第87話 試練の始まり
「これからどうなるのかねぇ……」
凪の家に泊まってからちょうど一週間が過ぎた土曜日の夕方。
海斗は誰も居ない喫茶店で溜息と共に呟いた。
普段から客の少ない店ではあるが、今日は貸し切りらしく、海斗はもうすぐ来るであろう客の相手を清二から任されている。
彼曰くこれからが海斗への試練との事で、事前に清二から連絡は受けたものの、客が誰なのかは知らされていない。
「まあ、何となく予想はつくけどさ」
海斗へ試練を与えた清二はというと「ちょっと迎えに行って来るよ」との事で出掛けている。
喫茶店という、本来であれば客が足を運ぶ場所の店長であるにも関わらずだ。
だからこそ、この店に来る人達が誰なのか海斗の頭でも想像出来る。
これから起きる何らかの出来事に不安を抱いていると、カランと乾いたベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
相手が誰であろうと、最初の挨拶はきちんとすべきだ。
営業用の笑顔を浮かべ、喫茶店に入ってくる人へ視線を向ける。
そこには、可愛らしさを詰め込んだような少女が居た。
「あ、あの、こんにちは」
小学校低学年くらいの少女が、幼いながらも整った顔立ちに不安を浮かべておずおずと頭を下げる。
今は曇った表情だがそれでも愛らしく、守ってあげたくなる雰囲気を纏っている。
だからこそ、笑顔を浮かべればさぞ可愛いに違いない。
そう断言出来る程に少女の容姿は整っており、いかにもお嬢様といった雰囲気だ。
「こんにちは。寒かったでしょう? 上着を預かりますね」
どれほど容姿が整っていようと、店員としてやる事は変わらない。
それに、清二からおもてなしを頼まれたのだ。
一人で来たのは予想外だったが、一対一ならばこれくらいすべきだと、少女に近寄って手を差し出した。
店員と客の関係ではあるが初対面なので断られるかと思ったが、少女は少しだけ申し訳なさそうにしつつも、着込んでいた上着を脱いでいく。
防寒用の厚手の上着を脱げば、服の中にしまっていた腰まである艶やかな黒髪がさらりと揺れた。
「すみません、お願いしますね」
「はい。それでは、カウンターへどうぞ」
店の隅にある衣類掛けに少女の上着を掛け、カウンターへと戻る。
喫茶店に来たからには、まずやる事は話し合いではない。
「注文はいかがいたしましょうか」
「えっと、えっと……。ココアでお願いします」
「かしこまりました」
慌てたように上ずった声を出す少女にくすりと笑みを零し、すぐにココアを準備する。
熱くなり過ぎないように調整したココアを少女に持って行けば、美しいはしばみ色の瞳が輝いた。
「ありがとうございます!」
少女が花が咲くような鮮やかな笑みを浮かべ、ココアを口に含む。
飲みやすい温度にしたからか、すぐに三分の一程がなくなった。
「美味しいです……」
ほう、と満足そうに微笑みながら呟く姿も愛らしい。
見ているだけでも癒されると、不快にならない程度に少女を眺める。
すると、少女がはっとした顔で海斗へ頭を下げた。
「すみません、自己紹介がまだでした。私は西園寺渚と申します。よろしくお願いいたします」
「……天音海斗です。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
凪と同じ西園寺の姓と、小学校低学年だろう幼い外見。
ここまで来れば彼女がどんな存在なのか分かるし、海斗が事前に予想していた人物の一人でもある。
それでも動揺を隠せず、一瞬だけ反応が遅れてしまった。
少女――渚はというと、海斗の顔を見て苦笑を浮かべる。
「自己紹介も終わりましたし、敬語は外していただけると嬉しいです。私は、敬われる人ではありませんから」
「そういう事なら、遠慮なく」
もてなす側としては敬語を使うべきだと思うが、渚の表情からして敬語を使われるのが嫌なのだろう。
どうせ二人しか居ないのだからと、渚のお願いを受け入れた。
「それで、君が凪さ――西園寺先輩の妹さん、でいいんだよね?」
「はい。ですが、わざわざ私の前だからと呼び方を変えなくてもいいですよ。お姉様とお兄様の事は聞いてますので」
くすくすと上品に笑う渚の姿は、とても小学校低学年とは思えない程に大人びている。
楽し気な、そして羨まし気な笑みに疑問を覚えたが、それよりも聞きなれない言葉の方が気になった。
「えっと、お姉様は凪さんでいいんだよね?」
「勿論です」
「で、お兄様って誰かな?」
「海斗お兄様ですが」
「……」
何を当たり前の事を言っているのか、という風に首を傾げられ思考が固まる。
一般高校生が「様」を付けて呼ばれる機会など普通はない。
しかも弟や妹が居ない存在にも関わらず、兄と呼ばれたのだ。
黙り込む海斗を見て勘違いしたのか、渚が少しだけ焦りを顔に出す。
「もしかして、名前で呼ぶのは馴れ馴れしかったでしょうか?」
「い、いや、それは大丈夫」
「ならこのまま海斗お兄様とお呼びしても?」
「……まあ、いいけど」
元々、悪口でなければ呼ばれ方など気にしない質だ。
むず痒さを覚えつつも許可すれば、渚の顔が嬉しそうに綻んだ。
「ありがとうございます。私の事は渚とお呼びください」
「分かった。それで、俺と凪さんの話を聞いたのは清二さんからかな?」
「はい。清二様から数週間に一度、お二人の状況を聞いておりました」
海斗や凪の状況を話せる人など、一人しかいない。
相手は西園寺という凪の家族なので、勝手に話されるのは構わないし、この様子だと清二が迎えに行っている人達にも伝わっているのだろう。
確認の意味で尋ねれば、返ってきたのは肯定と羨望を込めた笑みだった。
この場で踏み込んで良いのか悩むが、他に誰も居ないからこそ聞ける事もあると、意を決する。
「どうして俺達の事を聞いてるんだい?」
「……お姉様と仲良くしているお兄様が羨ましかったのです」
海斗が渚の表情から読み取った感情は、間違っていなかったらしい。
ぽつりと彼女が呟き、ココアのカップを持つ手に力が入った。
「その割には俺を毛嫌いしてないみたいだけど」
「嫌う理由がどこにあるのでしょうか? むしろお姉様を支えられる海斗お兄様を、私は素晴らしいと思っていますよ」
「……そうか」
きょとん、と無垢な顔で首を傾げる姿は凪に似ている。
血の繋がらない姉妹ではあるが、家柄が仕草を似させるのかもしれない。
突然の誉め言葉に羞恥が沸き上がるが、まだまだ話は終わらないと気を引き締める。
「渚は、凪さんの事を嫌っているんじゃないのかな?」
「まさか。私にとってお姉様とは、尊敬する大切な人です」
凪から渚の事は聞いていないが、万が一の可能性はあると思っていた。
しかし実際に会ってから、それは間違っていると考えを改めたのだ。
念の為に尋ねれば、一瞬の迷いもなく渚が返事をして自信満々に胸を張る。
その姿が眩しくて、思わず目を細めた。
「お父様達のお仕事を手伝える頭脳を持っているのです。十分尊敬に値します」
「……こう言うのは何だけど、その割には凪さんから渚の話を聞かなかったよ?」
「当然でしょうね。私が勝手に尊敬しているだけで、お姉様は私のことを嫌っているはずですから」
悔しさが溢れたのか、小さな唇を渚が噛む。
「自分の居場所を奪った義妹など、嫌って当たり前です」
「そんな、事は――」
「ありますよ。きっとそうです。そうでなければ、お姉様は家を出て行かなかったはずなんです」
凪が家を出て行った理由は違うのだが、渚なりに解釈した結果、悪い方向へ向かってしまったらしい。
訂正したくはあるものの、海斗の言葉では渚に響かないだろう。
それでも少しでも励ましたくて、今日会ったばかりの人にしてはいけないと分かっていても、見ていられなくて。
カウンターから出て渚の傍に行き、しゅんと肩を落としている彼女の頭に手を伸ばした。
「あ、あの……?」
「そんな風に思えるなんて、渚は凄いな」
困惑の表情で見つめられたものの、渚は海斗の手を受け入れてくれる。
艶やかな黒髪を撫でながら告げれば、はしばみ色の瞳が揺れた。
「そんな事、ありません……」
「あるよ。渚は優しい子だね」
血は繋がらず、ロクに話さない姉など普通は嫌う。
しかし勘違いとはいえ、渚は自らの立場をしっかりと理解し、相手の事を考えられるのだ。
小学校低学年とは思えない思慮深さに、つい笑みが零れる。
これくらいの歳ならば褒められたら素直に喜びそうなものだが、渚は頬を薔薇色に染めて俯いた。
「……お兄様は、聞いていた通りのお兄様ですね」
「参考までに聞きたいんだけど、俺って清二さんからどんな風に思われてるの?」
渚の態度からして悪いものではないはずだが、詳細が気になる。
思わず尋ねれば、彼女は顔を上げて小悪魔の笑みを浮かべた。
「ヒ、ミ、ツ、です」
励ましたからか、多少は心が軽くなったのだろう。
しかし片目を閉じて海斗を揶揄う姿は、見惚れてしまう程に様になっていた。
(将来が怖い子だなぁ……)
成長の仕方を間違えば、渚は男を惑わす魔性の女になるかもしれない。
小学校低学年の女の子ではあるが、決して油断出来ないと思うのだった。




