■ 第6章 国際比較と人類の暴力傾向の継続
( ストレス、誇示、暴力性の文化的連関)
・ ストレスと暴力の相関関係
暴力性の発露には複数の要因があるが、近年の心理学・神経科学の研究では「慢性的なストレス」が衝動的・暴力的行動を誘発する重要な要因であることが明らかとなっている。ストレスが持続的に蓄積されると、前頭前皮質(自己制御や判断を司る領域)の機能が抑制され、扁桃体(情動反応の中心)が過剰に活動する。これが攻撃性や暴発的行動の背景にある。
・ 一般的な心理学の前提の逸脱
ストレスを感じる低さと不安や怒りを外に出さず、内面処理する傾向はストレス耐性を抜きに考えれば、一般的な心理学の前提では「内面に抑圧したストレスは蓄積し、悪影響を及ぼす」と考えられる。
一般的な心理学の理屈(西洋モデル)では「ストレス=発散しないと悪化する」抑圧や感情の抑え込みは不安・うつ・身体症状(胃痛・不眠など)に繋がりカウンセラーによる対処が一般的だ。
しかし日本の場合、不満や怒りを表に出さずに済ませる人が多いにもかかわらず、慢性的ストレスによる暴力・犯罪・逸脱行動は非常に少ない。さまざまな調査結果などでも主観的ストレス経験率が低い。
日本のカウンセリングを受けた経験のある人はわずか6%程度で、欧米と比較すると非常に低い利用率だ。
これは仮説として内面処理構造そのものの違い(自己家畜化の影響)と考えられる。
ストレス耐性の高さ、神経構造の変化(島皮質・前頭前皮質・扁桃体など)、セロトニン濃度が高いとされる民族的傾向により、抑圧しても内的に緩和されやすいと思われ、自己家畜化の影響により一般的な心理学の前提すら逸脱してしまっている。
そして多くの海外の方々に誤解されているのが日本人は働き過ぎと言われる事である。年間の残業はOECD平均より100時間少ないのが事実だ。極端なアニメの見すぎではないだろうか。
つまり日本はストレス社会だという主張は間違えである。
PubMed掲載研究(PMC11668040)では、77か国、成人4万人以上を対象に「あなたは過去12か月で強いストレスを感じましたか?」というアンケートがあるが、結果はトルコ:67.9%、ギリシャ:65.7%、韓国:62.4%、日本:29.1%と日本は圧倒的に少ない。
2024年、フランスの調査会社イプソスが発表した「世界メンタルヘルスデー」調査によれば、世界平均で62%の人々が「日常生活に支障をきたすほどのストレスを感じている」と回答した。最も高かった国はトルコ(76%)、次いでスウェーデン、ブラジル、ポーランドが続いた。一方、日本は最も低い44%であった。
これらに見られるストレス耐性はまさに家畜化症候群のコルチゾール(ストレスホルモン)の影響と考えられる。これは第2章で説明した通り、ストレス耐性を持ち、攻撃性、闘争性が下がるものだ。
そしてこのストレス耐性の高さと、日本における犯罪発生率の低さとの間には、明確な正の相関が見られる。すなわち、日本社会ではストレスの外在化が抑制される一方で、他国ではストレスの高まりが暴力や犯罪へと転化される傾向がある。
勿論、発散もある。
日本に古くからある祭りの多様性と数は世界的にかなり珍しい。ある種発散系となるものだが、海外では国主導であったり宗教主導であったりする物が多い。しかも日本の参加者はこれでもかと真剣に取り組む。
祭りは発散だけでなく地域の結びつきも強める。
同様にカラオケやゲームセンターなど海外には少ないが日本はこれらも多い。特徴として海外ではクラブなどナイトライフに限定されるのも大きな違いだ。学生、女性や子供達に人気のコーナーまで存在する。アルコールに頼らず健全に発散出来、争いも少ない傾向にあるこれらは日本の特徴的なものだろう。
なんと健全な発散である事か。
・確かに犯罪率は低いが単純比較するものではない
単純に犯罪の比較は難しい。
例えば日本は確かに10万人辺りの殺人の発生件数は低い。しかし多い国は銃社会である。これは非力な者でも殺人可能となるので単純比較は出来ないだろう。
更に日本は貧困だという説がある。これは貧困率によるものだが、それは食や住居に困っている人とは関係なく可処分所得の中央値の50%未満の人の割合でしかない。これは相対貧困であって絶対貧困ではないからだ。
フランスの経済学者トマ・ピケティは日本の貧困はレベルが違うと語る。つまり世界の常識の貧困と全く言えないと言うのだ。
つまり貧困率を元にそれを強調するのはややイデオロギーに問題があると言えるだろう。
では餓死者数や路上生活者数、生活保護支給数で比較すれば判るかと言えば日本は低すぎて世界比較は話にもならないレベルだ。
一般の話を比較するには貧困国ではなく、例えばOECD加盟国で食料不安率の比較をすれば日本は極めて問題なくGlobal Food Security Index(GFSI)はOECD平均では75であるが、2022年の日本のデータは79.5であり、かなり高くほぼ不安がない部類に入る。
これは単純に75以下は貧困ぎみであると言える。
イタリア 75.8、ポーランド 75.6、韓国 73.6である。
日本のスコアはOECDでも上位となり、非常に安定した食料環境を示している。
カナダなども日本より低いが平均以下ではない。
ちなみに中国は71.0、トルコ、ロシア等は推定で60〜70前後である。
ここで触れなければ誤解されてしまうのが日本食の美味しさだ。日本人は生きる為に食事しているのではない。味覚、視覚全てを楽しむ志向が旨さの本質へと繋がる。そして栄養学を多くがしっかりと理解している。つまりサプリメントでバランスを取るのではなく食でそれを行う。
ある種、日本ではカスタマイズ出来ない物が多いが自分の好きな物にばかりカスタマイズ出来る自由が良いか定食と言うプロのバランス食が良いのかは論争になるだろう。しかし健康をスケールにすれば論じるまでもないだろう。
米国の方の多くが野菜すら誤解している。
子供達に嫌いな物を食べさせる事が虐待で好きな物だけ食べさせる? 日本人に言わせればそれが虐待だ。
しかし、昨今の米の供給問題については食料安定法について政府が努力していたとは言い難い面があり、この上位を脅かすかもしれない可能性は考慮しなければならないだろう。
この絶対貧困を考慮に入れずに窃盗を比較する事は本来無理だろう。
また、スリなどの数も正確な国の把握にはなりづらい。例えば日本は驚く程特出して低いが、アイスランドなどは高い。アイスランドは単一民族として男女が付き合う際にDNA検査を行わなければならない程に血が濃くなっており、常識で考えればスリなど発生しないであろう国だが、世界的に見れば発生件数が多い。
これは外国人によるものであるが、この事実を言えば「差別」などと言われかねない。実際にスリは殆どが外国人によるもので寒すぎる事や温泉などが有名だが、観光立国は人口の数倍の外国人がやって来る。中には悪意を持って訪れるものも多いのだ。
被害も観光客が多く、観光地における「油断」も要因である。
これらを差別といって無視すれはその国の状態は理解出来ないだろう。
まあ、それらを抜いて比較しても、日本のスリや車上荒らしは極端に低いのだ。
・ 犯罪率の比較と文化的違い
世界的な統計においても、日本の犯罪率は極めて低い水準にある。例えば2022年の国連薬物犯罪事務所(UNODC)の統計によると、殺人発生率(人口10万人あたり)は、ブラジルが約27件、南アフリカが36件、アメリカは6.5件であるのに対し、日本は0.2件に満たない。この差は、法制度だけでは説明できず、銃社会などの文化的背景や社会的違いが大きく関与していると考えられる。
とりわけ注目されるのが、性犯罪率の低さである。アメリカやヨーロッパ諸国では、性的アピールを前面に出すファッションやメディアが主流であり、それが「誇示文化」として定着している。ゴージャスな美人観、肉体的魅力の誇示、性的な自己表現の自由が認められている一方で、逆に性犯罪の発生率も高くなっている。
これに対して日本では、性的コンテンツがアニメなどで視覚的に過剰に表現されているにもかかわらず、性犯罪率は極めて低い。この逆説は、「現実」と「表現」の区別が明確であること、そして根本的な攻撃性の低さに支えられている。
近年、これらのアニメが規制される流れもあるが、性犯罪率の低さは非難する者達を黙らせるだろう。
日本の芸能界にもゴージャスな姉妹はいるが、何故かLGBT的に遅れていると言われているにも関わらず人気が高いのは豊満なオネエキャラだ。
芸能界での多勢は幼いイメージの強さが目立つのも日本の特徴だろう。
・ 日本文化における暴力の抑制構造
このように、日本社会では暴力そのものが極めて忌避されている。言葉による非難すら躊躇される傾向があり、正しい論理的言い分すら炎上する現象がある。感情の爆発的表出も極端に少ない。これは自己制御能力の高さに加え、共感性の高さによって支えられている。「恥の文化」や社会的同調圧力も一因とはなり得るが、それらは表層的・文化的な現れであり、本質的には自己家畜化によって内面化された共感性こそが、こうした行動傾向の根底にあると考えられる。
そして自己家畜化によるストレスホルモンの減少はこれらの数値的理由となるだろう。
日本は人類史の中でほぼ例外的に、ここまで暴力を抑制し得た文化構造を持った国家であると言える。戦争の歴史や独裁支配、部族闘争に明け暮れた多くの国々とは対照的に、集団の安定と個々の抑制によって平和を構築してきた。この文化的抑制力こそが、誠実性の根源であり、他国とは異なる進化的経路を歩んだ証左でもある。
他にも多数あるあまりに低い犯罪率を出して日本を持ち上げるような表現は避けたいがこれは事実であるし私が示さなくても誰でも理解できると思われるので敢えて今回は省略する。
(後で追記するかもしれないが、それは暇な時に考える事とする)
・クロード・レヴィ=ストロース
有名な人類学者だが、本当に晩年、親日家として少し日本でも知られている。
当時のインタビューや映像は既に絶版となり、データが整理されておらず残っていないと言われる。それらの新聞社やTV局はややイデオロギー的に難があり、彼の話が再現されることはもうないだろうが事実を知るものも多いだろう。
彼はサルトルとの議論や学会の派閥争いなどもあったが、西洋文明に幻滅し人類の未来に悲観していた。
それらの答えはもっと原始的な生活を営む熱帯に存在するのではと求めたがそれすら幻滅に終わったのだ。それが著書「悲しき熱帯」である。
彼は断絶と支配の論理、近代化の暴力性、記憶と意味の喪失を嘆いていた。
これは侵略と征服を繰り返し、男系は殲滅し、宗教、文化は破壊し、新たに作り直す事を繰り返しているという意味だ。
その彼は晩年日本を知り度々日本を訪れている。
彼は日本文化に深い敬意を抱いていた数少ない西洋知識人の一人であり、その観察は非常に的確であった。
彼は失望していた断絶と支配の歴史ではない日本の縄文期から続く歴史にいたく感動しこれは人類にとってかけがえのない凄い事だと述べている。式年遷宮や日本の歴史的連続性を「素晴らしい」と評している。
式年遷宮は20年に一度、お宮を新たに建て替え大御神にお遷りいただく伊勢神宮最大のお祭りだが、これは予算の話という側面もある。しかし彼は「永遠の形」として捉えその凄さに感嘆している。
日本人の非暴力性、神話と融合した現代に繋がる歴史など彼が失望していた答えが日本にはあったと言う。これは人類史上唯一と言ってもいいだろう。
彼が日本に来たのは本当に晩年の話で、西洋文化に失望し熱帯に失望して人類を悲観していた彼が日本を知って少しでも救われたのならば良かったと思う。
彼の提唱した概念の1つに「ブリコラージュ(bricolage)」がある。これは、彼の構造主義的思考を代表する概念の一つであり、特に『野生の思考(La Pensée sauvage, 1962)』で詳述されているものだ。
もとはフランス語で「日曜大工」や「器用仕事」の意だが、彼はこれを思考様式(=知のあり方)の比喩として用いた。
ブリコラージュ的思考は「原始的」ではなく、異なる知的体系として正当なものとレヴィ=ストロースは位置づけている。
「再配置」によって新たな意味や秩序を生むのだ。
彼は明言こそしていないが、日本はブリコラージュの洗練された文明形態として解釈していた可能性がある。
日本文化はまさに「高度にブリコラージュ的」な文明形態と言えるだろう。
例えば、漢字は古代中国で組み合わせられたものが起源だが、その組み合わせた元は解明されていない。
壮大な文字体系で常識的に考えれば、圧倒されそれをそのまま使うのが普通だろうが日本は違う。
直ぐにひらがなを作り現代ではカタカナも合わせ日本に特化したものに再構築している。紫式部は平安時代に既にひらがなで『源氏物語』を書き、漢文では描けない内面・情緒・感覚を文学に昇華している。
仏教も日本に入って来ただけではなく、日本では神道と融合(神仏習合)し独自展開している。
着物も唐の衣制を取り入れながら、重ねや配色・季節感で独自美学を形成する。
料理などもそうだろう。
ラーメンも出汁を使い日本の味覚に昇華し既に日本料理と言っても良いがこれは中華と日本人は言う。
カレーなどもそうだろう。インド料理と言っても日本のカレーを食べればインド人もびっくりだろう。
極めつけはボルシチを真似た肉じゃがだ。これについては笑ってしまうレベルの再構築だ。これは別物にしか見えない。
例えば隣の韓国では李氏朝鮮時代にはそのまま漢字で漢文が使われている。本来はハングルを生み出し漢字とハングルをブリコラージュしてそれを使っていれば違う現在があったかもしれない。しかし日本統治まで使われず、訓民正音は「下層民の文字」として蔑まれ、知識人層では排除されたのが真実の歴史だ。両班にのみ漢字が許され他には使えるようにしなかったことが万葉仮名 → ひらがな・カタカナとしていった日本との大きな違いなのだ。
模倣とブリコラージュは決定的に異なるのだ。
起源はそれなりに大切なものだが、より大切なのはブリコラージュなのだ。人類は多い。その誰かが考えたものがどう文明に再構築されるかが文化になっていくのだろう。
この能力は日本人は異様に高いといえるだろう。
真に創造的な文化であれば「起源」よりも「変容・応用・洗練」に誇りを持つだろう。
このブリコラージュの力は、破壊と構築を繰り返すものではなく、融合の力だろう。
断絶ではなく「重層」によって洗練され変容する。
文化の受け入れとはまさにそれで、他の民族が小さな船で来ても男系を殲滅はせず受け入れる。
しかし、秩序外であれば村八分とする。
恐らくこれらは増えるであろう移民たちとの共生の鍵になるかもしれないが、村八分を差別と言ってしまうのなら移民そのものが成り立たない。
縄文期にあれだけの創造性の高い土器や土偶を作っていた文明は存在しない。
彼はそれを見てメソポタミアでもエジプトでもこんな凄い事はあり得ないと言うがそれこそが様々な敗者達のブリコラージュなのだ。
日本人のブリコラージュ的知性や協調的文化は、共感能力・攻撃性の低減・集団内調和を優先する傾向が極めて強く現れた結果と解釈出来るだろう。