第84話 いってきます
海斗が二度目の失敗をしてから暫く経ち、凪が「お風呂に入りたい」と自室の扉越しに告げてきた。
今までは海斗が帰ってから沸かしていたが、今日は海斗が居るので折角だからとお願いしたのだろう。
扉越しなのは、未だに熱が引いていないからのはずだ。
帰る時間は特に決めていないので、お詫びの意味も兼ねて風呂を沸かして凪に伝えた。
「……ん。分かった」
短く応えた凪が、自室の扉を開けて海斗の前に現れる。
白磁の頬はまだ赤らんでおり、美しい蒼の瞳は海斗の方を見ようとしない。
何を話せばいいか分からなかったので、ソファに戻ってスマホを弄る。
凪はというと、そそくさと風呂場へ向かっていった。
「にしても、普通に風呂に入ってるな」
海斗が居る間に凪が風呂に入るのは、これで三度目だ。
未だに慣れないどころか、彼女への好意がより強くなった今の方が落ち着かない。
シャワーの水音に心臓の鼓動が早まり、スマホの画面に全く集中出来ず、何とはなしにリビングを見渡す。
すると、凪曰く最近使うようにしている道具が目に入った。
「今度は俺の番、かな」
お世話という名目であれば可能なはずだし、先程海斗が暴走した際の態度から察するに、凪は嫌がらないだろう。
それでも不安を抱えながら準備をしていく。
すぐに準備を終えて緊張しながら待っていると、脱衣所への扉が開いた。
「ふー」
満足そうな溜息をついた凪が、頬を上気させながらリビングに入ってくる。
少し厚手のもこもことしたパジャマの可愛らしさと、風呂上がりの艶めかしさが合わさって、凄まじく魅力的だ。
一瞬だけ見惚れてしまったものの、覚悟を決めてカーペットに座る。
「凪さん、こっちに来てください」
「もしかして、やってくれるの?」
どうやら風呂に入った事である程度落ち着けたらしく、期待に染まった瞳が海斗を見つめた。
安堵が胸を満たし、頬を緩めながら口を開く。
「はい。昨日は凪さんにしてもらいましたから、俺もしていいかなと。まあ、お世話の一環と思ってもらえば」
口にした事は嘘ではないが、凪と触れ合いたいという気持ちもある。
だからといって、付き合っていない女性の髪に触れるのは、いかがなものかと思うが。
自分の言動に内心で呆れていると、凪が愛らしい瞳を輝かせて幸せそうに目を細めた。
「じゃあお願い!」
「了解です」
海斗に背を向けて座った凪の頭に、ドライヤーを使って温風を当てていく。
当然ながら当てるだけではなく、手で凪の髪を触りながらだ。
しかし海斗は女性の髪の手入れなどした事がないからか、凪がもぞりと身じろぎした。
「ん……」
「もしかして、下手だったりします? 勝手が分からないので……」
「ううん、大丈夫。ちょっと擽ったかっただけ」
「なら良かったです」
どうやら合格ラインには到達出来たらしく、安堵に胸を撫で下ろす。
すると凪が僅かに首を回し、とろみを帯びた瞳で海斗を見つめた。
「下手どころか、むしろ美桜の時よりも気持ちいいよ」
「流石に一ノ瀬には敵わないと思うんですがねぇ」
「どう、なのかな。どっちが上手いとか良く分からない。でも、海斗に乾かしてもらう方が好き」
「……っ。そう、ですか」
凪は美桜と海斗のどちらが上手かではなく、どちらが好みかを口にしただけだ。
しかし堂々と「好き」と宣言され、告白されていないと分かっていても胸がどくりと跳ねた。
何だか海斗だけ動揺するのは癪で、羞恥がじわじわと胸を満たすのを自覚しつつ、華奢な後ろ姿に声を掛ける。
「凪さんの髪、綺麗ですよね」
「い、いきなり、どうしたの?」
「いえ。こうして乾かしていると、それが良く分かるなって」
僅かに乾いた銀髪は最近手入れに気を遣いだしたはずなのに、リビングの光を反射して艶がかっていた。
それを証明するかのように、海斗の指先にはさらさらの素晴らしい感触がもたらされている。
出来る事ならずっと触っていたいという想いを裏に潜め、真正面から褒めた。
いきなりの海斗の賞賛に、凪が再び海斗へと視線を向ける。
しかし僅かに見える柔らかそうな頬は、風呂上がりだとしても濃ゆい赤に染まっていた。
「……別に、普通」
「これが普通って、やっぱり凪さんは凄いですねぇ」
「あんまり褒められてる気がしない」
勉強とは違い、今回は本人が殆ど努力していないので、素直に喜べないのだろう。
それでも、ふいっと逃げるように視線を逸らされた事から察するに、照れているのだろうが。
可愛らしい姿に唇が弧を描き、髪を乾かすのに集中するのだった。
「さてと、流石に帰りますね」
いつも以上にのんびりしたり、凪の髪を乾かした事で、普段海斗が帰っている時間より数時間経っていた。
人によってはもう寝ている時間なので、流石にこれ以上居ては迷惑だろう。
しかし凪は違うようで、形の良い眉がへにゃりと下がった。
「もう帰るの?」
「はい。こういう時のケジメはきっちりつけるべきですから」
別れを惜しむ声に、胸がズキリと痛む。
海斗としても、居心地の良い凪の家にずっと居たい。
しかしここで甘えては、ズルズルと沼に嵌ってしまうだろう。
凪がそれを望んでいると分かっているが、それでも胸の痛みを抑えて告げた。
昨日とは違って今日は強引な手を取れず、凪が渋々とだが頷く。
「…………分かった。それじゃあ、見送りする」
「ありがとうございます」
泊まり用の荷物を持って玄関へ。
靴を履いて凪の方を向けば、端正な顔が寂しさと不安で彩られていた。
昨日からバイトの時を除いてずっと一緒だったので、寂しいのだろう。
それだけでなく、あの酷い環境の家に帰る海斗を心配してくれている。
この表情を見られただけで、海斗は胸が軽くなった。
「お邪魔しました」
「…………ぎるてぃ」
「いや、あの、流石にこの状況で『いってきます』は変では?」
すうっと細まったアイスブルーの瞳が怖く、背筋がぶるりと震える。
凪の家を第二どころか第一の居場所と思っているものの、曲がりなりにも海斗の家に帰るのだ。バイトに行く時と同じようには出来ない。
肩を竦めて苦笑を浮かべたが、凪が唇を尖らせて首を振る。
「ダメ」
「でも――」
「ダメったらダメ」
「……分かりましたよ」
決して譲らないという頑とした態度に、負けを認めて目を細めた。
自分の家が嫌いな海斗にとって、凪の言葉は間違いなく救いだ。
だからこそ、今度はきちんとした笑みを浮かべて凪を見つめる。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、海斗」
くるりと凪に背を向け、エレベーターへと向かう。
ここに帰ってきて欲しい、という凪の言葉が胸に沁み、ジンと目の奥が痛んだ。
みっともない姿を見せたくなくてエレベーターまで後ろを向かなかったが、最後の最後でちらりと凪の家に視線を向ける。
十二月の寒い空気が頬を撫でているのに、彼女は玄関の外でずっと海斗を見送っていたのだった。




