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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟

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見られる砂

朝の点呼が終わるころ、空気に混じる匂いがいつもと違った。

油と汗のほかに、香の甘さがある。布の上等な匂い、金具の磨かれた匂い。


「今日は“見世物”になる」


グラシアムがそう言ったのは昨日だった。

そして今、その言葉どおりの一団が来ていた。世話役に先導され、護衛を伴った男たち。粗末な外套ではない。指輪の数も、姿勢も違う。――上の席に座る連中だ。


砂地ではなく、円形闘技場でやる。

それが今朝の通達だった。


「刃は落としたままだ。だが、動きは本番と同じで見せろ。ふざけるな。勝ち負けより、恥をかくな」


誰に向けた言葉か、言わなくても分かった。

合同訓練の最終日。外のルドゥスも、こちらも、見られている。


セリスィンは列の中で、指を開いて閉じた。

“見られる”こと自体は慣れている。コロッセウムで何度も勝ってきた。歓声も罵声も、背中に浴びた。


だが今日は違う。

観衆の熱ではなく、値踏みの目が来る。


そして、そこに——テオトニクスがいる。


(見るな)


昨日、カタルスに言われた言葉がまだ残っている。

「あいつを見ている自分を捨てろ」。

捨てられないなら、また誰かが傷つく、と。


セリスィンは視線を正面に固定した。固定しすぎて、逆に視野が狭くなる。

それもまた“ずれ”だと気づき、息を吐く。


闘技場の控え通路は、昨日より明るかった。

松明が多い。人の出入りが多い。上等な布が擦れる音が混じり、いつもなら聞こえない小声が増える。


砂へ出る前、最後の組み合わせが発表された。


「二対二。三本。時間は短い。途中で切る。——セリスィン、カタルス」


呼ばれた瞬間、セリスィンの肩がわずかに下がった。

相方がカタルスなら、昨日のように退路を塞いでしまう恐れは減る。あいつは“位置”を見ている。


続いて、対戦相手。


「テオトニクス、マルクス」


昨日セリスィンを押し込んだ外の中堅が、テオトニクスの相方だ。

嫌な組み合わせだと思った。テオトニクスの外しと、マルクスの重さが噛み合えば、こちらは視線を奪われる。


(また、あいつを見てしまう)


セリスィンがそう思ったのを見透かしたように、カタルスが横から低く言った。


「約束しろ」


「何を」


「テオトニクスを見るな、じゃない。——“テオトニクスだけを見るな”だ」


セリスィンは唇を結んだ。正しい。

見ないのは無理だ。敵は見る。だが、敵に視界を奪われたら終わる。


カタルスは淡々と続ける。


「お前が追うのは、相手じゃなく“勝てる位置”だ。位置は一人で作れない。俺の位置も見ろ。俺もお前を見る」


その言葉が、妙に効いた。

“守る”のではなく、“見る”。焦りを正面から抱えたまま、やるしかない。


鉄格子が開く。

砂の上は日が高く、客席の一部だけが影になっている。特等席のあたりに布の天蓋が揺れ、その下で何人かが動かない目をこちらへ向けていた。


声は大きくない。訓練の見世物だからだ。

けれど静けさが、逆に重い。


「始め!」


審判役の合図で、四人が動く。


セリスィンはまず、テオトニクスを視界の端に置いた。端に置いたまま、正面のマルクスを見る。

マルクスは盾で前へ出てくる。重い。だが読みやすい。


(押してくる。押させるな)


セリスィンが踏み込みを作る瞬間、横で風が動いた。

テオトニクスが角度を変えた気配。そちらへ視線が吸われかける。


——吸われるな。


セリスィンは視線を戻さず、代わりに“カタルスの位置”を見た。

カタルスは半歩、セリスィンの外側。テオトニクスのラインに入らない位置を取っている。つまり、テオトニクスは今、セリスィンを狙っている。


(来る)


来るなら、来る前にマルクスを止める。


セリスィンはマルクスの盾の縁を叩かず、足を叩いた。

盾は強い。足は嘘をつかない。踏み込みの瞬間、膝が沈む。その沈みを狙い、足首の上をルーディスで軽く打つ。


マルクスの重さが一瞬だけ崩れた。


同時に、横からテオトニクスの打ち込みが来る。

昨日なら、ここでセリスィンの足が外へ逃げる。外へ逃げた先にマルクスの圧が乗り、終わる。


セリスィンは逃げなかった。

逃げずに、半歩だけ“詰めた”。テオトニクスの刃が最短で来る距離を殺す。


木が鳴る。打ち込みが浅くなる。

痛みは残るが、致命にならない。


その瞬間、カタルスが動いた。

マルクスの横へ入り、盾をずらして“道”を作る。セリスィンはその道へ滑り込み、マルクスに二打、三打。崩したところで審判役が手を上げた。


「一本目、こちら!」


小さなざわめきが客席に走る。

特等席の男の一人が、顎に手を当てて何かを言った。世話役が頷く。


セリスィンの心臓が強く打った。

勝ったのに、胸が熱くなりすぎない。視線がぶれていない証拠だった。


二本目は、逆にやられた。


テオトニクスはセリスィンを“見ない”時間を作った。

見ないのに、効いてくる。カタルスへ圧をかけ、セリスィンの支えを遅らせる。そこへマルクスが重さで押し切る。


カタルスが半歩遅れた瞬間、セリスィンは助けに行きかけて止まった。

止まったのは、テオトニクスの“誘い”が見えたからだ。助けに行けば、背中を取られる。


(……分かってるのに)


カタルスが押され、一本。


客席が「ほう」と小さく鳴った。

テオトニクスが涼しい顔で一礼する。煽らない。場を荒らさない。勝ち方が相変わらず巧い。


三本目。

これが最後。


セリスィンは吸って、吐いた。視線をテオトニクスに固定しない。マルクスに固定もしない。カタルスの位置、相手二人の足の向き、砂の沈み——全部を薄く見る。


テオトニクスが動く。

今度はセリスィンへ真っ直ぐ来た。外さず、真正面から。


(……来い)


セリスィンは踏み込みを捨てない。逃げも借り物も捨てる。

テオトニクスの最初の打ち込みを受け、同時に半歩だけ角度を変える。外へ逃げない角度。自分の芯を残したままの角度。


木が鳴り、腕が痺れる。

だが立てる。


そこへマルクスが押し込んでくる。

カタルスがマルクスのラインを切りに動くのが見えた。なら、セリスィンはテオトニクスだけに集中できる——はずだった。


違う。集中しない。集中は視野を狭める。

セリスィンは“薄く広く”のまま、テオトニクスの肩の上がり方を見る。呼吸の深さ。踏み込みの癖。


一瞬、テオトニクスの呼吸が変わった。

こちらの踏み込みが、相手の手順を一拍だけ狂わせた合図。


セリスィンはその一拍を逃さず、剣ではなく肩で入った。

距離を殺す。刃が振れない位置。そこで手首を打つ。


——当たった。


テオトニクスのルーディスが、砂に落ちたわけではない。だが角度が崩れ、勝負が止まる。審判役がすぐ切った。


「そこまで! 三本目、引き分け!」


結果は引き分け。だが、客席の空気が変わった。

引き分けの空気ではない。“名前のない側が、名のある側に触れた”空気だ。


テオトニクスは落ちた視線を上げ、初めてはっきり笑った。


「……今の、ええやん」


褒め言葉なのに、軽くない。

セリスィンは返事をしなかった。返せなかった。胸の奥が痛んで、息が少しだけ乱れた。


カタルスが横で小さく言う。


「捨てたな」


セリスィンは目を伏せたまま、短く答えた。


「……少しだけ」


控えへ戻る途中、世話役がグラシアムに耳打ちした。

グラシアムは頷き、こちらへ視線を投げる。


「セリスィン」


呼ばれた声が、いつもより低い。


「上が、お前の名を聞きたがっている。……次の興行で、もう一度“見たい”そうだ」


セリスィンの胃が沈んだ。

名を知られるのは、良いことばかりではない。だが、逃げ場はもうない。


通路の向こうで、テオトニクスも同じように呼び止められていた。

彼は世話役に何か返し、軽く頭を下げる。いつも通りの身のこなし。


ただ、去り際に一度だけ、セリスィンの方を見た。

“次がある”という目だった。


合同訓練は終わった。

だが、終わったのは稽古だけだ。


コロッセウムの砂は、これからもっと重くなる。

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