第三十二話
「一人?」
参観日の朝、雄太と颯太を幼稚園の入口で見送った絵里は、一旦家に帰ろうかと踵を返すと望美に声をかけられ、足を止めた。
「…そうなの…雄太が随分駄々こねてたけど、急がしいんですって」
冷めた表情で夫が来られない理由を説明する絵里に
「そっか。…絵里の所は二人なのに大変ね。午後は?」
本来、土曜日は幼稚園の休みにあたる為、授業もやや変則的だ。お昼が済むとこども達は早々に帰り支度を始め、父母らには懇談会が待っている。お昼までで帰る人もあれば、午後は園でこどもを遊ばせながら父母会に参加する人もいるのだが、二人分の教室に行かねばならない絵里は、父母会を欠席しようと思っていた。
「一応、顔だけ出しといたほうがいいんじゃない?」
周りとの交流を煩わしく感じていた絵里は、春に役員に任命されるのを巧みに避けた経緯があった。議題に興味もないから…と難色を示す絵里に、望美は、二人分の懇談会に出れば時間も半分ずつで済む、付き合い程度に顔見せだけしたほうがいいと進言したのだ。
「でも…」
苦笑いをする絵里を見ると
「調子、戻ってきたみたいね」
望美は安心した様に言った。
絵里は、望美が自分の健康を気遣ってくれていた事を思い出し、はにかむ様に微笑んだ。サオリの出現に動揺していた絵里だったが、状況の見極めが付いた事で幾分落ち着きを取り戻していたのだ。
当初案じていた落書きの件も、幸い見咎められずに済んだ事が絵里の気を大きくしているのかもしれない。心の傷みは塗料を消すように消えはしない…あの女にはそのくらいしてもバチは当らない…絵里は、開き直ったようにそう考えると、それまでの絶望感や、怨嗟の原因はサオリだとばかりに自らの行為を正当化するのだった。勿論、絵里はここで攻撃の手を緩めるつもりはない。
「……そう?」
サオリの目撃情報を持ちかけた望美に対し懐疑的だった絵里だが、事実と分かった今、望美の父母会への参加を促す言葉を素直に聞き入れようとしていた。
「よかった!…」
笑顔で応じる望美の背後に、望美の夫が遅れて姿を現した。絵里に軽く会釈し
「行ってるよ」
望美に声をかけると二人のこども達を引き連れ園庭へ向かった。
そんな望美一家を見ていた絵里は、不意に嫉妬を覚え、俯いた。
望美は三児の母であり、上の二人は既に小学生だ。学校が休みのこの日、授業参観の間だけ園庭で遊ばせておくつもりなのだろう。休日でありながら子守りに精出す望美の夫のひきかえ、絵里の夫は来られない上、今日も女と行動を共にしている…以前ならこれほど望美を羨ましく思う事もなかったはずだが、今の絵里には望美の一家が眩しく映った。
絵里は長年の間、全てにおいて望美に勝っていると自負していたし、幼稚園へ来ても比較的裕福で、かつての同級生と比べても絵里の暮らしは恵まれていた。一方、慎ましやかな望美の家庭は常に家計のやりくりに追われていたが、絵里が現在抱えているような問題は無い。自覚していなかったものの、絵里は望美を軽んじてきたのかもしれない…そう気付いた瞬間、今の自分の何が望美に勝っているのだろう…絵里は、自らの身の上に疑問を感じた。夜な夜な家を抜け出し、夫の行動をかぎ回った結果、絵里が見たのは夫の裏切り行為と、その悩みを誰にも打ち明けられずに体裁を取り繕う自分の姿だった。
ぼんやりと遠くを見つめる眼差しで、絵里は独り言の様に呟いた。
「………本当だったわ」
さりげなく抑揚の無い表情で告白された望美は、キョトンとした顔で訊いた。
「え?」
望美は絵里の次の言葉を待っていた。言わんとする事が理解出来ないらしい…絵里は一呼吸を置くと改まった様子で向き直り、ポツリと告げた。
「……主人が、黒い服の女のマンションから出て来るの、見たの……」
望美に対し急に敗北感を覚えた絵里は、無意識のまま、夫の女性問題を打ち明けていたのだ。
虚勢を張る事に疲れたのだろうか…突然、心細さを感じた絵里は、長年の友人である望美にだけは分かってほしかったのかもしれない。
「………本当?」
得心した様子の望美は、驚きを隠せない表情で声を潜めた。
望美に夫の浮気を見られた事も、妻である絵里が知らなかった事も、絵里にとっては衝撃的であり、受け入れ難い現実だった。そんな絵里にとって、一家で連れ立って訪れる望美の姿は自信に溢れ、絵里の目には幸せそうに映ったのだ。温もりを感じる望美の家族に憧れさえ抱いた絵里は思わず顔を背けると、園舍から無邪気に手を振る颯太の笑顔を見つめていた。
西海市にある動物園を訪ねる事になったのは、その翌週末だった。参観日に幼稚園へ行けなかった穴埋めの意味合いもあるらしい。
「あ!」
駐車場で車を降り入口へ向かうと、お出迎えに現れたラマに雄太と颯太は駆け寄った。
家族連れの目立つ園内を進み、ガチャガチャで餌付け用の餌を購入すると、雄太と颯太は待ち構える動物達に心を奪われ、浮き足立っているのが見て取れた。
夫、雄太、颯太の三人は飽きる様子も無く、魚や爬虫類を眺めた後
「お猿さんのとこ、行こうよ!」
雄太が待ちきれない様子で駆け出した。
そんな後ろ姿を見ていた絵里は、自分達が公には出来ない重荷を抱え込んでいる家族だという事を忘れてしまいそうになる。
「颯太、手を出せ」
夫は颯太を抱きかかえると、餌欲しさに近づいて来たキツネザルに餌を差し出すよう促した。そんな様子はどこから見ても幸せで理想的な親子にしか見えない。
颯太が恐々と手を差し出すと、手摺でジッと待ち構えていたキツネザルが颯太の肩の辺に飛び乗ってきた。
「わっ!!」
素早いキツネザルの動きに怯えた颯太が夫にしがみつくと
「大丈夫だよ。どーぞ、って」
夫は笑い声を立てながら颯太を励ました。しかし颯太が差し出すまでもなく、ひったくるように餌を奪っていったキツネザルに
「あ ないお」
颯太は驚いた表情で、夫に訴えた。
絵になる夫と幼い我が子…絵里にとってかけがえの無い家族であり自慢でもあった。
絵里は、こんな幸せなひと時をサオリには渡さない…その光景を前に微笑みながら、改めて思うのだった。
「ねぇ、カピパラはぁ?」
雄太が訊いた。
「ん? …もう少し奥だよ」
夫が答えると、フラミンゴに目を奪われた颯太が走り出す。
「ああ! そんなに走ると転ぶよー!」
大はしゃぎの雄太が追いかける様にその後をついて行く。興奮し躓いて転ぶのではないか、絵里は心配でならない。
背後から見守る両親の目など忘れたようにフラミンゴと戯れる姿を見ていると、不意に夫の携帯電話が鳴った。
「はい」
隣に居た絵里は「はい、いいえ」としか答えない夫の会話に不信感を抱き、サオリではないか…そう感じると、手にしていたレジ袋の音をわざと立て、聞こえよがしに名前を呼んだ。
「雄太ー! 颯太ー!」
間もなく電話を切った夫が唐突に言った。
「明日から出張だ」
「え?」
明日とは随分急な話だ…行き先を尋ねようとした絵里の脳裏に、サオリの姿が浮かぶ。
その瞬間、思わず
「……今の電話、サオリ、でしょ?」
絵里は口走っていた。
穏やかな表情で駆け回る雄太と颯太を見ていた夫は、絵里の突然の一言にも顔色を変える事無く
「え?…………今のは…宅配便」
答えた。
「宅配便?…て、なんの?」
「……この間、インターネットで注文しておいた本が届いたそうです」
険しい表情で尋ねる絵里に夫は素っ気なく答えたが、急に出張などと言い出す様子が疑わしい。
「……急にヘンよ。…電話切ってからそんな事、言い出すなんて…」
疑う絵里を五月蝿そうに見遣ると
「出張は前から決まってたんだよ。偶然、今のタイミングで思い出しただけだ」
携帯をポケットにしまいながら呆れ顔で言った。が、成り行きとはいえ、一度サオリの名前を出してしまうと絵里は歯止めが利かずに尋ねた。
「……横浜の、サオリ、よね?」
夫は聞こえないのだろうか…顔を覗き込んでみると、前に居るこども達を見つめ、一直線に歩を進めていた。
絵里の声は低く緊張していたが、そんな妻の声など聞こえない素振りの夫は大またで歩き、まるで絵里を置き去りにしようとしている様だった。