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■ 第2章 ホモ・サピエンスの自己家畜化と進化の限界

・ 家畜化実験 ── 実験内容とその意義、外形変化と内面変化

 人間社会に適応してきた動物たちは、いずれも野生において「強い個体」ではなかった。人間との共存を許されたのは、支配や闘争に長けた者ではなく、従順さや非攻撃性という「弱さ」を持つ者たちである。これを科学的に立証したのが、旧ソ連の遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフによるキツネの家畜化実験である。


 この実験は当時のソ連が毛皮の輸出による外貨を欲しがった事で行われたが後に人類を解き明かす重要な実験となるのである。本来スターリンの影響もあるが今回は家畜化実験の話題に留める。


1. 実験の概要と選択基準

 1959年、シベリアのノボシビルスクで開始されたこの実験では、野生の銀ギツネを用い、人間への攻撃性が低い「弱い」個体だけを選び抜き、数十世代にわたる選抜交配を行った。当初は多くの個体がパニックに陥り、人間を警戒して接触を拒絶したが、選別を重ねるごとに行動は変わっていった。20世代目には、50%以上の個体が人に尻尾を振り、自発的に接触を求めるまでに変化した。


 人に家畜化された生物はヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシなど様々にいるが、古生物学者達は揃って最初に家畜化されたのは犬だと言う。オオカミの様に警戒心が強く攻撃的になる動物が何故犬の様に家畜化したのかと言う疑問にドミトリ博士は夢中になった。


 それは強い個体ではなく生存競争で弱い個体が人に近付き生存の為に食料を得ると言う、弱い個体がポイントになる。ドミトリ博士はこの犬への変化を模倣して弱い個体の実験を開始したのだ。


 キツネやミンクの育種でドミトリ博士が気がついたのは殆どの個体は極めて攻撃的か人を怖がるがごく一部人が近づいてもおとなしい個体がいる。

 この従順性こそが犬が人間と暮らし、食料へのアクセスが確実となり捕食者から保護される理由だ、と弱く従順な個体の掛け合わせ実験が行われたのだ。

 従順さは人が近づいた際の反応や手を差し出した際の反応を観察して行われた。


 家畜化されたキツネ達の遊びの観察は40年以上に渡り観察されている。リーシュ(散歩紐)を使い散歩をするキツネ達は驚くほど犬と似た振る舞いをする。


 この実験にかかったのはわずか60年足らずだ。我々の祖先がオオカミを家畜化して犬にした時にかかった時間と比べれば歴史的に見ればほんの一瞬だろう。

 この理由は当然、人為的な遺伝子の選択、つまり弱く従順な個体のみの選択的交配が行われたからだ。


 そして最初に述べた様な家畜化の成果に繋がったのだ。特に優れたキツネはエリートと呼ばれた。エリートキツネは観測者に腹を触るように促すレベルの従順さなのだ。



2. 外形変化──「顔の弱体化」とネオテニー


 ダーウィンは進化による変化は通常ごく少しずつ進み、変化を蓄積するのは多くの時間を必要とすると主張したがドミトリ博士の家畜化実験では始まって30年と経たずに劇的な変化が起きている。

 

 人に従順になる行動の変化と連動するように、外形にも家畜化特有の変化が現れた。


・耳が垂れる


・毛色に白斑・斑模様が出現


・尾が巻き上がる


・繁殖期が通年化


・顔が丸く短くなり、額が広がり、目が大きくなる


 これらの身体的変化は、単に偶然の副産物ではない。特定の性質(攻撃性の低さ)を世代交代で選び抜くことによって、共通して現れる身体的・行動的・生理的変化のセットは、進化生物学の分野で「家畜化症候群(domestication syndrome)」と呼ばれている。


 毛色などは自然界では不利になるものだがドミトリ博士は遺伝子の不活性が家畜化によって活性化したと言う説を打ち出した。後のフランスで行われたウサギの家畜化実験で正しい事が確認された。キツネの家畜化は12番染色体の遺伝子変化でありイヌのそれに対応する家畜化に関わった染色体にも存在したのだ。


 キツネの家畜化実験で産まれた子ギツネは犬の様に丸顔で愛らしい。直ぐに人に懐き心が通っているのではとペットの様に思わせるのである。


 本来、自然界では穴に逃げ込んだ獲物を捕食するのには、尖った顔の方が有利と言う生存の選択圧が家畜化によりなくなるのだ。この顔の変化、すなわち鋭く細長いキツネの顔が、まるでイヌのような愛らしく丸い顔へと変化していった様子は、家畜化症候群の代表的な兆候であり、狼が犬になる進化過程でも確認されている変化である。 


 この概念は、キツネだけでなく、犬、猫、ブタ、ウマ、ウシ、さらには鳥類など、多くの家畜化動物に共通して見られる変化として観察されており、神経系細胞の発達抑制という生物学的メカニズムに起因する可能性が示唆されている。



3. 内面変化──ホルモンと神経伝達物質の劇的変化

 生理的な変化も極めて顕著だった。


・コルチゾール(ストレスホルモン)は、30世代で野生型の約25%まで減少。これは恐怖・逃避・闘争反応の著しい抑制を示す。これはストレス耐性を持ち、攻撃性、闘争性が下がるものだ。


・セロトニン(幸福感と社会安定感に関わる神経伝達物質)は、50世代で受容体密度が5倍に増加したことが確認されている。これは人に懐く共感が強化される。セロトニンは不安の軽減にも役立ちセロトニンに基づく抗鬱剤も登場する。


 これにより、以下のような効果が観察された:


・接近回避反応の減少(ケージに近づいたり手を伸ばしたりしても逃げなくなる)


・社会的行動の活性化(尾を振る、アイコンタクト、舐める)


・衝動の抑制力の上昇(自己制御の強化)


・人間との絆形成を自発的に行うようになる


 この変化は一時的な学習ではなく、脳の神経伝達構造とホルモンバランスが遺伝的に再構築されたことを意味しており、まさに「家畜化された神経系」が獲得された例である。


 愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンは母親と新生児が見つめ合うと上昇する。人が犬を撫でる時も上昇する。これは双方なので犬を撫でれば愛情を人も感じるのはこの効果だ。

 ドミトリ博士が研究を開始した際にはこれらは知られておらず自説でホルモン生成の変化を主張していた。内面の生物学的な効果は遺伝子の変化によって生じるものだ。


 更に驚くべき事は社会的知性の獲得だ。社会的知性の高い種が家畜化したのでなく家畜化した者達が社会的知性を手に入れるのだ。ある実験ではこのエリートキツネ達はイヌよりも賢かったのである。



4. 苦難と遺伝的障壁──ドミトリ博士の試練

 この実験は、単に従順な個体を選んでいくだけの単純な話ではなかった。家畜化の進行過程で、特定の選択圧を加えることで別の予期せぬ遺伝的問題(不妊、骨格異常、神経系の異常反応など)も発生しており、ドミトリ博士はそれらの障壁を何度も乗り越えた。


 実験用の家にごろつきが侵入し毛皮目当てでキツネ達を殺し持ち去られた事もある。

 

 特に「攻撃性を下げる=神経系に干渉する」ことで、本来の生存本能や繁殖性まで損なうリスクが生じた。このため博士は、極端に従順な個体と野生型に近い個体のバランスを慎重に取りながら、目的とする特性のみに絞って選別を続けた。こうした苦難の上に成り立った成果こそ、現代に通じる進化モデルの一つとして評価されている。


5. 実験の意義と次章への橋渡し 

 この実験が示した本質は、「弱さの選択」が形態・行動・神経生理に一体として変化をもたらすという進化メカニズムである。家畜化とは、強者の排除による平穏ではなく、仲間との協調による生存戦略の転換であり、そこには知性と共感に基づく集団行動が、単独の強さに勝る適応力を持つという重要な視点がある。


 この発見は、後にアメリカの進化人類学者リチャード・ランガム教授の目に留まる。ドミトリ博士自身は自らも提唱していた人間における自己家畜化仮説の実験方法を模索したが倫理的一線を越えてはならないとしたのである。

 ランガム教授はこの実験結果のキツネの変化を見て「これはどこかで見たことがある」と感じたという。それが他ならぬホモ・サピエンスの進化であった。彼はまず近縁種ボノボにおいて自己家畜化が行われていると論文を出す。


 次節では、ランガム教授の提唱した「人類の自己家畜化理論」について詳述し、それがどのように現代日本人の特性と接続しうるかを検討していく。



・ホモサピエンスの自己家畜化


 旧ソ連におけるキツネの家畜化実験の成果は、当初は動物行動学の一事例として注目されていたが、やがて人類進化の根幹に関わる可能性が浮上することとなる。アメリカの進化人類学者リチャード・ランガム教授は、この実験結果のキツネの変化を見て「どこかで見たことがある」と感じたという。その既視感の正体こそ、現生人類、すなわちホモ・サピエンスの進化的変化そのものであった。


 ランガム教授は、現生人類の特徴的な形態と社会性の高さを「自己家畜化(self-domestication)」という概念で捉え直した。つまり、ホモ・サピエンスは他の動物のように人によって飼いならされたのではなく、自らの内で攻撃的な個体を排除し、穏やかで協調性の高い集団を形成することで、家畜化と類似の進化的変化を遂げたとする理論である。


 この考え方は、ホモ・サピエンスが他のヒト属、特にネアンデルタール人とどのように異なったかを理解する上で極めて有用である。ネアンデルタール人は、より筋肉質で骨格が重く、狩猟に長け、道具も使用していた。しかし、ホモ・サピエンスが最終的に地球上に繁栄し、彼らが滅びたのは、身体的な強さの違いではなく、協調・共感・秩序形成といった社会的能力の差であったと考えられている。


 この社会的能力の進化は、自然発生的な「優しさ」ではなく、非常に長い時間をかけて攻撃的な者が共同体から排除され続けた結果として現れた。ランガム教授は、ホモ・サピエンスの初期社会において、強圧的で暴力的な支配者は仲間によって打倒される傾向があり、それが文化的だけでなく、生物学的に淘汰圧として作用した可能性を示唆している。


 ホモ・サピエンスに見られる以下のような特徴は、家畜化症候群と類似しており、自己家畜化が進行した証左とされる。


・顔が短くなり、顎が小さくなる(威圧性の低下)

・眉間が広く、表情が豊かになる(非言語的コミュニケーションの発達)

・身体のサイズがやや小型化する

・脳の扁桃体の活動が抑制傾向を持つ(攻撃性の低下)

・言語と共感の能力が著しく発達する


 これらの変化は、キツネの家畜化実験と対応関係にあり、外見だけでなく内面の神経生理学的性質も同時に変化している点が共通している。特に脳内のセロトニン系の変化は、攻撃性を制御し、社会的安定を支える重要な要素とされている。


 ホモ・サピエンスがこのような形で社会性と協調性を武器に生き延びてきたという事実は、進化における「強さ」とは何かを再定義させるに十分な重みを持っている。そしてこの過程は、単に生き延びるというだけでなく、道徳・規範・倫理といった抽象的概念を形成する土壌ともなった。



・攻撃性の部分的抑制と社会的脳の発達


(言語・共感・協調/ネアンデルタール人の殲滅に見られる残存した攻撃性と暴力性)


 ホモ・サピエンスの自己家畜化は、確かに共感や協調といった社会性を発達させ、言語能力や集団行動の効率を高めた。しかし、それは攻撃性そのものを根絶したわけではなく、むしろ「選択的に残した」形で保存されたと言える。


 これは、進化戦略として、集団内での調和と、外部への排除・攻撃の役割を明確に分けたことを意味する。言い換えれば、社会的秩序を維持するために「内向きには穏やかに」「外向きには好戦的に」という構造が形成された。


 特に注目すべきは、ホモ・サピエンスが進出した各地域で、それ以前に存在していたネアンデルタール人が、ほぼ例外なく絶滅している点である。両者が数千年の間に同じ地域に共存していた可能性はあるが、最終的にはネアンデルタール人は姿を消し、その痕跡はほんのわずかに遺伝子として残るのみである。


 ネアンデルタール人は、解剖学的にホモ・サピエンスよりも頑健で、筋肉量も骨格も発達していた。脳の容量も平均でホモ・サピエンスを上回っており、純粋に「強さ」で評価されるならば、ホモ・サピエンスが勝る要素は見当たらない。つまり、「弱肉強食」という単純な自然選択の法則であれば、ネアンデルタール人こそが生き残るべき存在だった。


 

 ホモ・サピエンスは自己家畜化の知性によって、協力的コミュニケーション能力が向上し、集団での戦略的行動を発達させていた。

 この協力的コミュニケーションは革新的技術である投槍器アトラトルを生み出す。ネアンデルタール人は槍を突き出すだけであるが画期的技術はそれを凌駕し狩りにも有利になる。


 実際にネアンデルタール人も死後の埋葬や縫われた服などの痕跡から高度な道具を使いこなしたが革新的技術はホモ・サピエンスに及ばなかった。


 野生の動物達にも単純なコミュニケーションは存在する。

 捕食者が来たことを知らせる合図がそれにあたる。しかし脅威が去ったことは伝えないのだ。複雑なコミュニケーションはそれだけでなく様々な状態を伝達する、現代で言えばSNS上でバズる様な事すら可能となる。

 これは信仰的な虚構、もしくは宗教の様に強力な力となりうる。


 つまり「オオカミが来た」と言う伝達だけでなく、それが「あいつはオオカミを倒した」になり、やがて「あいつにはオオカミの神がやどっている」となるのだ。更に死後の虚構は信仰となり死を恐れない戦士を作り出す。教化による統治の行われた時代の聖戦では神の力によって負けないと信じて死をも恐れず戦うのと同じだ。

 そして人の群れの数の限界と言われるダンバー数である150を超える事も可能となる。

 これらにより本来は勝てないはずのネアンデルタール人に対しても勝てるようになったのである。

 

 つまりホモ・サピエンスは集団内のコミュニケーション能力による協力と高度な言語による情報共有を武器に、組織的な行動で生存競争を有利に進めた。この集団的な知性と共感性によって、より個体の強さに依存するネアンデルタール人を圧倒し、結果として殲滅に至らしめた可能性が高い。これらは現代の価値観では残忍性と言えるが彼らにとっては生存競争における脅威の排除である。


 これは脳の突然変異と言われていたが、これこそが自己家畜化によるものと言う説がホモ・サピエンスの自己家畜化だ。


 このような経緯を踏まえれば、ホモ・サピエンスにおける自己家畜化とは、攻撃性の抑制ではなく生き残る為の「調整」だったと見るべきである。つまり、内部では協調を促しつつも、外部との競合に対しては高い攻撃性を保持していた。その構造は現代の国家間対立や集団暴力においても、依然として根強く残っている。

 つまり家畜化による攻撃性の低下の面としては未完成の状態である。



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