第44話 はぷにんぐ
美桜との他愛のない会話を終え、一人で凪の家へと向かう。
結局、教室を出るまで美桜以外に海斗へ話し掛けた人は居なかった。
とはいえ数日前まではその状況が当たり前で、この数日間が異常だっただけなのだが。
また、美桜とは学校で接点が出来たり、一緒にスーパーまで向かった事もあるが、今日はクラスメイトと遊ぶとの事だ。
去り際の表情が弾んだ笑顔だったので、かなり楽しみなのだろう。
周囲などどうでもいいという意見の凪や、関わる気の無い海斗との違いに尊敬の念を抱く。
たった数日間だけであったが、周囲の機嫌を窺うのは本当に大変だったのだから。
「お邪魔します」
「いらっしゃい、海斗」
ぼんやりと美桜の事を考えながら高級マンションに辿り着き、凪の家の扉を開けた。
今日の晩飯は昨日の残り物に手を加えるだけなので、特に買い物は必要ない。
リビングから聞こえて来る涼やかな声を耳に入れ、声の主が居る場所へ向かう。
僅かに隙間が空いている、玄関とリビングを隔てる扉を開ければ、肌色が飛び込んできた。
「……へ?」
雪のように白い肌は柔らかそうで、同時に滑らかだと見ただけで判断出来る程にきめ細かい。
腰はしっかりと括れており、大き過ぎず小さ過ぎもしない胸部は、ライムグリーンの下着に覆われていた。
凪の部屋の掃除をする際に、何度も見ている下着。
ただでさえいつも海斗の心臓が乱されているというのに、実際に身に着けている光景を見ると破壊力が高過ぎる。
唯一の救いは、スカートに手を掛けていない事だろう。
これで下半身も視界に入っていたら、海斗の理性はあっけなく崩壊していたはずだ。
とはいえ今の時点でも十分に凶悪であり、心の準備も無しに凪の体を見てしまったせいで、脳が美しい光景を記録する事しか出来ないのだが。
「ん、しょ……」
「すすすみません! ちょっと席を外しますから!」
「そう? 分かった」
凪がスカートを着替えようとした所で、必死に思考を回転させてリビングから退散する。
風邪を引いた際や昨日のだらけっぷりから、やはり凪は海斗に下着を見られても平気らしい。
必死の謝罪に返ってきた声は、何の感情もこもっていない平坦なものだった。
玄関まで戻り、鉄の扉に凭れ掛かる。
「やっちまったぁ……。最低だ」
前髪をぐしゃりと潰し、重い溜息を吐き出した。
凪が海斗を信頼しているのも、それが単なる親愛なのも十分に理解している。そして、恋愛感情が分からない事も。
だからこそ海斗に全幅の信頼を寄せる際に、無防備な姿を見せているのだから。
しかしそれを海斗が受け入れてはいけないし、凪の下着姿や肌を見て良い理由にはならない。
海斗なりに気を付けていたのだが、今回は完全にやらかしてしまった。
凪の信頼を利用している気分になり、罪悪感という名の棘が海斗の胸を容赦なく抉る。
このままへたり込みたい気分だが、実行に移すよりも早くリビングへの扉が開いた。
「海斗、玄関は寒くない?」
「いやまあ寒いですけど、少しは警戒しましょうね?」
「警戒する理由はないし、私は海斗になら見られてもいい」
「はぁ…………」
完全に予想出来た返答に、再び溜息をつく。
例え一般的に異性に肌を見せてはいけないと分かっていても、海斗は例外として扱ってくれる信頼が今は苦しい。
とはいえ、ここで項垂れていても始まらないと、凪の元へ向かった。
「見てしまって本当にすみません、凪さん。にしても今日も帰りが少し遅かったんですね」
「ん? 別に謝る必要はないけど。それと帰るのが遅かった理由は、今日の騒動がクラスメイトにも伝わったみたいで、色んな人に質問されたから」
「ああ、そういう……」
普段の凪は一目散に家へ帰っているらしく、海斗が凪の家に着く頃には着替えを終えている。昨日は例外中の例外だ。
しかも今日の放課後は美桜と教室で話していたので、買い物をしなくとも凪の着替えに出くわさないはずだった。
例え凪がクラスメイトから質問されたとしても、彼女の淡々とした説明なら大した時間は掛からないと予想していたのもある。
しかしこのタイミングで着替えているという事は、相当な質問攻めで帰りが遅くなったのだろう。
昨日のようにダウンしていないのは、質問されるのに慣れたからだろうか。
予想が合っていた事、そして自らの考えが甘かった事に呟きを落とし、決意を新たにした。
「取り敢えず、見てしまったお詫びに今日のビーフシチューオムライスは全力を出します」
「何がどうなって全力を出すのか分からないけど、楽しみにしてる」
無垢な微笑を浮かべる凪とリビングへ向かい、昨日と同じように脱いだばかりの制服をしまう。
その後、凪の下着姿を忘れようと必死に作ったオムライスは、彼女が目を輝かせて喜んでくれた。
「さてと、それじゃあ帰りますね」
晩飯の後片付けを終え、凪に声を掛ける。
凪の家で勉強をしても許されそうだが、下手をすると夜遅くまで居続けそうなのでやっていない。
彼女は大切な友人だが、世話をする事に関しては割り切りをつけなければ。
ましてやもう夜も遅く、凪も一人でゆっくりしたいだろう。
そう思って帰ろうとしたのだが「待って」という戸惑ったような声が耳に届いた。
「どうしました? もしかして忘れ物とかしてますか?」
「そうじゃなくて、美桜が電話したいって」
「一ノ瀬が? 俺とですか?」
「うん。というか私達と」
凪と美桜が連絡先を交換するのは見ていたし、海斗は美桜の連絡先を持っていないので、凪伝いに連絡されるのは構わない。
しかし、まさか電話とは思わなかった。
おそらく凪も内容を聞いておらず、だからこそ端正な顔から困惑が消えていないのだろう。
「はぁ、分かりました」
どうせ帰っても大した事はしないし、美桜には電話を掛けたい程の大切な用事があるかもしれない。
荷物を床に置いてソファの端に座ると、凪がすぐに詰め寄ってきた。
「電話するんだから、近くに居ないとダメ」
「ハイ」
至極真っ当な理由を述べられては、反論の余地が無くなる。
短く応えて隣から香る甘い匂いを出来る限り意識から外していると、凪のスマホがコール音を鳴らした。
すぐに音は途切れ、溌剌とした声が聞こえてくる。
『こんばんは、凪ちゃん先輩、天音!』
「こんばんは、美桜」
「よ、一ノ瀬。それで、俺達に電話って何の用事だよ」
単刀直入に尋ねれば『よくぞ聞いてくれました!』と元気の良い声が返ってきた。
美桜の自慢気に胸を張る姿が目に浮かぶが、おそらく電話の向こうでは似たような仕草をしているはずだ。
『凪ちゃん先輩、遊びに行きましょう!』
「へ? 私?」
海斗の提案をすぐに実行してくれる美桜に頼もしさを覚え、頬が緩む。
凪はというと、唐突な提案に珍しく間の抜けたような声を漏らした。
様子を窺えば、アイスブルーの瞳は大きく見開かれ、呆けた表情をしている。
『そうですよ! 単にぶらついたり、服とか見たり、甘い物食べたりしましょー!』
「え? で、でも、そんなのよく分からないし、面白い話とか出来ないし……」
『だから私が案内するんです! それに、面白い話をしなきゃならない理由なんて無いですよ!』
「う……。か、海斗……」
凪が縋るように海斗を上目遣いで見つめるが、その顔には嫌悪感は浮かんでいない。むしろ、唇が綻んでいる。
いきなり提案され、しかも自らのみっともない部分を受け入れてくれた事に、脳の処理が追い付いてないのだろう。
美少女二人が歩く姿はさぞ絵になるはずだし、想像するだけで頬が緩む。
「こういう場合は遠慮なく甘えればいいんですよ。楽しんできてください」
『何言ってんのよ。天音も行くの』
「は?」
一番有り得ない事を言われ、先程の凪と同じ呆けた声が出てしまった。
学校でも有名な美少女二人と遊ぶのだ。周囲からの視線が凄まじい事になるだろう。
それを分かっているはずの電話の向こうの少女は、海斗がおかしいとでも言う風に溜息をつく。
『凪ちゃん先輩とだけなら二人で話せばいいでしょうが。何で天音が居る場で提案したと思ってんの?』
「いや、でもな――」
『友人と一緒に居るのに、周囲を気にする必要はない。そうですよね、凪ちゃん先輩?』
「うん。今日みたいに海斗に文句を言う人が居たら、私が相手する」
『それに私も天音と堂々と話せるようになったからね。もう変な心配はしなくて良くなったの』
今まで海斗と美桜は、お互いに迷惑が掛かると思って学校で親しくしなかった。
それが凪の手によって良い方向に改善したのだから、遊ぶのにも遠慮する必要はない。
ましてや海斗がお出掛け中に悪口を叩かれた場合、凪が怒ると言ってくれたのだ。
大切な友人二人にここまで言われたのなら、応えるのが友達というものだろう。
「分かったよ。荷物持ちとしてお供させてもらうさ」
『やっほぅ、言質取った! 凪ちゃん先輩、いっぱい買い物しましょうね。それと今日の件、本当にありがとうございます!』
「ん。買い物、楽しみ。それに学校の件は気にしないで。私がやりたいと思った事をやっただけだから」
「……もしかして、安請け合いしたかもな」
女性の買い物に付き添うのは大変だと清二から教わったので、ある程度は覚悟していた。
しかし美桜の発言からすると、海斗の予想を超える買い物をするかもしれない。
溜息をつきつつも、凪と美桜の仲睦まじい会話に頬を緩ませる海斗だった。




