苦笑していた。重く、大きく、立派で、夏の太陽そのもののようなひまわり。

「帰ったら、絵日記でも描かなきゃならないですね」

 ひまわりに目を落としたまま、怜の声は笑をこらえていた。そう、男のように、屈託のない、笑いだった。

「絵日記か、そりゃいいや。いいアイディアだ」

 絵日記。鳴海はスケッチブックを広げたままの、<施設>の自室を思い出す。部屋を出たのがずっと昔のことのような気がして不思議だった。そんなに遠くへは来ていないのに。来ていないはずなのに。けれど、長年<施設>という閉鎖された場所で暮らしてきた鳴海に、きょうのドライブは旅行にも等しかった。目の前の男は、旅先でであった奇妙な旅人だ。いや、彼は実際に旅人なのだけれど、まるで小説の中の登場人物のようで、どこかしら現実感に乏しい。

「帰ったら、描いてみますよ。もっとも、絵なんてしばらく描いたこともないですけど」

「俺もだ。俺も三鷹の家に帰ったら、今回の旅の絵日記でも描いてみるさ、思い出しながらね」

「カメラも何も持ってきていないんですか」

「撮ったとして、どこで見る? あっちはこっち以上に電力事情が深刻でね。目で見て憶えるのがいちばん手っ取り早いのさ」

「それもそうかもしれませんね」

 ひまわりを手に、鳴海と、怜。手ぶらの男。だから、鳴海は訊いた。

「ひまわりは、いらないんですか?」

「なんだい?」

「自分の分の」

「俺の分か。カバンに挿して歩いてみるかい。ちょっと滑稽だな。いや、せっかくだけどやめておこう。じきに枯れてしまう。花瓶に挿しておくのならいいだろうが、ひまわりがかわいそうだ」

 男の言葉に、怜は鳴海を見た。鳴海も男の言葉に胸の奥がかすかに震えた。枯れていく、花。その光景が、ふっと浮かぶ。おぼろげに、しかしやがては明確なイメージとして。

「花は土の上で咲いているのがいちばんだからな」

「だったら」

 鳴海はイメージを払拭しようとするかのように、口を開いていた。

「どうして摘んでしまったんですか」

 言われて男は、首をかしげた。

「さあてね。君らに似合うと思ったのさ。夏の思い出さ。大事にするんだな」

 両手をひろげ、男は片目を閉じて鼻を鳴らした。

「行こう。俺はもう腹が減って死にそうだよ」

 男はナイフをしまうとさっさと歩き始めてしまった。ひまわりを手に鳴海と怜は顔を見合わせ、どちらともなく微笑んだ。

 ひまわり畑を抜けて森の中へ。セミの大合唱と樹の匂い。まだら模様の光と影を踏みながら、子どもが雨の日に水溜りを避けて飛ぶように、男がステップを踏む。そう言えば怜も、傘をくるくる肩にのせて遊ぶ子どものように、ひまわりをまわしながら歩を進めていた。やがて、道路脇に停めた怜の車が見えてくる。

「鳴海さん」

 ポケットから怜はもうイグニッション・キーを取り出していた。

「ひまわり、持っててくれないかな。片手にひまわりじゃ運転できない。君が持っててよ」

 風が葉を揺らし、怜が陽と影の境界を行き来していた。鳴海はうなずいて一輪咲くひまわりを受け取った。命を絶たれたはずなのに、まだひまわりは生きていた。陽を浴びて、鳴海は『終わり』を見ることができなかった。それ以上に太陽がまぶしかったのだ。

「行きましょうか」

 運転席のドアを開け、怜は男に呼びかけた。男はアスファルトの上で腰に手をあて、伸びをしていた。意外に首が細かった。

「俺はいいよ。ここでさよならだ」

「え?」

 シートに乗り込みかけていた怜が返す。

「行かないんですか、いっしょに」

「ここから歩いていくさ。あんたらの邪魔をしちゃつまらないからな。森の中を歩くのも気持ちがよさそうだ」

「この先しばらく、何か食べさせてくれる店なんかありませんよ。何なら街まで乗せていきますよ」

 助手席側にまわった鳴海は、ドアを開けかねていた。道路の真ん中に立つ男は、スポットライトを浴びるように、ちょうど木陰と木陰のあいだ、陽射しの中に立っていた。その顔が陽を浴びて白い。

「遠慮しとくよ。来た道を戻るさ。海岸沿いをしばらくいくと、町があるみたいだ。今夜はそこで休むことにするよ」

「十キロ以上ある」

「わかってる。日が暮れるまでにつけばいいのさ。まだ日は高いし、このへんは物騒なこともないし、いいところさ。それに俺はまた海を見たくなってきた」

「さっき森が気持ちいいって言ったばかりじゃないですか」

「気持ちいいさ。森を抜けて、海を見るんだ。俺の荷物はそこに置いていってくれ。まだしばらくここにいるよ」

 言われても怜はすぐに男の荷物を道路に置きざりにする気にならなかった。だからドアに手をかけたまま、男を向いていた。ここから男と出会った海岸まで、十キロできくはずがない。トリップ・メーターの数値を覚えているわけではないが、いまから出発しても、夕方に到着できるかどうかも怪しい。

「乗らないんですか」

「ガソリンの匂いにやられたよ。はじめてなんだ。ガソリン・エンジンの車に乗ったのは。くさいしうるさいし、もうごめんだな」

 満面の笑みを浮かべて言い放つ男は、言葉とは反対に楽しそうだ。

「ふたり仲良く夏休みの絵日記でも描いてくれよ。描けたら俺に見せてくれ」

「住所も、そういえば僕はあんたの名前も知らない」

「俺もあんたらの名前も知らない。自己紹介をしようか」

 オレンジ色のセンターラインを、平均台の上を頼りなく歩くように、男は一歩、一歩、近づいてくる。

「俺のことは、そうだな、どんな名前がいい?」

 はぐらかすのがつくづく好きな男だ。怜はけれど、たしかにこの男に固有名詞は似合わないように思えた。どんな名前でもいい。

「僕は、白石、怜」

 先に名乗ってしまおう。そして男の出方を見よう。それでも本名を名乗るとは思えなかったけれど。

「……俺は、カワサキだ。カワサキ、ユウ」

 陽に目を細め、片足に重心を置いて、男はまるで他人の名前を言うように、名乗った。

「べつに川崎生まれじゃない。そういう名前なんだ」

 怜に追及されるのを見越したのか、男は首筋を軽くかきながら言った。

「わたしは、綾瀬、鳴海」

 両手にひまわりを持った鳴海が、名乗る。

「神奈川生まれなのかい? いや、こっちの話さ、なんでもないよ。それにしても、てっきり苗字だと思ってた」

 影から影へ、飛び石を渡る男。ステップが軽い。

「ナルミさん、なんて呼んでるからさ。この環境調査員さんがよ」

 ドアに手をかけたまま、怜は苦笑していた。自分も最初は「ナルミ」が苗字だと思っていた。

「こんなところで自己紹介なんてね。おかしなもんだ。べつに名前なんてどうでもよかった」

 ふたりのすぐそばまで戻った男が、歌うようにつぶやく。

「どうでもいい。……さあ、俺の荷物を出してくれ。歩いていく。さっさと出ないと、陽が暮れる」

 怜はドアを開け、後部座席の男の荷物に腕を伸ばす。重い。見た目よりずいぶん。

「重いだろう。俺の思い出がつまってるのさ。だから重い」

「爆弾でも入ってるんじゃないですか?」

「ある意味、爆弾かもな。前触れもなく、思い出っていうのはよみがえってくるのさ。どかんとね。爆弾だよ。……重いな、われながら。ありがとう」

 カバンを肩に引っかけ、くいこんだストラップに顔をしかめ、唇の端を持ち上げて男は手をふった。さよならだ。

「海沿いを行くよ。町がまだ残っているんだろう?」

「もうほとんど残ってないですよ。衛星写真でも見てみますか?」

「そんなものを持ってるのか。さすがは<機構>の一員だけある」

「地図ですよ。衛星写真から起こした」

「帰り道がわからなくなるだろう。いらないよ。道があれば俺は歩いていける。テントだって持ってるんだ。気楽なもんさ」

「自分で言いますかね」

「気楽だからさ」

 言うとさっさと男は歩きはじめた。彼によけいな動作はない。けれど無駄なことを全力でこなし、流れる汗をそのままにしておくようなばかばかしさも内包しているような、男は最後まで飄々としていた。怜は開けたドアに手をかけたまま、鳴海はひまわりを持ったまま、来た道を引き返していく男を見送っていた。もう少しここに残ると言ってから五分もたっていないのに、男は森の道を進んでいく。背中が隠れるほどの荷物も軽そうに、男の後姿が木漏れ日に揺れる。

「行っちゃった」

 口を開いたのは鳴海だった。

「ひまわりか」

 彼女の手にある二本のひまわり。大きさも色もほとんどいっしょ。彼の目にこのひまわりがどう映っていたのか、ふたりはわからない。色彩のない世界で、男はすべてを想像しながら生きていた。色を自ら作り出しているにちがいない。

「行こうか」

 怜は車にもぐりこんだ。シートに腰かけ、イグニッション・キーをひねる。たやすく始動したエンジンがけたたましい。一瞬セミの合唱が止まる。ほんの、一瞬。鳴海はひまわりを折らないよう気遣いつつ助手席に乗り込んだ。

「後ろの席に置いたら?」

 怜が言っても、鳴海は首を振った。

「傷んじゃうから」

 両手で包みこむように茎を持ち、花びらが窓やダッシュボードに触れないよう気遣いながら。

「夏の思い出だそうだよ」

 車をスタートさせ、ゆるゆると動き出した車内で、怜はつぶやいた。平淡な言い方だった。

「絵日記か。変わってる」

「描いてみれば?」

「僕が、絵日記を?」

「宿題」

 前を向いたまま抑揚もなく言った鳴海に、怜は吹きだした。

「宿題か。そうだね、宿題だ。夏休みの」

 ステアリングを握りつつ横顔をうかがうと、鳴海の頬が緩んでいた。伏し目がちな睫毛がかすかに震えていた。視線は二本のひまわりを向いていた。

「宿題か」

 陽を浴びたシートが人肌のように暖かい。エアコンがまだ効かない。怜は窓を全開にした。森の匂いが飛び込んでくる。排気音に負けないセミの声とともに。

「鳴海さんにも、夏休みの思い出なんて、あるのかい」

 クラッチをつないだだけ、アイドリングで前進。男の背中が見える。歩幅のリズムを刻んで。

「……。ないわ」

「ない?」

「白石さんには、あるの?」

 逆に訊かれ、怜は答えを探す暇にスロットルを開けた。排気音が高まる。男がちらりとふりむいた。怜は軽く手をあげ、彼を追い越す。鳴海とともに。彼女は目で男をなぞっただけだった。

「夏休み、か。ひどく暑い思い出しかないよ。発電所の事故の後遺症だとか、知ってのとおり海に遊びにいけるはずもなかった。だから、そう、僕にも思い出はないな」

 ウィンドシールドの向こうに見えていた男は、ルームミラーの中へ。またいつかどこかで会うこともあるのだろうか。

「おばあちゃんの家」

 右のカーブにさしかかり、ゆったりと曲がっていくそのさなか、鳴海がつぶやくように、まるでひとりごとのように言った。

「……川」

 こぼれ落ちる独白は、ようやく効きはじめたエアコンの冷風に乗る。

「川? 川に行ったの?」

「夜、明かりを点けた小さな舟を、川に流すの」

 左のカーブ。行きとは反対に。森はつづく。梢の先に青空がのぞく。

「ふたりで?」

「河原にはいっぱい人がいた。みんなが舟を流すの。川は明かりを点けた舟でいっぱい。ぼんやりと明るくて、河原の石はぬるぬるしてて、たくさんの舟が流れていくの。でもみんなが流れていくわけじゃなくて、橋にぶつかったり、かたむいて沈んだりして。わたしとおばあちゃんが流した舟は、でも一回も沈んだりしなかった」

「灯篭流しだね」

「灯篭?」

「宗教行事の一種。この国の古い行事だよ。死んだ人間の魂が、夏の終わりに帰ってくるんだってさ。帰りは灯篭に乗って、川を下って帰っていく。そんなしきたりだよ」

 短い直線にさしかかる。スロットルをあおる。速度計の針が時計回りに跳ね上がる。

「それが君の夏休みの思い出か」

「帰りに、かき氷を食べた。ふたりで。家まで歩いて帰った。堤防をはなれて、家までおばあちゃんとふたり、暗い道を歩いたわ。街灯が並んでて、虫が鳴いてた。おばあちゃんの家は、公園のそばに建ってた。……歩いたけど、どんな話をしてたのか、わたし、憶えてない」

「かき氷、か。僕は夏でも寒い街で育ってしまったから、あまり縁がなかった。灯篭を流すような川もなかったし、家のまわりは工場だらけだった」

 錆色の工場、火を吹き上げる煙突、港の貨物船、鳴き砂の海岸、みんな沈んでしまった怜の思い出。

「よかったじゃないか。君には夏休みの思い出があるんだ」

「いったいいつのことなのか、思い出せないわ。そんなこともあったって気がするだけ」

「いいじゃないか。……夏休みにおばあちゃんの家に旅行か、僕もそんな経験をしてみたかった」

 軽くブレーキ、上り坂、もうすぐ風景がひらける。すると空に融けこむ水平線が見えてくる。

「いつのことなんだろう。こんなこと、思い出したの、すごく久しぶりだわ」

 鳴海は両手で頬をはさんで、うなだれた。風に髪が舞い、そのとたん森が切れた。交差を、左へ。右手奥に、かすかに水平線が見える。石狩湾上空には、真っ白い積雲が湧き出していた。

「久しぶりだわ……」

 白い破線のセンターラインはところどころかすれて、アスファルトはがたがただ。来た道を帰る。

「その、おばあちゃんの家ってどこにあったんだい?」

 スピードは控えめに、鳴海が両手を添えるひまわりが震えていた。

「憶えてない」

 くぐもったつぶやきは、今にも排気音にかき消されそうだった。

「……わかんない」

 怜は窓をすべて閉じた。外界と遮断され、車内は排気音とエアコンが稼動するファンの音だけ。

「さあ、これからどうする? まっすぐ帰るかい? まだ、日は高いよ。稲村先生、夕方までに帰ればいいって、そう言ってたんだよね」

 うつむいたまま、鳴海は小刻みにうなずいた。

「南を回って帰ろう。森林公園まで行ってみるかい? 落ちてない橋があるはずなんだ」

 鳴海の反応はなかった。ひまわりが震え続けていた。

「君の家、森林公園のそばなんだろう? べつに寄ろうっていうんじゃない。近くを通るかもしれないけど。いいかい?」

 ぴたりと鳴海はうつむいていたが、ひまわりはまだ震え続けていた。返事を待つ。

「よし、じゃあ、南を回るよ」

 怜はクリップボードの地図を一瞥し、進路を探す。落ちずに健在の橋と、荒れず、車が走るのに耐えられる道路。怜が目指す森林公園までは三〇キロあまりだ。ただし前世紀の地図の上での話だ。国道が国道ではなくなり、川幅が倍近くに広がったいま、迂回に迂回を重ね、まともにたどりつけるとも限らない。けれど、怜はステアリングを南に向けた。

 視界の端に、震える二輪のひまわりを確かめながら。

 夏休みの思い出を、鳴海はたどっているのかも知れない。どんな記憶なのか、怜は想像するだけ。

 ひまわりはまだ、小刻みに震えていた。




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