8 幼子 ~日記の続き~
ニルソニアがローゼに近づいていく。
歩みは走行へ、走行は疾走へ、疾走は疾駆へ。
偶然、階段状になっていた書類を蹴り上がり、
飛び上がり、
空中でローゼの両肩をつかみ、
強張った顔に微笑みかけて、
小さな膝を鳩尾にぶちこんだ。
鈍い音がした。
ニルソニアは紙を巻き上げ、着地する。
ローゼは紙を巻き込み、後ろに吹き飛んだ。
「今あなたは私の信頼を裏切ったの」
白紙が舞い散る中、吸血鬼は冷たく嗤う。
「ローゼ・キュリエイド。この状態から私を納得させる言い分があるなら、言ってみなさい」
最期の言葉を言い終わるや、衝撃があった。
いつの間にか吹き飛んだはずのメイドが抱き着いていた。
当然、驚いたのは抱き着かれたニルソニアだ。
ローゼを引きはがそうとして、声もなく泣いているメイドを見た。
驚いたのもつかの間、
ニルソニアは日記をメイドに読まれたことを思い出し、
『同情された』
そう、心から感じ、
「何よ。哀れみならいらないわよ。それと、離れなさい」
と、冷たい拒絶を発した。
だが、
その願いは、
「同情で泣いて"いるわ"けでも、痛みに涙し"て"いるわけ"でも、あ"りませ"ん。安堵と、嬉しいのと、少しの怒りが混ざった"嬉し涙です」
ローゼには、届かない。
離れるどころか、抱き着く腕に力を込めた。
『誕生日』に予想外のことが起き、
荒ぶりささくれ立っていたニルソニアの心は、
知らず知らず、冷静に考えることが出来る程度には、落ち着きを取り戻していた。
それでも、心の奥底に土足で踏み込まれた怒りは消えなかった。
メイドの言ったことを信じられなかった。
もう一度拒絶しようと、メイドの体を押しのける。
人間はいとも簡単に吸血鬼の力によって引きはがされる。
ただ、引きはがすときに、吸血鬼は、ローゼの蒼眼を覗いてしまった。
それだけで、吸血鬼は固まった。動けなくなった。拒絶できなくなった。
―――知らぬ間に泣き止んでいた深蒼の眼に感じたものは、哀れみや同情ではなく、本当に純粋な感謝や安堵―――
メイドは固まった吸血鬼に語りかける。
「私は小さい頃に御嬢様――御主人様に救い上げてもらいました。」
「あのとき、御主人様は心身ともに、私を死から掬い上げてくださりました。」
「あのままだったら、私はわたしではなくなっていたでしょう。」
だから
だからこそ
「御主人様に私の人生をもって恩返ししたいのです。」
「でも長年おそばにおりましたが、御主人様は、特別なことは何も願わず、何も求めず、お心を私に、明かしてはくれませんでした。」
「お前にできる事は何もない、そう言われているような気分でした。」
「それももう今日で終わりです。」
「やっとやっと、ニルソニア様に長年の感謝を返せます。」
そう独白して、主人の頭を胸にもっていき、優しく抱きしめた。
吸血鬼は、反射的に拒絶しようと、押しのけようとするが、
頭から伝わるやさしくて、それでいて少しぎこちない手つきが止めた。
「お嬢様――いえニルソニア様。私はどこにも行きませんよ」
気づいたらローゼの胸に顔を押し付け、
何年ぶりだろうか、吸血鬼――ニルソニアは大声で泣いた。
その光景は、さながら――――――――――――
――――――――母親が子供にするような、、、
それは、――――――シミだらけの日記。日付は今からきっちり二百十年前。
『お父様、お母様どこにいるのですか。』
『かくれんぼなら、百年経っても見つけられない私の負けです。』
『私が悪い子で怒っているのなら、ご飯も残さず食べます。』
『嫌いな人参も食べます。言いつけも守ります。』
『あの日頂いたお母様のオルゴールも返します。』
『日記として使ってしまっているけど、お父様から頂いたこの手帳も返します。』
『誕生日も祝わなくてもいいです。プレゼントもいりません。』
『だから、だから、一緒にいてください。私を一人にしないでください。一生のお願いです。』
『私は、ニルソニアは――――――』
この次のページは、メモ――『いってきます。待っててね』と走り書いているものが張りつけてあった。
この続きは、水にでも濡れたのか、にじんで読めなかった。
もうすぐ、吸血鬼の『夜』が明ける。
[実は、右側の引き出しには、ローゼを買ってからの日記が入っていました。その日記が読まれると人形劇が崩れるので、ローゼさんには見えないようにしておきました。それを忘れて何度やり直したことか……]