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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

フィアの魔女

作者:靄道 鎖(もやみち くさり)
こちらの作品は残酷描写が含まれます。
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 むかし、昔、あるところに。一匹の化け物がおりました。

 ある日、ぬくぬくとふわふわとさまよっていた化け物は、ふと目をさまします。
 そこは、冷たい石の壁と床で覆われた場所で、なめらかな床には丸くて大きな不思議な紋様が描かれていました。
 化け物は、いつの間に、こんなところへ来たのだろうと首を傾げました。

 天井まで石で覆われて青い空が見えなかったり、金属の格子にさわるととても痛くて、ほかの場所へ行けないのが残念です。

 けれど、眠るときに尖った岩に引っかからずにすみ、びゅうびゅう吹きすさぶ風に吹き飛ばされかけないのは良いことだと、化け物はすぐに気にならなくなりました。

 その部屋は薄暗かったけれど、天井に近い位置には小さな穴があり……それは窓というのだと化け物は後で知りましたが、そこから差し込む日の光で、今が朝なのか夜なのか、晴れているのか雨なのかがわかります。

 そうして、朝が来て、夜が来て、朝がくるのが何度か繰り返された後、化け物のもとに、訪れるものがありました。

 はじめの音は、しゃらんっという、きれいな音でした。

 石がぶつかるよりも甲高いその音が珍しかった化け物が、顔を上げれば、そこだけ石ではない壁が開きます。
 そうして格子の向こうに、ひょろくてちいさな生き物がいました。

 その生き物は、化け物となにもかもが違いました。
 化け物は以前暮らしていた場所にいた、四つ足の生き物を形をしていたけれど、その生き物は腕が二つに、足が二つ。

 薄い体毛は頭に集中していて、クリーム色がかった白い肌がむき出しになっていますが、その代わりに灰色じみた、見たことのない毛皮をまとっていました。

 体の小ささや細さからして幼体だろうと察しましたが、首の回りや手足に着いた石のようなモノが少し重そうだと思いました。

 音の正体は、手足についた細長い紐のようなものがこすれあったものなのだと気がつきました。

 それは鎖というのだと、後で教えてもらうのですが、化け物は今まで見たことのない姿が物珍しくて、まじまじと見つめます。
 すると現れた生き物が、鳴きました。

「はじめまして。今日から、お世話をさせていただきます」

 その鳴き声を聞いて、化け物はその生き物をどこかで見たことがある気がしました。
 そうでした、ここにくる前にすこしだけ聞いたことがあったのです。

 ですが、そのときは、その生き物たちが持つ感情があんまりにも気分が悪くて、耳をふさいでしまったのでした。

 そう、化け物は嬉しい、楽しい、つらい、悲しいなど、その生き物が気持ちや、考えていることを感じる力がありました。

 だから、この生き物が化け物のことを怖い、と感じていることも、それなのに、自分に挨拶をしていることもよくわかったのです。

 言葉の通り、その生き物は、それから、毎日毎日化け物の元にやってきました。
 生き物は、いつも、まるで、大きな生き物に襲われる小さな生き物のように青ざめた顔をしています。
 怖いのならなぜくるのだろうと不思議でしたが、退屈していた化け物にとってはなかなか楽しいモノでした。

 生き物からは相変わらず、怖いという感情が流れてきましたが、回数を重ねるにつれてだんだん安全な場所にいる時みたいな、落ち着いたモノになっていくのを感じました。

 また、鳴いてくれないだろうか? 

 そうか、この体はあの生き物よりもずっと大きい。
 なら、小さくなってみれば、さらに言えば、この生き物と同じ形になればおびえたりしないだろうか。

 化け物はそう考えて、ある日、生き物が来たときに、ぱっと姿を変えてみました。
 不透明な肌の色や、目の色は変えられませんし、なんだか生き物よりも頭の体毛が長い気がしましたが、それでもだいぶ近くなりました。
 そうして、目を丸くする生き物に、化け物は、いつも生き物がここに入ってくるときに鳴く声をまねしてみました。

「こんにち、はっ」
「しゃ、しゃべったー!?」

 ちゃりんと鎖をならしながら、心底驚いた顔で後ずさった生き物がおもしろくて、化け物はにこにこしていたのでした。






 びっくりしていた生き物でしたが、すこしたって落ち着きを取り戻すと、矢継ぎ早に話しかけてきました。
「ねえ、きみは僕の話していることがわかるの? それをこの魔術塔の人間は知ってるの? そもそもどうして、人間の形になれるの?」
「ぼく? きみ? はなし? にんげん?」

 いちどに沢山聞かれて、ぜんぜんわかりませんでしたが、生き物からあふれる感情で、自分が姿を変えたことをとても驚いて知りたがっているのだとわかりました。

 でも、それを伝えることは、今まで知った生き物の鳴き声だけではできません。

 どうしたらいいかわからなくて、ぎゅっと顔をしかめていると、その生き物は、はっとしたあと、申し訳なさそうにうつむきました。

「ああ、ごめん。困らせたみたいだ。フィアの君に、理解できるわけがないのに」

 悲しいような、落ち込むような、あきらめたような感情をこぼす生き物が、鳴き声を出そうとする意思をなくしかけているのを感じた化け物は慌てました。

 それはとても困るのです。

 だから化け物はできる限り格子に近づいて生き物を追い、また覚えた鳴き声を発しました。

「はなし、わかるっ。はなし、なれる!」

 帰ろうとしていた生き物は、化け物の鳴き声にまた大きく目を見開きました。
 それは、晴れた日の光に照らされる葉っぱのような緑色で、とってもきれいでした。

「僕が、しゃべれば、わかるの?」
「わかる。はなし、しゃべる!」

 だから、もっと聞かせてほしい。
 そのときの生き物は、化け物が感じたことがないような色の感情をあふれさせていました。 
 きゅっと引き絞られるような。なのにほわほわとあったかくなるような不思議な心地です。 

「うん、じゃあ。たくさん話をしようか」

 けれど、生き物がまた、格子の前に座り込んでくれたことがうれしくて、気にならなかったのでした。








 その日から、生き物は化け物にいろんなことを話してくれました。

 生き物がニンゲンという種類だということ。

 鳴き声だと思っていたモノが、言葉というものであること、様々な物の名前。
 一つ一つ知るたびに、鳴ける……いえ、しゃべれる言葉が増えた化け物は楽しくて、わくわくしました。

「ねえ、ものにはたくさん名前があるって知った。なら、ぼくにも名前ついてるの?」

 ある日、そういう風に聞くと、ニンゲンは少し困った顔をしました。
 銀色の髪、緑色の瞳はいつ見てもきれいだな、と思いました。

「君は、この真理の塔の人間たちからはフィアと呼ばれてるけど……」

 フィア、フィア。なんだかかわいい響きのように思えた化け物はうれしくなったのですが、ニンゲンの表情は晴れません。
 なんだか感情も靄がかかったようによどんでいます。

「どうしたの」
「いや、なんでもない。それは、種族全体を示す名前なんだよ」

 種族? そうです。
 たくさんの同じものがあったときに、まとめて呼ぶものだと教えてもらいました。

「ニンゲンが、ニンゲンだけど、ニンゲンじゃないみたいに?」
「そう。僕は人間だけど、人間という名前じゃないのと一緒。フィアはフィアという種族なんだ」

 かみ砕いて教えてくれたニンゲンだったけれどあまり腑には落ちませんでした。
 フィアは同族に会ったことがありません。ならば、フィアはフィアでよいのだろうと思いました。
 そこで、ふと思います。

「じゃあニンゲンの名前は?」

 時々、ここには、このニンゲン以外の人間も訪れます。
 ただ、その人間の感情は黒く暗くねっとりとして気持ちが悪いので、化け物はここに来たときと同じ形をとって、無視を決め込んでいたのでした。

 でも、そうやって何人もいるのでしたら、ニンゲンを区別するために名前は必要なのだというのはわかります
 だからもしかしたら、ニンゲンにはニンゲンじゃない名前があるのかもしれないと思ったのです。
 わくわくと鉄格子の間からのぞき込んでみれば、ニンゲンはまた困った顔になってしまいました。

「もしかして、ニンゲンはニンゲンなの?」
「あ、いや、なくは、ないんだけど……」

 言いよどんでしまったニンゲンを困らせるつもりはなかったのですが、なんだかしょんぼりしてしまったので、化け物も同じように眉をハの字にしてみます。
 迷っている様子のニンゲンでしたが、ぽつりと教えてくれました。

「外の人間には、ファイブ、ってよばれてる」

 とても小さな声でしたが、化け物はぱちぱちと目をしばたたかせました。
 驚いたとき、人間はそういう風にするのです。
 こみ上げてくるそわそわに、化け物は身を乗り出しました。

「ファイブのファイって、フィアと似てるっ。すてきね!」

 じっとうつむいていたニンゲンがびっくりするように緑の瞳を丸くするのに、化け物はぴょんぴょんその場で飛び跳ねました。
 全然違うニンゲンと、似たところがあったのが、とてもうれしかったのでした。

「そっか……うん。そうだね。君は知らないから、そういえるのか」

 人間が、なんだかぎゅっと痛そうな表情をしているのに気がついた化け物は、首を傾げました。

「どうしたの? いたい?」
「ううん、大丈夫だよ」

 銀の髪を揺らして首を横に振ったニンゲンは、緑のまなざしでじっと化け物を見つめて言いました。

「ねえ。これからは、人間じゃなくて、ファイって呼んでくれる?」
「うん、いーよ」

 よくわからなかったけれど、うなずいた化け物は、また思いつきました。

「ねえねえ、ならぼくも! ぼくもフィアって呼んで!」

 せっかく自分の名前を知ったのなら、誰かに呼んでもらいたかったのでした。

「うん。わかったよ、フィア」

 しゃら、と鎖をならして緑の瞳を和ませたニンゲンにそう呼ばれたとき、化け物の胸が、ぽうっと温かくなりました。
 ふわふわ、ほわほわ、ひなたぼっこをしているときのような幸せな心地でした。

 あれれ? なんなのだろうと、不思議に思いましたが、ニンゲンに話しかけられたから気にならなくなりました。

「あと、ぼくって言うのはやめようか。たぶん君は女の子なんだろうから」
「?」
「あと、髪の毛でだけでも、前を隠してくれるとうれしいなあ」
「??」

 顔を赤らめて苦笑するニンゲンが不思議で、化け物は首を傾げます。
 その日から、化け物は「ぼく」ではなく、「わたし」を使うようになりました。








 ニンゲンはいろんなことを教えてくれて、それと同じくらい、化け物にいろんなことを聞いてきました。
 化け物はニンゲンと話すことが楽しくて、楽しくて、できる限り語りました。

「フィアは、なにも食べなくても平気なの?」
「食べるってなぁに?」
「生き物は、ほかの生き物を食べて体を動かす力をもらっているんだ。だから食べないと生きていけないんだよ」

 そういえば、外に居た頃に、大きい獣が小さな獣を殺して、口に入れているのを見たことがありました。
 そうか、アレは食べるという行為だったのかと、また一つ賢くなって誇らしい気分になりました。

 でも、自分がどうして食べなくて平気なのかはわかりません。
 外の世界に居た頃も、ここに来てからもう両の手指を何度も折り曲げてしまうくらい日がたっても、ニンゲンの言うお腹が空いた、というのを感じたことがありません。

 なにか、必要なときがあるような気もしましたが、霞がかったようにつかめませんでした。

「うーんと、よくわからないけど。食べなきゃいけないときは、ある、気がする?」
「そうなんだ……」

 化け物が首をひねっていると、ニンゲンは暗い顔をしていてさらに首を傾げることになりましたが、すぐに元に戻りました。

「フィアが、姿を変えられるのはどうして?」
「わたし、形が決まってない。幼体だから。成体になると形をもてるの。いまは、そのための準備、練習中」

 それは生まれたときから、なんとなくしってることでした。
 だから、こんなこともできる、と昔見たことがある鳥の羽を背中に生やしてみせれば、ニンゲンはぽかんと口を開けて黙り込んでしまいました。
 ニンゲンを驚かせるのは面白くて、くすくす笑いながら、化け物はでもとしみじみ思います。

「はやく、成体になりたいなあ。そうしたらもっといろんなことができる気がするの」

 そうしたら、きっとこのニンゲンをもっと驚かせることができます。

 考えるだけで、とてもわくわくすることだ、と髪を揺らめかせていると、ニンゲンが、とても不思議な表情をしていました。

「ここから、出たいの?」

 声音はとてもまじめで、ほの暗くて、緑色の瞳が深く光っているようでした。
 取り巻く感情も、なんだか今まで見たことないような感じで、化け物は戸惑いましたが、質問がよくわかりませんでした。

「? どうして出るの? ここには、ファイが居るのに」

 問い返せば、緑の瞳がゆがみました。
 悲しいような、苦しいような、うれしいような、そんな感情が渦巻いていて、なにがなんだかわかりません。
 ただ、どうしようもなくいたくて、ぎゅっと胸が引き絞られるような気持ちになりました。

「ファイは、外に出たいの?」

 けれど、ますます驚くことになります。
 だって、ニンゲンの緑の瞳から、透明な水があふれてきたのですから。
 化け物は戸惑って、うろたえました。

「どうしたの? それ、なに?」

 ニンゲンは手のひらで溢れてくる水を拭いながら、たどたどしく言います。

「これは、涙って言うん、だよ。なんでも、ないっから、きにしないで」

 ニンゲンが首を横にふるたびに、首についた鉄の輪っか――首輪と言うらしいそれが揺れ、手首についた鎖がしゃらしゃらと鳴ります。

 すごく重そうだから、取ればいいのにと思いながら、化け物は考えてみます。

 ニンゲンからはとても悲しいにおいがします。ということは、とても悲しいのです。
 ニンゲンが悲しいと化け物もなんだか悲しくなってしまいます。
 化け物は別にここでも良いのですが、ニンゲンはあまりうれしくないのかもしれません。

 化け物は考えました。あまり考えるのは得意ではありませんが、がんばりました。

 ニンゲンは化け物にいろんなことを教えてくれました。

 化け物は自分が感じたうれしい分を、ニンゲンにもうれしいと思って欲しかったのです。
 そして、思いつきました。

「じゃあ、わたしが成体になったら、一緒にお外に出ようね!」

 成体になったら、もっといろいろなことができると確信がありました。
 だから、化け物は自信を込めて言ったのです。
 ニンゲンは、緑の瞳をまん丸にして化け物を見つめました。
 すると、また、ほろりと、涙をこぼしたのです。
 うれしくなかったのだろうかと、化け物は不安で悲しくなりました。

「ちがったの? かなしいの?」

 しょんぼりとすれば、ニンゲンは首を横に振りました。

「ううん、涙は、うれしいときも、流れるものなんだよ」

 そういったニンゲンの感情は、複雑に絡み合ってよくわからなかったけれど、ニンゲンがそういうのならそうなのだろうと、化け物は納得して、うれしくなりました。

 ニンゲンを喜ばせることができたのです。

「約束だね」
「約束?」
「ええと、そうだな。それを必ず守るよって心に誓うこと、だよ」

 そんなことをしなくても、化け物はちゃんと言ったことを守ります。
 でも、ニンゲンが喜ぶのなら、と化け物はうなずきました。

「わかった、約束ね」
「ああ、この檻を出るときは、一緒に出よう」

 ニンゲンが、唇のはしをつり上げて、目を細めます。
 それは、化け物の大好きな、笑う、という表情で、ますますうれしくなった化け物も、同じ表情をしたのでした。











 そうして、ニンゲンと約束をした化け物は成体になる日を心待ちにしていたのですが、何度、朝が来て、夜が来て、朝が来ても全くその兆しは感じられませんでした。

「ごめんね、ファイ。まだだめみたいだ」
「いいんだよ。いつかはきっとくるんだから、のんびりでね」

 しょんぼりとする化け物を、ニンゲンはそんな風に慰めてくれました。

 ニンゲンは、相変わらず細いままでした。
 ですが、初めて出会った時よりも、頼りなさが消えて、背も伸びて、身体もしっかりしていました。
 きれいになったね、と言ったら、かっこよくなったね、と言ってほしいとしょんぼりとされてしまったので、次はそう言う事にしています。

 その顔が、どこかほっとしているように思えたのは、気のせいでしょうか。
 わからないけれど、とりあえず、ニンゲンが大丈夫だというのなら、それでいいのだろうと思いました。

 ですが、それでも落ち込む化け物に、ニンゲンは息をつくと、手招きしました。

 それで察した化け物は、ぱっと表情を輝かせて、近づけば、ニンゲンは手を伸ばして、化け物にふれてきました。
 約束をした後からニンゲンは、格子のあいだから腕を伸ばして、化け物の頭をなでてくれるようになりました。
 格子の間隔は広く、人が一人通れるくらいはあいているので、化け物もなで返してあげられればいいのですが、残念ながら、格子の間を通れるのはニンゲンだけなのでお預けです。

 今日もすべっていく気持ちの良い感触に、うっとりします。

「ねえ、ファイ。外に出たら、なにをしようか」
「そうだね……」

 何気なく話をすれば、ニンゲンは遠くを見つめていました。
 見ていたのは、高い位置にある窓から見える、小さな青空でした。

「いろんなことを、知りたいなあ」
「いろんなこと?」

 化け物はびっくりしました。
 だって、ニンゲンは化け物よりもずっとずっと物知りだったからです。
 これ以上なにを知りたいのだろうと、面食らう化け物に、ニンゲンはおかしそうに笑います。

「なんだい? 僕が賢者だとでも思っていたのか? 僕の世界は、君が思っているよりもずうっとずうっと小さいんだよ」

 世界、といわれてもぴんとこなかった化け物は、言葉を返すことができませんでしたが、ニンゲンは気にしなかったようでした。

「知らないと言うのは、とても悲しいよ。もし、を考えることすらできないんだ。同じ人間のはずなのに、知らないだけで立場が変わってしまう。一つ多く知っていれば、別の行動がとれたのではないか、もう一つ気づいていれば、防げたんじゃないか。知識はあるに越したことはない。だから、僕は外に出たら、いろんなことを知りたいんだ。ああちがうな……そうだ」

 取り留めもなく話したニンゲンは、ぽつりと最後につぶやいた。

「僕は、自由になりたい」

 じゆう、とはなんなのだろう?

 化け物はそう思ったのですが、そのときのニンゲンからあふれる感情がきゅうっと胸に詰まってしまって、うまく言葉にできなかったのでした。











 そんな、ある日のことです。

 その日の朝から、化け物は、なんだか頭がふわふわしていました。
 体がぽかぽかするような。ぼんやりとするような。

 こんな変な感じになるのが良くわからなくて、冷たい床に頬を寄せていると、しゃらしゃらと鎖の音が聞こえました。
 ああ、ニンゲンが来たとうれしくなって、体を起こした化け物ですが、その姿にびっくりします。
 白い肌は所々赤黒くなり、頭からは血を流していたのですから。

「こんにちわ、フィア。見苦しい物を見せてごめんね」

 何でもないように笑うニンゲンに、化け物は悲しくなりました。

 ニンゲンは時々、いろんな傷を作ってあらわれます。

 痛い、という感情はとても薄いのですが、そんなに簡単に傷ついてしまうニンゲンが心配になります。
 化け物が常になく床に横たわっているのに気付いたニンゲンは、慌てて格子のそばへ走り寄ってきました。
 その拍子にふうわりと空気が動いて、なんだか、甘くていい匂いがしました。

「フィア、大丈夫かい!?」
「それは、わたしの言葉だよ」
「僕のはいつものことだけど、君がそんな風に具合悪そうにしているなんて初めてじゃないか」

 よほどうろたえたのか、ニンゲンは格子の間から少し身を乗り出して、化け物に手を伸ばしてきます。

 いつもはあったかい手なのに、今日は冷たくて気持ちがいいと思っていると、ふと、眼前にあるニンゲンの首に重くある、首輪が目に入りました。

「フィアも病気になるのかな。いや、でもあいつらは生物じゃないって……」

 ぶつぶつつぶやいているニンゲンの首輪はいつも重そうで、はずせばいいのに、と思っていましたが、いまなら、手が届きそうです。

「ねえ、ファイ。こっちにきて」
「なんだい?」

 不思議そうにするニンゲンが、さらににじりよって来てくれたので、化け物はその首輪に手を伸ばしました。
 指だけを変化させて鋭くして、さくりと、首輪に切れ込みを入れました。

 からん、と妙に甲高い音をさせて床へ落ちた首輪に、化け物は達成感を覚えました。
 真っ白い首筋をさらしたまま固まるニンゲンは、呆然と落ちた首輪を見つめています。

 軽くなったら喜んでくれるんじゃないかと思ったのだけど、そうでもなくて、がっかりしていた化け物でしたが、その頭の傷から血がにじんでいるのに気がつきました。

 痛みを感じると、あんまりうまく物が考えられないとニンゲンから聞いていました。
 もしかしたら、ちゃんと気づいていないのかもしれません。

 だから、化け物は、もうちょっと伸び上がって、ニンゲンのこめかみの傷に舌をはわせました。
 そこで、ようやくぱっと動いたニンゲンは、真っ赤になって後ずさります。
 そうして、化け物がなめた頭に手をやりました。

「な、なにをするんだい!?」
「生き物は、こうやって、傷をなめてなおすんだろう」

 これくらいなら、知っているんだぞ、と胸を張ってみたのだけど、ニンゲンはどうっと、疲れたように息をついたのでした。

「人間は傷をなめて治さないんだよ」
「そうなの?」

 それは申し訳ないことをしたとしょんぼりしていると、ニンゲンは落ちた首輪をじっと見つめていました。

「君の首が、重そうだったから、とってあげたんだ」

 ほめてくれないかな。なでてくれないかな。それよりもまた近づいてくれないかな。
 そうしたら……と考えたところで、化け物は首を傾げました。

 なにをしたかったのだろう。

「そうか、とってくれたのか。ああ、そうなのか……」

 だけれど、ニンゲンはうれしいときの明るい感じではなくて、なんだか悲しいような、途方に暮れたような、つらいような、切ないような、そんな感情ばっかりで、不安になります。

 もしかして、だめだったのだろうか?

「ねえファイ、よけいなこと、した?」
「いいや、うん。いいんだよ」

 首を横に振ってくれたニンゲンに、ほっとした化け物は、すんと鼻をならしてみる。

「ねえ、ファイ。なんか、いい匂いがするね」
「におい?」
「うん、甘くて、すごく……」

 けれども、化け物はその匂いを表現する言葉がわからなくて困っていると、ニンゲンは緑の瞳をおおきく見開きました。
 きれいな目玉が、こぼれ落ちてしまいそうだな、と考えつつ、愕然と化け物を見下ろして、様々な感情が激しく嵐のように渦巻くのを、化け物を不思議に思います。

 ニンゲンがゆっくりと鉄の首輪を拾うと、じっとまた見つめていました。
 その姿があんまりにも真剣で、化け物はただただ黙り込むしかありません。

 そうして、どれくらいたったでしょうか。
 ニンゲンはゆっくりと首輪をはめ直してしまったのです。

 手を離しても落ちないことにほっとした顔をするニンゲンに、化け物はがっかりしましたが、ニンゲンは最後に化け物の方を見て言いました。

「ねえ、笑って。フィア」

 ずいぶん不思議なことを言うものだ、と思いつつ、化け物はにっこり笑って見せます。
 それを、ひとつ、ふたつと見つめたニンゲンは、満足そうに笑いました。

「ありがとう、フィア。じゃあ、またね」
「うん、またね。ファイ」

 なんだか、いつもの声と雰囲気が違いましたが、化け物にはその理由がわからず、化け物はそうして、ニンゲンを見送ったのでした。













 夜になるにつれて、化け物は身のうちにこごる熱が増していくのを感じていました。

 ますます頭がぼんやりして、ふわふわしてきます。

 なのに小さな窓から見えるお月様がまん丸くて、とてもきれいなのが目に付きました。

 それが妙にまぶしくて、目を細めてみます。

 同時に、なんだかお腹のあたりが寂しいような、苦しいような心地に戸惑いました。
 のどのあたりがからからとひっかくようで、とても気になります。

 そして、しきりに思い出すのは、お昼にあったニンゲンのことでした。

 舌に思い出すのは、なめ取った血の味です。

 なんだか、しょっぱくてとっても良い香りがして、思い出すだけで口の中が潤って、こくりと飲み込めば、のどのひっかくような感じが、少し薄れました。

 でもだめです。ちがうのです。
 ああ、これが、乾くということか、と気がつきました。

 今日のニンゲンのようすは、とてもおかしかったのです。
 いつもと違って、ちょっと怖くて、大丈夫かな、と思います。

 また、口の中に水があふれてきて、こくりと飲み込みました。

 あの甘い匂いはなんだったのだろうと、フィアは考えますが、頭がぼんやりしてよくわかりませんでした。

 でも、思い出すだけで、あの匂いが恋しくなりました。
 ニンゲンはきっと、夜が明けたらまた来てくれます。
 でも、明日までがとても長い気がしました。

 それに大好きなニンゲンの役に立ちたくて、喜んだ顔を見たくて、首輪をはずしてみたけれど、元に戻してしまったから、もしかしたら来てくれないかも知れない。
 そう思ったら、なんだか急に悲しくなりました。

 お腹がくうとなりました。

 体がとても熱くて、仕方がなくて、なんだかとても、ニンゲンにあいたくて、会いたくて、たまりません。
 苦しいような、くらくらするような感じは初めてのことで、化け物はただ横たわっていることしかできませんでした。

「ぁぅ……ファイ、ふぁい……」

 もしかしたら、ニンゲンならわかるかもしれない、と名前を呼んでみましたが、くるわけがありません。
 だって、ニンゲンが来るのは日が昇っている最中だけでしたから。



 それなのに、その夜は違いました。



 あの甘い匂いが漂ってきて、化け物ははっと身を起こしました。
 きいと、扉を開けて現れたのは、銀色の髪に、緑色の瞳の、白い肌を月の明かりに照らされた、ニンゲンだったのでした。
 手首と足首についた鎖をしゃらりとならして歩いてきましたが、その真っ白い首には、首輪がありません。

「こんばんわ、フィア」
「ぁっ……ファイっ」

 はずしてくれたのだ、とうれしくなった化け物は笑えば、ニンゲンも同じように笑い返してくれました。
 そうして、いつもと同じように、歩いてくるニンゲンを化け物は見つめます。

 正確には、その首筋が、なぜか、とても気になるのです。
 それでも夜に来たことがないのが不思議で、化け物は聞いてみます。

「どぅ、したの?」

 なんだかうまくろれつが回りませんが、ニンゲンはますます笑みを深めました。
 ニンゲンからあふれる感情はなんだか静かでしっかりとしているのに、ふわふわしていて、化け物までうれしくなります。

 そうして、ニンゲンは格子の前にたどり着くと、その隙間から、檻の内側へ入ってきました。

 体ごと、全部です。

 びっくりしましたが、同時に、あの、とても良い匂いが強くなって、くらくらとしました。

 人間のオスであるニンゲンの首は白くて、はりがあって、とってもきれいでした。
 ずうっと固いものでおおわれていたせいか、すれて赤黒くなっているところもありましたが、それもまた素敵に思えます。
 なめてみたらどんな味がするのだろう、かじってみたら、どんなふうなのだろう。
 そう、考えるだけで、心臓がドキドキ高鳴ります。

 そして、あのお腹の不思議な感覚がいっそう強くなりました。
 いつの間にか、目の前にニンゲンがしゃがみ込んでいて、化け物を見下ろしていました。

「ねえ、フィア。僕は、おいしそう?」

 おいしそう、とはなんだろう?
 でも、緑の瞳に問いかけられたとたん、化け物は夢中でうなずきました。
 うなずいて、ようやく気づきました。

 これが、お腹が空く、という感覚なのだと。
 いま、化け物はとてもお腹が空いているのだと。

 すると、緑の瞳が柔らかく和みました。
 やさしくて、甘い感情に包まれて、化け物はうっとりとして、また、乾きが強くなります。
 なにかで、うるおしたい、でも、なにで?

「フィア。僕の安らぎ、僕の願い、僕の希望、僕の夢」

 大好きな、ニンゲンのこえが聞こえます。
 おなかすいた。
 だいすきなニンゲンがいる。とても、あまいにおいをして、とてもおいしそうな、はだをした。

「僕の全部を上げるから、どうか生きて」

 すうい、と頬を包まれて、ひたいとひたいをこつりと合わされました。
 ニンゲンの鼻が化け物の鼻に擦りつけられて、くすぐったいです。

 そうして、唇に何かが当たりました。

 それはやわらかくて、あたたかくて、とっても、おいしい。

 ニンゲンのとびっきり素敵な笑顔が見えます。

「大好きだよ、フィア」

 うん。わたしも、だいすきだよ。ファイ。

 ああそうだ、ここにある。

 化け物はうっとりとほほえんで、その真っ白い首筋に牙を突き立てました。
 その瞬間欲しかったのは、これだったのだ、と腑に落ちました。
 ひと噛みごとに満たされる心地に、化け物はたちまち夢中になりました。


 くちゃくちゃ。もぐもぐ。


 あたたかく髪をなでてくれるのが幸せで、良いよといってくれているようで、化け物はますますうれしくなりました。


 こりこり。むしゃむしゃ。


 こんなに長く一緒にいられるのは初めてで、緑の瞳がずっと笑んでくれています。


 かつかつ。こつこつ。


 大好きなニンゲンが化け物の名を呼ぶ声が、聞こえなくなった頃。
 化け物はお腹の寂しさの代わりに満足感を覚えて、今までで一番幸せな心地で、眠りについたのでした。



















 お日様のまぶしさで、化け物は目を覚ますと、なんだかとても体が軽く感じました。
 それが不思議で、体を起こしてみれば、手のひらの色が違いました。

 不透明な靄のようだったのが、白くても人間のような肌色になっていたのです。
 見れば、常に揺らいでいたほかの部分も、足も、体も、全部、人間の肌のようになめらかになっていました。

 ニンゲンとは違って腰のあたりが細かったり、逆に胸とお尻が張り出していたりしましたが、人間の体です。
 頭を触ってみれば、長い長い銀色の髪がふわりとからだを覆いました。

 そこで、化け物は、自分が成体になったのだ、ということを知って、飛び上がるような喜びに包まれました。

 これで、とうとうニンゲンとの約束を果たせるのです!

 早速ニンゲンに教えてやらなければ、と振り返った化け物は、石の床が赤く染まっていることに気がつきました。

 甘い匂いが漂ってきます。
 これは血の匂いです。ちょっとしょっぱくて、とても甘くて、思い出すだけで、涎が出てきます。
 なるべくこぼさないようにしたつもりでも、もったいないことをしてしまっていたのだな、としょんぼりとします。
 はて、なぜ己はその味を知っているのでしょう。

 不思議に思いながらも立ち上がろうとしたとき、しゃらん、と体から何かが落ちました。

 それは、鎖でした。

 いつもニンゲンの手足をつないでいた鎖です。
 でも、手も足も、ありません。

 どこへ行ってしまったのだろう? と首をかしげた時。


 化け物は、思い出しました。


 首筋に突き立てた時に牙から伝わってきた、肌を破る感触も。
 肉をはんだときのしっとりとしたやわらかい味も。
 血をすすったときに口に広がったおいしい匂いと、しょっぱくて、でも極上の甘みも。
 ニンゲンが、痛みにうめくその声も。

 ぜんぶ、ぜんぶ。

 昨夜起こったことをすべて。いえ、自分したことをすべて。
 自分がニンゲンを食べてしまったことを、思い出したのでした。


「っぁ……ファイ? ファイ……!」


 呼んでも返事はありません。
 当然です。だって、優しく呼んでくれた口も、声を震わせるのども、化け物が食べてしまったのですから。


「あ」


 なでてくれた手のひらもありません。
 こりっとしてて、たいそう美味でした。


「あ、」


 優しく見つめてくれた、緑の瞳もありません。
 舌の上で転がしたら、ふにふにとしていて一番のお気に入りでした。


「あぁ……」


 血は甘くて、髪の毛は触感が楽しくて、骨はかみ砕くのがおもしろくて、内蔵はみずみずしくて柔らかくて。
 脳味噌は夢中ですくってなめとって、爪も、歯も、耳も、鼻も足も腕も、全部全部。
 おいしかったのです。本当に、本当に。なにからなにまで、たまらなくおいしかったのです。



「……ぁ、あああぁあああああぁぁぁぁっっ……!!!!!!」



 化け物は、声の限り、泣きました。
 のどが枯れてつぶれるほど、叫び続けました。

 両の瞳からは以前は流れなかった涙があふれ、ですがそこからこぼれるのは水ではなく、透明な石だということすら気づかず。

 たまらなく満たされた心地と、四肢にみなぎる力の正体がなんなのかを知って、化け物は銀の髪を振り乱して、身をよじって。
 泣いて、泣いて、叫びました。
 この挽き潰されるような胸の痛みが忘れられるのなら、どうか潰れて欲しいと願いました。

 化け物はこの腹から吐き出してしまいたいと考えましたが、それこそ無意味な行動ですし、なにより、はいてしまうにはもったいない。と考えてしまうことが厭わしく、また、絶叫します。


 ニンゲンは居ません。ファイはいません。
 あるのは、重い鎖だけ。



 どれくらい、たったのでしょう。
 化け物は、いつの間にか、部屋に別の生き物が居ることに気がつきました。

 人間です。

 自分の知るニンゲンより、仰々しい服を着た人間が何十人も檻の向こうにおりました。
 なぜだか化け物の方を見て、歓喜の声を上げています。


「やったぞ! とうとうフィアが成体になった!」
「みてみろ、あの両目の体液からこぼれる魔水晶を! あれ一粒でどれほどの魔法が使えるかっ」
「あの奴隷の申告が間違っていたようだな。所詮奴隷か。他の奴隷よりも賢かったから候補に入れてやっていたが、見込み違いだったな。我らの英知のかけらも理解しない」
「後で仕置きをしなければならないな」
「だが、フィアが成体になるには、生きたものを食べなければならないのだろう。まだエサも用意してないのに、こいつはなにを食べたんだ?」

 人間たちの行っていることは、ほとんどわかりませんでした。
 わからないはずでした。
 なのに、流れ込んでくるのです。

 ここがどのようなところなのか。
 フィアというのがなんなのか。
 彼らがなんのために現れたのか。
 「奴隷」というのが誰なのか。

 そして、化け物自身が知っている、なにを、食べたか。

「まあよい。すぐさま封印陣の強化を! このフィアはおとなしいとはいえ、暴れられたら魔水晶が取れないぞ」

 とたん、化け物の全身に重い負荷がかかりました。
 どうやら封印陣というもので、戒められたようです。

 そうして、格子の内側に人間が入ってきました。

 ニンゲンと化け物以外、誰も入ったことのない場所に、無遠慮に入ってきたのは、人間の男でした。

 きれいでもなんでもない、その男は、醜悪な感情をまき散らしておりました。

 吹き上がる衝動に、ぎりり、と化け物は奥歯をかみしめました。

 いやだ、くるな。ここは、ニンゲン以外がきて良い場所じゃない。

 いいや、ここはニンゲンにとてもつらい場所だった、苦しい場所だった。
 じゃあどうしたらよいのだろう。

 男は化け物をのぞき込むと、息をのみました。
 化け物は、その瞳に映った自分の姿で、自分が緑の瞳をしていることを知りました。

「へえ、化け物でも、こんなきれいなら、一発くらいヤッてみたいもんだ」

 化け物は男を見上げます。
 流れ込んでくる情景では、その男はニンゲンを楽しそうに痛めつけておりました。

「そんな馬鹿なこと言ってないで、とっとと魔水晶を取ってこい」
「へえへえ」

 そうして、透明な石を拾い集めた男は、化け物の傍らにある二つの鎖に気がつきました。

「うん? なんだこれ。奴隷の、くさ、り?」

 無造作にふれた瞬間。
 目の前がかっと熱くなり、ぞぶりと、化け物の内側から、どす黒い物があふれ出します。

 ぽとり、と、鎖を拾い上げようとしていた男の手首が落ちました。
 勢いよく、赤いものが噴き出します。

 つん、とした血の匂いが広がりましたが、全くいい匂いではありません。

「触れるな」
「あ、ぎゃあああああぁぁ!!!」

 男が叫び声を上げながら腕を振り回すので、血が顔にかかりました。
 なめてみましたが、あまりにもまずくてすぐに吐き出しました。

 ニンゲンのは違いましいた。
 香りだけでかぐわしくて、含めば甘くて、いつまでもなめていたくなりました。
 そう考える自分が、嫌で嫌でたまらなくて、また苦しくなります。

「フィアが言語を話したぞ!?」
「なぜだ!? 情報は徹底的に制限していただろう!!」

 人間たちがわめきちらしながら、また封印陣を強化して、体が重くなりましたが、化け物には応えませんでした。
 自分を押さえ込もうとする何かを、無理矢理引きちぎります。

 ぱりんっと、はかない音とともに封印陣も、床に描かれていた紋様も砕け散りました。

 自分は成体になったのです。成体になれば何でもできると思ったのは間違いではありませんでした。

 阻む物はなにもありません。

 化け物は居並ぶ人間たちを、この魔法塔の魔法使いたちを、順繰りに見渡しました。
 今はもう、知っています。
 この魔法使いたちが、化け物になにをしようとしていたのかを。
 大好きなニンゲンになにをしてきたのかを。

「許さない、許さない、許さない、許さないっ」

 化け物は、人間たちに向けて呪詛をはきだします。
 でも、一番許せないのは、化け物自身です。

 この四肢は、すべてを砕きます。
 この体を巡る力は、あらゆる現象を引き起こします。

 何でもできます。

 そう、彼を生き返らせる以外は。



「ああぁぁぁぁああああぁああ!!!!!!」



 人間たちが、魔法を使うのも意に介さず、あふれる怒りと憎しみと悲しみのまま、化け物は持てる力のすべてを解放しました。
 慟哭を捧げて、ありとあらゆるものを力で飲み込みました。
















 気がつけば、頭上に青い空が広がっておりました。
 久しぶりの、視界いっぱいの青空です。

 でも、全くうれしくありませんでした。

 だって、一緒に見たかった人はもう居ません。

 周囲は床だったものと、壁だったものと、建物だったものと、人間だったものが転がっています。
 生きているものは、なにもありません。

 無事なのは、化け物が両腕に抱えていた、ニンゲンの鎖だけです。

 でも、鎖は話しかけてくれません。

 そうでないばかりか、すでに化け物はこの鎖の意味をすでに知っておりました。
 こみ上げてくる痛みのまま、化け物は鎖を抱きしめました。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいっ」

 あの檻にいる自分はなんて馬鹿だったのだろう。なんてもの知らずだったのだろう。なんて、おろかだったのだろう。
 あふれるような後悔と、悔恨に胸がかきむしられます。

 自分が、死んでしまえば、許してもらえるでしょうか。

 この四肢は、すべてを砕きます。
 この体を巡る力は、あらゆる現象を引き起こします。

 何でもできます。

 そう、彼を生き返らせる以外なら、自分の命を刈り取ることも。


 化け物は指の爪を鋭くして、胸の中心をねらいます。
 そこが、一番確実だと、知っていたからです。
 ニンゲンに与えてしまった苦しみに比べれば、とても少ないけれど、一瞬でなければ自分は死ねないのです。

 一突き、爪の先端が胸を貫こうとした寸前、ぴたりと止まってしまいました。

 聞こえないはずの、ニンゲンの優しい声が響いたのです。


 ”どうか生きて”


 そうしたら、自分の腕なのに、うんとも寸とも動かなくなってしまいました。

 化け物は、気づいてしまったのです。
 この体の指先一つ、髪の毛一筋に至るまで、ニンゲンでできていることに。
 自分が死んでしまえば、今度こそニンゲンも死んでしまうのです。

 それはつらいつらいことでした。ここで死んでしまえたほうがどんなに楽でしょう。
 でも、それはしてはいけないことだと、たった一つのニンゲンの名残を、消してしまうことになるのです。

 化け物は唇をかみ切るほど力を込めてかみしめたあと、ゆっくりとその手をおろしました。

 唇の端からこぼれた血が、石となってこつりと音を立てて、地面へ転がります。


「生き、るよ。ファイ」

 ニンゲンは、自由になりたいと言いました。
 あなたがこの身体にいるのなら。それがあなたの望みなら。
 それを叶えるのが、化け物の義務だと思いました。


 けれど無知は罪です。考えないことは悪です。


 だから、化け物は、世界で一番物知りになることにしたのでした。










 *









 爽やかな風の吹きぬける穏やかな森の中、切り株に座り込む男女が居る。

 緑の瞳を理知的に細める、この世の者とも思えない美しい女は、話の間を取るように、銀の髪を耳にかけた。
 その拍子に手首についた手かせと鎖が、しゃらりと、ささやかに音を立てる。

 さすがに両手をつないではいないが、華奢な手首を彩るには無骨すぎるそれを、アクセサリーと言うには無理がある。

 若き旅人は、その静謐さと異質さに、ごくりとつばを飲み込めば、女は緑の瞳をおかしそうに和ませた。

「ただのおとぎ話だ。と言っただろう?」
「いえ、ですが……」

 何百年も前から賢者として名が知れ渡り、常に放浪を続ける、この女……フィアの魔女と呼ばれる彼女には、様々な噂が流れている。
 その噂の一つに、彼女は人ではなく、恐ろしい化け物だというものがあった。
 不老不死を求めた魔法使いが、ついに真理にたどり着くというのも珍しくはあるがなくもない世の中だ。
 青年自身もその類だろうと考えていたものの、偶然がかさなり、こうして目の当たりにした美しい魔女は、それを受け入れさせる、人とも思えぬ奇妙な空気をまとっていた。

 言いよどんだ青年は、言葉を探し、結局当初の予定通りの質問を口にした。

「結局、フィア、はどのような生き物なのですか」
「フィア、は古い言葉で”恐怖”を、意味するのは知っているだろう」
「はい。てっきり、賢者様の名前はそちらの意味かと……」

 口を滑らせてから、青年はさんざんおとぎ話だと前置きされていたのを思い出して青くなったが、魔女は仕方がないとばかりに笑むだけでとがめはしなかった。

「フィアは、そもそも生き物ではない。と言うのがわたしの見解だ」
「生き物ではない?」
「ああ、この世界を構成する魔素がふとした拍子に凝ることで生じる、一種の自然現象だ。故に感情を持たず、生命活動に食事を必要としない。幼体の時には、魔素が凝り固まりきらない曖昧な存在で、それが捕獲がそれほど難しくない理由だな。なんていったって、自分が害されていることすらわからないのだから」

 魔女は、ひどく苦々し気に吐き捨てるように言った。

「幼体は動物のように本能がない。ゆえに自分が何であるかを求めて、無意識のうちに周囲から情報を収集し学習をし、模倣する。手段は、主に観察と、生物の感情に感応する事、だな」
「感情ですか」
「ああ、成体になったフィアが凶暴化するのはそれが原因だと思われる。自然界で収集できる感情と言えば、動物の本能くらいなものだからな。もし、人間に出会っていたとしても、あんななんだかわからない靄に襲われたら恐怖しかないだろう」

 くつくつと笑う魔女に、こんな時だというのに青年は見とれた。

「そうして情報収集を終えた幼体は、成体になるために今まででもっとも関心を持った生物の情報を取り込む。それが生涯一度きりの食事だ」

 だが続けられた言葉に、さあっと青ざめることを押さえられなかった。

「その生物のすべてを取り込むことで、その生物の持つ知識、記憶を取り込み、取り込んだ生物を基盤として受肉する。まあ、食事している間でもすでに肉体はあるから、傷つければ魔水晶も取れるぞ。ただし、食われている生物が感じている恐怖も取り込んでいるから、わずかにあったかもしれない理性も吹っ飛んでいるがな」

 他人事のようにいう魔女の静かな表情が余りにも美しくて、青年はぞうっとする。
 この銀の髪、透き通るような緑色の瞳。
 過去には大国の妃にと望まれたことがあるという魅惑の顔は、いったいなにでできているのか。

 だが、それよりも。

「ですが、あなたは、こうして私と話しています」

 他人事のようにいう魔女に、そういい返せば、魔女は一瞬とても苦しそうに顔をゆがめたが、すぐに平静に戻った。

「うむ、あの悪名高い真理の塔の、魔法使いどもの研究も良いところまで行っていたらしい。情報を制限し、理性ある(・・・・)人間を食わせれば(・・・・・・・・)フィアは従順になるのではないか。とな。まあ実際に狂わせているのは感情であったから的外れな部分もあったが、一応は成功した。フィアは理性を獲得してしまったからな」

 様々な魔法使いたちが集まり、ありとあらゆる冒涜的な研究を繰り返していた真理の塔は、数百年前、その研究成果によって破滅へと至ったという。
 一説によれば、最後の研究は、魔水晶の安定的な採集であったとされている。

 魔水晶は、魔法使いであれば誰しもが焦がれる万能素材だ。
 麦粒ほどの大きさがあれば、重病人を健康体にするどころか、若返らせることができ、豆粒ほどの大きさがあれば一国を滅ぼすほどの魔法が編めるという。
 だが、ひどく貴重で、人命すら危ぶまれる魔素のあふれる大地や、神々の住まう神域か、フィアの体液が外気に触れたときに生じるものを採取するしかないのだ。

 曖昧にほほえみながらも、隠しきれない悲しみと痛みが見え隠れする魔女に、青年は何もいうことができなかった。

「わたしは、5番(ファイブ)というのがただの番号だということすら知らなかった。わたしは奴隷というものが何なのかを知らなかった。彼がいくつも傷を付けてくるのかもわからなかった。いや、情報はそろっていたのに、考えもしなかったのだよ」

 魔女は、手首にはまる枷に、愛おしげ指を這わせた。

「無知は罪だ、思考を放棄するのは悪だ。だから、わたしはありとあらゆる知識を求めた。幸い、わたしには時間があったから、学んで、知って、考えて、あのころよりはましになったと思う」

 まし、どころか、彼女が振りまいた英知の種でどれほどの人々が救われたか。
 奴隷の存在も、100年前に消えた。
 彼女が一人一人の枷をはずして回り、奴隷を必要とする制度ごと、消滅させてしまったのだ。
 魔法使いの行きすぎた研究で、犠牲になる人々も生物も減っている。
 何より、彼女の名の由来となった、ただ過ぎるのを待つだけであった大災害「フィア」を、たった一人で討伐した功績は、計り知れなかった。

「だから、あのときのファイが、たかだか首輪をはずした程度で、真理の塔を抜け出せるわけがなかったし、むしろ、見つかればすぐに殺されていた。よけいなことをしてしまったと今ならわかるし、真理の塔の魔法使いたちに意趣返しをするには、わたしに食べられにくるのが一番だったのだともわかる」

 あのニンゲンは人間として扱われなかったからこそ、様々なことを見聞きしていた。
 魔法使いたちが、化け物になにをしようとしていたかも、全部。

「だからなおさら、彼が、ファイが、どんな想いでわたしをフィアと呼んだのか、なのになんで、恨み言の一つも混じらなかったのかがわからないんだ」

 耳にこびりついて離れないのはあの優しい声。
 フィアは幼体から成体になるときに、一番に味わった感情を元に性質が決まる。

 たいていは恐怖。そして、怒りと理不尽さに、無念。

 なのに、ここにいる己は理性を失わず、思考をし、学び、行動ができている。
 それは、その最中にも彼が恐怖もおびえも怒りも感じていなかったということになる。
 何百年たっても答えが出ないその謎に、魔女は今日も惑う。

「わかる。気がします」

 気まぐれに招いたその青年が発した言葉に、魔女は少し、いらだちを覚えた。
 それが、彼を威圧したらしい。
 真っ青な顔になってしまったのをすこし哀れに思ったが、適当なことを言われるくらいであれば、八つ裂きぐらいにはしたい。

 そんな思いを込めてねめつけたのだが、それでも青年はごくり、と唾を飲み込んで、続けた。

「きっと、本当の意味ではわかりません。でも、彼が自分からその、食べられに来たのは、本当です」
「それは、すでに知っていると……」
「いえ、そうではなく。自分を辱めた人々に意趣返しをするためだけだったら、あなたを広く知られているフィアにしたほうが、ずっと確実だったはずなんです。だって、フィアは、ありとあらゆる恐怖を体現する、大災害なんですから」

 魔女は、本当に、久方ぶりに虚を突かれた。
 この感覚は知っている。今まで考えて行き詰まっていた物事が、きれいに納まりかけている時のものだ。
 確かにそうだ。彼が、憎悪のまま、痛みを素直に感じて、恐怖を覚えていたって、真理の塔は破壊されていただろう。
 では、もっと、別にある?

「でも、あなたはそうはならなかった。彼はとても賢い人のように思えます。あなたと一緒に塔を出られないとすぐにわかったでしょう。魔法使いたちの話を聞いていれば、ほかの動物を食べたとしてもあなたが理性を保てる可能性は、万に一つもない。彼は、それが、我慢ならなかったのかもしれません。それならば、あなたの一部になることで、一緒に出ることを選んだのかな。と」


 ”僕の全部を上げるから、どうか、生きて”
 ”大好きだよ、フィア”


 最後に、彼はそう言った。
 ただ、なだめるだけではなく、本心で言っていたとしたら。

「……ああ、そうか。そうだったのか。ファイ」

 すとりと、腑に落ちたその言葉に、魔女は深く息をついた。

 もちろん、この青年はファイを知らない。
 憶測だけで言ったことはわかっている。

 だがこの四肢を満たす何かが、そうだ、とささやくのだ。
 ずっとわからなかった。なぜ、全部をくれたのか。

 呼び続けてくれた声音の色が、本当なのかおびえた。
 いいや、それが本当だとはわかっていた。
 でも、その声に含まれた想いを受け入れてしまったら、また自分の犯した罪の重さに耐えられなくなってしまうから。
 それでも、彼が、ファイが、自分と一緒に外へ出る約束を、守ろうとしてくれたことが。
 それが良いと、幸せだと、思っていてくれたと、実感できたことが、嬉しくて。

 青年は、魔女のその瞳からはらりとこぼれ落ちたものが、透明な信じられないほど美しい魔水晶だと気づいたが、拾うことはしなかった。
 何よりも、傷つき、何よりも、愛情深く、人の世界をさまようこの魔女を労わることが、祖父母を奴隷から解放してくれた恩に報いることだと思ったからだった。






「君と出会えて良かったよ」

 出会ったときよりも、澄み切った美しい表情を浮かべるフィアの魔女が、別れの言葉を口にする。

 魔女は、一所にとどまらない。
 一所にとどまるには重すぎる存在になってしまったし、彼女の秘密を暴こうとねらう輩もそれなりにいると聞く。

 だが、それよりも、この魔女には、広い空が似合う気がした。

「俺も、お話を聞けて良かったです」

 旅装を整えた青年が片手を差し出せば、魔女はちょっと驚いたように眉を上げたが、握り替えしてくれた。

「あの、最後にひとつだけ、いいですか」
「なんだね?」
「あなたは、また人を食べたいと思いますか」

 魔女は美しい瞳をまん丸にして、心底驚いた顔になる。
 だが、不意に怪しく緑をきらめかせて、赤い唇を弓なりにした。

「それで、食べたい、と言ったとして、君はどうするんだい?」

 その深い谷の縁をのぞき込んだような底知れなさに、青年は身のすくませた。
 何気なく握った華奢な手のひらが、恐ろしいものに思えてくる。

 だが、そんな気配もすぐに霧散して、魔女はおかしそうに笑い転げた。

「冗談だよ。フィアの食事は生涯一度だけ。ものを食べられないことはないけれど、おいしいとは思わないし、空気中の魔素だけで事足りるのだよ」

 あっさりと手を離されて、青年はほうっと息をついた。
 一歩二歩と離れた魔女は、唇に指を添えて、うっとりと目を細める。

「それに、覚えているのはあの味だけで十分だ。それ以外はいらない」

 染まる頬、きらめく緑の瞳、その匂い立つような美しさと、あふれるような愛おしさに……そこに含まれる熱情に、青年は背筋をふるえさせながらも、見とれてしまった。

 それが、魔女の唯一なのだ。

 自失していた青年は、ばさりと、大きな羽音が聞こえたことで我に返る。

「では、君の旅路に幸多きことを」

 いい残した魔女の背には、純白の美しい鳥の羽が一対背負われており、今にも空へ旅立たんとしていた。
 その、自然の摂理に反し、だからこそ幻想的な光景に、また声を失いかけた青年だったが、気力を集めて振り絞る。

「あなたの道行きに幸多きことを!」

 純白の翼を背負った魔女は、青年に一つ穏やかに微笑みかけると、優雅に空に舞い上がり、青い空へと消えていったのだった。






 フィア。
 それは、忌まわしくもおぞましい恐怖の災害。




 フィアの魔女。
 それは一人の奴隷と、無垢な化け物が起こした、たぐいまれなる奇跡の名。





 〈終〉



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