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人の想像力というのは、恐ろしいほどに強大だ。
目標を掲げ、長い時間を費やしてそれを達成しようとする時、人が最も胸を躍らせる瞬間は、達成したその時ではない。無数の努力の果てに、あと一歩で届くという「直前の瞬間」なのだ。
いざ達成した瞬間に訪れるのは、確かに小さくない達成感ではあるが、事前の期待ほど華やかなものではない。脳裏を支配するのは、どこか言葉にしがたい空虚感だけだ。このことからもわかる通り、人が立ち止まらずに突き進めるのは、脳内で膨らむ「いつか結実するかもしれない美しい未来への想像」があるからに他ならない。
だが、今俺が語りたいのは、そんな高尚な話ではない。これらに比べれば、「睡眠」のほうがずっと俺の言いたいことに近いだろう。
眠りに落ちる直前――意識が完全に解き放たれ、全身に麻酔が効いていくかのようなあの感覚。眠りに近づけば近づくほど心地よいが、いざ完全に眠ってしまえば、何も感じなくなってしまう。
そして、眠りがあれば、当然「目覚め」もある。
起き上がる瞬間というのは、苦痛そのものだ。意識がハッキリしてくるにつれ、この現実と向き合いたくなくなっていく。
ベッドにはまるで魔法でもかかっているかのように、俺たちを引き留めて離さない。
だが、人は遅かれ早かれ、完全に目を覚ます。一度目が冴えてしまえば、もう二度とあの微睡みには戻れないのだ。
この感覚は、どこか「危機が迫っている状態」に似ている。
危機がじわじわと近づいている間、自分はただ傍らで気をもみ、焦り続ける。
そして、いざ危機が目の前に到達した瞬間、不思議と焦りは消え去ってしまうのだ。
なぜか?
危機はすでに到達してしまったからだ。もう万事休す、手遅れなのだから、腹を括って向き合うほかない。
――そして今の俺は、まさにその「危機」に直面していた。
正直なところ、身分くらいしか取り柄がなく、他には何一つ取り柄のない、周囲から脅威とすら見なされていないこの俺に、本来なら面倒な問題など起こるはずがなかった。
……自分から「死地」に飛び込みさえしなければ、の話だが。
「ねえ、愛しきメイドさん。勝手に俺の返事を承諾した理由を、教えてもらってもいいかな?」
俺の隣には、自分と同年代の少女が坐していた。
スタイルの良さが際立つロング丈のメイド服を身に纏い、腰まで伸びた艶やかな黒髪は、漆黒の光沢を放っている。つぶらな瞳の縁には繊細な睫毛が並び、無垢な乳白色の肌は、その黒髪や瞳と鮮烈な対比をなしていた。整った可憐な顔立ちと、花びらのように淡いピンク色の唇――その全身が、彼女の類まれな美しさを主張している。
メイド服を着ていながらも、彼女が放つ魅力は何ひとつ損なわれていない。そんな彼女は間違いなく俺のメイドだが、俺と彼女の関係は、主従というよりはむしろ友人に近かった。日頃の会話も遠慮がなく、変に畏まる必要もない。
これらはすべて俺自身が望んだことだ。命令口調で人に指示を出すなど、俺にはどうにも柄に合わない。
俺のその要望があったからこそ、彼女は完全に手加減をなくした。その結果、俺に話しかける時の語調はどこか刺々しく、言ってみれば少々「毒舌」になり、挙げ句の果てにはこうして俺の予定を勝手に決めてしまうのだ。
俺の問いかけを聞いた彼女は、まず手にしていた本を一時的に置き、顔を上げて俺を一瞥した。そして、一言も発することなく再び俯き、読書へと戻っていった。
報告を済ませ、完全に呆然としていた俺を馬車へ引っ張り込んでからというもの、彼女はずっと本を読み続けている。そして俺は、自分の命に関わる大事を彼女が勝手に決めたと知って以来、頭の処理が追いつかず、ついさっきようやく正気に戻ったところだった。
「お願いだから黙ってないでくれよ。適当でいいから何か反応してくれ」
「行けば分かります」
「本当に適当な返事してきたな……まあいい、俺も諦めた。お前が俺を陥れるような真似をするはずがないしな」
「……たぶん」
「たぶん!?」
俺は自分こそが、この世で最も彼女を理解している人間の一人だと思っている。知り合ってから何年も経つのだ。それでも時折、自分の判断に疑問を抱いてしまうことがある。彼女は感情をまったく表に出さず、常に無表情だ。だから「分かっている」つもりでも、自分が間違っているのではないかと不安になるのだ。
「疲れました。膝、貸してください」
そう言い終わるや否や、俺の返事も待たずに、彼女は勝手に俺の太ももの上に頭を乗せて横になった。
疲れるのも無理はない。今日の早朝から、彼女は今回の行程の準備をすべて一人でこなしていたのだから。
雫奈ひとりにこれほどの負担をかけさせてしまったことに、里克は申し訳なさを感じていた。だが、俺がやりたくても、力不足でどうにもできないことも多かったのだ。
「あのさぁ……」
俺は意識して優しい声色を作ろうとしたが、言い終わる前に彼女の規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら本当に疲れていたらしい。彼女の仕事を減らしてやることはできないが、せめてどう労ってやれるか考えるとしよう。
俺の手は自然と、彼女の丁寧に手入れされた黒髪の上に添えられた。
雫奈の髪質は生まれつき非常に良く、彼女自身も手入れを怠らない。幼い頃から毎日時間を作り、細やかに慈しんできた髪だ。
自分の太ももの上に横たわる少女を見つめながら、どんなに冷たい態度をとられようと、里克には彼女を嫌いになることなど到底できなかった。
里克は雫奈を心から大切にしていた。彼の心の中で、雫奈は自分自身よりも遥かに重い存在なのだ。
雫奈は里克の家のメイド長の娘で、里克と同年代だった。幼い頃から母親について仕込みを受けていた彼女は、平民の生まれでありながら、この家での扱われ方は里克とは截然と異なっていた。彼女は世界中を探しても稀なほどの魔法の才能を秘めており、誰の教えもなくとも様々な魔法を思いのままに操ることができたのだ。今後も一切の指導を必要としないほどに。
その卓越した天賦の才と引き換えに、彼女の感情表現には少しばかり欠陥があり、常に無表情だった。だが、それでも屋敷の人々が彼女を「宝物」のように可愛がるのを妨げる理由はどこにもなかった。
そんな家の中で、里克はただの「透明人間」だった。貴族の世界において、実力とは交渉のカードそのものだ。魔法を使えない里克は当然のごとく「価値のない欠陥品」として扱われた。そんな館で、唯一自分から里克に関わり、寄り添ってくれたのは雫奈だけだった。初めて魔法らしきものを発動できて喜んでいた時も、自分に魔法の才能がないと知って打ちひしがれていた時も、病で床に伏せっていた時も――里克の傍らには、いつだって雫奈がいてくれたのだ。
里克にとって、雫奈という存在の重さは、もはや想像を絶するものとなっていた。
――『大書庫』。
この世界に最後に残された魔法研究院であり、古代エルフの旧都の跡地に建てられた、一国の首都に匹敵する規模を誇る場所。
ここが俺たちの目的地であり――俺にとっての「地獄」でもあった。
大書庫の最上層に、独立した一棟の建築物大聖堂が位置している。
内部の装飾は古代エルフの時代と完全に一致しており、古代エルフの魔法と人間の技術が結実した最高傑作だった。
頭上を見上げれば、広がる光景はまるで一面の星空。無数の水晶が魔法の力によって宙を旋回し、視覚魔法によってその空間は夜空そのものへと変貌せしめられている。石彫の構造美は極致に達しており、通路の両側にある巨大な支柱には無数の繊細な半円形の付柱線条が刻まれ、天井の支柱へと昇華していた。四道の支柱が形成する四分拱頂のデザインにより、両脇のステンドグラスには予言の物語が鮮やかに保存されている。
窓から差し込む太陽の光は、ステンドグラスを透過することで、本来そこにはないはずの物語を彩っていた。
そのふたつの物語の狭間で待っていたのは、古代エルフ族の末裔であり、現・大書庫の指導者であるキャレンナだった。彼女こそが、俺たちをここへ招いた人物だ。
「雫奈ちゃん、久しぶりね! 相変わらず里克くんと仲が良くて安心したわ。彼は主人として、少しは合格点をもらえるようになったかしら?」
「里克、主人として極めて無能。役に立たない」
「顔と声だけを聞いていると、本当に里克くんが無能なゴミに見えてくるわね。まあ、実際無能なのは事実なんだけど」
「おい」
「けれど、あなたのその体の動きを見ていると、本当にそう思っているのか判断に迷うわね。それで、本当のところはどう思っているの、雫奈ちゃん?」
雫奈は自分の体を俺の背中にぴったりと密着させ、頭だけをちょこんと覗かせてキャレンナと会話していた。
雫奈のこうしたスキンシップに対して、俺はすでに慣れっこになっていた。
「里克、一人じゃ何もできない。私がいないと廃人。だから私がずっと見張っていないと、また壊れてしまう」
「そうよね、だってこの子、まともに魔法も使えないんだもの!」
雫奈の答えに、キャレンナは深く頷きながら、なぜか誇らしげに同意してみせた。
話題の中心にされている俺は、不満を表に出すこともなく、ただほんの少しの懐かしさと、雫奈に対する申し訳なさを感じていた。
「……あんた、本当にちっとも変わらないな。まあ、予想はついてたけどさ」
「というか、その質問、会うたびに聞いてないか? 毎回同じこと言ってる気がするんだけど」
「あなたの表現次第よ。私が欲しい答えを聞けるまで続けるわ。がんばりなさい」
そう言いながら、キャレンナは気まずそうな顔をする俺と、相変わらず無表情な雫奈の頭の上にポンと手を置いた。
(この人は昔からそうだ。いつもテキトーで、俺たち――特に俺を子供扱いしてくる。まあ、嫌いじゃないんだけどさ)
「で、里克。例の『問題』は相変わらずかしら?」
「……まあ、少しは改善されたけど、大きな影響はないよ。気休め程度だな」
「構わないわ、私の方でもあなたを助ける方法を探し続けるから。だって、私は世界一素晴らしい家庭教師だからね。そうでしょ、手のかかる私の生徒さん?」
キャレンナが俺にどれほど親身になってくれているか、里克はよく分かっていた。自分が正常に魔法を使えないと知った時、真っ先に原因を突き止めてくれたのも彼女だったし、今でも解決策を模索し続けてくれている。
だが、俺自身は「彼女の生徒」を名乗るにはあまりにも不適格だという思いが拭えずにいた。
キャレンナは紛れもなく魔法の最高峰であり、世界中の天才たちが喉から手が出るほど彼女の弟子になりたがっている。しかし、彼女が指導者に就任してから引き取った生徒は、俺と雫奈の二人だけなのだ。
俺の内心では、自分のような者に時間を浪費するくらいなら、もっと他のお利口さんを教えた方がよいのではないかと、ずっと葛藤していた。
「里克。何度も言うようだけど、私はあなたの『才能』は信じていなくても、あなたの『可能性』は信じているわ。あなたは私自身が選んだ生徒よ。不適格なんて思う必要はないわ。外でどれほどあなたを貶める声があろうと、私の考えは変わらない。だから、もう少し自分に自信を持ちなさい」
「ご主人様、照れてる」
「……黙れ」
「ふふ、自分のメイドに突っ込まれちゃったわね」
「さて、そろそろ時間ね。ついて来なさい」
「え? 奥に何かあるのか?」
俺は首を傾げながらも、彼女の後に続いた。そして間もなく、彼女がなぜそう言ったのかを悟ることになる。
俺の視界に――嫌というほど見覚えのある人影が、忽然と姿を現したのだから。




