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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第4章 穿つ剣戟
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捨てきれない視線

勝負が切られたあとも、喉元に残った“木の冷たさ”は消えなかった。

セリスィンは控えの水桶で顔を洗い、頬の浅い傷を指でなぞる。血はもう止まっている。だが、気配だけが残る。――自分の動きが、途中で他人の影を踏んだ気配。


背後では、外のルドゥスの連中がまだ騒いでいた。


「やっぱりテオは別格だ」

「次は誰に当てる?」

「こっちの剣闘士も悪くなかったぞ、最後入ってきたし」


名前を呼ばれたのはテオトニクスだけだ。

セリスィンの胸の奥で、薄い苛立ちが灰みたいに積もる。


(……分かってる。だから余計に)


砂地へ戻り、足だけを動かす。踏む、止める、戻す。

自分の線を作るための反復。だが、視界の端にテオトニクスが入るたび、足がわずかに“外”へ逃げる。


逃げるな。逃げるな。

そう言い聞かせた瞬間に、もう逃げている。


テオトニクスは、違う輪の中心にいた。

笑っている。誰かの肩を軽く叩いている。外の教官と短く言葉を交わし、こちらの世話役にも礼を返している。戦う剣の速さと同じくらい、人の間を渡るのが速い。


セリスィンはそれを見てしまって、視線を切れなくなった。


「……お前、目が忙しいな」


カタルスの声が背中に落ちた。

振り向くと、彼はいつも通り淡々としている。水袋を一つ、投げてよこした。


「飲め。喉が渇いてると、余計なものがでかく見える」


セリスィンは水を飲み、口元を拭った。


「余計なもの?」


カタルスは目だけで、テオトニクスの輪を示す。


「“ああなりたい”っていう欲だ。欲は悪くない。だが、お前は今それに引っ張られて、足がずれてる」


セリスィンは言い返そうとして、やめた。図星だったからだ。

胸の内がざらつくのは、負けたからだけじゃない。負け方が、自分の嫌な部分を暴いた。


そのとき、輪がほどけた。

テオトニクスが一人、こちらへ歩いてくる。歩幅は小さいのに、空気を連れてくる。周囲が自然に道を空ける。


セリスィンは反射で構えそうになり、拳を開いた。

今ここは砂地だ。次の組が始まる。戦う場所ではない。


テオトニクスはセリスィンの手元――剣ではなく足元を見て、短く笑った。


「さっきから、足が“外へ外へ”行ってる」


セリスィンは黙ったまま視線を上げる。


テオトニクスは軽い調子を崩さず、けれど言葉だけは芯に置いた。


「外に出るのはええ。けど、外に出るために自分の踏み込み捨てたら、ただの逃げになる。逃げは、相手の得意や」


助言なのか、釘なのか。

どちらでもいい。セリスィンの胸には刺さった。


「……お前に教わるつもりはない」


言い方が硬くなる。硬い自分が戻ってくる。


テオトニクスは気にした様子もなく肩をすくめた。


「せやな。教える側の人間でもないし。——ただ、もったいないなと思っただけや」


そう言って踵を返す。引き際が早い。

その背中を追ってしまいそうになって、セリスィンは目を閉じた。


(追うな)


(追うなら、相手じゃなく、自分の足だ)


午後、合同訓練の内容が変わった。

単発の手合わせではなく、二対二の組み稽古。狙いは「一人の癖が、仲間を殺す」ことを体に刻むためだ。


グラシアムが告げる。


「相手だけを見るな。味方の位置も見ろ。勝とうとして、味方を死なせるな」


組み合わせが読まれる。

セリスィンの相方は、こちらの若手。動きは素直だが経験が浅い。


向かいに立った二人のうち、一人がテオトニクスだった。

もう一人は外のルドゥスの中堅で、盾の運びがうまい。


(まただ)


胸の奥が、勝手に熱を持つ。

テオトニクスを見たい、測りたい、追いつきたい。そういう欲が、呼吸より先に出る。


審判役の合図。


「――始め!」


二対二は視界が散る。

セリスィンは本来、狭い場所での押し込みが得意だ。だが目が勝手にテオトニクスを探し、足が外へ逃げる。


外へ出た瞬間、相方が前に出る。

セリスィンが支えるはずの線が空く。


「後ろ!」


カタルスの声が飛ぶ。

遅れて気づく。外の中堅が回り込み、相方の横腹へ打ち込みに入っている。


セリスィンは慌てて戻ろうとして、戻り方を間違えた。

自分の足が相方の退路を塞いだ。


鈍い音。相方がよろけ、肩を押さえる。

致命傷ではない。だが、あの一撃が刃なら――終わっていた。


「止め!」


合図が落ち、砂地が静まる。

セリスィンの背中を汗が流れた。寒気が混じった汗だ。


テオトニクスは一度も声を荒げず、ただ相方の様子を見ていた。

そしてセリスィンへ目を向ける。


責めない。笑わない。

ただ、事実だけがある目。


その目に、セリスィンの胃の底が沈む。


(また、届かなかった)


橋の欄干が一瞬よぎり、セリスィンは拳を強く握った。

今のは“強さ”の問題じゃない。視線の問題だ。欲の問題だ。自分が自分を裏切った。


グラシアムが淡々と言う。


「明日も合同だ。最後に、見世物になる」


世話役が頷き、付け足した。


「上の席の客が来る。お前たちを“見たい”そうだ。――組みは明日の朝発表する」


砂地の空気が、また一段、重くなる。

セリスィンは相方に詫びる言葉を探したが、喉に引っかかって出なかった。


代わりに、カタルスの声が背中に落ちる。


「言っただろ。得るには捨てろ」


セリスィンは目を伏せた。


「……何を捨てればいい」


カタルスは少しだけ間を置き、答えを置いた。


「“あいつを見ている自分”だ。捨てられないなら、明日また誰かが傷つく」


夕暮れの砂が、赤く見えた。

セリスィンはその色を見ながら、明日の朝に発表される“組み”を思った。


テオトニクスと、また当たるのか。

あるいは、別の形で試されるのか。


どちらにせよ――もう逃げ道はない。

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