帰るための条件
ようやく列に並んでいた人を捌けたときには、もうお昼はとっくに過ぎていた。
お昼ごはんを食べ損なった現状に、こうなってくるとリリーにお皿いっぱい入れられたのはよかったのかもしれないと思えてくる。
とりあえず軽症の子たちに関しては後日治療することにして帰ってもらった。
予約票のようなものを渡し、指定した日時に来てくれるように頼んだ。快くそれを受け入れてくれる人が多かったが、中にはせっかく並んだのに、と怒られることも少なくはなく…それらの説明をするだけでも心身ともに削られていくものがあり、疲労感にすぐさまベッドへと飛び込みたい気分だがそうも言っていられない。
これからようやく治療が始まるのだから。
「一度休憩したほうがいいんじゃない?」
「大丈夫。ありがと、まだいけるよ」
心配してくれているリリーに笑いながら返せば、それ以上は言わずに引いてくれた。
「じゃあ、まずは通いでの治療が決まった子たちからね」
「うん」
椅子を並べただけの簡易的な待合室から、この診察室もどきへと子供を連れてきてもらう。
カルテで名前を確認したところで、女の子とその母親がやってきた。
「こっちに寝ころんでもらえるかな?」
「うん」
こくんと頷いてすぐさま反応をくれるが、目はぼんやりしていて頬は紅潮して辛そうだ。
「楽にしててね」
不安の入り混じった瞳が、母親を探していたので隣に来てもらう。
そこからはいつも通りを心掛けて手を翳した。
***
「お疲れ様、コトネ」
「ありがと、リリーこそお疲れ様。ナタリアさんも本当にありがとうございました。とても助かりました」
「いえ、そんな。少しでもお役に立てたのなら嬉しいです」
頭を下げてお礼を言えば、慌てたように手を振って返される。
実際、人手不足が深刻な状況なので、ナタリアさんに手伝ってもらえてものすごく助かった。
そしてもう一人、とても助けになってくれた人に向き直って頭を下げる。
「アランさんもありがとうございました。わたしの護衛が仕事なのに、手伝ってもらってすいません」
「かまいませんよ。聖女様の傍を離れれば職務放棄となりますが、そうではないのですから」
なんとも懐の深い返事に、申し訳なさを感じる。
人手不足なんだから使える人は使っちゃお! と考えていた自分が恥ずかしい。
それからはご飯を食べながら初日の反省会をした。
話すべきことがたくさんあるのに体力がなくて倒れていたんじゃいけないと思い、治療を制限したこともあり、わずかばかり体力温存も出来た。
軽い夕飯を食べながらこうして会話できているのだから上々だ。
「ベッドが足りないよねー…」
「そうね、けどいつまでもこの状況が続くとも限らないと私は思ってるわ」
「そうですね。この近辺の人の治療が終われば、ここまで混雑することもないでしょう」
家が遠い人に関してはベッドを貸し出す、と決めてはいたのだけど…それでもベッド数は足りない、と今日治療を開始して感じたことだ。
ここから比較的近くに住んでいる人たちについては、切羽詰まっている状態ではない限り、通いでの治療をすることになっている。
限られたベッド数を有効に活用しようとしてこうなっているのだが、それでもベッド数は足りない。
いっそベッド数を増やしては、という考えも浮かんだが、これ以上はわたしがキャパオーバーだ。
この施設が崩壊してしまうことになりかねない。
自分から自立を目指して言い出したことなので、それだけは絶対に避けたい。
「ベッドを増やすつもりはないんだけど…これ以上はわたしもきっと治療できないと思うし。通いでの治療の人たちには申し訳ないけど、人が多いのは今だけって思えば、このままで大丈夫か…」
「申し訳なく思う必要はないわ。コトネは…私たちはできるだけのことをやってるんだから」
怠慢しての結果ってのでもないしね。付け足されたリリーの力強い言葉に頷いて答える。
リリーの言葉に、申し訳なく思っていた気持ちが和らいだ。
「幸い、この病気は一度かかっても、治ることができれば二度目はないということですから。」
アランさんの言葉も、ベッド数を増やす必要はないというものだった。
黒煙病は恐ろしい病気として知られているが、一度抗体ができれば次はないということがわかっているらしい。文献に載っていたということだから、何度か聖女が召喚された際にわかったのだろう。それに、大人になればこの病気にかかることもなくなる。
治療を続けていればいずれは終息するだろう。
わたしの目標にはとんでもなく遠いが、それでも希望が湧いてきた。
もしかしたら元の世界に帰ることができるかもしれないのだ。
***
あの日、元の世界に帰してほしいと言ったわたしに、ジェームズさんは申し訳なさそうな表情を一瞬浮かべた。
ジェームズさんが聖女担当になってくれるまでは、わたしのことを金づるとしか思っていなかったコルバルと、わたし付きの侍女をしてくれていたセフィぐらいとしか接する機会がなかった。
なので、「元の世界に帰りたい」と口にすることもなかった。
ただ毎日治療をして必要最低限なことしかしない生活を送っていたので、それらをこなすだけで精いっぱいだった。
転機が訪れたのは、ジェームズさんが担当になってからだ。
心にも体にも余裕の生まれる生活が送れるようになれば、強く「帰りたい」と思うようになった。
それを実際に口にし、ジェームズさんが申し訳なさそうな顔をしたのは、このまま帰すわけにはいかないと思ったからだと最初は考えていた。
だが、実際には違った。
「聖女が元の世界に帰った、という話は、聞いたことがないですねー」
「……え?」
宰相補佐の男――ダニエルが軽い調子で言った。
言葉の意味をうまく呑み込めず聞き返す。
「ですから、聖女が元の世界に帰ったという話は聞いたことがありません」
「…ダニエル」
どこまでも軽い調子のダニエルに、ジェームズさんが嗜める様に名前を呼んだ。
「……それはつまり、帰る方法がわからないってことですか」
喉のところがひりつく。
現状を嫌々理解してしまったがために、感じた絶望感に血の気が引いていく。
「誰も試したことがないようですねー。それに関しての記述は“聖女伝”にもありません」
――そんなことがありえるだろうか。
咄嗟に浮かんだ言葉はそれだった。
見ず知らずの異世界に突如こちらの意思を無視して召喚され、聖女としての役割を押し付けられた。
それらを受け入れざるを得ない状況であることは、身をもって知っている。
だが、“元の世界に帰りたい”と思わなくなる心情は、わからない。
元の世界には大切な家族や友人などがいる。何よりもきっと愛着があると思うのだ。
もしも前の世界に未練がない人が居たとしても、全員がそうではないと思う。
それなのに――。
「今までの聖女様はみんな幸せに暮らしましたとさ。と、記載されていますよ。こちらで結婚し、子供を産み、幸せに暮らしたと」
手に持っている分厚い本をぺらぺらと捲りながら、昔話の締めくくりみたいなことを言う。
遠回しに「だからあなたもこの世界で結婚して子供を産めばいい」と言われているのを感じ、いらだつ。
「……今までの聖女のことは知りません。わたしは帰りたいです」
「おや、それは残念ですねー」
対して残念そうには聞こえない。
「ですが、ここに召喚する術はありますが、元の場所に帰す術というのはないのですよ。
召喚術に関しては詳しくは省きますが、そういうものなんです。
まず異世界から聖女を呼び出すこと自体が断りを曲げているようなものなので。」
「じゃあどうやって帰ればいいんですか」
呟いた声は掠れていた。きっとここでの役目を終えれば帰れると思っていたから想像していなかった展開に、どこか現実味がない。
「呼び出した問題を片付けていただければ帰れるかもしれませんね」
「それは、」
何かを言おうとしてこちらの視線に気づいて口を閉じたジェームズさんはそれ以上何も言おうとしなかった。
だが、何を言いたいのかは分かった。
私が呼び出された理由は“黒煙病を治療するため”。
その問題を解決するということは、黒煙病を無くすということ。