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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
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決まった名

合同訓練が終わっても、闘技場の熱だけは引かなかった。

円形闘技場(通称コロッセウム)の砂は乾いているのに、あの日の歓声の湿り気が、まだ通路の石に残っている気がした。


ルドゥスへ戻った翌朝、グラシアムは稽古の前にセリスィンを呼び止めた。

いつもより口数が少ない。つまり、面倒が来ている。


「上が決めた」


それだけで、胸の奥が沈んだ。


「次の興行。お前とテオトニクスだ。――一対一」


セリスィンは返事をしなかった。

返事をする前に、頭の中で昨日の三本目が巻き戻る。二対二で、ようやく触れた。呼吸を一拍だけ乱した。そこまでだ。


一対一になれば、言い訳が消える。

相手の巧さも、こちらの“ずれ”も、全部がそのまま勝敗になる。


「……引き分けは、もう無い」


絞り出した声に、グラシアムは頷いた。


「そうだ。上は“分かりやすい勝負”を欲しがる。勢いの若い勝ち馬と、名が上がり始めた剣闘士。――賭けが動く」


賭け。席。金。

剣より先に、そういうものが勝負を決めたがる。


セリスィンは唇を噛んだ。


「勝てと言うのか」


「勝てとは言わん。生きて帰れ。――そして、恥をかくな」


それが、この男の最大の激励だった。


その夜、セリスィンは眠れなかった。

寝台に横になると、目を閉じる前に見えるものがある。


喉元に置かれた木の冷たさ。

砂に落ちかけた自分の剣。

そして、あの男の声――軽いのに、刃みたいに正確な声。


(勝てる気がしない)


そう思った瞬間、身体のどこかが怒った。

怒りは誰に向くでもなく、自分に向いた。


セリスィンは起き上がり、砂地へ出た。

月の明かりだけで、影が長く伸びる。


踏む。止める。戻す。

振る。止める。戻す。


テオトニクスを意識するな、と言われても、意識しないやり方が分からない。

だから、せめて“意識している自分”を殺すように、同じ動きを繰り返した。


振った瞬間、刃先がわずかに外へ流れる。

外へ、外へ――昨日の癖がまだ残っている。


「……くそ」


声が漏れた。砂に吐き捨て、もう一度構える。

肩が上がる。呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、動きを乱す。


乱れた動きの先に、いつも同じ光景が差し込む。

橋の欄干。掴めなかった手。落ちた影。


(また、届かないのか)


その問いが一番怖くて、セリスィンは余計に剣を振った。

速さで誤魔化す。数で押し潰す。――それは昔の勝ち方だ。けれど今夜だけは、それに縋りたかった。


砂を踏む音が乱れ、やがて足が止まる。

腕が重く、指が痺れた。


背後で、寝台の軋む小さな音がした。相部屋のカタルスが起きたのだろう。

彼は砂地までは来なかった。ただ、暗がりから一言だけ投げてきた。


「捨てろ」


セリスィンは振り返らない。


「捨てたら、空になる」


「空にならないと、入らない」


それきり、音は消えた。

セリスィンは剣を握り直した。空にする。入れる。――簡単に言う。


だが、やるしかない。


数日後。昼の稽古が終わり、セリスィンは武具庫の前で革紐を受け取った。

世話役が忙しなく出入りし、紙片を抱えた書記が足早に通り過ぎる。


「おい、セリスィン」


呼ばれて振り向くと、見慣れない世話役がいた。目が泳がない。雑役というより、上の連絡を持つ人間の立ち方だった。


「決まったぞ。次の興行、第三試合の後だ。……相手は言うまでもないな」


紙片の端に、名前が見えた。

TEOTONICUS と、雑に走り書きされた文字。


セリスィンは紙を見つめたまま、答えない。

答えないことが、肯定になった。


「上の席の客が“見たい”と言っている。期待に応えろ。……死ぬなよ」


言い残して男は去った。

“死ぬな”が忠告なのか脅しなのか、区別がつかない言い方だった。


セリスィンは紙片を握り潰しそうになり、力を抜いた。

握れば折れる。折れれば戻らない。――それもまた、今の自分と同じだった。


夕方、ルドゥスの裏手。

人が少ない場所で、セリスィンはまた一人、足を動かしていた。今日は剣を振らない。足だけ。視線だけ。呼吸だけ。


“テオトニクスの影”を捨てるために、影の形を思い出す。

思い出せば思い出すほど、影が濃くなる。


(……馬鹿みたいだ)


そのとき、背後から低い声がした。


「真面目すぎると、刃が曲がるぞ」


振り返ると、男が立っていた。

筋肉はあるのに、見せびらかさない。古傷のある腕。余計な動きのない立ち方。顔は笑っていないが、目がこちらを測っている。


セリスィンは息を止めた。

このルドゥスで、その雰囲気を持つ人間は多くない。


「……バナンテ」


名を呼ぶと、男は軽く顎を上げた。


「俺の名を知ってるなら、話が早い。――次、テオトニクスだって?」


どこまで知っている。誰が漏らした。

セリスィンが答える前に、バナンテは砂を一つ蹴って、言った。


「勝つ絵が浮かばない顔だ。……浮かばないなら、浮かぶまでやるしかない。だが、やり方を間違えると、もっと届かなくなる」


その一言が、胸の奥の傷を正確に撫でた。


セリスィンは、ようやく真正面からバナンテを見た。

この男は、今の自分に何を言いに来たのか。


バナンテは短く続ける。


「今夜、もう一度ここに来い。――見せてやる。お前の足が、どこで勝手に逃げるのかを」


セリスィンは頷かなかった。

けれど、踵が勝手に前へ出そうになった。

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