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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第22章 カエサルの過去 ~青年期Ⅳ~

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留守の家

朝の仕事は、戸が開く前に半分終わっていなければならない。

そうでなければ、開いた戸から入ってくるのは客ではなく、乱れだとアウレリアは言っていた。

まだ空の色が薄く、庭の石が夜の冷たさを残しているうちに、女たちはもう手を動かしている。

水瓶の残りを見て、火を起こし、前日の布を畳み、台所へ渡す豆の量を決める。

灯りの油は昨日のうちに量ってある。

今日どこまで減らしてよいかも、もう決まっている。


ユリウス家の家は静かだった。

静かであることを保つために、どれだけ多くの音が朝のうちに処理されているかは、外から来る者には見えない。

中庭の片隅では乳母が小声で子をあやし、戸口では下働きの娘が砂を掃き、帳場では前日の出入りを刻んだ蝋板がまだ柔らかい傷を残している。

男主人の声はない。

それでも家は止まっていない。

止まらせない者たちがいるからだった。


アウレリアは、まだ日が差し込まぬ帳場で蝋板を見ていた。

削って平らにした面へ、前日また刻み直した数字と名が並んでいる。

油、麦、豆、塩。

洗濯に出した布。

返した贈り物。

受け取ってよいものと、戸口で礼だけ述べて戻させたもの。

彼女は細い鉄筆の先で一つずつを追い、必要なら記憶で補い、不要ならその場で消させた。

迷うような顔はしない。

迷いは女主人の手の中で止めるもので、家人の目に触れさせるものではない。


「昨日の油は、少し残りました」


脇に控えた女奴隷が言うと、アウレリアは頷いただけだった。


「残るのはよいことです。だが、残した顔を見せてはいけません。客前の灯りは細くしすぎないように」


「はい」


短い返事で十分だった。

家は長い言葉で回らない。

誰が何をどこまで知れば足りるか、その線を引ける者がいるから回る。


そのとき、中庭のほうから、幼い泣き声が一度だけ上がって、すぐに止んだ。

乳母のあやす声に続いて、もっと柔らかい声がする。

コルネリアだった。


アウレリアは蝋板から目を上げなかったが、耳はそちらへ向いていた。

若い女の声で子をなだめるとき、少し高くなる。

それが無理に明るく作ったものか、本当に子が可愛いから出るものかは、年長の女にはすぐに分かる。

コルネリアの声には、どちらも混じっていた。

子は可愛い。

だが、家の者たちに不安を見せぬための明るさもいる。

そういう年になってしまったのだと、アウレリアは思った。


少ししてコルネリアが入ってきた。

肩に薄い布を掛け、髪は急いでまとめたままだった。

腕の中のユリアは、まだ寝起きの熱を頬に残していて、母の衣を握っている。

父の顔を知らぬ手だった。

あるいは、知っていても覚えてはいない手だった。


「起きてしまいました」


「子は起きます」


アウレリアはそう言って、ようやく顔を上げた。

ユリアの目はまだ半分しか開いていない。

それでも部屋の中に人が二人三人といるのを見て、泣かなかった。

よい子だ、と言うのは簡単だが、家が静かなときほど子は大人の気配を拾う。

泣かないのは賢いからか、周りがそうさせているからか、どちらとも言えない。


コルネリアはユリアを抱いたまま、帳場の端に置かれた小卓を見た。

そこには今日返事をする相手の名が二つ、刻んである。

親類筋が一つ。

古くから出入りのある家が一つ。

どちらも、いまのユリウス家に近づきすぎても、遠ざかりすぎても損をする相手だった。


「先に、カルプルニウス家への返事を書かせますか」


「ええ。だが贈り物への礼は厚く、次の約束は薄く」


アウレリアの言葉に、コルネリアはすぐに頷いた。

若いが、もうこういう言い回しに説明はいらない。

礼は尽くす。

だが、こちらから近づいた形は作らない。

来る者を拒まず、頼る姿も見せない。

そのほど合いを、いまの家は毎日測り直さねばならなかった。


ユリアが小さく身じろぎした。

コルネリアは片腕で抱き直し、空いた手で卓の上の布を引いた。

木の小卓の角が少し傷んでいる。

去年なら替えたかもしれない傷だった。

いまはまだ替えない。

使えるものは使う。

その倹しさをみすぼらしく見せぬことが、家を守る技術だった。


「昨夜、門の外にしばらく足が止まりました」


コルネリアが何気ない調子で言った。


「誰のものかは」


「分かりません。叩きはしませんでした。見張りには黙っておくよう言いました。口にした途端に、それらしい話になるので」


アウレリアは、そこで初めて口の端をわずかに動かした。

笑いに近いが、笑いではない。


「よい判断です。叩かれなかった戸は、まだこちらの戸です」


戸口を叩く足は、招きにも脅しにもなる。

この時節、叩かれないことにも意味がある。

相手がまだ測っているということだ。

測っているうちは、崩れていない家に見せておけばよい。


中庭の向こうから、明るめの足音が近づいてきた。

先に入ってきたのはマイオスで、その後ろからミノルが顔を覗かせる。

姉は外へ出るときの顔をもう持っている女で、妹は家の内側の空気を読むのがうまい年頃だった。


「母上、おはようございます。戸口のところでヴォルムニアの女奴隷に会いました。用向きは贈り物の返礼の催促ではなく、様子見です」


マイオスは肩の布を直しながら言った。

言葉が少し早い。

外で何か拾ってきたときの調子だ。


「中身は」


「香油の瓶を一つ。高いものではありません。ただ、瓶が新しいです。あの家はわざわざ新しい瓶でよこしました。中身より見た目を見てほしいのでしょう」


「では受けずに返しなさい。礼は厚く。瓶を褒めて、中身には触れなくてよい」


「分かりました」


マイオスはすぐに覚えた。

贈り物には中身だけでなく、器の意図がある。

高価さを誇るのか、気軽さを装うのか、古い縁を示すのか。

その読み違いは金より高くつく。


ミノルはそのあいだ、コルネリアの膝に寄ってユリアを見ていた。

ユリアもまた、この叔母の顔は好きらしい。

小さな手を伸ばして、ミノルの指に触れる。

ミノルはすぐには抱こうとしない。

相手が欲しがるのを待つ。

そういうところが、まだ若いのに妙にうまい。


「今日は機嫌がいいね」


小声で言うと、ユリアは答えの代わりに指を握った。

ミノルが笑う。

その笑いで、部屋の空気がわずかに緩んだ。

家にはこういう役もいる。

張りつめた糸を切らずに、少しだけ緩める役だ。


「乳母は?」とアウレリアが聞く。


「洗い物を見に行きました。布を一枚、干し損ねたって」


「干し損ねた布は日で取り返せます。言葉で取り返せない失敗をしないように、と伝えなさい」


「うん」


ミノルは頷いて、それでもすぐには動かなかった。

ユリアがまだ指を離さないからだ。

アウレリアはそれを咎めない。

急がせるべき仕事と、少し待ってもよいものの区別が、この家にはあった。


外では、通りを行く荷車の音がようやく増え始めていた。

町が起きると、噂も起きる。

誰がどこへ出入りした。

どの家が誰に贈り物をした。

どの戸口の前に何刻、足が止まった。

そういう細かい話が、いまのローマでは人の運を少しずつ削る。

だから先に家を整える。

朝のうちに乱れを潰す。

乱れた家からは、よくない匂いが外へ出るからだ。


コルネリアはユリアを抱いたまま、低い声で言った。


「昨日、父の家から人が来ました。露骨なことは言いませんでしたけれど、まだ遅くない、と」


部屋の空気が一度だけ止まった。

マイオスは目を伏せ、ミノルは意味を半分しか分からぬまま姉たちの顔を見た。

アウレリアだけが、蝋板の上に置いた指を動かさなかった。


「まだその言い方をするのですね」


「ええ。もうずいぶん前に、答えは同じだと伝えたのですけれど」


まだ遅くない。

つまり、まだ引き返せる。

まだ夫と運命を分けなくてよい。

まだ子を抱いて別の家の庇護に入れる。

そういう意味を、婉曲に、家族の顔をして言ってくる。

悪意ばかりではない。

心配もあるのだろう。

だが、心配と屈服は似た顔をして来ることがある。


「何と返しました」


「何も変わっていません、とだけ」


コルネリアの声は静かだった。

若い女の静けさは、ときに年長の女のそれより痛い。

強がりが混じるからだ。

けれどアウレリアは、その混じり物ごと認めるように頷いた。


「それでよろしい。長い返事は相手に考える余地を与えます。短い返事は、こちらがもう考え終えていると伝えます」


マイオスがそこで口を開いた。


「外では、もう少し違う言い方もあります。戻れないのではなく、戻らないのだと。兄上は」


兄上、という言い方にコルネリアのまつげがわずかに動いた。

夫としてではなく、家の子として呼ばれる名だ。

家の女たちが共有する、ひとりの若者の呼び方だった。


「言わせておきなさい」とアウレリアは言った。

「外の口は、こちらが塞がなくても飽きれば次を噛みます。問題は、家の中の口です。うちの者が自分の言葉で家を下げないこと。それだけ見ていればよい」


誰もすぐには答えなかった。

そのかわり、ユリアが小さく声を上げた。

眠気が完全に抜けて、腹が空いてきたのだろう。

コルネリアが頬を寄せ、静かに揺らす。

子は母の胸もとで少し身をよじり、泣く前の息をした。

ミノルがさっと乳母を呼びに走る。

軽い足音が石に散って、すぐ戻ってくる。


その短いあわただしさの中で、家はむしろ家らしく見えた。

蝋板があり、返事の文言があり、戸口を測る目があり、そして子の腹の空き具合がある。

政争も追放も、その外側で起きている。

だがその外の大きさに押し潰されないために、内側の小さなことをこぼさず回している。

アウレリアはそれを誰よりよく知っていた。


乳母にユリアを渡したあと、コルネリアはやっと両手を空けた。

手首に薄く赤い跡が残っている。

子を抱いていた重みの跡だ。

アウレリアはそれを一目見て、目を逸らした。

見たことを見せないのもまた、年長の女の務めだった。


「昼までに返事を二つ。午後は布の棚卸しをします」


アウレリアが言うと、マイオスがすぐに「わたしが見ます」と応じた。


「数だけではなく、見栄えも見なさい。継ぎを表に出す布と出さない布を分けて」


「はい」


「ミノルは乳母の手伝いをしてから、下の娘たちに言葉をそろえさせなさい。門の前の足の話は、誰の口からも外へ出してはいけません」


「分かった」


「コルネリア」


呼ばれて、若い妻が顔を上げる。


「あなたは手紙を書きなさい。届くかどうかではなく、こちらが書いたということが大事な時があります。生きている相手には、家もまた生きていると伝えねばなりません」


一瞬だけ、コルネリアの目に湿りが差した。

だがそれもすぐに引いた。

彼女は深く息を吸い、静かに頷いた。


「はい。そうします」


届くかどうか分からない手紙だった。

東のどこか、海の向こう、軍の中、あるいは道の途中。

名宛人のいる場所を正確に知らなくても、書く意味はある。

無事であれと願うためだけではない。

帰ってくる場所がまだ崩れていないと、文字で形を与えるためだ。


マイオスは蝋板を抱えて出ていき、ミノルは乳母の後を追った。

部屋に残ったのはアウレリアとコルネリアだけになる。

中庭からは、洗った布をはたく音がする。

どこかで鍋の蓋が鳴る。

門の向こうを通る荷車の軋みが、朝より少し高くなっていた。

町が完全に目を覚ましたのだ。


「怖いですか」と、アウレリアは唐突に聞いた。


コルネリアは少しだけ黙った。

こういう問いは慰めのために発せられたのではないと分かっているからだ。

ここで虚勢を張っても意味がない。


「怖くないと言えば、嘘になります」


「ええ」


「けれど、もう怖いことを理由に選び直す時ではないとも思っています」


アウレリアは頷いた。

それで十分だった。

勇ましい言葉はいらない。

もう決めた者の口から出る、静かな認識だけでいい。


「ならば、同じです」


その一言で、家の中の線がまた一本引き直された。

若い妻はその線のこちら側にいる。

母も、娘たちも、子も。

外がどう変わろうと、まず内側の線を乱さない。

乱れない家は、生き延びる。


コルネリアは卓につき、蝋板の平らな面へ鉄筆を置いた。

書き出しをどうするか、少しだけ迷い、それからごくありふれた挨拶を刻み始める。

天気のこと、家のこと、子のこと。

何も特別ではない文から始めるのがよかった。

特別ではない日々がまだ続いていると伝えることこそ、いまは難しいのだから。


アウレリアはその横顔を見てから、再び自分の蝋板へ目を戻した。

油、麦、豆、塩。

返事二通。

布の棚卸し。

門番への注意。

客前の灯り。

記すべきことは多い。

だが多いからこそよい、と彼女は思う。

数えるものがあるうちは、家はまだ手の中にある。


中庭の向こうで、ユリアが今度ははっきりと笑った。

何に笑ったのかは見えない。

ミノルが顔でも作ったのだろう。

その幼い笑い声が、朝の仕事で張った糸の上を軽く渡っていく。

誰も手を止めなかった。

止める必要がないほど、その声は家の中に馴染んでいた。


男がいないから止まる家なら、とっくに崩れていた。

いない者を数えるより、いる者で回す。

戸を開け、火を保ち、返事を書き、子を育てる。

そうして一日を一日として積み上げる。

その遅さが、いまは何より強い。


留守の家は、待っているだけではなかった。

帰る者が帰ってこられるように、帰る場所の形を守っていた。

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