第26話 天才
長めになってしまいました。
昨日と同じように凪の家にお邪魔し、まずは部屋の片付け等を軽く行う。
洗濯物は取り込んでくれたようだが、リビングに投げっぱなしなのは凪がいつもそうしているからのはずだ。
なので乾いた洗濯物を畳んで整頓し、その他の片付けも終えてから凪に尋ねる。
「それで、何をするんですか?」
どうやら彼女は本を読んでいるだけではないのを証明したいようだが、詳しい内容は全く知らされていない。
何かするならこれからだろうと思って尋ねれば、凪が腰に手を当てて胸を張る。
「海斗には私の仕事している姿を見て、頑張れば出来る女だって理解してもらう」
「まあ、それくらいならいいですけど」
詳細を聞いてはいけないので海斗の前では仕事しないと思ったが、どうやらその程度は許されているらしい。
そして凪の言う通り、仕事をしている姿を見るだけでもイメージは変わるかもしれない。
頑張れば出来る女、の時点でイメージアップは失敗している気がするが、世の中には言わない方が良い事もあると口を噤んだ。
「でも海斗はジッと見てるのも暇だろうし、時間潰しをして欲しい」
「ああ、それで昨日何か持って来いって言ってたんですね」
「そういう事。集中したいから静かにしてもらいたいってのもあるけどね。何も無いなら本とか貸すけど、どうする?」
「それならテストが近いですし、勉強しますよ」
海斗の高校では十月の半ばから末に掛けてテストが行われる。
赤点を取る訳にはいかないので、集中して勉強するには良い機会だ。
持って来た鞄から勉強道具を取り出し、リビングのローテーブルに広げていく。
そんな海斗の態度が意外だったのか、凪がぱちりと瞬きを繰り返していた。
「海斗、勉強するんだね」
「……バイトに明け暮れてるので勉強しないと思われるのは分かりますが、これでも割と成績は良いんですよ」
バイトと勉強に追われる毎日なので、逆に言うなら海斗にはその二つしかない。
だからこそ清二にずっと心配を掛けているのだが、そう簡単に変えられる環境でもないのだ。
凪のお世話が早く終わって時間が空くようになったものの、睡眠時間や結局バイトに入ったりであまり変わっていないのもあるが。
枯れた高校生活だなと苦笑を零せば、失言だと勘違いしたのか凪の顔に焦りが浮かぶ。
「変な事を言ってごめんなさい」
「言われて当たり前だと思うので、気にしないでください。というか、凪さんは勉強しないんですか?」
友人に勉強するかしないかを尋ねる事くらい普通の事だ。
そんな事で気を遣っていては疲れてしまう。
お返しとばかりに質問すれば、迷いなく頷かれた。
「必要ないからしない」
「必要、ない?」
「うん。だって、高校生の内容は全部覚えてるから」
「…………」
おそらく、凪は天才と言われる部類の人なのだろう。美しい顔立ちは、それが当たり前だという普段通りの無表情で彩られている。
全国模試で好成績を残しているのは噂で知っていたが、まさか今の学年だけでなく、高校生の授業内容を全て覚えているとは思わなかった。
必死に勉強して成績を維持している海斗との違いを見せつけられ、絶句してしまう。
「だから学校の授業は復習でしかなくて、家では勉強してない」
「その代わりに仕事をしてると」
「うん。それを条件に家を出たから」
「……すみません」
凪にとっては仕事が一人暮らしする条件なので、言われても気にしないのは分かっている。
しかし「家を出た」と言わせたい訳ではなかった。それは凪の後悔を沸き上がらせる言葉なのだから。
すぐに頭を下げれば、おかしそうに凪が笑みを零す。
「もう海斗も知ってるんだし、謝る必要なんかない。どうしても気にするなら、お互い様って事で」
先程は海斗が許したのだからお返しだと、そもそも怒ってすらいないという柔らかい声色に肩の力が抜けた。
頬を緩め、勉強の準備を進める。
「なら、それでお願いします。ありがとうございます、凪さん」
「お礼を言われる事なんてしてない。……海斗の真似すると、ちょっとだけ気持ちが分かった」
「俺は恥ずかしいんですが……」
凪が珍しく楽し気な笑みを零しているからというのもあるが、海斗が偶に口にする照れ隠しをそっくりそのまま返され、羞恥がぶわりと沸き上がった。
唇を尖らせて愚痴を零すと、くすくすと軽やかな笑い声が耳に届く。
「頑張って耐えてね」
他人を揶揄うような一面もあるのだなと、意外に思いつつ顔を俯けた。
そして、そんな姿を見せてくれたのは、海斗との距離が縮まったからだろう。
美少女からの揶揄いに心臓が早鐘のように鼓動し、決して悪い気分ではないのを自覚して頬に熱を集めるのだった。
海斗が勉強を、凪が黒いノートパソコンを持ってきて仕事を始め、二時間が経った。
集中力が途切れて彼女の様子を窺えば、凄まじい勢いでタイピングしている。
(こうして見るとホント天才って感じだな)
表情は普段と同じで全く動いていないのに、凪の雰囲気はひりついたものだ。
綺麗に背を伸ばし淀みなく指を動かす姿は、一種の芸術品にも思えてしまう。
家でのんびりと本を読んでいるだけではないと認識を改めれば、視線に気付いたのか凪が顔を上げた。
「私のイメージは変わった?」
「見直しましたよ。出来る女性って感じです」
「ならよし。これで海斗は私を尊敬する」
「……尊敬するかは置いておいて。パソコンだけしか持って来てないですけど、大丈夫なんですか?」
凪が口にした時点で台無しだし、普段の抜けている姿を知っているので、どうにも敬えない。
流石に敬語は外さないものの、凪は手の掛かる妹のようだ。実際には妹など居ないので、想像でしかないが。
話題を逸らして自室の資料は必要ないのかと尋ねると、一瞬の迷いもなく頷きが返ってくる。
「部屋にある資料は参考にしたもの。内容は全部頭に入ってる」
「何と言うか、流石ですね……」
「でも万が一使う時があれば、海斗に持って来てもらうつもり」
「凪さんが取りやすいように仕分けはしたんですが、その方が良さそうですね」
凪の様子からすると、資料が必要に迫られる事は少ないだろう。
改めて頭の良さを思い知らされ、苦笑を浮かべながら引き受けた。
背を伸ばして休憩しようとしたのだが、凪も手を止めているのならと口を開く。
「もし良ければ教えて欲しい所があるんですけど、見てもらえませんか?」
凪には負けるが、海斗とてそれなりに成績は良い。しかし、全ての問題が分かる訳ではない。
一度自分で調べはしたものの、どうしても分からない場所があった。
凪ならば分かるだろうと思ってのお願いだったのだが、彼女がびくりと体を震わせる。
「っ!」
「えっと、どうかしましたか?」
「…………何でもない。どこ?」
先程よりも顔が強張っているだけでなく声が固いので、明らかに何かあるはずだ。
しかし凪は何かを振り払うように勢い良く首を振って、海斗のノートを覗き込む。
凪が見やすいように乗り出して分からない部分を見せると、小さな唇がゆっくりと動いた。
「ここはこうなる」
「え……っと、どうしてそうなるのか、分からないんですが」
「だから、答えはこれなの」
「……」
過程をすっ飛ばして答えを示されても、流石に理解出来ない。
勉強というのは理屈まで含めて分からなければ、きちんと力にならないというのが海斗の信条だ。しかし、凪は違うらしい。
流石に答えのみを覚えるはずがないと思考を巡らせれば、一つの可能性が頭に浮かんだ。
「……もしかして、凪さんって教えるのが苦手ですか?」
「それ、は……」
教えを乞う側の海斗が言うのはあまりにも身の程知らずだと思うが、尋ねずにはいられなかった。
思いきり顔を逸らして唇を噛む様子からして、当たりのようだ。
おそらく凪は頭が良過ぎて、分からない人が『分からない』のだろう。
彼女にとって、海斗が頭を悩ませている問題は解けて当たり前の問題なのだから。
それならば不思議に思うだけで済むのに、思いつめたような顔をしていた。
何かおかしいと、放っておいては駄目だと判断して凪の傍へ行く。
「ここは俺を責める場面でしょう? 『何を偉そうに!』とか言えばいいんですよ」
顔を青くしている凪に冗談交じりに話すと、彼女がようやく海斗を見た。
しかし澄んだ瞳は揺れており、海斗への怒りも笑いも浮かんでいない。
「そんな事、出来ない。やっぱり、おかしいよね……」
「いや、俺はおかしいとは思ってませんし、責めたつもりもなかったんですが、すみません」
頭が良くても教えるのが下手な人は居る。少なくとも、頭が良い人が何もかも説明出来るとは思っていない。
単に気になっただけなのだが、どうやら質問の仕方が悪かったようだ。
凪の勘違いを訂正して深く頭を下げると、きょとんと首を傾げられた。
「どうして海斗が謝るの?」
「そりゃあ余計な事を言っちゃいましたからね」
「でも、私が教えられないのは事実だし……」
「そもそも自分で理解するのが勉強ですし、俺のやった事はズルですよ。凪さんが気にする事はないんです」
楽をしようと思った海斗が責められるのはいい。しかし、凪が自分を責めるのは駄目だ。
覗き込むようにして凪と視線を合わせれば、彼女の顔がくしゃりと歪む。
「…………それで、いい、のかな」
「勿論。だから、分からなかった俺が悪い。そういう事にしてください」
「あり、がとう、海斗」
何かを堪えるように凪が唇を閉じ、その後ようやく苦笑を見せてくれた。
どうして教えられない事をこんなにも気にしているのか分からないが、これで少しは気分が楽になっただろう。
安堵に胸を撫で下ろせば、何かを決意したような表情の凪が口を開く。
「……小学生の頃に学校で同級生に勉強を教えたの」
「あの、俺に話していいんですか?」
「黙ってると気になるだろうし、海斗になら話してもいい」
「……ありがとうございます。でも、無理だけはしないでくださいね」
「ん」
勉強を教えられない事に関して、凪は明らかにトラウマを抱えている。
それは、下手をすると今の両親と仲良く出来なかったのと同等の辛い思い出のはずだ。
話してくれる嬉しさはあるが、それでも話を遮って心配すると、凪が頷いて小さな唇が僅かに綻ぶ。
「海斗には話したと思うけど、私は孤児院時代から周囲と話が合わなかったの」
「それは学校でも、ですよね?」
「うん。でも私の頭が良いのは知られてたから、教えて欲しいってお願いされた」
凪と仲良くなる切っ掛けが欲しかったのか、それとも身近に頭が良い人が偶々居たからお願いしたのかは分からない。
何にせよ、クラスメイトのお願いを凪は引き受けたようだ。
そして先程と同じように、分からない人の事が分からなかった。
海斗の予想通り、凪が形の良い眉をへにゃりと下げる。
「でも全然教えられなくて、クラスメイトに『私が分からないからって馬鹿にしてる』、『教える気がないくせにフリだけするなんて最低』って言われたの」
「そんなのって……」
凪は真面目に、それこそ真摯に教えようとしたはずだ。
なのに上手く教えられず、結果としてクラスメイトが勘違いしてしまった。
教室で凪が浮いていた、というのも原因の一つでもあるだろうし、恐らく小学校低学年頃なので、遠慮のない言葉が出たのかもしれない。
しかし納得など到底出来ず、凪のあまりの酷過ぎる過去に奥歯を嚙み締めた。
「それから、誰かと話すのが前よりも怖くなった。勉強を教えるのも、怖くなったの」
そもそも会話を合せられないのに、頑張った結果暴言を受けたとなれば、人と話したくなくなっても仕方がない。
勉強を教える事に関しても、トラウマになって当然だろう。
むしろ怒ってもいいくらいなのに、凪は瞳を伏せて落ち込み、一切他人が悪いと言わないのだ。
ならば海斗くらいは凪は悪くないと、悔やむ必要はないと支えたい。
「そうなるのも当たり前ですよ。さっきも言いましたが、俺やそのクラスメイトが行ったのはズルなんです。凪さんが気にする必要はありません」
「……やっぱり、海斗に話して良かった。聞いてくれてありがとう、海斗」
胸のつっかえが取れたかのような、晴れやかな笑顔を凪が浮かべた。
おそらく失敗した自らをずっと許せず、後悔し続けていたのだろう。
しかし海斗の疑問が解消されるだけでなく、凪もトラウマを多少でも克服出来たのだ。
本当に良かったと胸を撫で下ろす。
「俺の方こそ、話してくれてありがとうございました。ちょっと休憩しましょう。飲みたい物はありますか?」
「ココア」
「了解です」
暗くはないものの、勉強を再開する雰囲気ではなくなったので、気分転換の為にと立ち上がった。
凪もパソコンを閉じ、思い切り背伸びをする。
思わぬ形で凪の辛い過去を知ってしまったが、それでも仲が深まった気がするのだった。




