風の抱擁
その足音を、サージャは最初エディのものだと思った。この惑星エタニティには、サージャのほかにはロボットのエディしか存在しないはずだから。
「エディ?」
エディにしてはいやに軽いし、なにやら柔らかく、あまり規則的ではない。それでもエディ以外に考えられなかったから、サージャはそう呼んで振り返った。
「……!」
声も出なかった。
“彼”はただサージャだけを見つめ、どこか覚束ない足取りで時折りふらつきながら、それでもまっすぐにこちらに向かって歩いてくる。全裸の“彼”の、黒い髪、黒い瞳。それは、ここに居るはずのない──。
目を見開いたまま彫像のように立ち尽くすサージャの前で、ついに“彼”が立ち止まった。
サージャをのぞき込む“彼”の瞳の色は、近くで見ると黒ではなかった。深い色合いの緑で、それはサージャの知っている彼のものではない。
「ルシンダ?」
サージャは呟いた。その声に、花が綻ぶように“彼”が微笑む。柔らかそうな黒い髪が、風に揺れた。
「──ナージャ?」
双子の弟の顔と、幼馴染の少女の瞳を持つ“彼”は、ふわりと両手を広げると、やさしくサージャを抱きしめた。
一瞬身震いしたサージャの服越しに伝わる、生きている人間の肌の温かさ、静かな鼓動。穏やかな呼吸に泣きたくなるほどの慕わしさを感じながら、それでもサージャは全身を強張らせていた。
これは誰だろう? いや、何だろう?
エタニティには、サージャしか生き物はいないはずだった。“彼”はどこから来たのだ?
見上げたふたつの月の下、“彼”の肩越しに、アルゴー号の巨体が見えた。そうだ、“彼”はあそこから来たのだ。そう認識した瞬間、電撃に撃たれたようにサージャは理解した。
“彼”はナージャとルシンダの受精卵が成長したものなのだ。
今回の深宇宙調査殖民計画のために、ナージャとルシンダも他の四千九百九十九組のカップルと一緒に受精卵を提供してくれた。“彼”は、ふたりの遺伝子を受け継いだその受精卵から生まれてきたのだ。
昨日はまだ小さな苗木に過ぎなかったはずの畑の作物に実が実り、サージャの膝にも届かない高さだった薔薇は、肩に届くほどまで育ったばかりか、株を増やして数え切れないほどの花を咲かせている。それと同じ力が、アルゴー号に残された凍結受精卵のひとつに働きかけたのだ。──そうとしか考えられない。
遠い宇宙に旅立ち、もう二度と会うことの叶わないサージャに、ふたりは自分たちの子供をくれた。それは受精卵という形だったけれど、サージャは彼らのくれた子供を殖民先の星で大切に育てるのだと、そう固く決意していた。
それなのに、アルゴー号と十九人の仲間を失ったとき、サージャはその決意すら忘れてしまっていた。自分たちに託されていた五千個の凍結受精卵の存在も、食糧貯蔵庫を制御する補助動力の安定性ほども気にかけたことはなかった。
補助動力は、凍結受精卵管理室でも生きていたのだ。
受精卵十個入り五百本もの凍結ケースの中から、どうしてナージャとルシンダの受精卵だけにこの力が働いたのかはわからない。わからないけど。
抱きしめてくる腕は温かく、力強く、暖かさに触れて初めて凍えていたことを知るように、サージャはこれまで自分が本当に寂しかったのだとわかった。ゆるゆると両手を上げて“彼”の背中にまわす。そして、サージャも“彼”を抱きしめた。
エタニティの風が、柔らかくやさしくふたりを包み込む。いつかのサージャのように、“彼”は抱擁へのお返しか、頬にくちびるをそっとふれさせる。それはとても温かく、サージャはぽろりと涙をこぼした。
* * * *
私、はこの世界であり、この世界そのものである。
いつからかは知らない。私が私であると認識したその瞬間から既にそうだったのだ。私は全てであり、また唯一の存在である。
私の世界にあの巨大な異物が飛び込んできたときは、驚愕、した。私、は、その驚きのまま痙攣するように激しく振動した。それまでも外の世界から何か固いもの、石、が飛び込んでくることはあったが、私はいつもそれを跳ね返した。しかし、その巨大なものは、私を切り裂くようにぐいぐい食い込んできたのだ。
いつものように、私はそれを跳ね返そうとしたが、どうにもならなかった。ぎりぎりまで弾き出そうとしたのに、それは私の世界の底に落ちてしまった。
異物の中は空洞だった。異物の表面に出来た裂け目から、私はそれを知った。私は、そっと裂け目をすり抜け、中を探ることにした。そして、あまりの驚きに一瞬動きを止めた。
そこ、は、私、とは異なる振動、パルスであふれている。私は、私以外の振動を知らない。そんなものが存在すると想像したこともなかった。眩暈、がするようだった。
だが、そのうちに、初めて出会った振動とパルスが、ひとつのものではないことに気づいた。殆どのものは単調、だった。異物全体に張りめぐらされているが、あまり変化がない。寸断、され、壊れ、ている箇所、もある。しかし、中で動き回っている存在は、それとは比べられないくらい、もっと複雑で精妙な振動とパルスを発していた。
動くものはもうひとつあり、それの振動とパルスも他とは違っていたがやはり単調で、乱れることがなく、もうひとつの存在ほど複雑ではなかった。それでも、私はそのふたつの動くものに興味を抱いた。
ふたつの動くものはそのうち空洞の中から出てきて、私には理解できない動きを始めた。動くものと形の似た、振動もパルスも持たない物体を、運び出しているようだった。
私は彼らとどう接すれば良いのかわからなかったので、強く撫でてみたり、分子振動のエネルギーレベルが極端に違う固まりを作ってぶつけてみたりした。
そのたびに、より複雑かつ精妙な振動とパルスを持つほうが、転倒したり、また、その衝撃で体表の一部が裂けたのか体液を流出させたり、体内の振動とパルスのバランスを著しく乱れさせたりした。私はいつしか、こちらの存在のほうにより興味を引かれるようになった。
そんなふうにかまっているうちに、その存在の振動とパルスの調和を感じることが、楽しく、なった。
私の、中、に、まったく別のリズム、が存在する。
私と、私でないもの、が存在する。
それは、まったく初めての経験だった。
私は、私でない存在に、私の存在を気づかせたくなった。私でない存在の器は、どうやら脆いらしい。私はできるだけ緩やかにその器を撫で、適切な? 温度と湿度を保つようにした。その基準は、私でない存在の振動とパルスの変化から判断した。
私でない存在は、また別種の、もっと微弱な振動とパルスを持つものを、育て、始めた。私の世界の底の、塵の溜まった場所に、それを、種? を、浅く埋めた。それらはゆっくり増殖? 成長? していった。内部でパルスが生じ、その刺激で分裂が始まり、組織が分化、増殖していく。私は、その新しい振動とパルスを、音楽、のように、楽しんだ。
分化・増殖してきたものが塵の表層に到達して、さらに成長しだすと、私でない存在は、うれしそう、だった。彼、の振動とパルスが高いレベルで調和している。私は少しずつ、私でない存在の中の、一番夥しい数のパルスの飛び交う部分、脳、から、私でない存在の持つ<概念>を学び始めた。
私でない存在は、時折、悲しそう/寂しそうになる。そういう時の振動とパルスは、低いレベルで調和する。いや、調和するというより、乱れる。私は、それを好まない。
そんな時、私でない存在は、もうひとつの動くものと、両腕、を絡めあい、もうひとつの動くものに、唇、を押しつけた。その直後、私でない存在の振動とパルスは大幅に乱れ、しばらく落ち着かなかった。私でない存在の、目、から透明な液体が零れたが、それはどうやら、ネガティブな混乱、のせいのようだ。
私は、私でない存在を、そんな混乱から、取り戻し、たかった。どう表現すればいいのだろう。慰め? たかった。そして、喜ばせ、たかった。振動とパルスの高いレベルでの調和、を感じたかった。
しかし、私でない存在は、私の存在に未だ気づいてはいない。どうすればいいのだろう。私には、もうひとつの動くもののように、私でない存在を抱きしめるための、腕、もない。
私でない存在が、いつものように一定時間の活動の後、休息するために薄い殻で覆われた場所に引き上げたあとも、私はどうすればいいのか、考え、続けた。そのあいだにも、塵の表層から顔を出したものたちが着実に分化・増殖してゆく。これらのものたちがそのようにして成長するのを、私でない存在が喜んでいたことを思い出し、私はそれらの成長を早めてみることにした。適切な箇所に刺激を送り、分化と増殖の反応を促す。次に私でない存在がこれらを見る頃には、これらは成熟しているだろう。
徐々に加速する成長を制御しながら、私はふと思った。これらは、種、から発生した。私でない存在の埋めた種、から。
種? 種。同じようなものを私は知っている。あの巨大な異物の空洞の中の、特に冷たい、場所に、あった。元はすべてが凍結していたようだが、いくつかの大きな器が壊れ、その中身が外に出ていた。薄くて脆い、透明な小さな器に入った、微小な、種。大きな器の中を満たしていた超低温の液体は、一部残り、一部は気化して私と混ざり合い、同化した。この、種、は、超低温の液体によって、それ自身が持つ振動とパルスを最小限に抑えられているようだった。
この、種、が、私でない存在と同じ種類に属するものだというのは、わかっていた。種類/種族としての、基本的なパターンが似ている。その中に、特に私でない存在と似た振動とパルスを持つものがある。その微細な振動、細かなピッチ。それを思い出して、私は考えた。
この種、を、私が育て、よう。刺激を与えて活性化させ、分裂を促し、できるだけ短期間で分化と増殖を完了させる。その脳に働きかけて、私の意思を反映させることができれば、私は、私でない存在を、抱きしめるための腕、を手に入れることができる。
そうだ、そうしよう。
次に私でない存在が目覚めたときには、私は私でない存在を抱擁するのだ。そうすれば、私でない存在の振動とパルスが、高いレベルで調和するのを感じることができるだろう。私が初めて手に入れる<肉体>という器で、私でない存在を直に感じる、のだ。その時には、以前、私でない存在がもうひとつの動くものに、接吻、していたように、私も、私でない存在の頬に、接吻するのだ。
ああ、そうだ。私は、私でない存在を、愛して、いる。そうだ、愛しているのだ。この世界そのものである私は、私の全存在を懸けて、私でない存在を愛する。
きっと、永遠に私は彼を愛するだろう。