■ 第5章 日本人における家畜化的特徴の観察と進化の深化
( 外見・行動・神経生理に見られる変化の蓄積)
・外形的特徴:丸顔・小顔・ネオテニー
筆者がかつてアメリカを旅行した際、球場でビールを買おうとして年齢確認を求められたことがある。実年齢より遥かに若く見られ、身分証の提示を求められるという経験は、一度ならず複数回あった。実際に海外に行った日本人の多くが、同様に「年齢不詳」に見られるという体験を語る。
勿論、アメリカでは年齢確認が義務つけられてはいるが、それは日本でも同じである。
民族が違えば確かに判断は難しくなるが、それにもまして日本人の年齢は判らないと彼らは言う。
これは単なる印象ではなく、日本人に特有の身体的特徴が背景にあると考えられる。
家畜化症候群に見られる代表的な外見変化には、顔の丸み、顎の縮小、歯列の小型化、毛色や体毛の変化などがある。日本人には、特に丸顔で小顔、目が大きく、幼児的な顔立ち(ネオテニー)が顕著に見られる。これは性成熟後も幼形成的な特徴を保持する傾向であり、社会的警戒心を下げ、集団内の協調性を促進する。
ホモ・サピエンスの研究において家畜化症候群のネオテニーの確証はなかなか得られてはおらず一部の説に留まる。しかし日本人には明らかなその傾向が見られるのである。
顔立ちだけでなく、日本人は身長が比較的低く、手足も短い傾向がある(特に手)。これは、同じアジア圏に属する朝鮮民族が比較的大柄で手足が長いことと対照的である。また、声のトーンも比較的高く、女性は特に幼さを感じさせる声質を持つ者が多い。
日本に時々いる大柄な人も、童顔である事が多い。
かつての日本は繁殖力が高く、戦後の人口増加にも見られるように、家畜化によって穏やかさと同時に子孫を多く残す生物的傾向が維持されていたと考えられる(現在は別の社会要因により減少中)。
また、日本の男性に顕著な傾向として、豊満な胸に魅力を感じるという性的嗜好がある。これは生物学的に言えば母性への憧れであり、ある意味で成体に憧れるよりも「依存対象」への接近である。これは、ヨーロッパの古典絵画で若さの象徴として小さな胸が理想とされた傾向と真逆の価値観であり、文化的にも生物学的にも、日本人男性の精神年齢の若さやネオテニー的傾向の裏返しとも言えるだろう。
・ 内面的特性:攻撃性の抑制と集団協調性
外見とともに、行動面でも家畜化の進行を示す兆候は明らかである。特に日本人における攻撃性の抑制と集団内での高い協調性・秩序感覚は際立っており、これは文化的要因だけでなく進化的適応としての可能性を含んでいる。
他人を強く非難したり、大声で争うような行為は社会的に強く忌避され、「空気を読む」「和を重んじる」といった行動様式が深く根付いている。これは、長期間にわたって攻撃的個体が排除され、穏やかで共感的な気質が集団内で受容・選抜されてきた結果であると見ることができる。
なお、犯罪発生率の国際比較や、非暴力性の実証データについては第6章以降にて詳述する。
・ 社会行動としての観察事例と文化的表出
良く言われている日本人が誠実である事例を簡単にカテゴリー分けして以下に記載する。
1. 正直・道徳的行動
落とし物が高い確率で交番に届けられる(例:財布・現金・スマホなど)
無人販売所で代金をきちんと置いていく
終電後に酔って寝込んでも盗難や暴力に遭わない場合が多い
飲食店やタクシーで支払い誤差を自ら申告・訂正する
無人の寺や神社の賽銭箱も盗まれにくい
2. 利他的・公共意識
地震・災害時に略奪が起きない/助け合いが自発的に発生する
列に無言で並び続け、割り込みがほとんど起きない
車内・公共空間で他人に配慮した静かな振る舞い(通話を控える、咳エチケット)
子供や高齢者に対して自然に手を貸す
障害者への配慮、スロープの設置、電車、バスの乗り降り
通学児童の列を車が止まって待つ
児童は渡らせてくれたことにお辞儀でお礼をする
誰にも邪魔されない空間(電車の中など)
ありがとうやすみませんを常に言い合う
道路工事などで通行人に深く頭を下げる姿勢が常態化
3. 勤勉性・責任感(約束の遵守)
時間厳守(5分前行動)や納期の厳守が当たり前
清掃当番や職務上の雑務も責任感を持って遂行する
電車が2分遅れただけでも謝罪アナウンスする
雪の日や台風時でも出勤・登校が続く
自営業者が無休で店を開け続ける傾向がある
宅配便や郵便の再配達を何度も無償で行う
4. モノ・空間への配慮
トイレや公共の場をきれいに使う、使ったあとに拭いておく
自宅でゴミを分別し、ルールを守ったごみ出しを徹底する
サッカー、野球観戦後の自発的清掃
ホテル利用時の後に清掃する人の為の整理整頓
シェアスペースや職場で他人が使いやすい状態を保つ工夫をする
5. 無宗教でありながら高い倫理意識を保つ
宗教に頼らずとも倫理的に正しいことを内面で判断し、自然に行動に移す
神罰や報酬を前提とせず、「見ている人がいなくても」正しくあろうとする
信仰に依らない良心的行動の継続性が社会全体に定着している
6.サービス、ホスピタリティ
レストランで出て来るおしぼり
何処の料理の配膳も向きを揃え丁寧に椀、箸など全てが正確で音を立てずに行われる
深夜でも変わらないコンビニレジの丁寧な対応
会計のお釣りを両手で落とさない様に丁寧に渡す
お土産包装など、渡す相手への心遣いが前提
タクシー乗車時に自動でドアが開閉され、運転手が丁寧に応対する
道を聞くと、この人は行けないかもと思われると自分とは逆方向なのに一緒に案内までしてくれる
海外の様な自由度のない選ぶ事の出来ない日本の定食はプロのバランスが取れたより良い食事
日本人の敬意は過剰なほどで、助けてもらったのに助けた時間がかかった事を謝罪までする
勿論、日本人全員がそうであるとは言わないが、これらの傾向はあるだろう。
これは日本人が内面に抱える家畜化的進化の影響が、日常の社会行動にも顕著に表れていると言えるだろう。
例えば、宅配便や郵便の再配達を何度も行う事は非効率的だと最近は置き配に変わる傾向がある。
そして置き配が盗まれる事は極度に少なく、あれば話題やニュースになるレベルだ。
アメリカと比較すれば、アメリカでは置き配が一般的だが、盗難も非常に多く、「ポーチ・パイレーツ(玄関泥棒)」と呼ばれ社会問題化している。年間数千万件の盗難が発生していると推定される(2022年:推定2,600万件)。
英国・フランス・ドイツなど欧州主要国では盗難の危険性が高く、置き配は行われない。郵便受け荒らしやアパートの共用部での盗難も頻発しているからだ。
中国や韓国では配達制度自体は発達しているが、置き配ではなく宅配ボックス利用が主流である。
特に中国では盗難やすり替えを前提として撮影証拠と荷物確認が義務化されることもある。この場合、防犯カメラが無ければ泣き寝入りになることが多い。
中東・東南アジア・中南米では国や地域によって大きく異なるが、置き配は高リスクとされ実施されない。
高額商品は基本的に手渡し・本人確認・事前連絡が必要であり、都市部の集合住宅でさえ盗難・詐取が日常的となっている。
仮に置き配が盗まれる事がニュースになる国が日本以外にあるとすればそれは数えきれない程のニュースだろう。
地方に広く存在する「無人販売所」は、販売者が不在であっても買い手が料金を正しく支払うという信頼に基づく仕組みであり、世界的に見れば極めて稀な現象である。
世界で見てもかなり特殊な小さな共同体でしか見られない事であり、全国的にかなりある事は常識的にはあり得ない話だ。
また、「落とした財布が高確率で交番に届けられ、中身も戻ってくる」という事例は、国際的な調査でもたびたび話題となっており、日本社会の秩序維持力と誠実性の証左とされる。
ここで注意が必要なのは、ある種のイデオロギーを持つ方は金額で日本のダメさを強調する事がある。
これは税金逃れなどの大金が時々見つかる事があるがこれらは返金される事はまずない。
なのでこれらが発生する際には返金金額率としては70%程度になるデータもあるが、実際に財布が帰って来るのは93%であり、世界最高水準である事は間違えない。
(注:様々な試みで分母が少なければ値が違う事は当然あるだろうがこの値も事実である)
加えて、外国人から特に驚かれる事例として、電車の乗り場で自然に列が形成され、車内はほとんど私語がなく静寂が保たれている点がある。近年では咳エチケットや通話マナーである。これは流行り病以降に強化されている。地域差こそあるがエスカレーターでは無言のうちに片側を空けるという、暗黙の了解が日常的に守られている。これはエスカレーター業者に言わせればダメな行為であり、更に自治体では片側を歩く行為を禁止する動きもある。
しかしこうした秩序ある行動は、監視や強制、報酬なしに実現しており、世界的に見れば非常に特異な現象である。
また、日本の公共交通機関は時間の正確さでも知られており、電車が2分遅れただけでアナウンスと謝罪がなされるという水準の高さは、他国ではまず見られない。時間を守るという社会的な信頼は、個々人の誠実性の連鎖によって支えられている。
災害時の行動にも日本人の特性が顕著に表れる。地震や台風などの危機的状況においても、人々は整然と列を作り、混乱や暴動に至ることなく助け合いながら避難行動をとる。このような秩序だった行動は、世界の多くの国では実現が難しく、日本社会に深く根付いた共感性と誠実さの表れである。列に自然と並ぶ行動や、割り込みを忌避する規範意識もまた、無意識的な「調和の内面化」の結果であり、文化的というよりも「社会的本能」のようにすら見える。
中には自らでなく他人の個人所有物まで分配しようとする無茶な話もあるが、それは行き過ぎだろう。
日本人特有の「空気を読む」「間を取る」「沈黙を尊重する」といった非言語的な社会同調行動も注目に値する。これは、言語以外の情報(表情、距離感、呼吸のタイミングなど)を高精度で認識・処理する能力と関係が深く、後の章で紹介する通り、日本人は非言語コミュニケーション能力の国際比較で非常に高いスコア(平均94.1)を示している。
こうした行動様式は、単に教育や文化の結果ではなく、長い進化の中で内面化された「共感性」「同調性」「恥と道徳の感受性」といった神経生理的な特性に支えられている可能性が高い。
・恥の概念について
特に「恥」に対する感受性について、日本人はしばしば高いとされるが、これは他国に比べて性質や目的がまるで異なる。アジアのある国では「恥をかかない」ことが重視され、場合によっては嘘をついてでも体面を保とうとする傾向が見られるが、日本人はそうした虚偽的手段を取ることは少なく、むしろ「恥は一時のもの」として受け入れる傾向が強い。これはカメラ監視社会などによる道徳的規範の強制というよりも、自己の内側に形成された同調圧力による「無意識的な行動制御」となって表れるものである。その為、日本人が誠実であることの理由として「恥の感受性」が主因であるとは言いがたい。
日本人は恥を感じたからといって行動を偽るのではなく、むしろ誠実さを貫くことを当然とする傾向がある。したがって、誠実な行動の背景には、恥の回避ではなく、共感性や社会的協調を重視する文化的・進化的な基盤があると考えられる。これらは、他者の存在が目の前になくても機能する特性である。たとえば、スポーツ観戦後に観客席の清掃を自発的に行うといった行動も、誰かに見られているからではなく、次に使う人への共感と配慮によって動機づけられている。
そう日本人なら恥は笑い話に変えれば良いではないか。
最近、X(旧Twitter)に日本の投稿が表示され海外でも人気を得る事がある。これらには自らの失敗を笑い話に変えた物も多い。まるで学生の頃のノリそのままが継続されているかのようだ。
「恥」に関して間違えた認識があるのではと思われるので少し詳細に違いを確認してみよう。
西洋的価値観から見ると「東アジア特有の恥」という表現が使われる事が多い。
まず、東アジアという表現は、正式には存在しない。
これは某航空会社が台湾を表すのに、某国へ忖度した結果生まれた区分である。
この場合、(間違えであるが)東アジアというのは、中国、韓国、日本、(そして台湾)を指すものが多い。
では、この東アジアの概念を比較してみると、「恥」とはなんなのであろうか?
この時点で西洋の学者達からは多く誤解されていることがある。
東アジアに於いて恥は全く異なるものなのだ。
日本の恥は他者との信頼を損なう事を避けるための内的倫理である。
ある国の場合は「見栄」であり、それは社会的評価を保つ為の心理的演出である。
またある国の場合は「面子」であり、それは権力と秩序を維持する為の社会的演出である。
この三つは行動としては似ていても目的・動機・倫理の方向性が全く異なるものだ。
この違いを正確に理解しないと多くは誤解される事になり理解は不可能だろう。
注意が必要なのは、これらの違いはあくまで社会構造の違いの傾向を表しているに過ぎず、各国の人々にも誠実な人は少なからず存在する。文化は時として人々を縛るが、人間の誠実性は文化を超える事もできるのである。
本章の記述は傾向の説明であり、全体を一般化するものでは無い事を誤解のないように最初に強く述べておく。
・日本人の恥 (信頼を守る為の内なる法)
日本人が「恥ずかしい」と感じるのは、その多くは他人に迷惑を掛けた時である。
それは外からの評価を恐れてではなく、己の信頼を失う事を恐れる心の反応だ。
つまり、嘘をつく事、約束を破る事、誠意を欠く事は、人との関係を壊す為に恥ずべき行為となる。
この「恥」は罰則でも監視でもなく、信頼を軸とした社会秩序を守る為の見えない法の役割である。
ここで敢えて日本人の共同体意識で悪い面も詳しく述べれば、信頼を失えば「村八分」にされる恐れがあったのだ。今でこそ村八分という概念は人権的になくなりつつはあるが、共同体とはそういうものなのである。
これはいじめの構造にも似ているが、いじめの場合多くは信頼を失ったせいでない事の方が多い。
その恐怖にも似た排除を恐れる心理も働いていないと言えば嘘になるだろう。
・見栄の特徴 (虚構を保つ為の社会的演出)
これはやや特殊で、驚く程の高級車が売れ、ブランドバッグなどの消費も多く、そこまで裕福という訳ではなく、見栄の為の購入が多いのが実情だろう。
借金しても購入し、道ばたに車を停車して他の人に高級車から降りる姿を見られることが楽しい見栄の感覚なのだという。
これを「下車感」と呼ぶ。
日本では軽自動車が人気なのとこのような国とは真逆の性質であると言わざるを得ない。
「恥」の基準は「倫理」という意味ではなく、他人の「評価」であり、他人の目にどう映るのかが行動の規範となる。
嘘をつくことも恥ではなく「嘘がバレることが恥」である。
より正確に言えば、他人から下だと見られる事が恥であるので見栄を張らずにはいられず、嘘がバレると下だとバレるので恥となるのだ。
その為に、社会のあらゆる場面で「外見の整合性」が重視される。
整形が流行っているのもその1つであり、結婚式や葬儀に関係のない人を招く「代行出席」の職業が存在するのも象徴的である。
列席者の多さは信頼ではなく、その様な「見栄」は「格」の表現となり、真実よりも社会的演出の完成度を重要視する。
この「見栄」は人々を競争と比較の連鎖に追い込み、誠実さよりも「他人より劣って見える事がないようにする」事を行動原理とした文化を形成している。
このような評価を得る事は生きていく為の戦略であり、社会で苦悶して努力を積み重ねているのである。
たとえ虚構であろうと、その文化内での努力を別の文化から見て笑う事は出来ないだろう。
しかしこの構造は際限なく他人との比較を行い、際限なく見栄も加速する連鎖となる危険性を持ち合わせている。
のんびりと一息つくのも悪くないと思うのだが、現実はそんな生やさしい競争社会ではないだろう。
・面子の特徴 (権威と秩序の演出)
ある国での面子は社会的地位と権威の象徴である。
それは信頼や誠実ではなく、権威を守る為の社会的技法である。
面子を失う事は、社会的地位を失う事と同義であり、体面を守る事は、社会秩序の安定を意味する。
嘘や隠蔽もしばしば秩序維持の手段として許容され、真実よりも「統制と秩序」が優先される。
経済的成功も「人格の証明」ではなく、地位の可視化である。
「金を持つ=顔が立つ(有面子)」が成立するのだ。
お金は信頼を媒介するものではなく、権威を再生産する為の道具なのである。
そしてその権威の為には、仮に何かで儲かるという話があれば、猫も杓子も同じ事を始めるレベルで欲するのだ。
そして多くの人口は競争をより激化して他国に比して安価に提供しやすいが国内では競争となる。
良い意味で言えば社会や産業の爆発力となり得るが、悪い意味で言えば限度を知らないとも言えるだろう。
そしてこれら全ては「国の制度的な枠組み」が許す限りの話なのである。
自動車の話が出たので欧米とも比較するが、欧米では傷や汚れをあまり気にしない方々も多い。しかし日本人はいつもピカピカにしている事が多い。このような事を持って「恥」の概念を組み立てるのは少し早計だと思う。
確かに恥の種類ではあるかもしれないが、確かに自動車に傷や汚れがあっても自動車としては問題なく動くだろう。
しかし、それは恥ではなく日本人からすれば「だらしない」につながり、周りからの信頼や共感を得る事はないだろう。
常に清掃を心がける事もきちんと生活する事も、自動車を綺麗に保つ事も同じなのだ。
・SNSが映し出す現代の「見栄」
SNSは世界中で「見られる自己」を演出する時代を作り出した。
投稿は現状の共有よりも、演出である事を多くする危険性があり、他人からの「承認の数」が存在価値を測る指標とも考えがちになる。
この傾向が顕著な場合、見栄は加速、増殖される。
ブランド品、外食、高級車、旅行 ーーー
それらを投稿する事が社会的成功の証となり虚構の連鎖が日常化してくる。
日本でも同様の行為は見られるが「自慢していると思われる事」を恥じる感覚が依然として残っている。
しかし昨今、写真を撮るためだけに食材を注文し、撮影後に食べずに捨てるという行為も散見される。
嘆かわしい限りだがそれは「見栄」が「倫理」の枠を超え始めた兆候であり、日本的恥の文化が薄れつつある現代的危機である。
・一行でまとめる「恥」という概念の違い
「嘘を恥だと思うのか」を基準とするならば、
面子は「権威を守れれば恥ではない」
見栄は「虚構を保てれば恥ではない」(バレなければ良い)
日本では「信頼を失えば恥である」
なので文化構造的にはまるで異なるものなのだ。
これら一連の特徴は、日本人が「誠実である」とされる実体を、進化心理学・社会神経科学的に説明しうる現象として位置づけるものである。とりわけ、宗教的信念や明示的な道徳教育に依存せずとも高い道徳意識と誠実な行動が自然に発現するという日本人の特性は、自己家畜化の進化過程によって内面化された「当たり前の誠実さ」であると考えられる。このことは、本書の最初に提起した「神を信じず、見られていなくても誠実である」という問いに対する、進化論的な一つの解答となりうる。
つまりそれは神罰を恐れてでもチップを期待してでもないのだ。
・オノマトペ
日本人が使う言語表現にオノマトペが存在する。
世界的に存在しない訳ではないが明らかに日本はオノマトペが多すぎるのだ。
これは擬音に限らず様々な物が感覚的に共有されるもので共感的コミュニケーション能力が高いからこそこんな事態になっている証と言えるだろう。感覚的イメージの共有、気持ちの共有など多岐にわたり他の言語では表現の難しい事まで細かく行われるのだ。
漫画の背景に良く書かれるがこれも幼い頃から所謂赤ちゃん言葉にまで多様されるこれも共感力によるものなのだ。
「手を綺麗に洗おうね」ではなく「手をゴシゴシしようね」と感覚的に日本人は育つのだ。
もう少しこのオノマトペを詳しく考えてみよう。
まず、オノマトペという言葉はギリシャ語に由来するもので、onoma=名前、言葉、poieo=作る、創造する。に該当する。
フランス語(オノマトペー)
英語(オノマトポイア)
となるが、いずれもギリシャ語の由来を元にラテン語経由で取り入れられたものだ。
日本語の「オノマトペ」はフランス語からの外来語だが、実は範囲が著しく異なり広く定着している。
日本のオノマトペは言語学的には
・擬音語
自然界や人工の音を模した語
(ワンワン、ザーザー、ドンドン、など)
・擬態語
音を伴わない状態や動作、感覚を言葉で表したもの
(キラキラ、ふわふわ、じっとり、など)
・擬情語
人間の感情や心理状況を音感で表したもの
(イライラ、ワクワク、ドキドキ、など)
の3つに分類される。
しかし、西洋言語(英語、フランス語)の場合、基本的に音を模した語(擬音語)に限定される。
擬態語、擬情語で、元は音を伴わないにもかかわらず、日本人はそれをオノマトペで伝えるのだ。
日本人の自己家畜化による「共感力の高さ」が他国にないこれらを作り出す理由と考えるのが正しいだろう。
これらは日本人の場合、幼少期から擬情語を自然に獲得する。
そして漫画や絵本に於いて多様され、心理の細かな揺れまでもを正確に伝えるのだ。
更に恐ろしい事に、これらは音素にある程度のルールが存在し、そのマッピングを日本人は理解しており、たとえ知らないオノマトペでも感情を伝える事が出来るのだ。
下に規則と例を示す。
音韻感情・印象代表例備考
母音例(身体感覚に直結する感情印象)
a 明るい・解放・驚きワクワク、ハラハラ、カラッと開放感・陽性
i 鋭い・繊細・緊張キリキリ、チリチリ、ピリピリ高音・警戒的
u 不快・圧迫・鈍重ムカムカ、ブルブル、ズズズ内向き・閉塞感
e 軽快・繊細・女性的ペラペラ、ヘラヘラ軽さ・流動性
o 重厚・落ち着き・鈍重ゴロゴロ・ドシン・モコモコ安定・鈍感的
子音例(緊張・弛緩・摩擦の象徴)
破裂 音動き・緊張・弾みパンパン、ドキドキ、ガタガタ衝撃・行動性
p,b,t,d,k,g
摩擦 音細かさ・不快・繊細シクシク、ズルズル摩擦・繰り返し
s,sh,z
鼻音 柔らかさ・親密ニコニコ、ムニャムニャ優しさ・接触感
n,m
撥音 滑らかさ・連続ラブラブ、フラフラ流動的感情
r
促音・撥音緊張・抑圧カッ、ドン、ムッ抑えられた感情の
っ、ん爆発前段階
などである。
言語学の話になってしまいそうなのでこのあたりにするが、つまりこれらのトーン規則により知らないオノマトペであっても伝わり共感を得る事すら可能なのである。
このトーンのルールは社会全体で共有された音の象徴体系で自然発生したものだ。
この設計図を使い、新たなオノマトペを生み出す事も可能だろう。
オノマトペだけでなく、省略型を主体としたネットスラングや流行語などもこれらに基づけばよりスムースに受け入れられるだろう。
これらの他国にはないオノマトペである擬態語、擬情語は日本人の共感の共有における力強い言語プロトコルになっている。
自己家畜化による共感力の高さがこれらを生み出し、それを追随出来ないまでに進化しているのである。
・WEIRD
文化進化論の権威、ハーバード大のジョセフ・ヘンリック教授はWEIRDと言う概念を提唱しこれに当てはまらない日本の特異性に驚くが、ヘンリック教授は「文化進化的に日本は異例である」と言う。
特にアメリカとの違いを
独立的自己観の弱さ:日本人は相互依存的な自己観が強く、個人主義が弱い
道徳判断の文脈依存性:普遍主義よりも状況依存的判断が優先されやすい
低い他罰傾向:ミスを社会構造のせいにせず自己内面で反省する傾向が強い
などとしているが、その根源的理由については自著『The WEIRDest People in the World』などでも明確な説明をしていない。つまり、「文化」だけでは答えが出せていないのだ。
※WEIRD
W: Western(西洋)
E: Educated(高学歴)
I: Industrialized(産業化された)
R: Rich(裕福な)
D: Democratic(民主主義的な)
つまり彼の言う進化と別の道を歩んだ日本は彼の分類では当てはまらないのだ。
まず、これは私の主観ではあるが、自由の概念に大きな差があると思われる。
西洋的概念における「自由」は、制約・束縛からの自由であり、解放や独立を意味する。しかしそれは無秩序にもなりかねないものである。
日本的概念における「自由」は、秩序の中の自由であり、調和内での自由を意味する。ルールや法を守り、当然、無秩序にはなり得ないものである。
解放のみの自由であれば、それは無秩序であり、社会の一員ではあり得ない野生の獣と同じだ。共同体内での調和がなければ無秩序になってしまう。
それを指して「相互依存的な自己観が強く、個人主義が弱い」と言われてもどうにも「自由」というものを勘違いされているか、ヘンリック教授の指す「自由」は成熟していない「自由」であるとしか思えない。
逆に日本のそれに気がついたのであれば、書籍でも深掘りして欲しかったものである。
「普遍主義よりも状況依存的判断が優先されやすい」については、2022年のアカデミー賞の際に、俳優のウィル・スミスは司会者が彼の妻の脱毛症を揶揄した事に怒り、司会者をビンタした際に、世界中から批難の声が上がる中、何故か数多くの日本人だけはウィル・スミスを擁護したのである。
この事件は近年なのでご存じの方も多いだろう。個人的にはかなり興味深い世界と日本の違いだった。
これは西洋の価値観として「暴力は絶対悪」という固定観念、つまり普遍主義であると考える傾向があるが、日本人は「妻が本人の努力によって回避する事が出来ない事をバカにされた」は「人としての倫理の一線を越えた侮蔑発言であり、殴られても仕方なく暴力より悪である」という判断であるからだ。
これは身体障害者や人種の違いを揶揄するのと同じである。
アメリカのコメディアンは揶揄が許される風潮がある事は事実だ。
しかし、この倫理の一線を越えればそれはダメだろう。
つまりビンタされた理由は充分以上にある。
勿論、ウィル・スミス本人は妻を揶揄され、カッとなってビンタしただけだろう。
仮に、あのままウィル・スミスが止めなければ、そのまま揶揄がさらに過激化したかもしれない。西洋的価値観で言えば、司会者は悪魔になったかもしれないのをウィル・スミスは止めてくれたのだ。
そして文化的にもその揶揄が許されるという風潮が蔓延しかねない状況をウィル・スミスは止めたのだ。
暴力は当然悪であり、問題ならば法的に侮辱罪で訴えれば良いという話であれば、これらは止められなかっただろう。
決して、法の価値観をないがしろにしたり、軽くみたりしている訳ではない。
海外の方々にとっては「不思議な事に」何故か日本人はウィル・スミスを擁護する意見が多かったのだ。
これは優先されるとか流されるとかの問題ではなく、日本人は倫理的価値観の絶対悪をはっきりと線を引き、理解しているからである。
私は今でも、ウィル・スミスの行動は正しいと思っているし、それにより刑罰を受けるならばそれは勲章だとすら思っている。
これも恐らくヘンリック教授には理解していただけないだろう。
後に世界の道徳教育を比較しても海外のそれは多くが道徳や誠実ではなく法治を学ぶだけのことが主体とされている事でも違いが判るだろう。
そもそも法が絶対的に正しいなどという事はないのだ。
例えば、これは法ではないが、それに準ずるもので、キリスト教皇がポルトガル王に黒人奴隷を認めた勅書を出した事から、奴隷貿易は正当化され大々的に行われる事になる。
彼らの倫理に基づいた地動説の弾圧も進化論も魔女裁判もそうだろう。
彼らの法やそれに準ずる事を軸とした基準では正しいからだ。
植民地支配もそうだ。
これらによって、産業革命がなされ、西洋の近代化が行われた訳である。
そして、それらの功績をもってして正当化することは明らかな間違えである。
翻って日本はどうだったのか?
イギリスと同盟を結んだことから第一次世界大戦では戦勝国となり、国連発足時に日本は国連に対し、植民地支配をやめさせるべく、人権条項を盛り込むことを提案した。世界が植民地支配で近代化していた真っ最中にである。
これを反対したのは、アメリカ、オーストラリアとイギリスの一部である。
日本はアジアでタイ王国と日本以外の全ての国が植民地にされていることから大東亜共栄圏構想を打ち出す。
戦後GHQの影響で自虐史観や歴史教科書の改竄、偏向報道により、これらは侵略と位置づけられることもあるが、実態は植民地の解放である。
戦時中には有名な杉原 千畝やパラオの中川隊長もしかりである。
日本は戦争で負けるが、その後の日本人の奮闘もあり、アジアの植民地の解放はなされたのである。
その国の独立戦争の為尽力し勲章を貰った者もいる。
そして世界の巨大マフィアは法の網をかいくぐり悪を働く。
これを改善するには誠実さではなく、法で行おうとすれば、細かく法を改正し厄介な手続きを行い、、、とするだろうが、それはイタチのごっこにしかならないだろう。
法を遵守する価値観と誠実をスケールにした価値観はそう違うのだと実感させられたアカデミー賞の事件後の世界のユニークな反応だった。
みなさんはどう感じただろうか?
「低い他罰傾向」については、心理学的にさまざまな問題を提起されるが、自己肯定感の低さと低い他罰思考はいわば日本人の特徴であるとも言えるものである。
むしろ他罰思考は当然嫌悪されるものではないか。
つまりヘンリック教授は違いというよりもこれは日本人を褒めている部分なのだ。
彼にしてみれば、誠実さを軸とする日本人は、理解不能な宇宙人の部類なのだろうと思う。




