捨てきれない視線
勝負が切られたあとも、喉元に残った“木の冷たさ”は消えなかった。
セリスィンは控えの水桶で顔を洗い、頬の浅い傷を指でなぞる。血はもう止まっている。だが、気配だけが残る。――自分の動きが、途中で他人の影を踏んだ気配。
背後では、外のルドゥスの連中がまだ騒いでいた。
「やっぱりテオは別格だ」
「次は誰に当てる?」
「こっちの剣闘士も悪くなかったぞ、最後入ってきたし」
名前を呼ばれたのはテオトニクスだけだ。
セリスィンの胸の奥で、薄い苛立ちが灰みたいに積もる。
(……分かってる。だから余計に)
砂地へ戻り、足だけを動かす。踏む、止める、戻す。
自分の線を作るための反復。だが、視界の端にテオトニクスが入るたび、足がわずかに“外”へ逃げる。
逃げるな。逃げるな。
そう言い聞かせた瞬間に、もう逃げている。
テオトニクスは、違う輪の中心にいた。
笑っている。誰かの肩を軽く叩いている。外の教官と短く言葉を交わし、こちらの世話役にも礼を返している。戦う剣の速さと同じくらい、人の間を渡るのが速い。
セリスィンはそれを見てしまって、視線を切れなくなった。
「……お前、目が忙しいな」
カタルスの声が背中に落ちた。
振り向くと、彼はいつも通り淡々としている。水袋を一つ、投げてよこした。
「飲め。喉が渇いてると、余計なものがでかく見える」
セリスィンは水を飲み、口元を拭った。
「余計なもの?」
カタルスは目だけで、テオトニクスの輪を示す。
「“ああなりたい”っていう欲だ。欲は悪くない。だが、お前は今それに引っ張られて、足がずれてる」
セリスィンは言い返そうとして、やめた。図星だったからだ。
胸の内がざらつくのは、負けたからだけじゃない。負け方が、自分の嫌な部分を暴いた。
そのとき、輪がほどけた。
テオトニクスが一人、こちらへ歩いてくる。歩幅は小さいのに、空気を連れてくる。周囲が自然に道を空ける。
セリスィンは反射で構えそうになり、拳を開いた。
今ここは砂地だ。次の組が始まる。戦う場所ではない。
テオトニクスはセリスィンの手元――剣ではなく足元を見て、短く笑った。
「さっきから、足が“外へ外へ”行ってる」
セリスィンは黙ったまま視線を上げる。
テオトニクスは軽い調子を崩さず、けれど言葉だけは芯に置いた。
「外に出るのはええ。けど、外に出るために自分の踏み込み捨てたら、ただの逃げになる。逃げは、相手の得意や」
助言なのか、釘なのか。
どちらでもいい。セリスィンの胸には刺さった。
「……お前に教わるつもりはない」
言い方が硬くなる。硬い自分が戻ってくる。
テオトニクスは気にした様子もなく肩をすくめた。
「せやな。教える側の人間でもないし。——ただ、もったいないなと思っただけや」
そう言って踵を返す。引き際が早い。
その背中を追ってしまいそうになって、セリスィンは目を閉じた。
(追うな)
(追うなら、相手じゃなく、自分の足だ)
午後、合同訓練の内容が変わった。
単発の手合わせではなく、二対二の組み稽古。狙いは「一人の癖が、仲間を殺す」ことを体に刻むためだ。
グラシアムが告げる。
「相手だけを見るな。味方の位置も見ろ。勝とうとして、味方を死なせるな」
組み合わせが読まれる。
セリスィンの相方は、こちらの若手。動きは素直だが経験が浅い。
向かいに立った二人のうち、一人がテオトニクスだった。
もう一人は外のルドゥスの中堅で、盾の運びがうまい。
(まただ)
胸の奥が、勝手に熱を持つ。
テオトニクスを見たい、測りたい、追いつきたい。そういう欲が、呼吸より先に出る。
審判役の合図。
「――始め!」
二対二は視界が散る。
セリスィンは本来、狭い場所での押し込みが得意だ。だが目が勝手にテオトニクスを探し、足が外へ逃げる。
外へ出た瞬間、相方が前に出る。
セリスィンが支えるはずの線が空く。
「後ろ!」
カタルスの声が飛ぶ。
遅れて気づく。外の中堅が回り込み、相方の横腹へ打ち込みに入っている。
セリスィンは慌てて戻ろうとして、戻り方を間違えた。
自分の足が相方の退路を塞いだ。
鈍い音。相方がよろけ、肩を押さえる。
致命傷ではない。だが、あの一撃が刃なら――終わっていた。
「止め!」
合図が落ち、砂地が静まる。
セリスィンの背中を汗が流れた。寒気が混じった汗だ。
テオトニクスは一度も声を荒げず、ただ相方の様子を見ていた。
そしてセリスィンへ目を向ける。
責めない。笑わない。
ただ、事実だけがある目。
その目に、セリスィンの胃の底が沈む。
(また、届かなかった)
橋の欄干が一瞬よぎり、セリスィンは拳を強く握った。
今のは“強さ”の問題じゃない。視線の問題だ。欲の問題だ。自分が自分を裏切った。
グラシアムが淡々と言う。
「明日も合同だ。最後に、見世物になる」
世話役が頷き、付け足した。
「上の席の客が来る。お前たちを“見たい”そうだ。――組みは明日の朝発表する」
砂地の空気が、また一段、重くなる。
セリスィンは相方に詫びる言葉を探したが、喉に引っかかって出なかった。
代わりに、カタルスの声が背中に落ちる。
「言っただろ。得るには捨てろ」
セリスィンは目を伏せた。
「……何を捨てればいい」
カタルスは少しだけ間を置き、答えを置いた。
「“あいつを見ている自分”だ。捨てられないなら、明日また誰かが傷つく」
夕暮れの砂が、赤く見えた。
セリスィンはその色を見ながら、明日の朝に発表される“組み”を思った。
テオトニクスと、また当たるのか。
あるいは、別の形で試されるのか。
どちらにせよ――もう逃げ道はない。




