第73話 寝起きのひと悶着
「……ん」
ゆっくりと意識が浮上し、目を開けて周囲を見渡す。
シンプルではあるが女性らしい明るい色合いのリビングに、一瞬だけ思考が停止した。
しかし凪の家に泊まったのを思い出し、体の力を抜く。
「今何時だ? ……何だ、まだ八時か」
早起きとは言えず、けれど遅くもない理想的な時間にぽつりと零した。
基本的に休日は昼頃まで惰眠を貪っているが、他人の家でそんな事は出来ない。
とはいえ家主が居るであろう部屋から全く物音がしていないので、彼女達は寝ているのかもしれないが。
「朝飯、作るべきか……?」
部屋に入って様子を見るのが一番だが、女性の寝起きを見るのはマナー違反だ。
となると、凪と美桜が起きてくるのを待つしかない。
先に朝飯を作るのも手だが、もし必要ないと言われたら食材が無駄になってしまう。
どうしたものかと迷いながらも、取り敢えず冷蔵庫からお茶を取り出して水分を取る。
再びソファに戻れば、海斗の歩く音が聞こえたのか、凪の自室から「天音ー」と微かな声が聞こえてきた。
急いで部屋の前に行き、扉を軽くノックする。
「一ノ瀬、起きてるのか?」
「起きてるー。早速だけど、ちょっと問題が発生したの。入ってきてくれる?」
「問題なら凪さんに聞いたらどうだ? 一緒に寝たんだろ?」
美桜の傍には家主が居るはずなので、海斗の出る幕はないはずだ。
しかし、扉越しに「そうだけど」と焦ったような声が聞こえた。
「その凪ちゃん先輩が問題なんだって。何か言われたらフォローするから入ってきて」
「……まあ、そう言うなら」
美桜が海斗を庇ってくれるのなら、凪に責められる事はないだろう。
そもそも、凪なら勝手に入っても怒らなさそうだが。
僅かに緊張で弾む鼓動を抑え、扉を開いて中に入った。
「おぉ……」
美少女二人が仲睦まじく寄り添い合って寝ている姿は、写真を撮りたいほどに素晴らしい。
つい感嘆の声が出てしまったが、それも仕方がないと思えるくらいの光景だ。
とはいえ、お互いがというよりは凪が美桜に思いきり抱き着いている格好なので、母親に縋っているようにも見える。
美桜の母性の塊がぐにゃりと歪んでいるのが、よりそう思わせるのかもしれない。
同時に男心を擽ってくるので、心臓に悪くもあるのだが。
そんな海斗の邪な感情を察したのか、美桜の瞳がすうっと細まる。
「私が呼んだから怒らないけど、変な事を言ったら――分かってるよね?」
「うっす。俺は呼ばれたから来ただけっす」
背筋が震える程に低い声で告げられ、揶揄う気も起きず、すぐに従った。
素晴らしい光景を見れて悔いはないが、下手なリアクションは確実に死を招く。
一気に心臓の鼓動が落ち着き、腰の低い態度を取りながら二人へと近付いた。
「それで、凪さんに抱き着かれてるのは分かるけど、引き剝がせばいいだろ」
母性の塊に顔を埋めている凪だが、僅かに見える寝顔は幸せそうに緩んでいる。
この寝顔を曇らせるのは忍びないかもしれないが、わざわざ海斗を呼ぶ理由が分からない。
不思議に思って提案すれば、盛大に溜息を吐かれた。
「それが出来たら良かったんだけどね。まあ天音も来たし、実行させてもらいますか」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべた美桜が、凪を引き剥がそうとする。
しかし凪が離れたくないという風に、美桜の胸に頬ずりした。
「ゃ……」
「凪ちゃん先輩、天音が来てくれましたよ」
「あま……? かい、と……?」
「お、何度起こそうとしても起きなかったのに、天音の名前だと一瞬だ」
どうやら凪は美桜が呼びかけても、全く起きないどころか離れもしなかったらしい。
舌ったらずな声を漏らし、長い睫毛の奥からアイスブルーの瞳が表れる。
眠気のせいでとろみを帯びた瞳は、吸い込まれそうな程に綺麗だ。
意識があるのか分からないが、海斗を視界に収めた凪が甘さを帯びた笑顔を浮かべて、こちらへと手を伸ばす。
「かいと、かいと……」
「えっと……」
「ふう、脱出完了。ほら、応えてあげなさいな」
「お前、さては俺を身代わりにするつもりか?」
「あったりまえでしょ」
凪の拘束が緩んだ瞬間に美桜がベッドから降り、海斗の背を叩いた。
思いきり睨んでも当然だと言わんばかりに胸を張られて、がっくりと肩を落とす。
「はぁ……。凪さん、おはようございます」
「んー」
「あ、え!?」
凪に挨拶しつつも伸ばされた手を掴めば、想像以上に強い力で引っ張られた。
ベッドに引き込まれ、桃のような甘く濃い香りが鼻腔を突く。
突然の展開に固まる海斗をよそに、凪が海斗の胸元に滑り込んだ。
「ん……。ちょっとかたいけど、あったかい……」
美桜と比べたら固いのは当たり前だが、思わず呟くくらい母性の塊は柔らかかったのだろう。
頭の中で想像するが、背中に刺すような視線が突き刺さり、慌てて思考を中断する。
「……さて。私はリビングでゆっくりしよっと」
「一ノ瀬、後で覚えとけよ?」
「何の事やら。私は男子の味方をしてるだけだっての。んじゃね」
想い人に抱き着けるという、最高の状況を美桜が提供してくれたのは間違いない。
言い返す事が出来ず口を噤めば、鼻歌を口ずさみながら美桜がリビングへ去っていった。
それならばと、海斗の胸に顔を埋めている凪へ声を掛ける。
「な、凪さん、離れてください」
「やーぁ」
凪が一段と甘ったるい声を上げ、海斗の胸に頬ずりした。
絶対に離さないと背中に腕を回され、二人の距離が無くなる。
美桜程ではないがしっかりとある胸の柔らかさや、体の細さをこれでもかと実感し、心臓が早鐘のように鼓動し始めた。
救いと言えるのは、密着した状態で顔を上げると視覚からの情報を消せる事くらいか。
子供のような仕草と声はずっと寝かせてあげたくなる程に愛らしいが、このままでは海斗の理性が持たない。
断腸の思いで凪の後頭部を軽く叩いて起こす。
「起きてくださいって」
「んぅ……。ん……?」
何度も叩いていると鬱陶しく感じたのか、凪が呻き声を上げて僅かに離れた。
凪の様子を窺えば、再び長い睫毛が震えてアイスブルーの瞳を覗かせる。
海斗を見上げるとろみを帯びた瞳を見つめていると、次第に意思の光が灯ってきた。
凪がゆっくりと視線をさ迷わせて状況を確認し、白磁の頬を真っ赤に染めて勢いよく離れる。
「っ!? か、海斗!?」
「ようやく起きましたね。おはようございます」
「お、おはよう。……じゃなくて、何でここに居るの!?」
「えっとですね――」
開口一番怒られるかと思ったが、どうやら凪は海斗の説明を聞いてくれるらしい。
ベッドから降りて、美桜が助けを求めていた事や海斗が凪に引き込まれた等の説明をすれば、彼女が耳どころか首まで朱に染めた。
「ご、ごめんなさいぃぃぃ……」
年上とは思えない情けない声を出しつつ、凪が毛布に包まる。
蓑虫みたいで可愛らしいが、流石にその行動は予想出来なかった。
「凪さん?」
「……お願いだから、今は放っておいて」
「り、了解です」
どうやら凄まじい羞恥が襲ってきており、海斗の顔を見れないようだ。
今はそっとしておくのが一番だと、リビングへと退散する。
ソファで寛いでいる美桜と視線が合えば、彼女はにやりと黒い笑みを零した。
「折角なんだし、凪ちゃん先輩を堪能すれば良かったのに」
「そんな事出来るかっての。ああ、大変だった……」
寝ぼけた状態ではあったものの、凪が美桜よりも海斗を求めてくれたのは嬉しいし、あのまま愛でたいと思う気持ちもあった。
しかしあの状況で海斗だけが意識があるのは、卑怯な気がしたのだ。
そもそも美桜が隣の部屋に居るので、全く落ち着けないというのもあったが。
ソファにどっかりと腰を落とせば、美桜が呆れた風に溜息をつく。
「誠実なのはいいけど、損してるねぇ」
「俺は誠実じゃないと思うし、損もしてないぞ。十分美味しい思いをさせてもらったからな」
凪に甘えられた事だけではない。美少女二人の素晴らしい姿を見られたのだ。
他の男子に知られれば、海斗は憎悪を向けられるだろう。
後悔はないと肩を竦めれば、美桜も全く同じ反応をした。
「さいですか。まあ、何はともあれおはよう、天音」
「おはよう、一ノ瀬」
今更ながらに挨拶を交わすのがおかしくて、美桜と笑い合うのだった。




