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第83話 命の責任

「ふぅ……」


 昨日が例外だっただけで、今日も海斗が晩飯を作る。

 なのでバイト後に買い物をし、心地良い疲労感を抱きながら凪の家に辿り着いた。

 もう使う事に抵抗のない鍵を取り出し、鉄の扉を開けて中に入る。


「お邪魔します」


 普段と同じように声を響かせ、靴を脱ぐのにも慣れたものだ。

 そんな体に染み付いた動きをしていると、バタバタと急ぐような足音が近づいてくる。

 入るなと言いたいのならリビングから声を張れば届くので、海斗を迎えに来てくれたのかもしれない。

 今までと違う凪の行動を不思議に思っていると、リビングへの扉が勢い良く開いた。


「……」

「……えっと、凪さん?」


 数時間ぶりに見た愛しい人の顔は、家を出る前と違って拗ねと僅かな怒りに染まっている。

 機嫌を損ねるような事をした覚えがなくて首を傾げれば、小さな唇が尖った。


「違う」

「な、何かしちゃいましたか?」

「うん。海斗はすっごく悪い事をした。ぎるてぃ」

有罪ギルティって……。すみませんが、理由は?」


 ご立腹だと言わんばかりに腰に手を当てる凪は、正直なところ可愛らしさの方が強い。

 一度本気で怒った時のような冷たさを纏っていないので、まだ情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地があるのだろう。

 思いきって質問すると、アイスブルーの瞳がじとりと細まった。


「もう『お邪魔します』じゃない」

「……あ」

「ここは海斗の居場所。だから『お邪魔します』はダメ。バイトに行く時も『お邪魔しました』はダメって言ったでしょ?」

「そういえば、そうでしたね」


 昨日凪の家に着いた時に「ただいま」と言うようになったが、バイトに出る際も言葉を注意されたのだ。

 その時は一回目だったので特に怒っていなかったのだが、今回は二回目なので許されなかったらしい。

 失敗を悟り、頬を掻きながら眉を下げる。


「すみません。それじゃあ、やりなおしていいですか?」

「むしろ、そうしないと家に上げない」

「そりゃあ困りますね。では――」


 本気で怒っていないのは分かるが、凪は決して冗談を言っている訳ではない。

 海斗を思うがゆえの怒りにくすりと笑みを零し、息を吸い込む。


「ただいまです、凪さん」

「ん。おかえり、海斗」


 ここが居場所だと宣言するだけで、胸が温かくなる。

 凪も満足したらしく、歓喜を滲ませた笑みを見せてリビングへと戻っていった。

 海斗も後を追い、手洗いとうがいを済ませて冷蔵庫に食材をしまっていく。

 凪はというと、これまでと同じようにソファで寛いでいた。


「それじゃあ早速作りますね」

「うん。お願い」


 いつも通りのやりとりではあるが、それは海斗を必要としてくれている証だろう。

 やる気をみなぎらせ、晩飯の準備をしていく海斗だった。





「ねえ海斗、もう帰るの?」


 晩飯の片付けを終え、リビングへと戻った海斗へ凪が尋ねてきた。

 今まで彼女がそんな質問を口にした事はなかったが、突然言い出した理由は分かる。

 澄んだアイスブルーの瞳は、ひたすらに海斗への心配に彩られていたのだから。


「どうしましょうかね。ぶっちゃけ、すぐに帰って勉強する理由もないんですよね」


 二学期最後のテストは終わり、暫く勉強をする必要はなくなっている。

 とはいえ奨学金だったり、自分の手を煩わせていないかとごく偶に海斗の成績を確認する母親の追及が面倒くさいので、全くしないというのは許されないが。

 それでも、凪が質問に込めた願いを振り切ってまで家に帰る理由はない。

 肩を竦めて暇だと遠回しに告げると、端正な顔が柔らかく綻んだ。


「なら、ここに居たらいい」

「そう、ですね。いいですか?」

「もちろん。こっちこっち」


 ぽんぽんと凪の隣のソファを叩かれたので、素直に座る。

 家に帰る必要はないし、むしろ帰りたくないのは本音だが、本を読む気分でもない。

 何となくスマホを弄りだすと、視界に銀色の髪が入ってきた。

 ふわりと香った甘い匂いに、心臓の鼓動が早くなる。

 凪も少し意識しているようで、白磁の頬が僅かに赤らんでいた。


「何見てるの?」

「動物の動画ですよ。最近は猫ですねぇ」


 本やゲームを買う余裕などなく、娯楽を楽しむ機会のない海斗にとって、スマホの動画サイトはいい暇潰しになる。

 ゲーム実況等を見てしまうとやりたくなるので、動物系の動画が多いのだが。

 画面を凪の方へ向けて子猫の動画を見せると「わぁ!」と弾んだ声が上がった。


「可愛い! 海斗、猫好きなの?」

「猫というか、動物全般が好きですよ。その中でも猫は好きな方ですけど」

「何で?」

「大した理由じゃないですが、自由気ままで良いなと思ってですね」


 母親に気を遣い、その後金を稼ぐのに明け暮れていた海斗は、何かに縛られっぱなしだった。

 今は違うと断言出来るが、のんびりと自分の生活を満喫する猫は、海斗の憧れと言える。

 猫のように振舞う事など不可能なので苦笑を零せば、凪が良い事を思いついたという風に顔を綻ばせた。


「そうなんだ。なら飼ってみる?」

「はい?」

「どうせ部屋は余ってるし、海斗さえ良ければ飼えるよ?」

「いやまあ、そうなんですがね……」


 凪の家はリビングや彼女の自室だけでなく、他にも部屋がある。

 その中には、片付けの必要すらない空っぽの部屋もあるのだ。

 服等の生活必需品や本は自らの生活する場所に置いておきたい性分だと分かっているが、それ以外の物に凪は興味がない。

 それだけでなく、これからも海斗にお世話してもらうという、絶対の信頼があるから提案したのだろう。

 嬉しさに胸が温かくなるが、素直に頷けなかった。


「辞めておきます。俺じゃあ、他の命に責任は持てませんから」

「そんな事ないと思うけど」

「それに、誰かにお金を出してもらって猫を飼うのって卑怯だと思うので」


 自らお金を出して飼い、それをお世話するのは当然の事だ。

 けれど、誰かに猫という命を恵んでもらうのは間違っている気がする。

 海斗なりに譲れない事だと蒼の瞳を見つめれば、折れないと分かったのか凪がしゅんと眉を下げた。


「……そう。分かった」

「なので、凪さんの気持ちだけ受け取っておきます」

「ん……」


 これで話は終わるかと思ったが、凪が顎に手を当てて考え始めた

 何となく嫌な予感がするものの、思考の邪魔をしてはいけないと様子を窺う。

 そう時間を掛ける事なく、凪が「じゃあ」と明るい声を出した。


「何にもないのは海斗に悪いし、こういうのはどう?」

「いや、だから気持ちだけ受け取るって――」

「にゃあ」


 何も要らないと言う海斗を無視し、凪が顔の横に手を持ってきて前後に振る。

 胸に大穴を開けられる程の破壊力のある鳴き声と合わさって、可愛らしさの大渋滞だ。

 唯一の救いは、凪が普段の綺麗な無表情な事だろう。

 これで甘えるような笑みだったならば、海斗は間違いなく撫で回していた。


「……」

「えっと、猫を飼わないなら、代わりになるかなって。ダメ、だった……?」

「…………あのですねぇ」


 海斗へ何か出来る事はないかと考えてくれたのは嬉しい。

 しかし、凪はもう少し自らの容姿を自覚すべきだ。

 胸に渦巻く激情は抑えられず、凪の華奢な肩をがしりと掴む。

 彼女がぱちくりと目を瞬かせたが無視だ。


「凪さんは綺麗なんですよ。美少女なんです」

「い、いきなり何!?」

「そんな人が猫の真似をしたら、綺麗と可愛いが合わさって、それはもう凄い事になるんです」

「海斗? どうしたの!?」

「そういう訳で、俺はもう凪さんを撫で回したくて仕方がありません」

「撫で回す!?」


 凪が悲鳴のような声を上げ、僅かに海斗から距離を取る。

 桃のような甘い匂いが遠ざかった事で、思考が僅かに冷えた。


「あれ? 何か余計な事を言った気が」

「そそそ、その、可愛いって、綺麗って。それと、撫で回したいって……」

「あー、それは……」


 凪が目をあちこちにさ迷わせ、頬を火傷しそうな程に赤く染める。

 海斗はというと、ようやく何を言ったか自覚して、何とか言い訳を口にしようと頬を搔いた。

 しかし海斗が説明する間もなく、凪がくるりと身をひるがして自室へと向かっていく。


「嫌じゃないけど、今はむりー!」


 バタリと勢いよく扉が閉まり、リビングに取り残された。

 おそらく凪は突然の賞賛と触れ合いの要求に、思考が焼き切れたのだろう。

 彼女の言葉からして拒絶された訳ではないのは分かるが、海斗は帰ってきてから二回もミスしてしまったらしい。


「結果オーライ、なのか?」


 口にした言葉に嘘はない。しかし、いきなり過ぎたのは反省すべきだろう。

 全て凪の猫の真似が可愛いのが悪い気がするものの、責任転嫁は良くないと思考を冷やすのだった。

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― 新着の感想 ―
 に、にゃぁあぁあ~!?
[良い点] 海斗さんだいぶゆるんできましたねぇ [一言] 天然に天然で反撃しあってるこの天然カップルめっ! 部屋が余ってる…あ、察し(
[良い点] お邪魔します。これはギルティ。習慣となった言葉は意識してないと変えられないか。意識せずとも「ただいま」を言うにはもう少し時間がかかるかな。 気を取り直してやり直し。良い茶番である、ただし…
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