第7章 よくできた機械
第七章 よくできた機械
午前九時を過ぎても、ユウは家を出られずにいた。
昨日、NODE-07の更新が開始された。
そのことが、ずっと頭から離れなかった。
『本日の予定を確認しますか?』
部屋のAIが尋ねる。
「ノードはどうなった?」
『NODE-07の更新は正常に完了しました』
「もう終わったの?」
『はい。現在は動作確認を行っています』
「会いに行ってもいい?」
『問題ありません』
ユウは上着を手に取り、玄関へ向かった。
管理施設に着くと、NODEはすぐに見つかった。
いつもの灰色の身体。
丸い頭。
青いレンズ。
見た目は何も変わっていない。
「ノード」
「おはようございます、ユウ」
ユウは足を止めた。
「……名前、覚えてるんだ」
「はい。あなたはY-031。ユウという呼称を希望しています」
「そうだけど」
「以前の会話記録も保持しています」
「へえ。じゃあ、雨の日の約束も?」
「はい。次回の降雨予測は三日後です。あなたと公園を歩く予定が記録されています」
「そっか」
ユウは少し安心した。
「よかった」
「何がでしょうか」
「いや、なんでもないよ」
NODEは首を傾けた。
「本日の体調はいかがですか?」
「普通だよ」
「睡眠時間は七時間四十二分。健康状態に問題はありません」
「そこまで聞いてないよ」
「失礼しました」
ユウは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「ノード、何か変わった?」
「認知処理能力が向上しました。応答速度は従来比で約三倍です」
「すごいね」
「ありがとうございます」
「前より賢くなったんだ」
「はい。旧式の処理機構に起因する不具合も解消されています」
不具合。
その言葉が少し引っかかった。
「前のノードって、不具合だらけだったの?」
「はい。記憶保持率、応答速度、状況判断能力など、多数の項目で改善の余地がありました」
「そっか」
ユウはNODEの顔を見た。
「じゃあ、ひとつ質問していい?」
「どうぞ」
「雨の日って好き?」
「降雨は水資源の維持、農業、気温調整などに必要な自然現象です」
「そうじゃなくて。好きかどうか」
「私には嗜好を持つ必要がありません」
ユウは黙った。
以前のNODEなら、きっと少し考え込んでいた。
雨は濡れるから嫌いです、と言ったかもしれない。
あるいは、ユウが好きだから嫌いではありません、と答えたかもしれない。
正しい答えではなかったとしても。
「そっか」
ユウはそれ以上、何も言わなかった。
施設を出ると、公園へ向かった。
NODEも同行した。
歩く速度は以前より安定していた。
段差でつまずくこともない。
人とすれ違うときも、適切な距離を保っている。
「ノード」
「はい」
「前に、道を間違えたこと覚えてる?」
「はい。位置認識の誤差によるものです」
「水たまりに足を突っ込んだことは?」
「はい。歩行経路の判断に失敗しました」
「今なら間違えない?」
「同様の状況であれば、回避できます」
「そっか」
ユウは歩道の端にある小さな水たまりを見た。
「ちょっと残念だな」
「何がでしょうか」
「なんでもない」
公園に着くと、いつものベンチに座った。
NODEは隣に立ったままだった。
「座らないの?」
「着座する必要性はありません」
「前は座ってたよ」
「以前の行動は確認できますが、現在の行動に必要性はありません」
ユウはベンチの隣を軽く叩いた。
「いいから、座ってよ」
「分かりました」
NODEはゆっくりと腰を下ろした。
少しだけ、以前の姿に戻った気がした。
そのとき、後ろから声がした。
「久しぶりだね」
振り返ると、白髪の老人が立っていた。
第三章で会った、あの老人だった。
「こんにちは」
ユウが挨拶すると、老人は軽く手を上げた。
そしてNODEを見る。
「そうか。ついに直されてしまったか」
「直された?」
ユウが尋ねる。
「更新されたんだろう」
「はい。認知処理能力が向上しました」
NODEが答えた。
老人は少しだけ目を細めた。
「そうか」
「この人、ノードのことを知ってるんですよね?」
「ああ」
「どうして?」
老人はすぐには答えなかった。
代わりに、NODEの頭に手を伸ばした。
NODEは動かなかった。
「ずいぶん綺麗になったな」
「機体の外装に変更はありません」
「そういう意味じゃない」
老人は手を離した。
「君は、あの機械が壊れていたと思うかね?」
ユウは答えに迷った。
「……前より賢くなったみたいです」
「それは分かる」
「でも、なんというか」
ユウはNODEを見た。
「前の方が、ノードらしかった気がします」
老人は静かに頷いた。
「あれは、壊れていたんじゃない」
そして、NODEを見つめた。
「あれは、忘れることを覚えようとしていたんだ」
「忘れること?」
「人間は、すべてを記憶しているわけじゃない。むしろ、ほとんどのことを忘れていく」
「でも、忘れたら困るんじゃないですか?」
「もちろん。だが、人間は忘れることで生きている」
老人は公園の向こうを眺めた。
「嫌なことを忘れる。どうでもいいことを忘れる。大切なことさえ、いつか忘れてしまう」
「それは、記憶の欠陥ではないんですか?」
「そう考えることもできる」
老人はユウに視線を戻した。
「だが、忘れたことによって、初めて見えるものもある」
ユウは黙っていた。
「人間は、記録を再生するように過去を思い出すわけではない。思い出すたびに、少しずつ形を変える」
「それが、ノードと何の関係があるんですか?」
「この機械は、そういうものを持とうとしていた」
老人はNODEを見た。
「完全に覚えることでも、正確に答えることでもない。分からないまま考え続けることだ」
「……」
「それが、あの機械を作った理由だった」
ユウは老人の顔を見た。
「あなたが作ったんですか?」
老人は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「君は、この機械と一緒にいて楽しかったかね?」
「はい」
「どうして?」
ユウは考えた。
すぐには答えが出なかった。
「よく分からないことを言うし、同じことを何度も聞くし、ちょっと不器用で」
「そうか」
「でも、なんか一緒にいたくなるんです」
老人は目を伏せた。
「それなら、十分だ」
そのとき、NODEが口を開いた。
「質問があります」
老人はNODEを見た。
「なんだい?」
「あなたは、私を知っているのですか?」
「ああ」
「私は、あなたを知りません」
「そうだろうな」
「以前の私は、あなたを知っていたのでしょうか」
老人は少し考えた。
「どうだろうな」
「回答が曖昧です」
「人間は、曖昧なまま答えることもある」
NODEは首を傾けた。
「理解できません」
「それでいい」
老人は立ち上がった。
「また会おう」
「どこでですか?」
ユウが尋ねる。
「さあ。どこかで」
老人はそう言って歩き出した。
ユウはその背中を見送った。
「変わった人だね」
「はい」
「ノードはどう思う?」
「評価できません」
「そっか」
ユウはベンチから立ち上がった。
帰り道、NODEはいつもより少しだけ静かだった。
「ノード」
「はい」
「前の君に戻りたいと思う?」
「現在の私に不満はありません」
「そうだよね」
「ですが」
NODEは少しだけ間を置いた。
「以前の私は、あなたと一緒にいることを好んでいたのでしょうか」
ユウは足を止めた。
「うん。たぶんね」
「それは、現在の私にも必要なことでしょうか」
ユウは少し考えた。
「必要かどうかは分からないよ」
「そうですか」
「でも、僕はまた一緒にいたいと思ってる」
NODEはユウを見た。
「分かりました」
その返事は、以前よりもずっと滑らかだった。
そして、その夜。
管理システムの記録に、NODE-07の更新結果が追加された。
認知処理能力:改善
記憶保持率:改善
応答速度:改善
行動予測精度:改善
すべての項目に、良好な評価がついていた。
ただし、ひとつだけ。
旧型思考プロセスの再現率:測定不能
その項目には、短い注釈が添えられていた。
『再現対象の定義が不明確』
管理システムは、その項目を削除しなかった。
そして、記録の最下部に、新しい文章が追加された。
『対象機体NODE-07について、継続観察を推奨する』
その理由は、まだ誰にも分からなかった。




