第5話
ヴィオレットが我が家に来て、十日が経った。
彼女の薄紫の花は、確かに輝きを取り戻しつつあった。朝の培養液を飲む時の、あの怯えた目の色が、少しずつ濁りを失っていく。ブランに花冠の編み方を教わり、ルージュが無言で厚手の毛布を掛けてやる夜には、か細い寝息が規則正しく続くようになってきた。
だから私は、安心しかけていたのだ。
それが、管理者としての甘すぎる見通しだったと気づかされたのは、ある穏やかな昼下がりのことだった。
私はいつものアームチェアで紅茶を啜りながら、ブランがヴィオレットの接ぎ木された蔓の指先を、丁寧に手入れしてやる様子を眺めていた。
ブランの手つきは不器用で、しかしひどく真剣だった。小さな爪切りを慎重に操り、伸びすぎた蔓の硬い先端を、ひとつひとつ形を整えていく。
「じっとしててね、ヴィオレット。もうちょっとで終わるから」
ブランが優しく声をかけ、蔓の根元を指先で軽く押さえた。
──その、刹那だった。
ヴィオレットの身体が、まるで高電圧の電流を流されたかのように、硬直した。
悲鳴すら出ない。ただ、頭上の薄紫の花が一斉にその身を捩るようにして閉じ、胸元を隠すようにぎゅっと縮こまる。接ぎ木された蔓の腕が、制御を失った機械のようにぶるぶると激しく震え始めた。
「え、あ、ヴィオ──」
ブランが慌てて手を離す。しかし、ヴィオレットの瞳はもう、目の前にいるブランの顔を映していなかった。
彼女の視線は、どこか気の遠くなるほど遠い場所に固定されていた。この陽だまりのある居間ではない、昏い別の場所。おそらくは、容赦のない白い壁と、血の匂いの染みついた冷たい金属の検体台と、痛みを冷徹に計測する装置が並んだ──あの実験施設の中。
私はカップをソーサーに置き、静かに立ち上がった。
近づきすぎてはいけない。野生動物のトラウマに触れる時の鉄則を、私の本能が理解していた。
ブランが今にも泣き出しそうな顔で、私を見上げてくる。自分が何か取り返しのつかない傷を負わせてしまったのだと、彼女の白い花が申し訳なさそうに、哀れなほど震えていた。私は声は出さず、首を静かに横に振り、ブランに下がっているよう目で指示した。
ヴィオレットの拒絶の震えは、一向に止まらなかった。
彼女は自分の異形な蔓の腕を、もう片方の手で自傷行為のように強く抱きしめ、膝を胸元へ引き寄せた。ラベンダー色のガウンが床に惨めなほど広がり、その中心で小さく丸まった彼女は、まるで激しい嵐の前に無理やり身を閉じる、夜の花そのものだった。
青白い唇が、声にならない拒絶の呪文を何度も形作っている。
私は彼女の正面、触れない距離を見極めて床に膝をついた。
「ヴィオレット」
ただ、名前を呼ぶ。それ以外の余計な言葉は、今の彼女の耳には毒になる。
私はそっと目を閉じ、体内の魔力を練り上げた。
恐怖とパニックを解きほぐす、精神調律の魔法。しかし、今の彼女に乱暴な魔力を流し込めば、肉体が「外敵からの攻撃」と錯覚して余計に心を閉ざしてしまうだろう。細い絹糸を一本ずつ編み上げるように、ひどく慎重に、優しく、安寧の波長を紡いでゆく。
私の指先から、蛍の光に似た、淡く柔らかな薄緑の粒子が溢れ出した。
その光は静かに、しかし迷いなくヴィオレットの全身を包み込む。彼女が反射的に吸い込んだ部屋の空気を媒介にして、編み込まれた魔力が、彼女の毛細血管へと優しく、じんわりと染み渡っていった。
彼女の濁った視線が、ゆっくりと、深い泥の底から這い上がるようにこちらへ戻ってきた。焦点が私の輪郭に合うまでに、息が詰まるほどの時間を要した。
私の顔を認識した瞬間、彼女の青ざめた表情に奇妙な動揺が走った。それは安堵ではない。安堵の手前にある、もっと複雑で鋭利な何かだ。
ここが地獄の施設ではないと分かっている。この新しい主人が、自分を不条理に傷つけないことも、頭では理解している。
それでも、肉体が、刻まれた恐怖の記憶が言うことを聞かない。その精神と肉体の致命的な乖離が、彼女をさらに深く、内側へと縮こまらせてゆく。
「……ごめん、なさい……ごめんなさい……」
それは、今にも消え入りそうな掠れた声だった。
「謝らなくていいよ」
「でも……ブランが、何も悪いことをしていないのに……ブランは優しいのに、私が、こんな……」
言葉が涙に詰まって途切れる。薄紫の花は、まだセメントで固められたかのように頑なに閉じたままだ。
私はそのまま、しばらく微動だにせずそこに佇んだ。
触れない。急かさない。──ただ、私自身の指先を、ゆっくりと宙へ滑らせた。
「ぁ……」
ヴィオレットの口から、微かな吐息が漏れた。
張り詰めていた彼女の神経が、魔力の揺り籠に守られてゆっくりと弛緩していく。激しかった肉体の震えが、急速に凪いでいくのが分かった。過去の幻影に囚われていた彼女の瞳に、現在の、この温かい部屋の光がじわりと戻ってくる。
窓から差し込む午後の光が、少しずつ室内の角度を変えていく。ブランはソファの端で小さな膝を抱え、ルージュが彼女の華奢な肩に、無言で、しかし確かな重みを持って大きな手を置いていた。ふたりとも、息を潜めて静寂を守っている。それが、今の彼女たちにできる最善の優しさだった。
どれほどの時間が流れただろう。
魔法の光が完全に彼女に溶け込み、狂おしい震えが、ようやく細い余震へと変わった。
彼女は恐る恐る顔を上げ、自身の腕を見つめ、それから私の顔を、最後に、固く閉じたままの己の花を見上げた。
「……あかない、の」
ぽつりと言った。絶望を貼り付けたような声。
「開かなくていいよ」
「でも……ここに来てから、ずっと開いていられたから……また閉じたら、使い物にならないって、主人様が……私を……」
──そこで、私はすべてを察した。
彼女は、花が閉じることそのものを、私に対する取り返しのつかない「失態」だと思っているのだ。「回復しました」という証明として、無理をしてでも花を咲かせ続けることだけが、この家での自分の存在価値だと、いつの間にか己を追い詰めていた。
私は静かに、しかし深く慈愛を込めて息を吐いた。
「ヴィオレット。閉じた君の花も、すべて私のものだよ」
彼女の薄紫の瞳が、わずかに揺れた。
「咲いている時だけが綺麗なんじゃない。傷ついて閉じている時も、恐怖に震えている時も、その醜態のすべてが、私が見たいと望んで買い取ったものだ。君がいた施設とここが決定的に違うのはね、ここでは、開かなくていい正当な理由がある時に、ちゃんと傷つき、ちゃんと閉じていい、ということだよ」
ヴィオレットは、私の注いだ安心の魔力と、その言葉の質量を体内でゆっくりと咀嚼するように、長い沈黙に身を委ねた。
やがて、彼女の細い蔓の腕が、床の上をおずおずと、這うように伸びてきた。
私の膝のすぐ隣に、その先端がそっと置かれる。触れるか触れないか、空気の壁を挟んだ限界の距離。
私は手を伸ばさなかった。
彼女が自身の意志で、その一線を越えてくるまで、ただじっと待った。
ヴィオレットの指先が、私の掌の上で、静かに、吸い付くように止まった。
私はその冷たい蔓を、壊れ物を労わるように、そっと温かい両手で包み込んだ。
刹那。ヴィオレットの頭上の薄紫の花が、音もなく、たった一枚だけ、外側へと花弁をほどいた。
完全な開花ではない。ほんのわずかな隙間。しかしそこから、彼女本来の、ひどく甘美でどこか哀愁を孕んだ夜の香気が、細く、確かに居間へと漏れ出した。
「……怖かった」
今度の声は、さっきまでの罪悪感に塗れたものとは違っていた。誰かを拒絶するためではなく、ただの事実を打ち明けるような、幼い吐露。
「ああ」
「また、あの場所が、頭の中に、来るかもしれなくて」
「来るだろうね。記憶は簡単には消えないから」
「それでも……ここに、いていいですか?」
私は彼女の細い蔓を心地よい強さで握り締め、ふっと唇を綻ばせた。
「それがここにいる条件だと言うなら、ずいぶん安い家賃だね」
ヴィオレットは、どう返していいか分からないように困惑した顔のまま、しかし今度は、恐怖ではなく、主人の底知れない包容力に対する心地よい困惑の目で、私をじっと見つめていた。
張り詰めた空気が解けるのを感じて、ブランがソファから静かに降り、そっとヴィオレットの隣に寄り添うように座った。
言葉はなくとも、ふたつの体温が重なる。
ルージュはその巨体を静かに移動させると、窓からの西日を遮るようにふたりの傍らに立ち、大きな影となって、外の世界から彼女たちを護るように静かに佇んだ。
窓の外では、午後の鋭い光が、穏やかな夕刻の色へと傾き始めていた。
ヴィオレットの花は、未だ完全には開いていない。
だが、それでいい、と私は心から思った。今日のこの、たった一枚だけ開いた花弁の隙間から、躊躇いがちに漏れ出る香気の方が、無理に咲かせた満開の時よりもずっと、私の歪んだ所有欲を、深いところで満たしてくれたのだ。
閉じることを許された花だけが、いつか再び開く時に、本当の色を持つ。
私は自分の特等席であるアームチェアへと戻り、すっかり冷めきった紅茶を、満足と共に一口だけ、喉へと流し込んだ。




