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大鷲の国  作者: サトミアキラ
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九章

 頬に灯火の温もりを感じた。

 目を開くと、暖炉の前で繕い物をしている母の姿があった。

 昨日やっと熱が下がったばかりなのに、無理をしたらまたぶり返す。早く休んでと言いたいのに、どうしても声が出てこない。そればかりか起きあがることすら出来ないのだ。リズは寝台から手を伸ばした。どうにか起きあがろうと、寝返りを打つ。慣れない柔らかさが頬を包み込んだ。自分の寝ている場所が家の寝床ではないと気づいて、リズはぬるま湯のようなまどろみから飛び起きた。

 急いで辺りを見渡して、彼女は呆然と座り込んだ。まるで櫂のない小舟に乗せられ、湖の真ん中に放り出されたようだ。

 暖炉で薪が赤々と燃えている。ほのかに照らされた白亜の壁には風景画が飾られていた。刺繍入りの絨毯の上に、テーブルやソファといった調度品が行儀正しく配置されている。石造りの生家とは似ても似つかない。リズはこちらこそ夢ではないかと、目の前の景色を疑った。

 全身がだるくて目眩がする。深く息を吸いこむと胸に引きつるような痛みが走った。彼女は森で起きた出来事を思い出した。

(あの魔法使いの魔法と、ダレルさんの魔法がぶつかったんだ)

 暗殺者に襲われたときから、リズは知っていた。

 クリフォードから逃れて警察署に駆け込んだときも、テナールの屋敷に監禁されていたときも、その魔法は彼女のそばにあった。ときおり、心細さを慰めるように寄り添う小さな風が、ダレルの手から生まれたものであることを、リズは信じていた。

 白い光が目の前で弾けて、それから先は何も覚えていない。

 ザハリアーシュは、彼の仲間たちは、どうなっただろう。

 様々な思いが答えを得られぬまま頭の中を駆け巡った。

 リズは体の震えが収まるまで深呼吸を繰り返した。

 息苦しい胸を押さえながら窓辺に近づく。窓は壁に直接はめ込まれた、いわゆるはめ殺し窓で、開け閉めすることはできない。ガラスの曇りを拭う。暗くて外の景色はほとんどわからなかった。

 また、どこかの屋敷に閉じ込められてしまったのだろうか。

 リズは扉のほうに急ぎ、ドアノブをひねった。鍵はかかっていない。そっと開いた隙間のすぐそこに、鉄の鎧を着た兵士が立っているのを見て、彼女は反射的にドアを閉じた。

 自分の鼓動に邪魔されながら外の物音に耳をすます。鉄の擦れる音のあとに聞こえたのは、大いにためらいを含んだ声だった。

「あのぉ……お目覚めでしょうか」

 返事を待つ沈黙に緊張が漂っていた。

 リズは首から提げた両親の指輪を握りしめた。

「ここは……どこですか」

「はっ! 城主様のお屋敷でございます!」

 息を吹き返したような声を聞いて、リズはドアを細く開いた。

「……あなたは?」

 兜の下の顔は二十代半ばほどに見える。兵士はドアの隙間から顔を覗かせたリズを見て、慌てて足をそろえて直立した。

「自分は、オズワルド様より姫様をお守りするよう命じられました、ガイ=クックと申します!」

「姫? ……私のことですか?」

「もちろんです。姫様は城主様の兄君、ディラン様のご息女だと伺っております。よくぞコル・ファーガルにお戻り下さいました。少々お待ち下さい。すぐに世話役の者を呼んでまいります!」

 笑顔で敬礼すると、ガイ=クックは急ぎ、通路の先の階段を駆け下りて行った。

 リズはドアを閉じ、近くのソファに座り込んだ。

 まだ頭がはっきりしないが、ひとつわかったことがある。あの仮面の魔法使いがオズワルドの側近だったということだ。必死で飛びかかったときに聞いた「危ない!」という叫びは、幻聴ではなかった。彼女はリズをさらいに来たのではなく、助けようとしていたのである。

 とうとう、引き返せない場所に来てしまった。

 全身から力が抜けたようで足下が覚束ない。

 リズは目眩が去るまで顔を覆ってうつむいた。

 コル・ファーガルには、どれほど多くの思惑が渦巻いているのだろう。リッツォーリにオズウェルを諦めろと忠告され、謎の暗殺者に殺されかけたかと思えばテナールに捕まり、本国へ連れて行かれるところをザハリアーシュに助けられ、そして今、姫と呼ばれて次期城主の庇護を受けている。坂を一つ転がり落ちるたびに、違う景色を見ているようだ。

 ほどなくガイ=クックが連れて来たのは、思わぬ人物だった。

「ごきげんよう、リズ! 私を覚えていて?」

「ミリアム」リズは驚いて立ち上がった。「どうしてここに」

「あのあと私、若様にあなたのことを話したの。父が経営している病院に視察にいらしたときに、こっそりね。また会えて本当に嬉しいわ!」

 ミリアムは頬を上気させてにっこり笑った。

「若様はすぐあなたを捜してくれたのよ」

「……リッツォーリさんはこのことを?」

「今回ばかりは、叔父様も文句を言えなくってよ」

 ミリアムが部屋中の照明を灯して回る。床の絨毯の編み目まで照らし出す明かりは、薄闇に慣れた目には眩しいほどだった。

「不器用な人だけど、あなたを助けたい気持ちに嘘はないの。でなきゃ、私がここにいることを許すはずがありませんもの」

 足から力が抜けて、リズは再びソファに座り込んだ。

「リズ! リズ、大丈夫?」ミリアムが飛んできてリズの背中を撫でた。「苦しいの? お医者様を呼ぶ?」

 息が苦しいわけでも、胸が痛むわけでもなかった。《鳩の翼》亭を出てからずっと張りつめていた緊張の糸が、不意に緩んだのだ。

「ありがとう、ミリアム。何でもないの……」

 声を詰まらせるリズを見て、ミリアムはまるでそうすることが自分の使命であるかのように、彼女を抱きしめた。

「大丈夫、もう大丈夫よ。だって若様が味方なんだもの。ここはたくさんの兵士に守られていて、どこよりも安全なの。なにも心配することはありませんわ」



 リズの世話役として城に滞在するミリアムだが、お嬢様育ちの彼女に手際のいい仕事ができるはずもなく、実際には身の回りのことはシュルツ家からやって来た侍女たちがやってくれた。

 夜が明けると、ドレスや靴、装飾品類が入った箱が、侍女たちの手で次々と部屋に運び込まれた。

「みんなオズワルド様からの贈り物ですよ」年かさのマーシャが気合い十分に鼻息を吹いた。「さ、姫様。支度いたしましょう」

 ミリアムの家の侍女たちは優秀だった。

 折りたたみの間仕切りの中で、彼女らはリズの髪をきれいに結い上げ、服を着替えさせた。贈り物のドレスの中からマーシャが選んだのは、藤色のショールがついたワンピースだった。

 自分で何もする必要がなかったにもかかわらず、身支度を終える頃には、リズはヘトヘトだった。

「よくお似合いですよ」

 マーシャが鏡を開く。

 そこに映し出された自分の姿を見ても、リズの心にはこれっぽちの感動も湧きあがらなかった。だが手間をかけてくれた侍女たちをがっかりさせるのは忍びなくて、彼女はいちおう礼を言った。

「ありがとうございます、皆さん」

 仕事の出来映えに対する満足感から、侍女たちの顔は明るかった。

 リズは運ばれて来た朝食をミリアムと食べた。食欲がなくて半分ほどしか食べられなかったが、テナールの館で何も喉を通らなかったときに比べれば、まだいいほうだ。

 手持ちぶさたになって、リズはミリアムに尋ねた。

「オズワルドに会えないでしょうか」

「会えないわけがありませんわ。リズと若様はいとこ同士ですもの」ミリアムはいいことを思いついたように手を叩いた。「そうだわ。ねえ、ついでにお城の中をお散歩しましょうよ。クックに案内を頼んで」

 言うなり、ミリアムはリズを部屋から連れ出した。

 リズとしても城内を見て回ることには賛成だった。どの道がどこに繋がっているか、どんな部屋があるのか知っていれば、いざというときに動きやすい。

 室内に比べ、天井の高い廊下はひんやりとしていた。

 ガイ=クックは案内役にしてはだいぶ口数が少なかった。護衛を兼ねている緊張が、彼の口を重くしているようだった。

 主家の住まいから一歩出ると、城内は要塞のように堅牢な造りになっていた。石壁の冷え冷えとした通路を歩きながら、ミリアムが持ち前の好奇心で、クックに様々な質問を浴びせた。

 コーウェン家が保有する兵力は、コル・ファーガル全体の四割に相当する。軍務を統括するのは、五十年近くコーウェン家に仕えている老臣ラスムス。彼はもともと、辺境開拓民からなる義勇軍の一員だったが、山脈を越えて侵略してきた久鳳軍を退けた功績により、主家に召し上げられたのだという。近頃は戦もなく、必然的に若者が武勲を立てる機会も少ないので、後進を育てるのに苦労しているのだそうだ。

 この要塞部分は、跡から増設されたものだという。リズはクックのあとについて通った道筋を頭の中で地図にしながら、コル・ファーガルに入ったときのことを思い出していた。あのとき使った隠し通路を、ダレルは要人の非常通路と呼んだ。ならば、あの入り組んだ通路のどれかが、コル・ファーガルを建造したコーウェン家の城に繋がっているのは必然だ。

 父が生まれた家だからといって安心しきってはいられない。現城主やオズワルドがなにを考えているかわからないからだ。

 もう二度と、閉じ込められるのはごめんだった。 

 どこを歩いても似たような景色が続くのに飽いたのか、ミリアムが練兵場を見学したいと言い出した。

「ご婦人方がご覧になるようなものではないのですが……」

 クックが顔色を窺うような目でリズを見た。

 彼には悪いが、城内はできるだけくまなく見ておきたい。

「ご迷惑でなければ見学させてもらえますか?」

 彼女らを通路に待たせて、クックは見学の了解を得るため練兵場へ入っていった。

「もし断られたら、城壁の上からこっそり覗いてやりましょう?」

「だめよ。危ないわ」

「あら。リズが言っても説得力がなくってよ」

 ミリアムはクスクス笑った。

 剣戟の響きがやむ。練兵場からクックが駆け足で戻ってきた。

「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」

「ありがとう」

 練兵場の広場で、兵士たちが「休め」の姿勢で整列していた。

 彼らを統括する立場にある、白ひげを蓄えた長身の老人が、二人を出迎える。体幹が安定した佇まい、引きしまった体つきから、彼がいまだ軍人として現役であることが窺えた。

 彼はリズの顔を見て目を細めた。

「おお……お若い頃のフィオナ様と見紛いましたぞ」

 また母の名である。そんなに似ているだろうかと、リズは今朝鏡で見た自分の顔を思い返した。

「城の守りを任されております、ラスムスと申します。先代城主……姫様のお祖父様には、大変世話になりました」

 ラスムスに連れられて、リズとミリアムは二階のバルコニーから練兵場を見学することになった。整列した兵たちが将軍の号令を受け、御前試合に取りかかる。

 普段見聞きすることがない白刃がぶつかり合う火花と鋭い音、兵士たちの気迫に、ミリアムは興奮しっぱなしだった。

 試合の勝者がバルコニーのほうに向き直って礼をする。ミリアムに倣い、リズは彼らの健闘を称える拍手をした。

 ふと視線を感じて横を見ると、ラスムスの顔に、にじむような笑みが浮かんでいた。

「お戻り下さって本当によかった。ましてや昨日の今日で、お顔を見せて下さるとは。若い者たちの励みになります」

 なんと返事をしたものか、リズは言葉に迷った。

「……ここに来てよかったのか、私にはわかりません。父は勘当された身だと聞きました」

「姫様、それは違うのです。先代はずっと悔いておられました。ディラン様をたぶらかした魔道士さえいなければ……」

 ラスムスは失言を打ち消すように咳払いをした。

 彼は胸に手を当てて一礼した。

「失礼いたしました。そろそろ戻ります。クック。引き続き、お二方の警護を頼むぞ」

「はっ! 命に代えてもお守りします!」

 ラスムスがバルコニーを出て行ったあと、リズは息をついた。

 世間にいる多くの人はどうやら、身近で起きた悪いことを魔法使いと結びつけてしまうものらしい。たぶらかされたとラスムスは言うが、父はお人好しではあっても、他人の意見に流されるような人間ではなかった。

 剣筋の白い軌跡が、光の筋になって視界に瞬いた。

 まだ下では試合が繰り広げられている。

 剣がぶつかり合う音が耳の中でこだまする。リズは軽い目眩を感じて目を伏せた。一晩ゆっくり休んだつもりだったが、まだ頭がクラクラする。

 ふと、ザハリアーシュのことが脳裏をよぎった。

 彼に魔法の光は当たらなかったろうか。怪我をしていないだろうか。

 まだ、コル・ファーガルにいるだろうか。

「リズ、大変よ!」

 ぼんやりしているところを突然呼ばれて、リズは椅子から飛び上がった。

 いつの間にか、剣劇の音が止んでいた。

「どうしたの、ミリアム」

「あそこを見て。あの殿方、もしかして……」

 手すりから身を乗り出すミリアムの隣から、リズは練兵場を見下ろした。彼女が言う人物はすぐ見つかった。ラスムスと話をしている青年だ。こちらに背を向けているので顔は見えないが、装いが兵士たちと異なる。柔らかな雰囲気は、一兵卒のそれではない。

 風に煽られた赤銅色の髪を日差しが撫でる。

(父上……)

 懐かしい面影が脳裏をよぎって、リズは一瞬、息が止まった。

「やっぱり、若様ですわ!」

 ミリアムがあげた感激の声によって、彼女は衝撃から立ち直った。

 赤銅色の髪の青年がバルコニーを振り返った。大きく手を振るミリアムに、小さく手を振り返す。ほどなく二十歳を迎える体はすでに成長しきった大人のそれで、端正な顔立ちに精悍さが同居していた。

「若様も訓練に来たのだわ」

 オズワルドとラスムスの手合わせが始まった。

 青年の横顔から目をそらし、リズは踵を返してバルコニーを後にした。慌ててついてきたミリアムが、その腕をとる。

「どこへ行くの? 若様と会うのではないの?」

「今じゃなくたっていいでしょう」

 ミリアムの手が怯んだ。

「……ごめんなさい。部屋に戻ります。少し、一人にして下さい」

 リズは主家の居住棟へ駆け戻った。

 部屋に帰り着くなり、履き慣れない靴を脱ぎ捨ててベッドにうつぶせに倒れ込む。

(オズワルドを見て、父上を思い出すなんて!)

 ディランはリズが四歳の頃に亡くなった。はっきりした死因は教えてもらえなかったが、怪我がもとで病気になり、それが原因で亡くなったのだという。

 亡くなって十年になるとはいえ、父親によく似た面影が、不意打ちで目の前に現れたことが意外に堪えた。リズはしばらくベッドに横になり、両親の形見の指輪を握りしめてじっとしていた。

 時間が経つと、ミリアムにきつい物言いをしてしまった後悔が、じわりと胸に滲んだ。

 リズは起き上がり、衣装箪笥から編み上げ靴を出した。いちいち紐を通さなければならないのは手間だが、踵の高いスカスカの靴よりは歩きやすい。

 靴の調子を見るために部屋の中を歩きながら、彼女は何気なく窓の外を見た。昨夜は暗くて見えなかったが、下に中庭があるようだ。緑の芝と青い池、その縁に、カンバスが立てられている。誰かが絵を描いていた。

 誰だろう。

 リズは部屋を抜けだして階段を下った。

 中庭の入り口から、こっそり顔を覗かせる。

 真昼の太陽を反射する、白い外套が眩しい。地面に開いて置かれた鞄にはたくさんの画材が入っていた。画家の立ち姿が重なってカンバスの半分が隠れている。しかし、おそらくそこに描かれているのは池であろう。絵筆に載った青い絵の具と、閉ざされた風景から、リズはそう推察した。

 あまりの静けさに、リズはカンバスに向かう画家の姿を含めて、この内庭がひとつの絵画のように思えてきた。ふと動きを止めると、そこにある空気と一体化してしまったかのように気配が希薄になる。絵筆を操るときだけ、彼の存在は色彩を帯びた。

「覗き見とは感心しないな」

 後ろから不意に囁く声がした。

 人の気配に気づいた画家が一瞬こちらを振り向いた。リズは息を呑んだ。彼は絵筆を取り落とし、顔を両手で覆った。足下の鞄を抱え込むようにうずくまる。

 オズワルドは、リズを通路に引き戻した。

「人払いはしてある。急がなくていい」

 内庭でうずくまる青年にそう言うと、彼はリズの手を強引に掴んでその場を離れた。

 階段下で、眼光鋭い執事が表情が隠れるほど深く頭を下げた。オズワルドは階段につまずいたリズを受け止めて抱え上げ、足早に東の塔へ向かった。

 部屋に着くまで、リズは荷物のように大人しく運ばれていた。

 先ほど垣間見た画家の顔にショックを受けていた。長く伸ばした髪で隠していたが、左側の頬から鼻筋のほうにかけて爛れた皮膚は、火傷の跡に間違いなかった。

 部屋の内鍵を回してようやく、オズワルドはリズを下ろした。

 彼の表情は険しかった。

「ひとりで出歩くな。どこか行くなら、必ずクックを連れていけ」

「さっきの人は誰ですか」

「コーウェン家が援助している芸術家の卵だよ。そんなことより」

「あの顔の火傷は?」

「……いいか、リズ」オズワルドは目線の高さをリズに合わせて、辛抱強く言い聞かせた。「この家で、余計な詮索はするんじゃない」

 リズはいとこにあたる青年の、深い青の瞳を見返した。

「私、ここに長居するつもりはありません」

「なにを言ってる。おまえを見つけるのに、俺がどれだけ」

「兄を捜しています」

 オズワルドはギョッと顔を引きつらせた。

 その明らかな反応に勢いを得て、リズは食い下がった。

「どこかで生きていることはわかっているんです。オズウェル=ラオ=コーウェン。私の兄です。ご存知ありませんか」

 オズワルドはいまや、はっきりと青ざめていた。彼は頭を振り、目顔でリズにソファに座るよう促した。

 リズはいとこと向かい合って座った。間を持て余すように髪をかく仕草に貴公子然とした雰囲はなく、彼女の目には、オズワルドが評判ほど完璧な人物であるようには見えなかった。

「こちらからも、聞きたいことがある」

「なにを、ですか?」

「なにもかもだ。どうやってコル・ファーガルに入ったのか、テナールになにを言われたか、どうしてサナン人の男たちと一緒にいたのか……」

 彼はそこで一度言葉を切り、間を置いて尋ねた。

「両親は、どうした」

「亡くなりました。父は十年前に、母は一ヶ月ほど前に」

 沈黙が落ちた。

 オズワルドは膝に肘をつき、両手をきつく握りしめてうつむいた。彼はじきに掠れた声で「そうか」と呟いた。

「私のことを調べたんですか?」

「……魔法使いを頼ったのさ。それに、リッツォーリから聞けることはすべて聞いた。なぜ彼の言うことを聞かなかった。悪い話じゃなかったはずだ」

「あの人は私が、タイソンを失脚させる鍵になると言ったんです。そんな人の言うことは聞きません」

 オズワルドは渋面で額を押さえた。

「だが、ひとりではどうしようもなかったろう」

 そう指摘されてリズは暗殺者に襲われた夜のことを思い出した。今もコル・ファーガルのどこかに、自分に殺意を持つ人間が潜んでいる。リズは怖気を押し殺すように、膝の上で拳を握りしめた。

「だから、警察を頼りました」

「《鳩の翼》亭のご夫婦に一言の相談もなく?」

 そこまで調べられている。リズは警察局で何度もそうしてきたように、動揺を隠して無表情で言った。

「なにを仰っているのか、わかりません」

 オズワルドの目に一瞬、憐憫がよぎった。

 バートとステラのことを思うと、胸がつまった。断りもなく姿を消したことで、二人にどれだけ心配をかけただろう。

 だが彼らを巻き込まないためには、こうするしかなかった。

 もう二度と、あの日々は戻って来ないのだ。

「私はひとりです」

「……そうやって、自分の命も手放すのか」オズワルドの声が低くなる。「失うものがないっていうのは、そういうことなんだぞ」

「オズウェルがいます」

「いないも同然だ」

 リズは震えた。言葉もそうだが、父によく似た顔でそう言われたことが耐えられなかった。目の奥が熱い。スカートの裾を握る指先に感覚はなかった。

「そんなことない。父と母を支えていたのは、いつだってオズウェルだった」

「……リズ?」

 異変に気づいたオズワルドが腰を浮かせた。

 リズは生まれて初めて、心のうちを他人に打ち明けた。

「母上は最期にオズウェルを呼んだわ。父上もそうだった。いつだって、最期まで……父上も母上も、オズウェルを一番愛していたの。私ではなくて……」

 幼い頃から、澱のように降り積もっていった思いがある。

 両親が話してくれる幸せな思い出のなかに、リズがいたことはなかった。オズウェルがいなくなった直後に産まれた自分が、家に不幸を運んできたような気がした。そんなふうに思いたくなくて、人の役に立とうと必死で働いたが、だめだった。

「……いないも同然だったのは、私のほう」

 父が亡くなり、村を出ていった者は誰一人として戻らず、母も病でこの世を去った。なにひとつ流れを変えることができなかった。

 どこへいても不幸ばかり呼び寄せる。誰も幸せにできない。

 それでもオズウェルなら。

 兄だけは、自分を愛してくれるのではないかと。

 部屋の中が、しんとなった。

 かすかに漏れ出すリズの泣き声だけが、止みかけの雨のようにぽつぽつ響いた。

「おまえは、ここにいるじゃないか……」オズワルドがうめいた。「もう、兄にこだわるのはよせ。誰かのためじゃない。これからは、自分の幸せを一番に考えろ」

 オズワルドが席を立った。

 出て行く間際、彼は短く告げた。

「オズウェルは、死んだよ」


+++


 全身がひどく痛む。

 手も足も冷え切っているのに、汗が止まらない。

 彼女に憑いていた守りのまじないは、紛れもなくオブライエンの〈竜〉だ。

 オブライエン。

 背徳の魔道士。

 悪路の緒。

 竜殺し。

 いくつもの悪名を持つ稀代の魔道士。この世で唯一、竜を使役する男。

 荒れ狂う風の切れ目に、私は見た。白く光り輝く、美しい鱗の波を。そこからほとばしる生命の胎動を。

 それを最後に、視界は闇に閉ざされた。

 今も、見えない傷から血の代わりに命が流れ出している。彼はひそかに医者を呼んでくれたが、魔法の傷は医術で治せるものではない。

 そう。私は死ぬ。

 光を目にすることも、手足を持ち上げることも出来ないまま、衰弱して死ぬのだ。

 それ自体は恐ろしいことではない。

 ただ、私は悔いている。

 私はもう二度と、彼の姿を見ることが出来ないのだ。傷の汚れを拭い、手ずから包帯を巻いてくれた、彼の顔を。二人でいるときにだけ見せる憂うつな眼差しを。可愛げのない悪態をつく唇を。

 隣部屋から会話が聞こえた。

 ドアの向こうで、彼とラスムスが言い争っている。また、いつものやり取りだ。あの老将軍は、この機会に私を放逐するよう、主に進言しに来たのだろう。

 魔道士を厭うのは人の世の常だ。

 だが、おまえたちは誰も知らない。タイソンが陰で、どれほど彼を苦しめてきたか。今も彼がどれだけ辛い思いをしているか。

 腹の底が熱くなる。まだこの体にも、燃やす命が残っている。すぐに消えるとわかっている火ほど、空しいものはないというのに。

 じきに話し声が止んだ。

 寝室に、細く風が流れ込む。

 硬い指が手の甲に触れた。指を動かして応えると、手のひらの上に彼の手が下りてきた。

 全身を苛む痛みが、少し和らいだように感じた。

「……お話は、できましたか……?」

「うん。君のおかげだ」

 私は微笑もうとしたが、うまく出来たかわからなかった。

「ようございましたね」

 彼の頬に運ばれた手に涙がしみていった。

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