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大鷲の国  作者: サトミアキラ
12/14

十一章

 リズは暗闇にランプをかざした。

 円筒状にくりぬかれた縦穴に、螺旋状の石段がついている。耳をすますと穴の底から微かに水音が聞こえてきた。音の遠さからして、だいぶ高さがあるようだ。

 階段は下にも上にも続いていた。足場を確かめながら、端の欠けた石段を一歩一歩、慎重に登る。突き当たりのドアは長く使われていなかったのか、腕の力だけでは開かなかった。リズは体重をかけて錆をこすり落としながら、少しずつ扉を開けた。

 扉の隙間から、新鮮な空気が流れ込む。

 採光を兼ねた通風口から、四角く切り取られた夜空が見えた。

 いつの間にか霧は晴れたようだ。リズは特に意味もなく星を数えた。くたくたになるまで働いた一日の終わりのように、頭が痺れている。行き止まりの室内を照らすと壁の隅に襤褸をまとった白骨が見えた。よくよく照らしてみると、手足を鎖で繋がれた遺体だった。汚れた頭蓋骨はヒビが入っている。何年も前に幽閉されて、そのまま息を引き取ったのだろう。

 ここに繋がれているということは、コーウェン家にとって都合の悪い人物だったのかもしれない。それにしたって、こんな最期があるだろうか。誰にも弔われることなく、こんなところに忘れ去られて、あまりにも不憫だ。

 麻痺していた感情がわずかに息を吹き返した。

 膝をついて死者の冥福を祈り、リズは骸の白骨化した手足から鎖を外した。そのとき、硬い音を立てて何かが床に転がり落ちた。暗くてよく見えないが装飾品らしい。指で撫でた表面に何か模様が刻まれている。遺品だけでも外に出してあげようと、彼女はそれを懐にしまった。

 ドアを閉じて来た道を戻る。今度は下へ続く階段を降りた。

 濃くなっていく水の匂いを嗅ぎながら、足を踏み外して穴に落ちていく自分を夢想した。リズは足を止めて穴の底をじっと見下ろした。吸いこまれるような引力を感じる。まるで闇の向こうから誰かが手招きをしているようだ。

 止めていた息を吐いて瞬きをした。今の今まで見つめていた闇に膝がすくんだ。頼りない足場にいることが急に怖くなって、リズはどこに繋がっているかもわからない横穴に逃げ込んだ。

 分かれ道を右に進む。行き止まりかと思いきや、突き当たりの壁の穴から太い鎖が垂れていた。初めてコル・ファーガルに来たとき、ダレルが動かした仕掛けを思い出し、リズはその鎖を両手で思い切り引っ張った。どこかで歯車が噛み合うような音がした。

 壁の一部が沈んでいく。リズは新たに目の前に現れた木目の壁の、一部、出っ張った部分を押し込んだ。カチャリ、という音のあとに、ゆっくりと視界が開けていく。どこかの部屋に出たようだ。室内は明かりが乏しく薄暗かったが、闇に慣れた目には、ちょうどよかった。出てきた穴を振り返る。木目の壁だと思ったものは、どうやら本棚の裏だったようだ。

 机と椅子、本棚、必要最低限のものしかない室内を見渡す。扉は二つ。ひとつは入り口だとして、隣にまた部屋があるようだ。

 リズは椅子に座って息をついた。ほんの少し歩いただけなのに、とても疲れていた。頭の中はまるでぐちゃぐちゃだ。オズウェルは死んだと聞かされたとき、心に満ちた暗い悲しみが、まだ居座って離れずにいる。

(あんなの嘘に決まってる)

 オズウェルは死んだと思え、とリッツォーリ氏は言った。それと同じことだ。オズワルドもまた、オズウェルを諦めさせるためにあんなデタラメを言ったのだ。

 そう考えることでリズは平静を保とうとした。

 もしかしたらオズウェルは、とっくの昔にコル・ファーガルを逃げ出して、誰の手も届かない場所へ行ってしまったのかもしれない。北方辺境領の果て、山脈の向こうにある未踏の地へ。

 ガントがいつか言っていた。

 幼いオズウェルは、北の果てから国を見下ろす絶壁の山を、人の足で越えられると信じていた。山の向こうには豊かな土地が広がり、大鷲や、眷属の鷹がたくさん暮らしているという、父のおとぎ話を真に受けたのだろう。ガントが何度叱りつけても、兄は山に入ることをやめなかったという。自分の鷹が欲しかったらしい。

 もし本当に、オズウェルがどこかで幸せに暮らしているとしたら。今ごろ、親子三人で暮らしていたときのように、明るく温かな家庭を築いているだろう。それはとても喜ばしいことだ。

 リズは膝の上できつく手を握りしめた。

 会いたくて、一目でも顔が見たいと思うのに、いざそれが叶ったとき厄介者と思われるのが怖い。

 ただえさえお互い会ったこともない兄妹なのに、リズが伝えられる報せといえば、村が十年のあいだに廃墟と化したことと、両親の死だけなのだから。疎んじないでくれ、というほうが無理な話だ。

 それに彼女は何者かに命を狙われてもいる。

 闇夜に紛れてリズを殺そうとした者の正体は、いまだ不明のままだ。リズは警察局から連れ出されたあと、そのことでテナール氏を追求したのだが、彼は演技ではなく本気で驚いていた。そして一刻も早くリズをコル・ファーガルから離れさせようと、薬で眠らせて本国行きを強行したのだった。

 考えれば考えるほど、オズウェルに会うべきではないという気がしてくる。下手をすれば兄まで巻き込んで危険な目に遭わせてしまう。

 いっそ山に帰って、死ぬまでひとりでいようか。

 卑屈になりかけたそのとき、ふと、廊下に人の気配を感じた。

 リズはランプを抱いて、とっさに机の陰に隠れた。

 誰かが部屋に入ってきた。素早く、静かに扉を閉じる。足音がしない。不穏なものを感じて机の陰からおそるおそる顔を出すと、そこにいたのはコーウェン家の老執事だった。

 隣室に近づくその手に、鈍色の刃が握られていた。

 リズは思わず立ちあがった。

「何のつもりですか!」

 執事が振り向いた。動揺に見開かれた双眸が、リズの姿を捉えた途端、すっと細くなる。ナイフを握る手に力がこもった。リズは相手から目を離さぬまま、少しずつ横に移動した。

「いけませんな、姫様。こんな夜更けに出歩かれては……」

「その刃物で何をするつもりですか」

「……どうか、見なかったことにしていただけませんか」

 うつむきがちに肩を落として、彼は言った。

「これを逃せば、魔道士を葬る機会は二度と来ないでしょう。あれは魔性です。動けぬうちに始末しなければなりません」

 詳しいことはわからないが、オズワルドの魔法使いが動けぬ状態で隣の部屋にいる。この執事は、それを秘密裏に葬ろうとしているのだ。

 リズは見て見ぬ振りなどできなかった。

「魔法使いだって人間です。魔性と言うけれど、よく知りもせず彼らの心根を邪悪だと決めつけるのは、偏見ではないのですか」

 落ちくぼんだ目に、思いがけず微笑が浮かんだ。

「……ディラン様と同じことを仰る」

 彼はナイフを懐にしまった。

「人の本質を善きものと信じるご気性は、お父様譲りですな。……このようなことになって、本当に残念です」

 執事が大股で足を踏み出した瞬間、リズは逃げ出した。

 本棚の裏から通路を駆け戻る。追跡の足音はぴったり後ろをついてきた。

 どうにか逃げ切って、このことをオズワルドに伝えなければ。

 リズはランプの底部を外した。後方に油を撒き、手元に残った火を床に落とす。一瞬後、目の前に赤々とした炎が燃え上がった。空気を舐めるように舌を伸ばす炎の向こうに、老執事のシルエットが浮かんだ。

 彼女は走った。螺旋階段の上下、どちらへ行こうか迷って、上に向かった。

 始めは部屋に戻るつもりでいたが、追いついた老執事がミリアムにまで害をなす可能性に行き当たり、リズは自分が唯一知る道を捨てた。そして階段を登り、先ほどの骸のある部屋に入った。

 改めて見上げた通風口は、人が通れる大きさではなかった。ランプを捨てたことを後悔しながら手探りで辺りを調べる。囚人を幽閉していた部屋に、隠された仕掛けはなかった。

 気持ちが焦る。炎の勢いもだいぶ弱くなる頃だ。リズは一度ドアのほうに戻って下の様子を窺った。闇に慣れた目でもまるで見通しが利かないが、音なら聞き分けることができる。耳をすませた。空洞音のほかには自分の鼓動や息づかい、通風口から流れる風の音しか聞こえない。

 まだもう少し、猶予がある。

 そう気を緩めた直後、リズは息を止めた。

 カツン、と。

 石の床を蹴る、微かな音を耳が捉えた。しかも少しずつ近づいてくる。

 ここはもうだめだ。かといって、階段を下ったのでは鉢合わせになる。

 リズは意を決した。

 錆びた扉を力いっぱい閉じる。蝶番が軋む嫌な音が空洞に響いた。

 足音が速くなる。あと一分もせずに老執事はここへやって来るだろう。悩んでいる暇はなかった。しゃがんで階段の縁に手をかけ、リズは底が見えない空洞に思いきってぶらさがった。

 大丈夫、命綱がないだけ。

 迷子のヤギを迎えに崖を登る途中で、息を整えるのと同じ。

 足音が階段を登ってくる。

 手の平に汗がにじんだ。必死で息を殺す。前髪に砂埃が降ってきた。いまや足音どころか、老執事の息づかいまではっきり聞こえた。その『時』を、彼女は待った。

 緊張と疲労で心臓が破裂しそうだ。肩も腕も、もう限界に近い。静かに息を吐いて、目をきつく閉じる。

 頭上で、ドアを押し開く音がした。

 中に入った、今。

 リズは溜めていた力を振り絞って体を引き上げた。

 渾身の力でドアを閉じ、髪から引き抜いた金属製の髪留めを蝶番に突き立てる。耳障りな反響音が鳴り止まぬうちに、踵を返して急いで階段を下った。背後から、ドン、ドンと、激しくドアを揺すぶる音がした。破られるのは時間の問題だった。

 足を滑らせて、リズは膝を強く打った。手をつこうとした先に床がなく、彼女は自分がどれだけ危険な場所にいたのか改めて思い知った。

 壁にすがって体を起こし、立ちあがろうとしたが、足に力が入らなかった。胸が苦しい。息が足りない。もっと動けるはずなのに、何か変だ。

 ドガン、と大きな衝撃が降ってきた。

 ドアが破られたのだ。リズは全身から血の気が引いた。鉛のように重たいこの体で、果たして逃げ切れるだろうか。壁に手をつきながら、彼女は懸命に階段を下った。老執事の足音は聞こえない。だが、それが逆に不自然だった。

 階段を下りきったとき、リズはもうほとんど動けなかった。遠くで轟々とうなる水音を目指して、這うように前へ進んだ。

 音が広がったと感じた瞬間、体が手すりに触れた。

 上も下も暗くて視界が判然としない。だがどうやら広い空間に出たようだ。はるか下方に渦巻く濁流のうねりを感じる。この音が自分の気配を消してくれることを祈って、リズは手すりに掴まりながら体を引きずるように歩いた。

 しかし、とうとう体力が尽きるときがきた。

 がくんと膝が折れる。束の間、頭が真っ白になった。リズはちぎれそうな意識を気力で繋ぎ止め、倒れる前に座り込んだ。

 一定の距離を置いて様子を窺っていたのだろう。老執事が暗闇の奥から音もなく姿を現した。

「よくやりましたが、ここまでです」彼の声は悲しみに満ちていた。「姫様。あなたは人間の悪意をご存知ない。ですがそれは、とても幸運なことなのかもしれません」

 苦しい息の下から、リズは訴えた。

「オズワルドの、魔法使いに……手を出さないで」

「その高潔さに敬意を覚えます。……ディラン様は、あなたをとても大切にお育てしたのでしょうな」

 首に老執事の手がかかっても、彼女にはそれを振り払う力すら残っていなかった。

「魔道士めを始末しましたら、私もすぐおそばに参ります」

 老人の手に、一息に首をへし折るほどの力はなかった。リズは朦朧としながら枯れた手に触れた。手首に包帯が巻いてあった。

「お許し下さい、姫様。あなたの尊厳をお守りするには、こうするしかないのです。本国の貴族共に手折られる前に……今度こそ」

 脳裏にふと、いつかの光景が浮かんだ。

 手首が風に切り裂かれ、血が吹き出した、一瞬の鮮やかさ。

 それが誰で、何のことだったか、もう思い出せない。

「――エリサベス!」

 意識を一瞬繋ぎ止めた呼び声も、すぐ聞こえなくなった。

 光も音も遠ざかって、リズは目の前が真っ暗になった。


+++


 地下の迷路を抜けてザハリアーシュが辿り着いたのは、巨大な空洞だった。底に溜め池があるのか、低い水音が絶えずうなっている。

 どこからともなく風が吹いた。

 霧に紛れて水路から地下に忍び込んだあと、ザハリアーシュは暗闇のなかでこれを待っていた。ダレルの合図だ。道案内のまじないなど、はじめは眉唾だと思ったが、いざ風が吹くほうに進んでみればこうして広い場所に出た。コーウェン家の居城の裏側はかくも入り組んでいるが、これならば迷うことなく城の奥まで辿り着けそうだ。

 風が示すその先に彼女はいるだろう。

 オズワルドとユーゴ=ハーマン、どちらの協力を仰ぐにしても、リズがいなければ始まらない。ゆえに、この行動は目的に適っている。

 しかし、彼女を取り戻さんと昂ぶるこの熱はなんだ。

 仲間たちの前では努めて平静を保っていたつもりだが、ラデクには見透かされていたように思う。

 自分の身よりも他者を思いやる高潔さも、弱さを見せない強情さも、人を心から信頼できる純粋さも。すべてが得難く尊いものだ。もはやザハリアーシュにとってリズは単なる異国の娘ではなかった。部族という枠から外れ、流浪の身となってから初めて、一個人としての自分を見つけたのだ。

 信じるという言葉が背中を熱くする。生まれた土地に二度と帰ることが叶わなくとも、この熱がある限り、生きていけるという気がした。

 不意に、風が止んだ。

 ザハリアーシュは闇に慣れた目で辺りを見渡した。動く影はない。手すりを握り、上と、次に下を見やる。その先で予想もしていなかった光景が彼の目に飛び込んだ。

 一つ下の階層で、痩せの老人がリズの首を絞めながら、彼女を手すりの向こうに落とそうとしていた。

「エリザベス!」

 叫びが辺りにこだました。

 老人がザハリアーシュの姿を捉えた。落ちくぼんだ眼下の奥で、目が真円に見開かれる。彼はぐったりしたリズを素早く肩に担いで駆け出した。

 ザハリアーシュはすぐさま下の階層に飛び降りてあとを追った。

 ぐんぐん距離をつめる追っ手を見て、老人は足を緩めた。リズを床に降ろし、懐から暗器を取り出す。

 ザハリアーシュは長剣を床に放り、短剣を抜いた。ヒュッと風を切る暗器の一撃を弾き、一気に距離を詰める。刃物がぶつかり合って火花が散った。老人の攻撃は速いが狙いが粗く、力も弱かった。彼は突きの攻撃をかわして手首を掴み、老人の腹を短剣で三度刺した。

 致命傷を受けた老人はふらふらと後ずさり、壁にぶつかって座り込んだ。

 血反吐を吐きながら低くうなる。

「……姫様には……触れさせぬ」

「彼女の命を奪おうとした貴様が、何を言う」

 ザハリアーシュは憤然として言ったが、老人はもう聞こえていないようだった。

「だ、誰にも……触れ、させは……せぬ」彼は力なく項垂れた。「……姫様……ディラン様が、残された……大切な……」

 老人の手から暗器が落ち、肩から息が抜けた。

 短剣の血を払い、ザハリアーシュはリズのもとへ向かった。

「エリザベス!」

 辛うじて息はあったが、リズの体は真冬の雨に打たれたように冷たかった。ザハリアーシュは彼女の体を外套でくるみ、熱を分けるようにしばらく抱きしめた。

 腕の中でリズがわずかに身じろぎした。

「エリザベス。気づいたか」

「……ザハリアーシュ」

 か細い声だった。少し見ないあいだに、彼女はひどく弱っていた。

 頬に触れる指が氷のように冷たかった。

「無事でよかった……」

 ザハリアーシュはリズの額に頬を寄せた。

「疲れたろう。少し眠るといい」

 返事は静かな吐息だった。

 なぜこんなところにいたのか、あの老人は何者だったのか、そんなことは後回しでいい。背後の暗闇から水音が響く。病人を休ませるには、ここは寒すぎた。

 長剣を回収し、ザハリアーシュはリズを抱えて老人が向かおうとしたほうへ進んだ。

 螺旋階段を登り、一番手前にあった横穴に入る。ともかく表へ出なくてはならない。いつの間にか風のまじないも消えてしまったようだ。手探りで進むしかなかった。

 ゆるやかな上り坂の突き当たりまで歩いて、彼は壁から垂れ下がった鎖を引けるだけ引いた。歯車が噛み合うような音がした。小さな振動と共に、壁が沈んでいく。数歩下がって光に十分目を慣らしてから、彼は表へ出た。

 そこは赤い絨毯が敷かれた長い廊下だった。

 ザハリアーシュは左右を見渡して、右側の大きな扉へ向かった。鍵がかかっていてビクともしない。

 これだけ広い棟に誰もいないわけがない。

 人を捜そうと振り返り、ザハリアーシュは眉をひそめた。

 廊下の先の柱の陰に、仮面をつけた人物が立っていた。一瞬、あのときの魔道士かと身構えたが、体格が違う。

 ザハリアーシュは彼に近づいた。

 髪の毛や肌の状態を見た限り、若者ようだ。硬質な仮面の下に潜む表情は、窺い知ることができない。ゆったりした衣服から覗く手足の細さからは、立ち枯れた木々のような脆さが感じられた。

「おっ、おっ、おま、え……」仮面の青年は震えていた。「そいつを、ど、どっ……どうするつもりだ」

「休ませる場所を探している」

 彼はおっかなびっくり柱の陰から体を出して、リズの顔を覗き込んだ。明るい場所で見る彼女の顔色は、血の気をすっかり失っていて、ザハリアーシュですら軽く心臓がはねた。

「……病気なのか?」

「温かい場所を用意してくれ」

 仮面の青年はあたふたと奥の部屋に駆け込んだ。

 室内は独特の臭いが漂っていた。

 壁ぎわに立てかけられたカンバス、あるいは、棚に収納された画材のものだろう。仮面の青年は絵描きなのだ。イーゼルのカンバスに、冬の日差しのなかでたゆたう青い水面が描かれている。ザハリアーシュに絵のことはわからないが、妙に生々しく感じられた。

 青年は熾火の燃える暖炉の前に、クッションやら毛布を乱雑に敷き詰めた。ザハリアーシュは急ごしらえの寝床に彼女を降ろした。

 寝室から新しい毛布を抱えて来た絵描きの青年は、おそるおそるリズに触れて、その冷たさに驚いたのだろう。ビクリと手を引っ込めたかと思うと、慌てて彼女に毛布をかけた。

「な、なんで、こんなに冷たいんだ」

「わからん。人を呼んでくれ」

 彼はぶるっと震えた。

「ひ、ひと……」

「ここで暮らしているのなら、ひとりは思い当たる人間がいるだろう」

 言って聞かせるようなザハリアーシュの物言いが気にくわなかったのか、絵描きの青年は憮然とした。

「あっ、あ、あとで……おまえの処分を、決めるからなっ」

 じりじりと扉のほうに後ずさり、彼は部屋を飛び出していった。

 処分ときたか、とザハリアーシュは意外に思った。絵描きには不似合いな言葉だ。

 あの青年は兵士を引き連れて戻ってくるかもしれない。問答無用で牢にぶち込まれる可能性もあるが、リズが助かるのなら甘んじて捕まろう。抵抗すれば騒ぎが大きくなる。流血沙汰など以ての外だ。

 あとはダレルがうまくやるはずだ。

 暖炉の前に腰を下ろす。

 崩れた炭が内側から赤く燃えていた。ザハリアーシュは瞑目した。冷えた頬に再び血が巡り始める。彼は静寂にしばし耳をすませ、ゆっくり瞼を開いた。

 リズの手を両手で掬いあげ、しばらく寝顔を見つめたあと、ザハリアーシュは彼女の手のひらに口づけした。


+++


 風のまじないが消えた。

 〈竜〉に喰われたのだ。ダレルは舌打ちした。やはり太陽と月の魔力なく、神代の獣を制御することはできない。大気のように泰然とそこに在るだけの精霊と違い、奴らは我が強すぎる。

 だが間違いなく、ザハリアーシュはリズと合流した。

 ダレルは杖を腰のベルトに差した。

「若君、参りましょう。こういうのは柄ではないんですがね……リズ殿をお迎えする前に、お話ししなければならないことがあります」

 蝋のように青ざめた青年を連れて、ダレルは部屋を出た。広間でラスムスを拾い、オズワルドの執務室に向かう。

「ええい、好き勝手に振る舞いおって!」

 いい加減、不当な扱いに痺れを切らしたラスムスが、いささか強引にオズワルドから魔道士を引き離した。彼はダレルの胸ぐらを掴んで凄んだ。

「残った霧を晴らしてさっさと帰れ!」

「おまえは昔から変わらんな、ラスムス。善良で、誠実で、正直で」

 老将の腕を掴み、彼は抑揚のない声で言い放った。

「どうしようもなく愚かだ」

「なんだと」

「タイソンはむごいことをした。よくも、若君をこのように育てたものだ。まるでディラン様の写しではないか」

 言葉に詰まったラスムスを突き放し、ダレルは、依然として青い顔で立ちつくす青年を哀れに見やった。コーウェン家の秘密と、タイソンがついた嘘。彼はその重みを一身に背負わされた、真実の証人だった。

「若君。あなたも、このままでいいと思ってはいないでしょう」

 オズワルドは顔を上げなかった。

 ダレルは懐から四つ折りにした紙を出して開いた。

「ラスムス。これが何かわかるか」

「辺境の保護地域に入るための許可証ではないか。どこで手に入れた」

「そう。コーウェン家の印章が押されている。この許可証を出せるのはコル・ファーガルの城主タイソンのみ。そうだな?」

「当たり前だろう。さっきからなにが言いたい。オズワルド様に妙なことを吹き込もうというのなら……」

「ラスムス」

 ダレルは旧知の言葉を遮った。普段の彼なら絶対にやらないことだった。

「わたしはこれを、北方の森にある追いはぎの砦から見つけた。北方辺境領開拓事業、最後の難関と呼ばれたあの土地だ」

 コル・ファーガルから遠く離れ、街道をそれた森の奥。山脈を越えた先にある果ての土地を調査するため、コーウェン家の先代城主は時間と金をかけて険しい土地を切り拓き、山奥に村を作った。そこは土が痩せて交通の便も悪く、お世辞にも豊かとはいえなかったが、野盗に襲われる心配もなく、地方から集められた開拓民たちが細々と暮らしていた。

「二十余年前、彼の地に移り住んだディラン様は、住民の強い後押しを受けて開拓の指揮を執ることになった。士気を上げるためのお飾りのようなものだったがな。まあ、あの方がどういうお人かはおまえも知っているだろう。周りから慕われて、それなりにうまくやっていたそうだ」

 伝え聞いたことのように話したが、ダレルは当時、その様子をそばで見ていた。地図を広げた机を村人たちと囲んで、冒険の熱にうかされたように最果ての地への憧れを語るディランを。

 開拓は軌道に乗っていた。そばを離れることに、ひとつも不安などなかった。

「だがディラン様が亡くなり、村は廃れた。今ではもう、老人がひとりいるだけだ」

 聞くこと、見ることを頑なに拒んでいたオズワルドが、ゆるゆると顔をあげた。彼は呆然と、感情の抜け落ちた瞳でダレルを見た。

 この事実を彼に告げるのは残酷なことだ。だが、知らないほうが幸せだと、真実を葬り去ること以上に不幸なことはない。

「すべての発端は、〈王の選定〉です」ダレルは言った。「オズウェルを生かすためとはいえ、フィオナ様はさぞ苦しまれたことでしょう。それこそ、病を得るほど……。そしてタイソンは、彼女の協力者ではあったかもしれませんが、味方ではなかった」

 ダレルは許可証をオズワルドに渡した。

「正規兵か、傭兵か……。追いはぎを装った彼らは、辺境を自由に動き回る許可をタイソンから与えられていた。去る者は追わず、立ち入ろうとする者は殺し……実際、わたしも村へ向かう途中に不意を突かれて襲われました。そんなことを、彼らは何年も続けてきた。村が廃れたのは必然でした。いつかフィオナ様が娘を連れて山から下りてくるのを、あの男はずっと待っていた」

「……うそだ」

 震える手の中で許可証がぐしゃぐしゃに潰れた。オズワルドは悲痛に顔を歪め、膝からくずおれた。

 ラスムスが頭を押さえて首を振った。

「わ、わからん……。どういうことだ」

「タイソンは十年かけて村をひとつ潰したんだ。ディラン様が開拓の拠点にした、リズ殿の生まれ故郷を」

「なぜそんなことを……」

「人の本当の心は、魔道士にもわからんよ」

 ダレルはそれ以上、多くを語らなかった。あまり人の心を想像で語ることはしたくなかったのだ。

 ときおり発作的に起こる癇癪さえなければ、タイソンは実際的な人間だった。人望はないが仕事はできる。兄ディランと真逆である。性格だけ見れば水と油のような兄弟だったが、不思議と仲は悪くなかった。タイソンの癇癪と自己嫌悪をなだめられるのはディランだけだったし、ディランの公務をフォローするのはいつだってタイソンの役目だった。

 もしかしたら、タイソンは、兄への義理を果たそうとしたのかもしれない。御者に物資を運ばせてその生活を支えながら。夫に先立たれたフィオナを、いつかハーマン家へ帰そうと。

 項垂れたオズワルドの膝の上に、ポタリと涙が一粒落ちた。ダレルは彼のそばに膝をついて、震える肩に手を置いた。

「……信じていたんだ。俺は……」絞り出すような声だった。「家族や、村のみんなは……幸せに暮らしているって。疑いもなく、何年も……」

 彼は手の甲で頬を拭った。

「……みんないなくなって、父上にも、母上にも先立たれて……。辛いことに耐えすぎて、それであいつは、なにも望まなくなったんだな。失うことのない幻だけを、慰めにして……」

 ダレルは彼が立ちあがるのに手を貸した。母親譲りの青い瞳は、もう涙に濡れてはいなかった。

「ダレル=リーヴ。俺はこれから、なにをすればいい?」

「望むようになさい。あなたの人生だ。わたしからあれをしろ、何者になれ、と指図することはしません。ですが、ひとつだけ。オズウェルは死んだと言ったことだけは、撤回して下さい。リズ殿の前で」

 彼は胸に手を当てて誓った。

「約束する」


+++


 泥をかぶったように重たかった体が、急にふっと軽くなって、リズは自分がいよいよ死んでしまうのだと思った。

 何かが頬をくすぐった。ダレルの魔法の気配だ。最後に見送りに出てきてくれたのだろうか。今なら、その姿かたちが見えるかもしれない。

 リズは目を開いた。

 目を開いた先に、夢があった。

「やあ。ご無沙汰しておりました、リズ殿」懐かしい顔に、柔和な笑み。「ダレル=リーヴ、ただいま参上いたしました」

「ダレルさん……どこに行っていたの?」

「ご両親の墓前に挨拶をして参りました」

 起きあがるリズの背中を支える手は、夢とは思えないほど頼もしかった。

「ありがとう……。ガントには会いました?」

「ええ。あの偏屈は変わりませんな。日がな一日山にこもって、なにか掘っていましたよ」

 リズは笑った。

「ガントはね、穴を掘っているの」

「穴?」

「オズウェルとの約束で、山の向こうに通り抜ける穴を掘っているの。ずっと、本当にずっとよ」

 ガントが鎚を振るう音を、毎日聞いた。年老いて、だんだん小さくなっていく背中に、不安を覚えなかったわけではない。だがそれでも山へ向かう後ろ姿を見るたびに勇気づけられた。

 待っているのは自分だけではない。オズウェルは今もどこかで生きているのだ、と。

「そうでしたか……」

 ダレルの向こうに暗い窓が浮かんでいた。リズは遠くを見た。薪がはぜた。胸の奥で何かが音を立ててずり落ちた。

「……ダレルさん?」

 リズは年老いた魔法使いの、目尻の皺に触れた。くすぐったそうに目を細めるダレルと、目と目が合う。

「夢じゃないの?」

「もちろんです」

 それが夢の終わりだった。

 これまでの出来事を一気に思い出して、リズは勢い、ダレルの胸にすがりついた。

「オズワルドの魔法使いが危ないの。急いで助けないと……!」

「落ち着いて。大丈夫です。ザハリアーシュが止めました」

「ザハリアーシュ……」

 辺りを見回した。ザハリアーシュの姿は、室内のどこにも見当たらない。

「あなたが目を覚ますのを見届けて、出て行きました」

「……どこかへ行ってしまったの?」

「そんな顔をいたしますな。部屋を出てすぐそこにいますよ。わきまえた男です」

 息をついて肩を落としたリズに、彼は言った。

「リズ殿。《鳩の翼》亭に帰りませんか」

「……帰りません」

「なぜ?」

 ダレルの声は優しかった。

「二人の子どもがじきに生まれます。奥方は、生まれてくる赤ん坊をあなたに見せたがっていました」

「……帰れないの」

 リズは堪えきれずダレルの肩に顔を埋めた。

「私がいたら、また、テナールが来るわ。今度はきっと、バートさんとステラまでひどい目に遭わされる。リッツォーリさんだって言ってたもの。ただではすまないって」

 ダレルに背中を撫でられて、次々と涙が零れた。

「母上の言ったとおりだった。私、本当に、見つかってはいけなかったんだわ。ひとりになっても、死ぬまで山にいればよかった」

「悲しいことを仰いますな」

 ダレルはリズの肩を包んで言った。

「お忘れですか。あなたが下りてきてくれなければ、わたしは今ここにいなかった。ごらんなさい。これが、あなたが救った命だ」

 明るい光が満ちた。

 風が吹き、花びらが舞い散る。花びらの触れた床から新たに花が芽吹いた。壁がなくなり、天井の蓋が取れて、瞬く間に辺りは見渡す限りの花畑になっていた。

 青い空がどこまでも続いている。

 リズは呆然と立ちあがり、風になびく髪を押さえた。

 そこは色とりどりの花々が咲き乱れる丘だった。これほど豊かな色彩に溢れた風景を、彼女はいまだかつて見たことがなかった。湖で鹿の親子が水を飲んでいる。近くに川のせせらぎが聞こえた。渡り鳥の群れが、風に乗って南に飛んでいく。

「かつて、わたしが目にした神代の名残です」

 この幻の世界で、ダレルは肌に張りのある中年の姿をしていた。

 彼は変わらぬ笑顔でリズの手をとった。

「辛い思いをしましたね。でも、もう大丈夫。あなたには世界一の魔法使いがついています。ほら、安心だ」

 触れた手の先から、全身の強ばりがほどけていく。

 リズはダレルの手を握りかえした。

 一面の花畑が消えて、元の薄暗い部屋に戻ったとき、リズの心はもう悲しみに沈んではいなかった。真っ白に洗われた心の奥に、小さな痛みだけが残った。

「ありがとう。ダレルさん」リズは微笑んで、目を伏せた。「私、なんとかやっていきます。これから一生、オズウェルに会えなかったとしても……」

「とんでもない。オズウェルならそこに」

 リズは我が耳を疑った。

 壁ぎわで一部始終を見守っていたオズワルドが、こちらに近づいてきた。

 暖炉の前で彼と対面したリズは、その顔立ちを改めてよく見た。初めてその姿を目にしたときと同じく、亡き父の面影が呼び覚まされた。

「十年以上……」

 彼は言った。

「オズウェルは、誰にも見つからないように隠されてきた。おまえが山奥の村でひそかに育てられてきたように」

 リズは彼の、憂いのこもった瞳を見つめた。

「ここに隠される前、俺はまだ六歳で……母上は赤ん坊を身ごもっていた。俺は、弟か妹が生まれてくるのを本当に楽しみにしていた。母上のそばに、ずっとくっついて。騎士みたいねってメニエに言われて、とても誇らしい気持ちになった」

 懐かしい名前に胸が詰まる。それと同時に、リズは自分のなかで張りつめていたものが、急速に緩んでいくのを感じた。

 この人なのだ。

「……初めてあなたを見たとき、父上を思い出したわ。でも、目だけは違ったの」

「そうだな。俺たちの目は、母親譲りだ」

 この人が。

「おまえが突然ここを訪ねてきていたとしても、俺は信じたよ。リズ。……あんなことを言って悪かった。オズウェルは、俺だ」

 リズは首から提げていた紐を噛み切り、彼の手に両親の指輪を握らせた。

 会ったら、言おうと思っていたことがたくさんある。

「オズウェル」

 両親がどんなにあなたを愛していたか。

 自分がどれだけ寂しい思いをしてきたか。

「ああ」

 呼びかければ、返事がある。指輪を受け取った彼の手は、温かな血が通い、確かに生きていた。

「私は、」

 それ以上は、言葉にならなかった。

 兄の手に自分の手を重ねて、リズは声をあげて泣いた。

もうちっとだけ続くんじゃ。

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