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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第22章 カエサルの過去 ~青年期Ⅳ~

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動く数

朝は、昨日より少しだけ軽かった。

軽いのは気分ではない。

一艘、実際に動いたからだ。

ゼロの朝と、一の朝では空気が違う。

同じ港でも、こちらの足の置き方が少しだけ変わる。


宿の下では、主人がすでに客の水差しを並べていた。

夜を越えた宿は、朝になると何事もなかった顔をする。

だが、何事もなかったわけではない。

階段の軋み方。

主人の目。

桶の置かれた位置。

そういう細部に、昨夜の仕事が残る。


ティロは起きるなり蝋板を広げた。

夜にまとめた見込み。

確定一。

短期一。

中期一。

条件付き二。

数字は夜より冷たい朝の方が見やすい。

朝の目は、少しだけ嘘を嫌う。


「順番、変えるか」


ティロが言う。


「どこを」


カエサルが訊く。


「フィロンを先にする」


ティロは答えた。

「昨日までは王宮待ちだった」

「でも今は、王宮の紙を見た後だ」

「一晩置いたなら、返事が固まってるかもしれない」


ルフスが水を飲みながら言う。


「アンドロンじゃなくてか」


「アンドロンは動く」


ティロが言った。

「動くやつを朝一で追っても、増えるものは少ない」

「動くか止まるかのやつを先に押した方が数になる」


正しい。

昨日までの自分なら、確実な方から見に行きたくなっただろう。

だが、今日は違う。

数を動かす日だ。

動くものの確認より、止まりかけのものを押す方が意味がある。


「フィロンからだ」


カエサルは言った。

「そのあと港役所。昼までにアンドロン」


ルフスが眉を少しだけ動かす。


「港役所を挟むのか」


カエサルは頷いた。


「出る船が増えるなら、役所の記録も先に整えた方が詰まりにくい」


詰まり。

船は海で止まるだけではない。

岸でも止まる。

記録。

税。

人数。

荷。

船を増やすほど、そういう詰まりも増える。

それを無視すると、あとで全部が首を絞める。


朝の港はまだ硬かった。

人はいる。

だが声が完全には起きていない。

港は夜遅くまで動くから、朝は少し鈍い。

その鈍さのうちに押せるところを押す。

それも仕事だ。


フィロンの倉は、昨日と同じ広さで立っていた。

広い倉は、朝でも広い顔をする。

余白を持てる者は、時間にも余白を持つ。

だから厄介だ。


番に木札を見せる。

昨日より対応が早い。

木札のせいではない。

顔が一度通っているからだ。

港では、見た顔は少しだけ扱いが変わる。

その少しの積み重ねが仕事になる。


フィロンは、昨日と同じ椅子にいた。

だが今日は、最初から帳面を開いていた。

こちらが来ると分かっていた顔だ。

遅い男だが、準備がないわけではない。


「朝が早いな」


フィロンが言う。


「朝で固まる話もある」


カエサルが返した。


フィロンは目を上げる。

少しだけ口元が動いた。

軽口とまではいかない。

だが、昨日よりは柔らかい。


「王宮の紙は、夜のうちに回した」


フィロンが言う。

「荷主は一人、折れた。もう一人は半分だ」


半分。

また曖昧な数字だ。

だが、フィロンのような男が朝一番でその言葉を出すなら、無意味ではない。


「半分って何だ」


ルフスが言う。


フィロンはルフスを一度見てから答える。


「船は出していい。荷を減らしたくない」


そこだ。

荷主は船を出すこと自体ではなく、自分の積み荷が後回しになることを嫌がっている。

海の上では、船そのものより積まれるものの方が金になる。

当然の抵抗だ。


ティロが言う。


「積み荷の優先順を切れば動きますか」


フィロンの目がそちらへ向いた。


「どう切る」


「全部は降ろさない」

「ただ、軍用優先分だけ先に枠を取る」

「荷主の分は戻りか別便で補う」


フィロンは黙る。

その黙りは拒否ではない。

計算だ。

別便。

補い。

誰が損を先に持つか。

その順を頭の中で回している。


「別便は誰が出す」


フィロンが言う。


「お前の港だろ」


ルフスが言いかけたのを、カエサルが先に受けた。


「その交渉材料を持ってきた」


カエサルは言う。

「今、船は動き始めてる。一艘は昨夜出た」

「アンドロンの二艘目も進んでる。お前の荷主が今少し譲れば、次の便で優先を回せる」


フィロンはそこで、ようやくちゃんとこちらを見た。

昨夜の動きを知っている。

だが、こちらの口から聞くのはまた別だ。

港は噂で動く。

だが、噂だけでは判を押さない。


「昨夜、出たのか」


「出た」


カエサルが言う。


「一艘だけか」


「ゼロよりはましだ」


フィロンの鼻が少しだけ鳴る。

笑いではない。

だが、軽蔑でもない。

現場の数え方だと受け取った音だった。


「一艘、今日出す」


やがてフィロンが言う。

「もう一艘は昼まで待て。荷主をもう一度切る」


切る。

いい言い方ではない。

だが、こういう男の口から出るなら本気だ。

話を続けるという意味になる。


「昼にまた来る」


カエサルが言う。


「来い」


フィロンは答えた。

「若い使者」


まただ。

だが、その言い方に昨日ほどの重さはなかった。

今は、呼び方に近い。

名と同じではない。

だが、仕事の中で置かれた印のようなものだ。


倉を出る。

朝の光が少し高くなっていた。

一艘。

今日出す。

もう一艘は昼。

それだけで見込みの板の中身が少し変わる。


「増えたな」


ルフスが言う。


「まだ見込みだ」


ティロが返す。

「でも、見込みの根が太くなった」


それが大事だった。

数そのものより、数の足元。

そこが細いと、船は紙の上でしか増えない。


次は港役所へ向かう。

役所は朝より昼の方が混む。

混む前に行く。

それもまた押し方だ。


港役所の建物は昨日と変わらない。

だが、こちらの用向きが違う。

昨日は到着を記させるために入った。

今日は出る船の記録を先に揃えるために入る。

守るための紙から、動かすための紙へ。

役所に見せる顔も少し変わる。


昨日の丸い字の役人がいた。

こちらを見るなり、帳面を閉じかけた手を止める。


「総督府の使いか」


「そうだ」


カエサルは答えた。

「出る船が増える」


役人の顔が少しだけ厄介そうになる。

当然だ。

増える船は、そのまま増える記録だ。

役人にとって、仕事が増える話に明るい顔をする理由は少ない。


「何隻だ」


「今朝の段では二。昼にもう一つ増える可能性がある」


役人は目を細めた。


「可能性、か」


「だから先に来た」


カエサルが言う。

「出る段になって詰まるよりましだ」


それは役人にも利のある言い方だった。

詰まると、怒鳴られる。

怒鳴られるのは役人も嫌いだ。

だから、先に言いに来る使者は扱いやすい。


ティロが前へ出る。


「船主、見込み時刻、補給内訳、暫定人数をまとめています」

「照らしていただければ、詰まりは減ります」


役人は手を出した。

ティロは蝋板を渡す。

役人は読む。

丸い字の役人だが、読む時の目は丸くない。

細い。

こういう者ほど、帳面の中では強い。


「人数がまだ揺れているな」


役人が言う。


「船員側の確定待ちです」


ティロが答える。

「ただ、枠は先に押さえたい」


「枠だけ押さえると、あとで揉める」


「押さえないと、もっと揉めます」


そのやり取りで、役人の目が少しだけ上がる。

柔らかい。

だが引かない。

ティロはそういう話し方ができる。

相手の顔を立てながら、必要な線は残す。


「仮記録にしておく」


役人が言う。

「正午までに人数を出せ」


「助かります」


ティロが言った。


役人は鼻を鳴らした。

完全な不機嫌ではない。

助かると言われるのが嫌いな役人もいる。

だが、悪い顔ではなかった。


外へ出ると、ルフスが言う。


「お前、役人と話す時だけ余計に柔らかいな」


「硬い相手に硬く返すと、紙が遅れるから」


ティロが答える。


「殴った方が早い時もある」


「その時はルフスがいる」


ルフスはそれに何も返さなかった。

返さないが、否定もしない。

それで足りる。


昼前にアンドロンの船渠へ寄る。

二艘目の腹が開かれていた。

木片。

樹脂。

釘。

修繕は進んでいる。

見ただけで昨日より動いていた。

口先だけではない。

そこは信じていい。


アンドロンが汗を拭きながら言う。


「朝から来ると思ってた」


「来た」


カエサルが言う。


「見れば分かるだろ。木は嘘をつかん」


その返しは嫌いではなかった。

木は嘘をつかない。

だが人は木の進みを誇る。

そこだけは忘れない方がいい。


ティロが船腹を見る。


「三日と半刻、守れそうだな」


アンドロンがそちらを見る。


「守る」


「守るなら、船員の枠も先に押さえる」


ティロは言った。

「今夜には港役所へ仮記録を回す」


アンドロンは少しだけ驚いた顔をした。

顔というほど大きくはない。

だが、港役所まで先に押さえたとは思っていなかったのだろう。


「若い使者が、そこまで先に触るか」


アンドロンが言う。


「触らないと、船が岸で死ぬ」


カエサルが答えた。


アンドロンはそこで笑った。

今度はちゃんと笑いだった。


「分かってきたな」


その一言は重くない。

だが、海の男から出るなら悪くない。

少なくとも、昨日よりは相手として見られている。


昼にもう一度フィロンの倉へ戻る。

今度は、倉の前の番の顔が少し違った。

昨日は止める顔。

今日は中が待っている顔だ。

港では、それだけで十分な変化だった。


フィロンは帳面を閉じていた。

決めた顔だ。

決めた者は、帳面を閉じる。


「一艘、今日出す」


フィロンが言う。

「もう一艘は明朝だ。荷主を切った」


「切れたか」


「泣いた。だが切れた」


それでいい。

全員が笑って船を出す日など来ない。

泣く者がいても、動けば数になる。


「条件は」


カエサルが訊く。


「昨日と同じだ。王宮の前で港の顔を悪く言わないこと」


「分かった」


「あと」


フィロンは少し間を置いた。

そこがこの男らしい。

最後に一つ足す。


「動いた船の順は、記録で残せ」


「なぜだ」


「あとで誰が先に協力したか、必ず話になる」


そこだった。

やはり港は面子で動く。

損得の最後に、必ずそこへ戻る。

先に動いた。

遅れた。

王宮の紙が来る前から応じた。

来てからやっと動いた。

そういう話が、後で次の船を決める。


「残す」


カエサルが言った。


「残せるか」


フィロンが言う。


「残せる」


ティロが横で言った。

「誰が、いつ、どの条件で動いたか、全部切ってる」


フィロンの目が少しだけ動く。

その返しは気に入ったらしい。

港の男は、口約束より、後で話にできる記録を好む。

少なくとも、自分に不利でない限りは。


倉を出た時、陽は高かった。

朝の見込みが、昼の数に変わり始めている。

確定一。

今日出る一。

明朝一。

三日と半刻で一。

そして、読めないものがまだいくつか。

数字はまだ足りない。

だが、もう紙の上だけではなくなってきた。


ルフスが言う。


「動く数になってきたな」


「まだだ」


カエサルは答えた。

「動く船を、動く順に並べるところまで行かないと」


将の仕事は、数えるだけでは足りない。

集める。

押す。

記す。

並べる。

そこまでやって、ようやく戦に届く。

二十歳の自分に、そこまで任されるとは思っていなかった。

だが、任された以上、空で返す気もなかった。


海の向こうには、まだレスボスがある。

城壁。

港。

息の続く敵の町。

そこへ届くための船を、今ここで数えている。

剣の音はまだ遠い。

だが、遠い剣を近づけるのもまた、将の仕事だった。

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