第43話 憎悪の理由
「……」
教室を移動していつものベンチに座ったのはいいが、凪は弁当に手を付けない。
クラスメイトに怒った時のような冷たい圧はないものの、憤りは落ち着いていないようだ。
「ありがとうございました、凪さん」
「……お礼なんていい。当然の事をしただけ」
少しつんとした声で口にされた言葉に、胸が温かくなる。
拗ねるような態度が愛らしくて頭を撫でて慰めたくなるが、ぐっと堪えて微笑みを向けた。
「それでも嬉しかったですよ。正直、俺が何を言っても駄目だったでしょうから」
彼等が海斗を見下していた以上、何を言っても火に油だっただろう。
実際、割って入っただけで睨まれたのだから。
なので凪が怒ってくれた事には本当に感謝しているし、これ以上海斗が被害を負う事はないはずだ。
そう自らを納得させても、自力で解決出来なかった無力さに胸が痛む。
「……情けない後輩ですみません。結局凪さんに迷惑を掛けてしまいましたね」
「それは違う」
凪の方を向けず、視線を逸らして謝罪すれば、僅かに怒りのこもった凛とした声が否定した。
機嫌を悪くしてしまったかと凪の顔色を窺うと、アイスブルーの瞳が痛い程に真っ直ぐ海斗を見つめている。
「海斗は情けなくないし、私は迷惑だなんて思ってない」
「でも――」
「そもそも、海斗の平穏を乱したのは私。だから海斗は私を頼っていいし、その義務がある」
「義務って……。そこは権利じゃないんですか?」
「だめ。海斗はすぐ我慢するから、ちゃんと頼る」
「……分かりましたよ」
どうやら、海斗が悪意に耐えようとしていた事はバレていたらしい。
負けを認めて苦笑を零せば、小さな唇が山を作る。
「海斗。悪口を受けて、自分はそんな人だって認めちゃ駄目だよ」
「そうは言いますけど、俺が我慢するのが一番穏便に済むでしょう?」
「確かにそうかもしれない。でも、海斗の心に傷が付く」
言い聞かせるように告げられた言葉には、不思議な説得力があった。
形の良い眉を下げ、凪が言葉を続ける。
「私が、そうだったから」
「……もしかして、孤児院の頃ですか?」
凪は両親と上手く関係を築けなかったらしいが、その事を話してくれた際の凪の表情からは悪感情は見えなかった。
義妹に関しては特に聞いていないので分からないが、流石に悪口を言われていないだろう。
となると、残るは孤児院時代しかない。
恐る恐る尋ねると、凪が大きく頷いた。
「うん。本当の親が誰かも分からないか、あるいは親に捨てられた子供達。その中でも、私の髪と目の色は浮いてたの」
「そんなの、凪さんには――」
「責任なんてない、よね。でも、周囲と話が合わず目と髪の色が違う私は、手ごろな虐めがいのある標的だった」
「っ!」
凪とて望んで銀色の髪とアイスブルーの瞳を持っている訳ではない。
海斗はそれらを凪の魅力だと思っているが、幼い子供や心に傷を負った子供にとっては恐怖に映ったのだろう。
ましてや、凪はその頃から頭が良くて周囲に馴染めなかったのだ。
体の良い悪意を向けられる相手と判断されても、おかしくはない。
それでも、自らを傷付けるような言葉を凪に言わせたくなかった。
悔しさに唇を噛んで拳を握り込めば、くすりと小さな笑みが耳に届く。
「気にしてくれてありがとう、海斗。でも、私のはもう過ぎた事だから」
「そんなあっさり言っていいものじゃないでしょう!?」
「いいの。だって、今の私には海斗が居てくれるから」
「……」
今が幸せだと言わんばかりの晴れやかな笑みが眩しくて。
それほどまでに海斗を大切に思っているのだと、態度で示されたのが嬉しくて。
ジンと胸が痺れ、息が詰まる。
固まる海斗へと、凪が慈しむような大人びた笑みを向けた。
「悪口を言われて辛い気持ちは私にも分かる。だから、私を頼って。海斗の日常を変えた責任は、何をしてでも取るから」
「……まあ、監視もつけられちゃいましたしね。遠慮なく頼らせてもらいますよ」
凪がクラスメイトを脅しただけでなく、美桜がこれから海斗の様子を見るのだ。
学校でも有名な美少女二人を敵に回してまで、海斗に悪意を向ける人は居ないだろう。
少なくとも、今回のように男子から絡まれる事は無くなるはずだ。
肩を竦めながら改めて誓えば、凪が大きく頷いた。
「よろしい。まあ監視はどちらかというと海斗のクラスメイトだけど」
「分かってますよ。一ノ瀬に頼るのはちょっと意外でしたけど」
「そう? 海斗以外に頼れるのは美桜だけだし、店であんなに仲良くしてたのにクラスで話さないなんて寂しいかなって、そう思ったから言っただけだけど」
どうやら美桜を頼ったのは、海斗と美桜の学校での接点を作る為だったらしい。
おそらく、美桜もその事を分かっているのだろう。
凄まじい頭の回転ぶりと友人の事を考える優しさに、凪が眩しくて目を細めた。
「…………凪さんは優しいですねぇ」
「そんな事ない。私は私のやりたい事をやっただけ」
緩く首を振る凪の顔には、達成感や使命感というものは見えない。
ただ、顔を戻した凪はへにゃりと申し訳なさそうに眉を下げた。
「そのせいで、海斗がもっと浮いちゃうかもしれないけど」
「そんなの今更ですよ」
凪と親しい男として以前よりも浮いていた海斗が、美桜に気にされて更に浮くだけだ。
その程度の事はとっくに覚悟していると苦笑しながら告げれば、凪もくすりと笑みを零す。
「なら一緒だね。……ん。海斗に話してスッキリした」
「それじゃあ昼飯を食べましょうか」
「うん」
クラスメイトとのひと悶着だったり、海斗と話したせいで昼休みは半分以上が過ぎていた。
気を取り直して、凪と一緒に弁当の包みを開ける。
海斗達の間の空気は、とっくにいつもの穏やかなものになっていた。
「やー。凪ちゃん先輩、凄い剣幕だったねぇ」
凪との昼食を終えて放課後になると、早速美桜が近寄ってきた。
既に凪が大々的に美桜へ頼み事をしたからか、彼女と話していても向けられる男子の嫉妬はそれほど多くない。
また、これまで数回休み時間があったが、海斗は腫れ物を扱うように遠巻きに見られており、誰とも話していなかった。
散々海斗に絡んできた男子グループはというと、居心地悪そうにそそくさと教室から出て行っている。
「嬉しい限りだよ。ホントに凄い人だ」
「だねぇ。あんな風に私も出来たら良かったんだけど……」
「一ノ瀬には一ノ瀬の立場があるんだって言っただろ? 気にすんなって」
海斗と以前から親しくしつつも、凪のように大胆な行動を取れなかった事を悔やんでいるらしい。
可愛らしい顔立ちが曇ったので励ませば、美桜が嬉しそうに目を細めた。
「……ん。さんきゅ」
「それで、俺と凪さんが教室を出た後はどうなったんだ?」
「あー。そりゃあもう酷いもんだったよ。あいつら凪ちゃん先輩を怒らせたってクラスの皆から避けられてた」
「そりゃあそうなるだろうな」
有名な凪をあれほどまでに激怒させたのだ。海斗と同じく、クラスでは浮く立場になったのだろう。
以前から微妙に浮きがちだったので、あまり変わらないかもしれないが。
「特に女子が凄かったね。もう信用ガタ落ち。まあ、元からあんまり信用してなかったけど」
「ご愁傷様ってやつだな。同情はしないけど」
海斗とて我慢しようと思っただけで、絡んできた男子達に負の感情は抱いている。
遠慮なく悪態をつくと、美桜が腰に手を当てて呆れた風な目をした。
「しなくていいよ。むしろ天音は怒って良い立場だと思うんだけど」
「凪さんが怒ってくれたから、それで十分だ」
「ホント、天音は優しいねぇ」
「それは凪さんに言ってくれ。こうして長話出来るのもあの人のお陰なんだしさ」
実際のところ、海斗の胸に怒りは殆ど無い。
美桜は海斗が彼等をあっさり許したように見えているかもしれないが、単に凪が怒ってくれたのが嬉しいだけだ。
とはいえ、例え海斗の為であってもあんなに激昂して欲しくないが。
あれほどまでに優しい人が怒るのは悲し過ぎる。
「そうだね。凪ちゃん先輩には今度お礼しなきゃ」
「それなら今度遊びにでも連れて行ってあげてくれないか? ずっと本を読んでるから心配なんだ」
バイトや勉強、凪のお世話に明け暮れている海斗が言える事ではないが、凪にはもっと遊んで欲しい。
余計なお世話かもしれないが、美桜と一緒なら凪は喜ぶ気がする。
我ながら良い提案だと胸を張るが、呆れた風な溜息が返ってきた。
「それを天音が言う? というか発言がお母さんみたいなんだけど」
「実際、そんな役じゃないか?」
凪が聞けば怒るだろうし失礼なので、流石に彼女の前でこんな事は言えない。
しかし飯に部屋の掃除と、海斗がやっている内容は家族とあまり変わらない気がする。
「…………確かに、そうかも」
顎に手を当てて真剣に考えた末に美桜が呟いた言葉に、肩の力を抜いて笑うのだった。




