決まった名
合同訓練が終わっても、闘技場の熱だけは引かなかった。
円形闘技場(通称コロッセウム)の砂は乾いているのに、あの日の歓声の湿り気が、まだ通路の石に残っている気がした。
ルドゥスへ戻った翌朝、グラシアムは稽古の前にセリスィンを呼び止めた。
いつもより口数が少ない。つまり、面倒が来ている。
「上が決めた」
それだけで、胸の奥が沈んだ。
「次の興行。お前とテオトニクスだ。――一対一」
セリスィンは返事をしなかった。
返事をする前に、頭の中で昨日の三本目が巻き戻る。二対二で、ようやく触れた。呼吸を一拍だけ乱した。そこまでだ。
一対一になれば、言い訳が消える。
相手の巧さも、こちらの“ずれ”も、全部がそのまま勝敗になる。
「……引き分けは、もう無い」
絞り出した声に、グラシアムは頷いた。
「そうだ。上は“分かりやすい勝負”を欲しがる。勢いの若い勝ち馬と、名が上がり始めた剣闘士。――賭けが動く」
賭け。席。金。
剣より先に、そういうものが勝負を決めたがる。
セリスィンは唇を噛んだ。
「勝てと言うのか」
「勝てとは言わん。生きて帰れ。――そして、恥をかくな」
それが、この男の最大の激励だった。
その夜、セリスィンは眠れなかった。
寝台に横になると、目を閉じる前に見えるものがある。
喉元に置かれた木の冷たさ。
砂に落ちかけた自分の剣。
そして、あの男の声――軽いのに、刃みたいに正確な声。
(勝てる気がしない)
そう思った瞬間、身体のどこかが怒った。
怒りは誰に向くでもなく、自分に向いた。
セリスィンは起き上がり、砂地へ出た。
月の明かりだけで、影が長く伸びる。
踏む。止める。戻す。
振る。止める。戻す。
テオトニクスを意識するな、と言われても、意識しないやり方が分からない。
だから、せめて“意識している自分”を殺すように、同じ動きを繰り返した。
振った瞬間、刃先がわずかに外へ流れる。
外へ、外へ――昨日の癖がまだ残っている。
「……くそ」
声が漏れた。砂に吐き捨て、もう一度構える。
肩が上がる。呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、動きを乱す。
乱れた動きの先に、いつも同じ光景が差し込む。
橋の欄干。掴めなかった手。落ちた影。
(また、届かないのか)
その問いが一番怖くて、セリスィンは余計に剣を振った。
速さで誤魔化す。数で押し潰す。――それは昔の勝ち方だ。けれど今夜だけは、それに縋りたかった。
砂を踏む音が乱れ、やがて足が止まる。
腕が重く、指が痺れた。
背後で、寝台の軋む小さな音がした。相部屋のカタルスが起きたのだろう。
彼は砂地までは来なかった。ただ、暗がりから一言だけ投げてきた。
「捨てろ」
セリスィンは振り返らない。
「捨てたら、空になる」
「空にならないと、入らない」
それきり、音は消えた。
セリスィンは剣を握り直した。空にする。入れる。――簡単に言う。
だが、やるしかない。
数日後。昼の稽古が終わり、セリスィンは武具庫の前で革紐を受け取った。
世話役が忙しなく出入りし、紙片を抱えた書記が足早に通り過ぎる。
「おい、セリスィン」
呼ばれて振り向くと、見慣れない世話役がいた。目が泳がない。雑役というより、上の連絡を持つ人間の立ち方だった。
「決まったぞ。次の興行、第三試合の後だ。……相手は言うまでもないな」
紙片の端に、名前が見えた。
TEOTONICUS と、雑に走り書きされた文字。
セリスィンは紙を見つめたまま、答えない。
答えないことが、肯定になった。
「上の席の客が“見たい”と言っている。期待に応えろ。……死ぬなよ」
言い残して男は去った。
“死ぬな”が忠告なのか脅しなのか、区別がつかない言い方だった。
セリスィンは紙片を握り潰しそうになり、力を抜いた。
握れば折れる。折れれば戻らない。――それもまた、今の自分と同じだった。
夕方、ルドゥスの裏手。
人が少ない場所で、セリスィンはまた一人、足を動かしていた。今日は剣を振らない。足だけ。視線だけ。呼吸だけ。
“テオトニクスの影”を捨てるために、影の形を思い出す。
思い出せば思い出すほど、影が濃くなる。
(……馬鹿みたいだ)
そのとき、背後から低い声がした。
「真面目すぎると、刃が曲がるぞ」
振り返ると、男が立っていた。
筋肉はあるのに、見せびらかさない。古傷のある腕。余計な動きのない立ち方。顔は笑っていないが、目がこちらを測っている。
セリスィンは息を止めた。
このルドゥスで、その雰囲気を持つ人間は多くない。
「……バナンテ」
名を呼ぶと、男は軽く顎を上げた。
「俺の名を知ってるなら、話が早い。――次、テオトニクスだって?」
どこまで知っている。誰が漏らした。
セリスィンが答える前に、バナンテは砂を一つ蹴って、言った。
「勝つ絵が浮かばない顔だ。……浮かばないなら、浮かぶまでやるしかない。だが、やり方を間違えると、もっと届かなくなる」
その一言が、胸の奥の傷を正確に撫でた。
セリスィンは、ようやく真正面からバナンテを見た。
この男は、今の自分に何を言いに来たのか。
バナンテは短く続ける。
「今夜、もう一度ここに来い。――見せてやる。お前の足が、どこで勝手に逃げるのかを」
セリスィンは頷かなかった。
けれど、踵が勝手に前へ出そうになった。




