見られる砂
朝の点呼が終わるころ、空気に混じる匂いがいつもと違った。
油と汗のほかに、香の甘さがある。布の上等な匂い、金具の磨かれた匂い。
「今日は“見世物”になる」
グラシアムがそう言ったのは昨日だった。
そして今、その言葉どおりの一団が来ていた。世話役に先導され、護衛を伴った男たち。粗末な外套ではない。指輪の数も、姿勢も違う。――上の席に座る連中だ。
砂地ではなく、円形闘技場でやる。
それが今朝の通達だった。
「刃は落としたままだ。だが、動きは本番と同じで見せろ。ふざけるな。勝ち負けより、恥をかくな」
誰に向けた言葉か、言わなくても分かった。
合同訓練の最終日。外のルドゥスも、こちらも、見られている。
セリスィンは列の中で、指を開いて閉じた。
“見られる”こと自体は慣れている。コロッセウムで何度も勝ってきた。歓声も罵声も、背中に浴びた。
だが今日は違う。
観衆の熱ではなく、値踏みの目が来る。
そして、そこに——テオトニクスがいる。
(見るな)
昨日、カタルスに言われた言葉がまだ残っている。
「あいつを見ている自分を捨てろ」。
捨てられないなら、また誰かが傷つく、と。
セリスィンは視線を正面に固定した。固定しすぎて、逆に視野が狭くなる。
それもまた“ずれ”だと気づき、息を吐く。
闘技場の控え通路は、昨日より明るかった。
松明が多い。人の出入りが多い。上等な布が擦れる音が混じり、いつもなら聞こえない小声が増える。
砂へ出る前、最後の組み合わせが発表された。
「二対二。三本。時間は短い。途中で切る。——セリスィン、カタルス」
呼ばれた瞬間、セリスィンの肩がわずかに下がった。
相方がカタルスなら、昨日のように退路を塞いでしまう恐れは減る。あいつは“位置”を見ている。
続いて、対戦相手。
「テオトニクス、マルクス」
昨日セリスィンを押し込んだ外の中堅が、テオトニクスの相方だ。
嫌な組み合わせだと思った。テオトニクスの外しと、マルクスの重さが噛み合えば、こちらは視線を奪われる。
(また、あいつを見てしまう)
セリスィンがそう思ったのを見透かしたように、カタルスが横から低く言った。
「約束しろ」
「何を」
「テオトニクスを見るな、じゃない。——“テオトニクスだけを見るな”だ」
セリスィンは唇を結んだ。正しい。
見ないのは無理だ。敵は見る。だが、敵に視界を奪われたら終わる。
カタルスは淡々と続ける。
「お前が追うのは、相手じゃなく“勝てる位置”だ。位置は一人で作れない。俺の位置も見ろ。俺もお前を見る」
その言葉が、妙に効いた。
“守る”のではなく、“見る”。焦りを正面から抱えたまま、やるしかない。
鉄格子が開く。
砂の上は日が高く、客席の一部だけが影になっている。特等席のあたりに布の天蓋が揺れ、その下で何人かが動かない目をこちらへ向けていた。
声は大きくない。訓練の見世物だからだ。
けれど静けさが、逆に重い。
「始め!」
審判役の合図で、四人が動く。
セリスィンはまず、テオトニクスを視界の端に置いた。端に置いたまま、正面のマルクスを見る。
マルクスは盾で前へ出てくる。重い。だが読みやすい。
(押してくる。押させるな)
セリスィンが踏み込みを作る瞬間、横で風が動いた。
テオトニクスが角度を変えた気配。そちらへ視線が吸われかける。
——吸われるな。
セリスィンは視線を戻さず、代わりに“カタルスの位置”を見た。
カタルスは半歩、セリスィンの外側。テオトニクスのラインに入らない位置を取っている。つまり、テオトニクスは今、セリスィンを狙っている。
(来る)
来るなら、来る前にマルクスを止める。
セリスィンはマルクスの盾の縁を叩かず、足を叩いた。
盾は強い。足は嘘をつかない。踏み込みの瞬間、膝が沈む。その沈みを狙い、足首の上をルーディスで軽く打つ。
マルクスの重さが一瞬だけ崩れた。
同時に、横からテオトニクスの打ち込みが来る。
昨日なら、ここでセリスィンの足が外へ逃げる。外へ逃げた先にマルクスの圧が乗り、終わる。
セリスィンは逃げなかった。
逃げずに、半歩だけ“詰めた”。テオトニクスの刃が最短で来る距離を殺す。
木が鳴る。打ち込みが浅くなる。
痛みは残るが、致命にならない。
その瞬間、カタルスが動いた。
マルクスの横へ入り、盾をずらして“道”を作る。セリスィンはその道へ滑り込み、マルクスに二打、三打。崩したところで審判役が手を上げた。
「一本目、こちら!」
小さなざわめきが客席に走る。
特等席の男の一人が、顎に手を当てて何かを言った。世話役が頷く。
セリスィンの心臓が強く打った。
勝ったのに、胸が熱くなりすぎない。視線がぶれていない証拠だった。
二本目は、逆にやられた。
テオトニクスはセリスィンを“見ない”時間を作った。
見ないのに、効いてくる。カタルスへ圧をかけ、セリスィンの支えを遅らせる。そこへマルクスが重さで押し切る。
カタルスが半歩遅れた瞬間、セリスィンは助けに行きかけて止まった。
止まったのは、テオトニクスの“誘い”が見えたからだ。助けに行けば、背中を取られる。
(……分かってるのに)
カタルスが押され、一本。
客席が「ほう」と小さく鳴った。
テオトニクスが涼しい顔で一礼する。煽らない。場を荒らさない。勝ち方が相変わらず巧い。
三本目。
これが最後。
セリスィンは吸って、吐いた。視線をテオトニクスに固定しない。マルクスに固定もしない。カタルスの位置、相手二人の足の向き、砂の沈み——全部を薄く見る。
テオトニクスが動く。
今度はセリスィンへ真っ直ぐ来た。外さず、真正面から。
(……来い)
セリスィンは踏み込みを捨てない。逃げも借り物も捨てる。
テオトニクスの最初の打ち込みを受け、同時に半歩だけ角度を変える。外へ逃げない角度。自分の芯を残したままの角度。
木が鳴り、腕が痺れる。
だが立てる。
そこへマルクスが押し込んでくる。
カタルスがマルクスのラインを切りに動くのが見えた。なら、セリスィンはテオトニクスだけに集中できる——はずだった。
違う。集中しない。集中は視野を狭める。
セリスィンは“薄く広く”のまま、テオトニクスの肩の上がり方を見る。呼吸の深さ。踏み込みの癖。
一瞬、テオトニクスの呼吸が変わった。
こちらの踏み込みが、相手の手順を一拍だけ狂わせた合図。
セリスィンはその一拍を逃さず、剣ではなく肩で入った。
距離を殺す。刃が振れない位置。そこで手首を打つ。
——当たった。
テオトニクスのルーディスが、砂に落ちたわけではない。だが角度が崩れ、勝負が止まる。審判役がすぐ切った。
「そこまで! 三本目、引き分け!」
結果は引き分け。だが、客席の空気が変わった。
引き分けの空気ではない。“名前のない側が、名のある側に触れた”空気だ。
テオトニクスは落ちた視線を上げ、初めてはっきり笑った。
「……今の、ええやん」
褒め言葉なのに、軽くない。
セリスィンは返事をしなかった。返せなかった。胸の奥が痛んで、息が少しだけ乱れた。
カタルスが横で小さく言う。
「捨てたな」
セリスィンは目を伏せたまま、短く答えた。
「……少しだけ」
控えへ戻る途中、世話役がグラシアムに耳打ちした。
グラシアムは頷き、こちらへ視線を投げる。
「セリスィン」
呼ばれた声が、いつもより低い。
「上が、お前の名を聞きたがっている。……次の興行で、もう一度“見たい”そうだ」
セリスィンの胃が沈んだ。
名を知られるのは、良いことばかりではない。だが、逃げ場はもうない。
通路の向こうで、テオトニクスも同じように呼び止められていた。
彼は世話役に何か返し、軽く頭を下げる。いつも通りの身のこなし。
ただ、去り際に一度だけ、セリスィンの方を見た。
“次がある”という目だった。
合同訓練は終わった。
だが、終わったのは稽古だけだ。
コロッセウムの砂は、これからもっと重くなる。




