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■ 第4章 太陽信仰と敗者集団の収束点としての日本

・ 自然信仰と集団淘汰が導いた家畜化の定着環境


 人類史において「どこから来たのか」という問いはしばしば論争の火種となる。しかし、本章では出自の優劣を論じるのではなく、「いかにして集団内に平穏と誠実が定着したのか」を探る観点から、日本列島が到達した独特な進化の過程を辿っていく。


・ 出アフリカと敗者移動の連鎖


 人類はおよそ6万~7万年前にアフリカを出発し、ユーラシア全体へと拡散していった。この移動過程では、各地に集団が形成され、やがて環境や他集団との軋轢の中で「中心に留まれなかった者」「淘汰された者」「追いやられた者」たちが新天地を求めて次の地へと進むことになる。軋轢の主な要因は、限られた食料資源の奪い合いや、感染症の拡大による生活圏の放棄、さらには内紛や支配階層の争いなど、社会的・生物的要因の複合であった。


 たとえば中国東北から朝鮮半島にかけて展開された古代の箕子朝鮮なども、王朝の興亡や戦乱により地位を失った者たちが移動し、新たな集団を作った例とされる。すなわち、敗れた者、排除された者、社会的に不安定となった者たちが、次々と辺縁へと押し出されていったという構図である。


 その最終到達点が「日本列島」であった。


・ 東を目指す旅と太陽信仰の痕跡


 ユーラシア大陸の西端や中東地域において、古くから「太陽の昇る東方」には神聖性が重ねられてきた。実際、旧石器~新石器時代の壁画や彫刻、祭祀遺物には東方志向を思わせるものが複数存在している。たとえば、スペインのアルタミラ洞窟、フランスのラスコー洞窟、アゼルバイジャンのグブスタン岩絵群などには、太陽を象徴する円や光条、舟の意匠とともに描かれた図像があり、太陽信仰と航海の関連が示唆されている。


 この文化的潮流を受け、ユーラシア大陸東端、すなわち日本列島が最終的な到達点として意識されていた可能性は否定できない。現に、「日出ずる処」という古代の日本の自己表現は、その象徴である。また、エデンの園の信仰に重ねる形で「理想郷としての東」を目指す観念も一部にあった可能性がある。


 西暦607年小野妹子が有名な国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」を渡し激怒されたと言われているがその反応の話と最終結果は異なり、日本と隋の国交は結ばれた。戦争を控えているなどの様々な理由だそうだが、本当に激怒したのならどんな状況でも国交は断ると思われるがそのように言われている。「日出ずる処」と「日没する処」を縁起でもないと問題とするのは間違っておりこれは単なる宗教上の表現なだけで、この怒った理由は『天子』という言葉を使ったからだと隋書には書かれている。


『和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す』

(やわらぎをもって たうとしとなし さがふことなきを むねとなす)

 

 これは聖徳太子の十七条憲法だが、あの時代にまさに日本人を象徴するような民主主義の根幹的憲法を定めたのは歴史的に見ても驚くべき事である。


 そして性差においても世界初の長編文学を書いた女流作家は日本の紫式部である事からも日本の特殊性の一部が理解できる。女性差別が酷いとされる日本と比べ欧州は何百年遅れている事か、、、。

 


・ スンダランドと弱者の漂着例


 氷河期の終わり、約1.2万年前に地球は温暖化し、海面が上昇したことで、現在のインドネシア・マレー半島にあった広大な陸地「スンダランド」は水没し始めた。これにより低地に住んでいた人々は居住地を失い、高地への移動を余儀なくされた。この過程で社会的に弱い立場にあった者たちはさらに追いやられ、海流に頼って北方への移動を試みることになる。


 このとき、おおよそ6万年前から定常的に流れる黒潮海流に乗って北上し、漂着する先として現れたのが日本列島であった。日本は東端であるだけでなく、黒潮が直接ぶつかる海洋島嶼という地理的特性を持ち、結果的にそうした「敗者」や「追いやられた者」の最終到達点として機能したのである。


 また、北方からはサハリン経由で、南シベリアやバイカル湖周辺からも断続的に人類が流入していた。これら異なるルートの人々が融合しながらも、日本列島の自然環境下で共生するという特殊な進化環境が生まれた。


・ 東端と太平洋の壁


 こうして最終的に日本列島に定着した人々の中には、さらに東を目指す者もいた。事実、アメリカ大陸からは、シアトルやオレゴン州ペイズリー洞窟などで縄文系統のDNAが発見されており、またエクアドルでは縄文式土器の破片が見つかっている。これらは日本列島からさらに東への到達を試みた痕跡である。


 しかしながら、太平洋という巨大な自然障壁は、当時の航海技術では越えるにはあまりにも困難であった。アジアからアメリカへの人類移動の大部分は、最終的に北方のベーリング陸橋経由で進んだとされるが、太平洋中央ルートは限定的であり、日本列島が「極東=終着点」として長らく定着地となった理由でもある。


・ 遺伝子に見る系譜の保全と多様性


 かつては、弥生時代に渡来した稲作民によって、縄文人が置き換えられたという「征服説」が主張されていたが、当時の造船技術では大量の人間の移動は物理的に不可能であり、渡来の規模は限定的であったことからも否定されるが、近年のY染色体ハプログループの解析によって完全に否定された。日本人の主なY染色体ハプログループはD系統であり、これは縄文人に由来する古層の遺伝子である。

挿絵(By みてみん)

<WIKIより平均を求めた図表。※Y遺伝子ハプログループは地域、個人差がある為サンプル数や研究地域などの差異によって研究毎に異なる事があるので注意が必要>


 一方、C1a1という極めて古い狩猟採集系統も少数だが確認されている。これは、欧州に分布するC1a2と同系統でありながら、アジア大陸ではほぼ殲滅されており、現代において確認されるのは日本のみである。このことは、他地域では戦いや同化の過程で男系(Y染色体)ごと排除されたことを示唆するものであるが、日本においてはそれらの男性系統も排除されることなく受け入れられ、共存した結果として残っていると考えられる。すなわち、日本社会の特異な「受容性」や「非攻撃性」が、遺伝的多様性の保存に貢献したと言える。

 現代において欧州でもクロマニヨン系と考えられているC1a2はほぼ残っていない。

 ある意味日本列島は敗者の避難所であったとも言える。


 これらから判る事は海外で普通に発生している男系の殲滅や民族の入れ替えが起きておらず縄文期からの同一民族が奇跡的に継続していると言う事実である。


 アイヌはDとCを主とする非常に縄文的な構成を持ちつつも、日本全体のルーツとは分岐的関係にある。政治的に北海道の原住民と決議されるがこれは明らかな間違えであり、北海道に移動してきたのは中世以降(おおよそ鎌倉時代〜室町期)であるというのが考古学的・言語学的・人類学的にも妥当である。


 当然、旧石器人(3万年以上前)、縄文人、続縄文人、擦文人という定着の連続があり、アイヌはその後に現れる文化系統である。DとCから構成されるハプログループから見てもアイヌの祖先は、源流は縄文人と同じではあるがロシア極東(アムール川流域〜樺太)に土着していた狩猟・漁撈系集団であり、中世以降に北海道に南下・定着した民族文化と考えるのが妥当だろう。

 

 また、アジア大陸で現在主流を占めるO2系統(特に中国や韓国に多い)は、戦闘性の高い支配集団によって拡大したものであり、日本では25%前後に留まっている。つまり、日本人は中国人・韓国人とは明らかに遺伝的構成が異なっており、同一視することは科学的に根拠を欠く。中国で「漢族」と呼ばれる主体は、こうしたO2系統を多数派として形成されている。


 そして日本人の遺伝的多様性は特にHLA遺伝子においては、アジアの中でも多様性が高いという研究があり(例:HLA-A24, B52, DRB1多型など)疫学的にも日本人は感染症に強い可能性があると考えられる。

 

 さらに注目すべきは、日本のY染色体ハプログループの地域差と、異なるルートの人々が融合しながらも、日本列島の自然環境下で共生するという特殊な進化環境による多様性である。アイヌや琉球などの地域的集団では構成比が大きく異なり、複雑であり日本全体として一枚岩ではない。研究結果にもばらつきがあり、サンプル数や地域選定の違いによって大きな差が出る点は、今後の研究の前提として留意すべきである。



・ 攻撃性の排除と家畜化環境の成熟


 争いに勝った者ではなく、争いに敗れた「弱者」「敗者」たち。 そのような背景を持つ人々が、温暖で湿潤な列島という環境に集まり、協調と共感を前提とした社会を形成していったと考えられる。これは、先に述べた家畜化実験で弱い個体が選抜され、それが集団全体の行動様式と気質を変えていった過程と一致する。家畜化は本質的に強い個体を排除し、弱い個体を選抜することでのみ進行可能であり、これこそが他国には実現不可能な要因である。


 このような社会では、争いを避け、他者と共に生きることが求められ、特に自然災害の多い日本列島においては、相互の助け合いなしには生存が困難であった。そのため、日本人誠実論においては「災害が多いから協力的であった」というよりも、元々協力的であったがゆえに、災害を乗り越える力を持ち得たという解釈がより正確であろう。その行動様式が世代を超えて継承されていったのだ。誠実性や秩序意識の根底には、こうした「争いを選ばない知恵」と「攻撃性を持たない淘汰圧」が静かに作用していたと見るべきであろう。



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