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第75話 海斗の家庭事情

「「……」」


 テストは無事終わり、冬休みまで何の行事もなくなった。

 そんな十二月の中頃を過ぎた土曜日。海斗と凪はとある場所へ向かっている。

 二人して無言なのは珍しくないのだが、今の海斗と凪の間には穏やかな空気など欠片もない。


(いよいよ、か……)


 凪に話すと決めたのを後悔はしていないし、もう覚悟は出来ている。

 しかし、出来る限り秘密にしようとしていた事を、これから想い人に話すのだ。緊張するのは仕方がない。

 隣を歩く凪はいつも通りの美しい無表情に見えるが、僅かに顔が強張っており、期待と不安を抱いているのが分かる。


「そ、そう言えば、テストの結果はどうだったの?」


 張り詰めた空気に耐え切れなくなったのか、凪が恐る恐る尋ねてきた。

 結果が発表されたのは昨日だが、夜はほぼ喋らなかったので他愛のない話が懐かしく思える。

 凪が海斗の成績を知ろうとするのは意外だと一瞬だけ考えたが、今日は海斗を知る為に外出しているのだ。

 考えを改め、肩を竦める。


「前回と同じ十位ですよ。因みに一ノ瀬は九位でまた負けました」

「前に少しだけ聞いたけど、海斗は頭が良いね。それに、美桜も」

「……凪さんに言われると複雑ですが、ありがとうございます」


 真っ直ぐな賞賛しょうさんだと分かっていても、今回も堂々の一位だった凪に言われると素直に喜べない。

 とはいえ、ここでつんとした態度を取るのも失礼だと思い、苦笑を作って感謝を返す。

 また、美桜に負けたのでお菓子をせがまれると思っていたのだが、海斗の緊張がバレていたのか特に何も言われなかった。

 こんな状態でお菓子作りに集中出来るはずもないので、非常に有難い。


「海斗が頑張ったのは間違いないから、素直に受け取る事」

「りょーかいです」


 凪がむっと唇を尖らせながら告げた言葉は、以前海斗が凪の学力を褒めたものに似ていた。

 だからこそ何の反論も出来ず、遠慮のないやりとりに、ふっと肩の力が抜ける。

 しかし、ちょうど目的地に着いた事で気を引き締めなおした。


「凪さんを連れて来たかったのはここですよ」

「……ここ?」


 アイスブルーの瞳が驚きに見開かれるが、無理もない。

 高級マンションから歩くこと約四十分。目の前に現れたのは、今にも壊れそうな程に老朽化した二階建てのアパートだったのだから。


「もしかして、この中の一つが海斗の家なの?」

「はい。高校生が一人暮らし出来るくらい格安で住める1Kですよ」


 せめて少しでも空気を明るくしようと少しだけ声を弾ませるが、凪は呆然とした表情でアパートを見つめている。

 凪は孤児院で暮らしていた事があったので、貧しい家を見ても平気なのだろう。

 とはいえ、いきなり男の家に連れて行ったので、嫌がられるのも覚悟していた。

 しかし端正な顔には嫌悪感など浮かんでおらず、ひっそりと胸を撫で下ろす。


「凪さんさえ良ければ、中に入ってください」

「……うん」


 普通ならば警戒するべき言葉なのに、凪はあっさりと受け入れた。

 ギシギシと嫌な音を鳴らすびた階段を使って二階に上がり、一つの扉の前に着く。

 懐から鍵を出して回せば、あっさりと扉が開いた。


「これが、俺の家です」

「…………そん、な」


 1Kの部屋など、玄関から少し覗き込めば簡単に見渡せる。

 輝きを無くしたフローリングに、無造作に置かれた古びたちゃぶ台。

 傍に置かれた勉強道具以外にあるものは、畳まれた薄く安っぽい布団と一人用の冷蔵庫、そして組み立て式の簡易的な衣類掛けくらいだ。

 衣類掛けには制服を含む最低限の服しか置いていないが、私服だけは外面の為に手入れをしており、古びた部屋の中で妙に浮いている。

 エアコンなんて便利な物はないものの、オンボロな洗濯機と壁の塗装が剥がれたシャワー室があるだけ救いだろう。

 残念ながら、お湯の出は悪いのだが。


「取り敢えず上がりましょうか。座布団がないので、布団の上で良ければどうぞ」

「ううん。大丈夫」

「了解です」


 フローリングに座らせるのは申し訳なかったが、気遣いは無用だったらしい。

 二人してフローリングに座ると、外からの隙間風の音が僅かに耳に届いた。

 よくよく考えると、お嬢様をこんな場所に連れて来たのは間違いではないかと、今更ながらに後悔が沸き上がってくる。


「座った上で言うのも何ですが、凪さんが嫌ならあっちに戻りますか?」

「戻らない。海斗が過ごしてるここで話を聞く」

「分かりました。……どこから話しましょうかね」

「全部」


 どうしてこんな場所に住んでいるのか、全て隠さず話せ。

 そんな短くも強い要求に、頬が引きった。


「ぜ、全部ですか。全く面白くないですよ?」

「いい。ちゃんと聞くから」

「そうですか……」


 姿勢を正してジッと待つ凪を視界に収めながら、どこから話すべきかと考える。

 結論を出すのに、そう時間は掛からなかった。


「俺は母子家庭なんです。気付いた時には父親が居ませんでした」


 突然話が飛んだ事で何か言われるかと思ったが、凪はアイスブルーの瞳を僅かに揺らすだけだ。

 小さな唇が、ゆっくりと開いていく。


「……亡くなったの?」

「さあ? 父親の話を聞こうとすると殴られたので、全く知りません」

「っ!?」

「というより、何かある度に俺は叩かれたり殴られたりしたんですよね」


 信じられないという風に瞳を大きくする凪に、乾いた笑いを返す。

 初めて父親の事を聞いた時はいつだったか。確か、幼稚園の頃だった気がする。

 その後に全力で殴られ、倒れ込んだ時の憎悪にまみれた母親の顔は、今も思い出せる程に記憶に焼き付いてしまっていた。


「その時、必ずあの人は言うんです『お前なんか生まなければ良かった』って」

「そんなの、って……」

「物心ついた時からそうでした。少しでも気にさわる事があったら、少しでも手間を掛けさせたら、すぐに暴言と暴力が飛んできましたね」

「……」


 返す言葉が見つからないのか、凪が顔を俯けて黙り込む。

 美しい顔が曇るのは見たくないので、さっさと話を済ませてしまおう。


「何とか耐えに耐えて高校生になった頃。この家に叩き込まれました」


 物心ついた時から母親に暴力と暴言を吐かれ続ければ、反抗する気もなくなる。

 とはいえ鬱屈うっくつした感情は溜まり続けており、中学生の頃は誰も信じれず周囲への態度や口がかなり悪かったが。

 それでも問題を起こせば母親に殴られるのは分かっていたので、浮きはしたものの不良にはならなかった。

 

「そして『今度から自分で稼げ。絶対に迷惑を掛けるな』って言われたんですよ」


 中学までは義務教育なので、まだ面倒を見る気だったのだろう。

 しかし、その先は面倒を見きれなくなったらしい。

 学費は奨学金を利用すればいいし、赤点を取らなければ問題ない。

 しかし、それ以外の生活費は自分で稼がなければならないのだ。

 食費や家賃や光熱費、そして学校で使う備品だけでなく、プライベートで使う費用も。

 それはオンボロなアパートに住んでいても、高校生がまともに払えるものではない。


「だから、バイトをしてたの……?」

「はい。偶々見つけたのが、清二さんの店でした。あの店から、俺は変われたんです」


 小さな呟きに、胸を張って答えた。

 あの喫茶店を見つけられたのは、海斗の人生で最大の幸運だったと言ってもいいだろう。

 清二はすさんでいた海斗を見限らず、十分なお金と生きる術を与えてくれたのだから。

 そして今では周囲から浮かない程度に立派な服を買え、節約すれば十分に美味しい飯が食べられる。

 それだけでなく、父のように頼れる人を見つけられたのだ。これを幸福だと言わずして、何と言うのだろうか。


「簡単ですが、これが俺の全てです。……こんな空っぽな人間ですみません」


 凪に一度励まされており、自分を卑下するのは良くないと分かっている。

 それでも、この何もない家のように、中身が無いのが海斗の本来の姿なのだ。

 想い人にこんな話をするのは嫌だったが、凪の真摯なお願いを叶えずにはいられなかった。


「……」


 海斗が話を終えても、凪はずっと顔を俯けている。

 貧乏人だと嫌われるのか、こんな汚い場所に住むなんてと軽蔑されるのか。

 凪の性格なら有り得ないと分かっていても、心のどこかで悪い方向に考えてしまう。

 情けない男だなと薄い笑みを零せば、華奢な肩がぴくりと震え、鼻をすするような音が耳に届いた。


「…………よく、わかっ、た」

「凪、さん……?」


 涼やかな声が震えているのに気が付き、様子をうかがう。

 すると、向かいに座っている女性が勢い良く顔を上げた。


「……っ!!」


 綺麗な無表情が今は何らかの激情に染まっており、アイスブルーの瞳が潤んでいる。

 それだけでなく、美しい瞳から雫が零れ落ちていたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] テストの結果。それどころじゃなさそうだったけど、割り切りというか切り替えは上手くいってたのかな。何かを察した美桜は勝者のデザートをせがまなかったようだけど、何かあると察することができるほど…
[一言] ふむふむ、今回は親側の事情を海斗がまったく知らない状況ということですか。となると美桜ちゃんや清二さん側は少なくともどちらかの親と知り合い的な… そしてこの状況に凪ちゃんがさらに動くか!?(…
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