十二章
決別の日が来た。
タイソン帰城の報せを受けて、オズウェルは腰をあげた。
コーウェン家の紋が刻印された黒鞘の剣を腰に提げる。彼は緊張を息と共に吐き出して、傍らに寄り添うエマと笑みを交わした。温かな春を思わせる薄紅色の瞳に、心が安らぐのを感じた。
「行ってくるよ」
「お気をつけて」
二人は抱き合って頬を合わせた。
執務室を出たオズウェルは西棟に向かった。大扉を二・一・二とノックする。
「タイソンが帰って来た。一緒に来てくれ」
開いた扉の隙間から指が覗いた。
身長のわりに細い体。幼さの残る顔立ち。前髪で隠れた火傷の痕。
絵を描くために中庭へ行く以外で、彼が西棟から出てくるのは、およそ十五年ぶりのことだった。
「ありがとう、オズワルド」
「礼なんか言うな。二人で決めたことだ」
オズワルドは無人の廊下を見渡した。鳶色の瞳に、侘びしい陰が落ちる。いとこが何を考えているのか、オズウェルにはよくわかった。彼も同じことを考えていた。
「……妙なものだな。あれだけ疎ましく思っていたはずなのに」
秘密を共有する彼らは、常に見張られていた。
老執事のノックス。
ラスムスと同じく、先代からコーウェン家に仕えてきた男だ。オズウェルとオズワルドが二人でいるとき、気がつけばいつも、彼が近くにいた。目立たぬ場所で亡霊のように佇んでいた。
彼らにとってあの老人は煩わしい監視役だったが、捉えようのない人物でもあった。
城主の命令を遂行するだけの情のない男かと思えば、タイソンの癇癪がいきすぎたときは身を挺してオズウェルを庇った。また、オズワルドが絵を描き始めてから庭師を中庭にいれるのをやめ、自分の手で草木の手入れをするようになった。
ノックスの忠義が誰のもとにあったか、結局、最後までわからずじまいだ。
「……もし生きていたら、俺たちの味方になってくれたろうか」
「わからない。けど、そうだといいな」
オズウェルは心から言った。
入れ替わりから十四年。
すべては、〈王の選定〉に始まる継承問題を避けるためだった。
オズワルドの顔に消えない痕を残した大火を、タイソンが意図的に仕組んだものだったと考えるのは穿ち過ぎというものだろう。オズウェルは叔父をそこまで見損なってはいない。守り育ててもらった恩義もある。だが、タイソンのしてきたことすべてを肯定することは、どうしてもできなかった。
城主の部屋の前で、ラスムスがオズウェルたちに道を開いた。
「タイソンは中に?」
頷く彼の面持ちは暗かった。事実を知ったうえでオズウェル側につくと決めたとはいえ、主人を裏切ることへの後ろめたさは、そうそう拭えるものではない。
「ラスムス、あとで話をしよう。これからのことを」
ラスムスの肩を叩いて、オズウェルはオズワルドと共に部屋に入った。
城主タイソンは革張りのソファに傲然と腰掛けていた。右瞼に早くも癇癪の兆候である痙攣が表れている。帰城早々自室に軟禁されたことを、相当腹に据えかねているのが見て取れた。
タイソンは険しい眼差しでオズウェルらを一瞥した。オズワルドの喉からヒュッと息が漏れる。親子らしい会話をしたことがないとはいえ、彼にとっては実の父だ。その機微に敏感になるのも無理はなかった。
「……やってくれたな」タイソンは激昂寸前だった。「魔道士にそそのかされたか? それとも、市民から次期城主と褒めそやされて増長したか?」
この怒声と腕力で、何度抑えつけられてきただろう。オズウェルは奥歯をきつく噛んだ。すり込みが心身を萎縮させる。
指先の震えを払ったのは、オズワルドだった。
「誰に言われたからでもありません。お、俺たちは……二人で相談して決めたんです」
いとこの発言に勇気づけられてオズウェルは言った。
「タイソン=コーウェン。あなたには城主を降りていただく」
「思い上がるな。こんな辺境の城主になったところで、おまえは自由になどなれん」
「〈王の選定〉は終わらせます」
タイソンの顔に、はじめて怒り以外のものが浮かんだ。彼はオズウェルの真意を探るように眉根を寄せた。
「……そうか。妹に会ったな」
「ええ。村がどうなったか聞きました。あなたの差し金ですね?」
沈黙は何よりも雄弁な答えだった。
オズウェルの腹の底が静かに熱くなった。
「辺境の開拓は国家事業のひとつだ。あなたはそれを、私情で頓挫させた」
たくさんの人が、いまだ見ぬ土地に壮大な夢を見た。六歳まで暮らした村の風景は、オズウェルが理想とする豊かさの原点でもある。それが無残にも消失したこと、それが人為的におこなわれたということが、彼には許せなかった。
「叔父上。あなたは城主にふさわしくない」
蹴り飛ばされたテーブルが、壁にぶつかって激しい音を立てた。持病の癇癪だ。動揺を顔に出さぬよう努めたが、オズウェルは肝が冷えた。タイソンは鬼のような形相で何度も床を蹴りつけ、荒い息を吐きながらまた椅子に腰を下ろした。
「……小僧ども。そこまで言うからには、私を追い落とす材料を揃えているのだろうな」
オズウェルは、オズワルドに目配せした。
オズワルドは懐から青銅の指輪を取り出した。表面に刻印された翼のインタリオを見て、タイソンが目を見開く。震える背中から激情の残滓がほとばしった。
「……牢獄に幽閉された亡骸から見つけました」オズワルドは、誰が見つけたかまでは明かさなかった。「これがなにか、父上は誰よりもよくご存知のはず」
翼のインタリオが施されたこの指輪は、コル・ファーガル城主の証である。本来なら代替わりのさいに次の城主に引き継がれるものだが、十五年前の大火で失われたと言われていた。
リズから指輪を渡されたあと、彼らはダレルに付き添われて遺体を検めた。白骨化した遺体の頭蓋骨は、後頭部が陥没していた。遺体に残された痕跡と、所持していた指輪から推察される事実は、至ってシンプルだ。
タイソンは実の父親を暗殺している。
あの遺体は、先代城主その人だったのだ。
過去に犯した罪の証拠を、タイソンは冷めた目で見つめた。釈明も開き直りもなく、彼は背もたれに体を沈めて長く息を吐き出した。
「それで、おまえたちはどうするつもりだ」
「俺たちは二人でひとつの名を使ってきました。それも、今日で終わりです」
タイソンが帰って来る前、オズウェルは何度もオズワルドと話し合った。お互いに、これから何者になるのか。何をするべきか。
そして彼らは、まず、自分の名前で生きることから始めようと決めたのだ。
「年が明けたら予定通り、サナンに行きます」
「オズワルドが留守のあいだ、コル・ファーガルは俺が守ります。今度は、俺自身の名で」
タイソンは息子と甥を睨んだ。刃向かう者を憎む目つきではない。それは二人の覚悟を問う、厳しい眼差しだった。オズウェルとオズワルドは、どちらも目をそらさなかった。
タイソンはとうとう、根負けしたように項垂れた。
「勝手にするがいい……」
疲れた声だ。タイソンもまた、身に余る重荷を背負ってきた。そしてたった今、ようやく解放されたのだ。オズウェルはこのとき、子どもの頃からずっと恐ろしかった叔父が、はじめてが小さく見えた。
「お世話になりました。叔父上」
十四年間の思いを引っくるめて、オズウェルはタイソンに頭を下げた。
+++
馬車が行き交う広場の角に、緑のドアがついた建物がある。
列の順番を待って、ザハリアーシュは《鳩の翼》亭から預かった引換票を受付に渡した。倉庫係が奥の部屋からデミタル商会の印がついた箱を持ってくる。蓋を開くと、緩衝材にくるまれた酒瓶が二本、きっちり収まっていた。
手早くサインをすませて、彼は酒瓶の入った木箱を受け取った。大きさも重さも、ちょうど片腕で抱えられるほどだ。
ザハリアーシュは帰路についた。
《鳩の翼》亭は現在、営業時間を大幅に短縮している。つい先日、店主夫妻に子どもが生まれたからだ。
店の前に近所の子どもたちが集まっていた。縄で繋がれた羊を物珍しそうに見ている。彼らは近づいてくるザハリアーシュに気づくや、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
この人相では無理もあるまいと、ザハリアーシュは頬の傷を撫でた。
「おかえりなさい。ザハリアーシュ」タライを抱えたリズが店から出て来て言った。「これから羊を捌くところなんですよ」
彼女はタライを壁に立てかけ、ザハリアーシュの手から酒瓶の入った箱を受け取った。護衛についてきたクックがすぐさま後ろからその箱を取り上げる。
「姫様、ちょっとは大人しくして下さい!」
「そう言って、掃除も食器洗いも、みんなクックがやってくれたではありませんか。夕ご飯の支度くらいさせて下さい」
「だ、だからって羊の解体なんて」
クックが続けて何かを言いつのろうとした矢先、二階から赤ん坊の泣き声が降り注いだ。
「見てきます」
店内に取って返す前に、リズは振り返ってザハリアーシュに手を伸ばした。頬からこめかみに走る傷跡に触れる。その腕に、美しい装飾が施された銀の腕輪が光っていた。
彼女は柔らかく微笑んだ。
「私、バートさんからサナンの料理を教わったんです。きっと美味しく作りますから、お腹をすかせておいて下さいね」
リズが二階に行ってしまってから、ザハリアーシュは店内の席のひとつに腰を下ろした。
ジョエルが郵便物を出しているカウンターに、クックが箱を置いた。届いたものをバートが一つずつ確かめていく。ゾルタンとマレクが刃物を手に差し向かいで議論しているのを、非番のビートがそわそわとチラ見していた。赤ん坊の泣き声が止んだ。芋の皮を剥いているペトルの顔に笑みが浮かぶ。二階から降りてきたミリアムが男ばかりの店内を覗いて慌てて引き返し、代わりにエマがやって来て、お茶の一式をトレイに載せて二階へ運んだ。
《鳩の翼》亭は、明るく賑やかな空気で溢れていた。
ようやく訪れた束の間の休息に、ザハリアーシュはゆっくりと目を閉じた。
赤ん坊の小さな口がふにゃふにゃ動いた。さっきまで顔を真っ赤にして泣いていたのが嘘のようだ。母親の腕に揺られてまどろむ寝顔を見て、リズとミリアムは小声で囁き合った。
「なにか喋ってるみたい」
「可愛いわ」
エマがお茶を持って戻って来た。
「皆さん。お茶はいかが?」彼女はティーカップを一人ずつ手渡した。「ステラもどうぞ。良ければ、ぼうやを預かりましょうか?」
「悪いね。こいつ、下ろすとすぐ泣き出すからさ」
受け渡しに応じるエマの手つきは慣れたもので、一瞬くしゃりと顔を歪めた赤ん坊も、彼女の腕に抱かれてすぐに寝ついた。
数日前に生まれたこの男の子に、まだ名前はない。二つまで候補を絞り込んでいるそうだが、バートが最後の最後に決めかねているのだろいう。おそらく、出生届の期限ギリギリまで悩むだろう。
香り立つ湯気に口を寄せ、ステラはおいしそうにお茶を飲んだ。
「みんなが手伝ってくれて本当に助かるよ。リズはいい人たちを連れてきてくれたね」
「連れてきたんじゃないわ。みんなが来てくれたの」
ダレルに連れられて《鳩の翼》亭に戻ったとき、ステラは陣痛の真っ最中だった。夫妻と再会を喜び合う暇もなく、リズは湯を沸かし、タオルを用意して、額に脂汗を浮かべるステラに付き添った。
生まれたての赤ん坊は、顔も体も真っ赤で、息をしながら一生懸命泣いていた。バートとステラを介して抱かせてもらった赤ん坊は、ふにゃふにゃと柔らかく、ほのかに甘い匂いがした。この首も据わっていない小さな存在が、どうしてか、リズはとても頼もしかった。
「あんた、まだいられるんでしょ?」
「うん。オズウェルが帰ってきたら、これからのことを話し合うの。オズワルドと、エマさんも一緒に」
エマは、ばつが悪そうに目を伏せた。
「……本当にいいのですか。オブライエンがいなければ、私は姫様を……」
魔法の傷のことはダレルから聞いた。エマの魔法を受けたことで負った傷は完治しておらず、守りのまじないを解けば、たちまち命を落とすであろうということも。
エマはそのことに強い自責の念を感じているようだが、リズに彼女を恨む気持ちはない。ダレルのおかげですっかり元気になったし、それに、オズウェルのこともある。
「治る傷です。気にしないで。エマさんがオズウェルのそばにいてくれて、私、本当に良かったと思っているの」
オズウェルがこれまで歪まずに生きてこられたのは、彼を理解し、支えてくれる人がいたからだ。
「どうかこれからも、兄をお願いします」
「姫様……」
エマが目尻に滲んだ涙を拭おうとすると、腕が緩んだことに抗議するように赤ん坊がむずがった。彼女は慌てて赤ん坊を抱き直し、大きな黒目を瞬く小さな顔を見下ろして、微かに笑った。
談笑に花を咲かせ、そろそろ羊を捌きに行こうかとリズが立ちあがったとき、窓にコツン、と小石が当たった。窓の外を見下ろすと、いつぞやの夜のように、ジョエルが手を振っていた。
「どうしたの?」
彼は建物に寄って声を絞った。
「変なやつが来てるんだ」
「どんな人?」
「お付きがいるから貴族だと思うけど……。ザハリアーシュさんが対応してる。帰ったら教えるから。そこにいなよ」
ジョエルはそう言って中に戻っていった。
ドアに向かうリズを、ミリアムが急いで止めた。
「だめよ、リズ! 本国の人かもしれないのよ!」
「けど……」
ステラがリズの額を指で弾いた。
「ここにいろって言われたでしょ。下の連中に任せりゃいいの!」
エマが赤ん坊をステラに返してドアのそばに体を寄せた。髪を耳にかける。階下の音に耳をすませているようだった。
息を殺して沈黙を守り、何分経っただろう。
エマがドアから耳を離した。
「出て行ったようです」
ほっと、ミリアムが安堵の息を吐いた。
「待っていて下さい。見てきます」
リズは自分も行きたいのを我慢して頷いた。
ほんの数日のこととはいえ、ダレルとオズウェルがコル・ファーガルを離れている今は、慎重にならなければならない。
「前にリズを誘拐したやつじゃないだろうね」
「それは大丈夫だと思う。本国に帰ったってオズウェルも言ってたし……ダレルさんが懲らしめたそうだから」
窓をコツ、と小石が叩いた。
ジョエルだ。リズは窓を開いた。
だが路地に立っていたのは、まったく見知らぬ青年だった。
黒鳶色の髪に、深い紺色の瞳。彼は窓から顔を出したリズを見上げて、ぽかんと口を開いた。
「……驚いたな」
彼が助走をつけて壁を蹴った瞬間、リズはとっさに窓を閉じた。
「ミリアム、ステラと赤ちゃんをお願い!」
二人と赤ん坊を下がらせて、リズは手燭を手に取った。
壁を蹴って登ってきた青年が、外から窓を開いて顔を覗かせる。ミリアムが悲鳴をあげると、彼は邪気のない顔で笑った。
「驚かせてごめんよ。でも」リズに目を向ける。「どうしても君に会いたくて」
「私はあなたなど知りません」
「だろうね」
青年は窓から室内に滑り込んだ。
「それ、武器のつもりかい?」リズが持っている手燭を指さして、彼は肩をすくめた。「見かけによらず気が強いんだな」
そのとき、ドアが勢いよく開いてザハリアーシュが飛び込んできた。彼はミリアムとステラを部屋の外へ逃がし、リズを背中に庇った。
青年は敵意がないことを示すように両手を軽く挙げた。
「いるのにしらばくれたってことはつまり、本物だろう? ギルバートが見ればわかると言っていたが、その通りだったな」
「そのギルバートとやらは、ギルバート=テナールのことか」
「ああ。あいつは学院の同期でね。先ほどは名乗らずに失礼。本国のナイジェルだ」
ザハリアーシュは眉をひそめた。
「……ナイジェル王子」
「さすがはシャハ族のザハリアーシュ」
青年は嬉しそうに手を叩いた。
「用件はおいおい話すとして、ひとまず城に案内してもらいたい。互いに部外者を巻き込むのは本意ではないだろう。城主に挨拶もしたいし、それに」
彼はぐう、と音を立てる薄い腹を押さえた。
「そろそろお腹がすいてきた」
いつまでも《鳩の翼》亭の前に居座られてはたまらないので、リズは不承不承でナイジェルの馬車に乗り込んだ。王子を名乗る得体の知れない男に警戒は尽きなかったが、あちらに護衛官がついているように、こちらにはクックやエマ、そしてザハリアーシュがいる。
「君の名前は?」
「リズ=ラッセルです」
「それは偽名だろう」ナイジェルは間髪入れずに言った。「市井で過ごすあいだはいいが、本国の貴族には通じないからやめたほうがいい。その腕輪をつけるならなおさらだ」
リズは形見の腕輪に手を添えた。母の言いつけで井戸の底に投げ込んでから、二度と手にすることはないと思っていた。
「どうして腕輪が?」
「そいつは君のお母上が、そのまた母から受け継いだものだ。王室ゆかりの品だよ。君は自分の祖母が今上陛下の妹だということを知らないのかな?」
リズがきょとんと目を瞬くと、ナイジェルは皮肉めいた笑みを引っ込めてスッと真顔になった。
「……参ったな」
小さく呟き、苦笑を零す。
エマが困惑するリズの腕にそっと手を添えた。
「恐れ入りますが、王子。お話の続きは城に着いてからにして下さい。よろしゅうございますね、姫様も」
それから城に着くまで誰も喋らなかった。
居心地の悪い沈黙だった。リズは自分の膝を見つめた。
本国の人は、みんなこうなのだろうか。血筋や身分を重んじるあまり、本来なら必要ないことや見当違いな心配をして事態をややこしくする。母は辺境に嫁ぎ、父は家を出た。それでも過去は追いかけてくる。二人が死んだあとも、こうして。
城門をくぐると、わらわらと兵士たちが出迎えにやって来た。
「姫様だ!」
「姫様のお帰りだ!」
すっかり馬車を取り囲まれて、歓迎されているというのに気分はむしろ犯罪者に近い。先に降りたクックが回り込んでドアを開いた。リズは馬車を降りるのが億劫だった。
ナイジェルが不意に言った。
「笑顔」
「え?」
彼は口の端を指で持ち上げた。
「こういうときは笑うんだ。騙されたと思って、やってごらん」
迷ってザハリアーシュに視線を送ると、彼は促すように頷いた。
リズは深呼吸をした。馬車から降り立ち、集まった兵士たちを見渡す。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、姫様!」
嬉しそうな声に気後れする。うまく微笑むことができているだろうか。
「おまえたち、姫様を困らせるな。持ち場に戻れ!」
ラスムスが怒号で兵士たちを散らした。
「お許し下さい。皆、姫様のお帰りを指折り数えてお待ちしていたものですから」
「そうだったんですか……」
馬車から降りたナイジェルが大きく伸びをした。不審そうな目つきをするラスムスに、リズは彼を紹介した。
「彼はナイジェル。王子だそうです」
「非公式の訪問だ。お構いなく」
ナイジェルの護衛官が、手慣れた様子でラスムスと形式に則った挨拶を交わした。
王子が辺境領を非公式に訪問するとは前代未聞のことである。ナイジェルの来訪はすぐさまオズワルドに報せられることとなった。タイソンが城主の座から退き、オズウェルが留守にしている今、彼は城主代理としてこの事態に対応しなければならない。
リズはオズワルドに付き添うことにした。単純にいとこが心配だったからだ。
というのも、オズワルドは極度の上がり症なのだ。何年も城に籠もりきりだったから無理もないのだが、とにかく人慣れしていない。オズウェル以外の者とは滅多に口を利かず、やっと話ができたかと思えば、一度でもどもるとすぐ黙り込んでしまう。
自室で着替えを手伝ってもらいながら、リズはエマに尋ねた。
「オズウェルが帰ってきてからではだめ?」
彼女は冷静に首を振った。
「会わずにすむのなら、そのほうが良いのです。王位継承者候補の接触は様々な憶測を生みます。オズワルドには酷ですが、この試練を乗り越えていただくしかありません」
「ナイジェルは何をしに来たのでしょうか」
「最低限の護衛を連れた非公式の訪問というところに、秘密裏に事を運びたい思惑を感じます。本国にどれだけ情報が流れているかはわかりませんが、おそらく、オズウェルの生死の確認も目的に含まれているのではないかと」
「……生きているとわかったら、争いが起きる?」
リズがおそるおそる尋ねると、彼女は毅然として言った。
「いいえ。そうしないために、オズウェルはオブライエンと共に最果ての地へ行ったのですから」
そう思いたかったが、着付けを終えたあともリズの心は晴れなかった。
応接間に向かう途中、階段の前でナイジェルが待ち受けていた。
「やあ、リズ。そのドレス、よく似合ってるね」
青を基調とした礼装を着て、その出で立ちだけ見れば立派なものなのに、手には食べかけのパンを持っている。護衛官が厨房から貰ってきたのか、自分でくすねてきたのか。ともかく、お腹がすいているのは本当だったようだ。
オズワルドと会わせる前に目的だけでもはっきりさせておこうと、リズは尋ねた。
「あなたはなにを知って、なにをしにここへ来たのですか?」
「うん、的確な質問だ」
ナイジェルは残りのパンを食べきり、親指で口の端を拭った。
「ギルバートの手引き通りになっていれば、君はザハリアーシュに連れられてお祖父様のもとへ来るはずだった。しかし待てど暮らせどたよりは来ない。無事を確かめに来るのは当然じゃないかな」
「あなたはハーマンに頼まれてここへ?」
「そうとも言えるね」
「お祖父様には、落ち着いたら手紙を書きます。これで用はすんだでしょう?」
「いいや、まだだ」
ナイジェルは真意の読めない目つきで笑った。
「君には、お兄さんがいるだろう」
ああ、やはり。
緊張で心音が高くなる。リズは手を握り合わせた。
生死を問われたら、どう答えればいい。はぐらかすのがいいのか、それともはっきり生きていると伝えるべきか。
ナイジェルが次に口にした言葉は、彼女にとって思いがけないことだった。
「シャハ族のザハリアーシュと組んで、オズウェルはなにを企んでいる?」
「なにを……」
「それとも逆かな。貴族の館を訪ね歩くうち、オズウェルの存在を知ったザハリアーシュが、利用する目的で君に近づいたとか」
彼がなにを言っているかすぐには呑み込めなかった。
意味を理解して激昂しかけたリズを、エマが後ろから諫めた。
「乗せられてはいけません、姫様。相手の思うつぼです」
言われてよく見れば、ナイジェルは目を細めてニヤニヤと、こちらの反応を面白がっているようだった。
しかしいくら冗談でも、言っていいことと悪いことがある。
「ひどい侮辱です。ザハリアーシュはそんな人ではありません」
「さあ、どうだろう?」
「もう何度も私を助けて下さいました! 強くて立派な方です!」
リズがムキになって言い返すと、ナイジェルは心底おかしそうに喉で笑った。
「知っているよ。言ったろう、ギルバートから聞いたって」
「あ、あなたという人は……!」
エマに止められなければ、飛びかかって頬を引っぱたいていたところだ。
ひとしきり笑ったあと、彼は両手に白手袋をはめて襟元を正した。
「もちろん、彼は強くて立派さ。トビアーシュの孫というだけじゃない。数多の従兄弟、異母兄弟の中からシャハの次期族長と目される、サナンでも一角の人物だ。彼がまだコル・ファーガルにいてくれて助かったよ。一度話をしたいと思っていたからね」
頭から水をかけられたように怒りが冷めていった。
ザハリアーシュがいつまでコル・ファーガルにいるかなど、考えたこともなかった。
しかし彼は始めから、確固たる目的があってヨームへやって来たのだ。シャハ族がオズワルドの後見になるかわりに、コーウェン家がマルタを守る。互いに利害が一致した交換条件だ。この約束を交わした瞬間、ザハリアーシュの目的は達成される。同時に、コル・ファーガルに留まる理由もなくなってしまう。
「ほら。君も、今のうちにお礼を言っておくといい。話ができるうちに」
耳元でそう言われてハッと顔をあげると、ザハリアーシュが階段を上がってくるところだった。彼は入れ違いで下っていくナイジェルを横目で見やり、早足でリズの前までやって来た。
「ナイジェル王子と話していたのか」
リズはとっさに言葉が出て来ず、また、ザハリアーシュの顔を見ることもできなかった。
「なにを言われた?」
「いえ……」つま先を見つめたまま、言葉を濁した。「からかわれただけです」
年が明ければ、彼も、彼についてきた者たちも、胸を張って故郷へ帰れるのだ。
喜ばしいことのはずなのに、心は暗く沈んだ。
幼い頃から何人もの背中を見送った。彼らは必ず帰ると言って、そして二度と戻らなかった。いくら待っても帰って来なかった。いつからか、リズは去っていく人たちを行かないでと引き留めることも、帰りを待つこともしなくなった。
ましてやザハリアーシュには帰る場所があり、待つ人がいる。
「オズワルドのところに行きます。一人では心細いだろうから」
彼女は逃げるように応接間へ向かった。
応接間のドアを開けると、先に座っていたナイジェルが顔をあげた。彼は最後に入って来たザハリアーシュを見て目を細めた。
「ザハリアーシュも同席を?」
「護衛代わりだ」
「贅沢な護衛官だな」
リズはオズワルドの隣に座った。エマ、ザハリアーシュはその後ろに立つ。
「改めて、王子のナイジェルだ。貴重な時間を割いていただき感謝する。オズワルド殿」
「ん……」
挨拶もそこそこに、ナイジェルはコル・ファーガルの良い評判や、辺境の自然溢れる景色について、なめらかに弁舌をふるった。
オズワルドの態度は一貫して無愛想だった。リズは横目でいとこの様子を窺った。緊張でまなじりが震えている。早くも額にうっすら汗がにじんでいた。やはり、長く負担を強いるのは酷だ。
「ナイジェル。オズワルドは気分が優れません。お話が長くなるようでしたら……」
「では、簡潔にいこう」
ナイジェルはテーブルの焼き菓子を摘んで口に入れた。
「オズワルド殿。リズをハーマン家に引き渡してほしい」
「へっ……うぅ」どもりそうになって一度は口を噤みながらも、オズワルドは震え声で言った。「へ、辺境領は、本国に公女を売る、ような真似は……しない」
「誤解されては困る。これは彼女のためでもあるんだ」
リズはナイジェルを睨んだ。
「そのお話でしたら、さきほどお断りしたはずです」
ナイジェルは素知らぬ顔で紅茶を飲んだ。
「ロデリック=テナールという男を覚えているだろう」
忘れるわけがない。二度と会いたくない顔だ。
彼はここ数日のあいだ本国で何が起きていたかを話した。
「コル・ファーガルから戻るなり、彼は議会で罪を告白した。フィオナの娘を拉致しようとしたと。陛下はおかんむりだ。〈王の選定〉がらみでの顧問官の裏切りはこれで二度目。ただ今回が十四年前と異なるのは……オズウェルのときと違い、娘が生きているということだ」
現時点でこの秘密は議会を構成する顧問官十二人のみが知ることだが、遅かれ早かれ、噂というかたちで本国の貴族たちに知れ渡るだろう。
「本国ではまだ査問が続いている。顧問官たちが議会に掛かりきりでいる隙に、僕はいち早く事実を確かめにきたんだ。第二、第三のロデリックが現れる前にね」
テナールに捕らわれたときの記憶がよみがえり、リズは怖気だった。
「誰かがまた、私を捕まえに来るかもしれないというのですか」
「来るよ。〈王の選定〉があるからね」
「その選定と私に、なんの関係があるんですか」
ナイジェルは開いた口を閉じて、考える目つきになった。
ややあって、彼は言った。
「ユーゴ=ハーマンと結婚した王女は、二人の子どもを産んだ。そのうち、陛下の娘といとこ同士で結婚したのが僕の父で、妹のフィオナが君たちの母親なんだ。何が言いたいかわかるかな。血統の問題なんだよ」
「血統?」
「王になるには二つ条件がある。初代国王ユリウスの子孫で、かつ男児であること。父は僕が七歳のときに継承権を放棄したから、今のところ存在している候補は僕とオズウェルだけだ。だがそれも、これから増える可能性がある」
「お子さんが生まれるんですか?」
「その発想が出てくるなら、もうわかるだろう。なぜ自分が狙われたか」
継承権は、これから生まれてくる男児にも発生する。その意味を理解した瞬間、破れた疑問の奥から、恐るべき真相が顔を出した。
ロデリックは言った。
(――これならば選定に間に合う)
リッツォーリは言った。
(――まだわかりませんか。いたずらにオズウェルの名を吹聴したことで、あなたの身に危機が迫っているということが)
老執事は言った。
(――本国の貴族共に手折られる前に)
年齢も立場も違う人々から言われた言葉が、ひとつの意味に収束していく。
(――あなたは絶対に、見つかってはいけないの!)
記憶にある母の声が、真に迫って蘇った。
目の前がぐらりと揺れた。気分が悪い。
エマが後ろから回り込んできて、気遣わしくリズの手を握った。
「君はお祖父様のもとへ行くべきだよ、リズ。もうロデリックに捕まったときのような、怖い思いはしたくないだろう?」
リズは縋るようにエマの手を握りしめた。
「選定が終われば、そんなことをする人もいなくなります」
「それはどうかな。王室の血を引く公女を妻に望む男は、いくらでもいる」
「で、でも」
「ロデリックはまだいいほうだ。僕たちに敬意を持っているからね。だが残念なことに、すべての高位貴族がそうというわけではない。彼らは狡猾だ。コル・ファーガルに無茶な要求をして、それを取り下げることを条件に君を手に入れようとするかもしれない。今日みたいに市井にいるところを誘拐されるかもしれない。もしそんなことが起きれば、本国と辺境領の関係はより悪化するだろう」
ナイジェルの言葉の端々には、頭を上から抑えつけるような圧迫感があった。
「陛下の膝元なら、どんなことからも守られる。ユーゴお祖父様は君の自由意志を尊重して下さるだろう。結婚相手を選ぶことくらい許してくれるさ」
「そんなの……」
「どうしてもお祖父様の世話になりたくないと言うのなら、仕方がない。オズウェルがそのぶん苦労するだけだ」
リズはまた目眩がした。
やっとオズウェルが自分の人生を取り戻したというのに。
どうすれば迷惑をかけずにすむだろう。兄にだけは、厄介者だと思われたくなかった。
「いい加減にしろ!」
オズワルドが叫んだ。彼はナイジェルに食ってかかった。
「あ、あなたは卑劣だ! わざと不安をあお、煽るような……物言いをして……!」
「卑劣呼ばわりされるとは心外だ」
ナイジェルは涼しい顔でうそぶいた。
「僕は限りなく譲歩しているし、嘘は言っていない。心ない者の手にかかって望まない子を孕むくらいなら、」
「詭弁はそこまでだ」
これまで事態を静観していたザハリアーシュが、不意に口を挟んだ。出会ってから初めて聞く、相手を圧するような重たい声だ。リズは彼を見上げた。ほとばしる怒気が目に見えるようだった。
「本国へ行ったところで状況は変わらん。見合いを用意する人間が変わるだけだ。そうだろう?」
足を組んでしばらく沈黙したのち、ナイジェルは冷ややかに答えた。
「お祖父様の見つくろった相手から選べるだけ幸運というものだ」
リズは弾かれたようにナイジェルのほうを振り返った。
「さっきと言っていることが違います!」
「解釈の違いだよ。些末なことさ」
「知らない人と結婚させられるなんて」
「結婚は義務だ。多少そりが合わなくとも、何年も一緒にいれば情も湧く」
ナイジェルの瞳に一瞬憂いがよぎった。リズは思わず尋ねた。
「あなたと奥様のあいだに……愛はあるのですか?」
「たとえ愛情がなくとも、隣にいればそれでいい」
護衛官たちが息を呑んだのが気配で伝わってきた。彼らは互いに目配せを交わし、何か言いたそうな顔で主人を見た。
ナイジェルは鬱陶しそうに護衛官の視線を手で払った。
「そんなことより君の話だ、リズ。はっきり言おう。君たち兄妹の存在はほどなく本国の中枢に知れ渡るだろう。秘密はすでに暴かれた。これから起こるであろう混乱は、コーウェン家の手に余る。これは侮辱ではなく事実だ。それとも答えられるかい。これから先、再びロデリックのような相手に狙われたとき、誰が君を守れるのか」
この質問に答えられなければ、問答無用で本国へ連れて行かれる予感があった。
真っ先にザハリアーシュのことが浮かんだ。だが、以前とは状況が違う。リズは口を引き結んだ。こちらの勝手な都合で、また守ってくれなどと言えるわけがない。
守ってもらうということは、そのぶん誰かを危険な目に遭わせるということだ。オズウェルやダレル、ラスムスをはじめとする城内の兵士たちの顔が、浮かんでは消えていった。
ナイジェルが沈黙を破った。
「どうやら決まりだな」
リズは震えて返事もできなかった。
そのときだった。
「オズワルド」
ザハリアーシュが再び口を開いた。
誰もが彼を見て、続く言葉を待った。
「城主が不在の今、そなたはエリザベスを保護する立場にある」
「あ、ああ……」
「一言、許すと言え」
ザハリアーシュはよどみなく言った。
「俺は今ここで、彼女に結婚を申し込む」
水を打ったような静けさが辺りに満ちた。
オズワルドの顎から汗が流れ落ち、エマですら、状況を飲み込めるまでぽかんと目を見開いていた。
ナイジェルが我に返ったように腰をあげた。
「待て。それは」
「許す」
オズワルドは躊躇なく王子の言葉を遮った。
「結婚相手はリズが自分で選んでいいと、王子は確かにそう仰った。ユーゴ=ハーマンの名のもとに、彼女の自由意志は尊重されるとも」
揚げ足を取られるとは夢にも思わなかったのだろう。ナイジェルの表情が初めて強ばった。
オズワルドは相変わらず震えていたし、火傷の跡が残る顔も汗でびっしょりだったが、相手から目をそらしはしなかった。
「婚約者がいる娘に見合いは不要だ。王子には本国へ戻り次第、議会にこう伝えていただきたい。本国の貴族たちが今後、コル・ファーガルの公女を不当に扱うことがあれば、本国は辺境領のみならずサナンとの融和の道をも失うだろう」
汗みずくになりながらそう言い切ったオズワルドに、リズは胸が震えた。
コル・ファーガルの人々が知る立派な〈オズワルド〉の実体は、二人で一人だった。今日初めてその事実を実感した。十四年ものあいだ、彼はただ城に籠もっていただけではない。紛れもなく、オズウェルと人生を分かち合ってきたのだと。
「――いいだろう」
ナイジェルは口角をあげて微笑んだ。その顔にやり込められた悔しさは微塵もなく、むしろ嬉しげだった。
「しかと承った。ハーマン家を通して、議会にはそのように伝えよう」
後ろに控えていた護衛官が王子の意を察していち早くドアを開いた。
ナイジェルは席を立った。
「僕は誕生祭が終わるまでコル・ファーガルに滞在するつもりだ。どこで何をしているか知らないが、それまでにはオズウェルも城に戻らざるをえないだろう。そうしたら、また話でもしよう。今度はもっと気楽に」
リズにからかいを含んだ目配せして、彼は用はすんだと言わんばかりに応接間を出て行った。
「意地の悪い男でしたね」
エマはリズを柔らかく抱きしめて、労るように背中を撫でた。彼女の手のひらの温かさがずっと、ちぎれそうな心を繋ぎ止めてくれていたように思う。
「怖かった……どうしていいか、全然わからなかったの」
エマはリズの肩に手を添えた。
「自分が何者かを知れば、身を守る方法もおのずと見えてきます。これから、姫様はオズウェルのもとでその方法を学ばれていくことでしょう。そのための時間を、ザハリアーシュが守ります」
山で暮らしていた頃は、その日その日を生きていくのに忙しくて必死だった。オズウェルに会うことができてからは毎日が夢のようで、いつ覚めてもいいとさえ思っていた。
しかし生きている限り、人生は続く。時は流れ続けていく。念願が叶ったからといって、そこで終わりではないのだ。
大事なのはその先、これから。
「どうか強くおなり下さい、姫様」
「はい」
エマはリズの髪をひと撫でしてから、憔悴して背もたれに沈みこむオズワルドを引っ張り起こした。
「ご立派でした、オズワルド。見直しましたわ」
「触るな。自分で立てる……」
「無理ですよ。お部屋までお送りいたします」
結局、抵抗して余計にフラフラになったオズワルドをエマが支えていった。
ドアが閉まるまで見守ったところで、隣に人の座る気配があった。リズは振り返った。ザハリアーシュと目が合う。何を言えばいいのか、うまく口が回らない。
「あの……ごめんなさい」
ザハリアーシュの眉間に深い皺が刻まれた。リズは申し訳なくなった。本当は自分でナイジェルに言い返さなければいけなかったのに、それが出来なかったばかりに、彼にあんなことを言わせてしまった。
「本当にごめんなさい」謝ってすむことではないが、リズは頭を下げた。「あなたが……やっと、サナンに帰れるというときに……こんなことになって」
「いつ帰ると言った」
リズは驚いて顔をあげた。
「……私、あなたが帰ってしまうと思って……」
「俺がそう言ったか?」
リズは縮こまって首を振った。本人に確かめもせず、ナイジェルの言ったことを鵜呑みにしていたことが恥ずかしくなった。
ザハリアーシュは長く息を吐き出してから、短く言った。
「返事を聞きたい」
最初はそれが、なんのことかわからなかった。彼の真剣な顔を何秒か見つめているうちに、ようやく結婚の返事を求められていると気づいた。
リズは両手で頬を押さえた。今まで生きてきて、こんなに顔が熱くなったことはない。火が出そうだ。一緒に暮らす。家族になる。そう考えただけで、胸までカーッと熱くなった。心臓と一緒に不思議な昂揚感が波打っている。
「俺は本気だ」
目の前にいるのに顔も見られない。
リズは一言、口にするのがやっとだった。
「私も」
その瞬間、離れていた距離が一気に縮まった。
肩を抱かれながら、リズはザハリアーシュを見上げた。瞼と、次に頬に唇が触れる。彼は笑っていた。目尻が下がった、普段とは印象の異なる優しげな顔つきに、また胸がドキドキした。
「あ、あの」
「ん?」
「結婚って、どうすれば……なにをすればいいんですか?」
「なにも今すぐに、という話ではない。オズウェルの承諾が必要だし、式を挙げるのは君が十八歳になってからだ」
あと四年もある。
「それまでは?」
「そうだな……とりあえず」ザハリアーシュはリズのこめかみに口づけした。「今日のところは、二人で羊を捌こうか」
昂揚感とは別に、無性に嬉しさがこみ上げた。
これからは特別な理由がなくても一緒にいられるのだ。明日も、明後日も。こんな日々が続いていくのなら、四年などあっという間に過ぎるに違いない。
生きていけると、そう思った。
「はい!」
リズは感極まって、ザハリアーシュの首に腕を回して抱きついた。
オズウェルとダレルが北の果てから戻ってきたあと、話し合いのすえ、リズは祖父のユーゴ=ハーマンに手紙を書くことになった。
「いずれは顔を見せに行かねばなりませんが、リズ殿の手紙を読めば、ハーマン殿もしばらくは大目に見て下さるでしょう」
ダレルはそう言って戯けるように片目をつぶった。
コーウェン家と《鳩の翼亭》を行き来する毎日で、リズもなかなか忙しい思いをしたが、一番大変だったのはオズウェルだろう。誕生祭の最終日、彼は市民にオズワルドとの入れ替わりを告白した。幸いにも市民から反感の声はなかったが、賓客としてコル・ファーガルに来ていた諸侯たちの胸中は計り知れない。本当の試練はここからだ。だが、ひとまずこれで、オズウェルは十四年にわたる呪縛から解放されたのである。
祭りが終わり、オズワルドが出立する日が近づいてきた。
ザハリアーシュは、サナンへ渡る船に部下たちを便乗させられないかとナイジェルに相談した。マルタの後ろ盾が確保できた以上、彼らをいつまでも自分に付き従わせるわけにはいかないと考えたのだ。それぞれが今後の身の振り方を考えるなか、ラデクだけは、始めから頑として首を縦には振らなかった。
挙げ句、
「大切な許嫁を決める場に立ち会うこともできず、最後は厄介払い……若は、この爺をお荷物だとおっしゃる。もはや、トビアーシュ様のもとへ逝くしか道はありますまい……」
と、半ば脅迫めいた恨み節まで聞かされては、ザハリアーシュも無理強いはできなかった。
ナイジェルは、オズワルドの出立に合わせてコル・ファーガルを発つという。油断したら本国に連れて行かれるかもしれないと、リズは彼に会うたび警戒していたが、その心配は杞憂に終わった。
「王子の真の狙いはザハリアーシュのほうだったんだろう。彼ほどサナンの部族社会に通じた人物はいない。両国の関係を深めるにあたり心強い協力者だ」
オズウェルはナイジェルをそう評した。
リズがコル・ファーガルに留まる一方で、来年から本国の学院に入ることが決まったミリアムは、寮生活で苦労しないよう、身の回りのことを侍女たちに厳しく仕込まれている。息抜きに抜けだして来た彼女から、一緒に学院へ通わないかと誘われたが、リズはやんわり断った。
あれから、ザハリアーシュの態度に特に変わったところはない。むしろ一緒に過ごす時間は減った。オズウェルやナイジェルと今後の話をしたり、下町の新興街に出かけたり、彼は彼でなかなか忙しいのである。
それでも、一日のうち一回は必ず二人で過ごす時間をとった。リズはその時々で彼のためにお茶を煎れたし、食事をこしらえもした。
この日もリズは、疲れて帰って来たザハリアーシュのために、城の厨房で食事を用意していた。
「ままごとみたいなことをしているね」
リズはわきから伸びてきたつまみ食いを狙う手を、パシンと叩き落とした。
「ナイジェル。意地悪しないで」
「味見をしてあげようと思って」
祭りの日に彼が見せた健啖家ぶりは、まだ記憶に新しい。リズは仕方なく、籠に入った焼きたてのパンをひとつ分けてあげた。
彼は明日、オズワルドと共に発つ。
厨房をぶらぶらするナイジェルを放って、リズは出来上がったスープを小鍋に分けた。
「これでいいのか……」
リズが振り返って見ると、ナイジェルは意味もなくフライパンをもてあそんでいた。彼は視線に気づくなり顔に笑みを張りつけた。
「コル・ファーガルで過ごすあいだに、色々と思うところがあってね。オズウェルとオズワルドは、大事なことは必ず二人で相談して決めてきたそうだ。市民の〈オズワルド〉像は、そうして生まれた」
「いけないんですか?」
「これでいいのかっていうのは、自分のことさ。僕には妻がいる。護衛官がいて、両親が健在で、知り合いも多い。これだけ周りに人がいるにも関わらず、今まで誰かに相談するということをしてこなかった」
「……ギルバートは? 友人なのでしょう?」
「あいつは必要なときに感情抜きの意見をくれる。でも相談相手にはならないし、向こうから寄りつくこともない」
誰にも相談できない辛さはリズも知っている。彼女は手を止めてナイジェルを見た。
「オズウェルではだめですか? オズワルドも、ザハリアーシュも……みんな、あなたの力になってくれる人たちです」
「親切に口添えでもしてくれるのかい?」
「またそんな言い方をして」
リズが腹を立てたとき、厨房の入り口からコンコン、と柱を叩く音がした。
ダレルだった。
「お話の途中で失礼。リズ殿。ザハリアーシュが空きっ腹で待っていますよ」
「はい。すぐに行きます」リズは食事を載せたトレイを両手で持った。「それじゃあ、ナイジェル。また明日」
「うん。また明日」
ナイジェルは手を振ってリズを見送った。
一呼吸置いて横を見ると、魔道士がすぐそばまで来ていた。
「欲を出されては困ります」
「からかうと面白くて、ついね」
ダレルの瞳の色は、ナイジェルに錆びた剣を思わせた。
「ところで魔道士殿。あなたはユーゴ=ハーマンと、どんな取引を?」
「あなたを王にするという約束で、コル・ファーガルから手を引いていただきました」
フィオナの嫁入りの裏には、辺境の利権を得ようという本国の打算があった。結婚相手にディランが選ばれたのは、それだけ与しやすい人物だと判断されたからだ。
「あのお祖父様が、よく首を縦に振ったね」
「さしもの王の懐刀も、孫娘に嫌われることだけは避けたかったと見えますな」
これほど不敬かつ傲慢な発言も堂々と言われると腹も立たない。
「リズはいい拾いものをしたよ」
神殿の巫女姫に仕える身でありながら、主を裏切りトビアーシュ率いる部族連合に与した背徳の魔道士。太陽と月の力を得たオブライエンは、近海を支配する竜を屠り、西州の禁足地を侵した。そんな彼がなぜヨームに来たのか、大方見当はつく。
神代の大鷲だ。
しかし七百年のあいだ、大鷲が再びこの地を訪れたという記録はない。本国に辛うじて残る盟約の名残といえば、ユリウスの血と、形骸化した儀式だけだ。
ナイジェルとて、下らぬ継承問題でむやみに血縁と敵対したくはない。かねてより彼が思い描いていた絵図、本国と辺境に分かたれてきたヨームをひとつの経済圏にまとめるべきという思想に、オズウェルは理解を示した。古い体制を変えてゆくには、生まれや身分、国家を越えた結束が必要となる。
先王の遺言は未来を阻む最大の障害だ。
ダレルはナイジェルを王にすると、それは簡単に言ったが、果たして高位貴族や国民を納得させられる方法なのだろうか。彼は聞かずにはおれなかった。
「あなたは、どうやって僕を王にするつもりだ?」
魔道士の答えは予言めいていた。
「雪解けの春の日が、あなたに王冠をもたらすでしょう」




