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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第20章 カエサルの過去 ~青年期Ⅱ~

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名簿の名

朝。

ローマの壁に、名簿が貼られた。

紙が貼られただけなのに、街の温度が下がる。

“敵の名”。

追放。

没収。

殺害。

それが起きる空気が、公示という形で流れ込む。


人々は名簿の前に集まる。

集まるが、声は出さない。

声を出した者が次に載る。

そんな確信が、すでに共有されている。


名を探す指が動く。

指は震える。

震える指は、今日の生活の指だ。

昨日までの友の名を見つけても、表情は動かない。

動かせば自分が動くからだ。


そして売る。

売る者は泣かない。

泣かずに口を開く。

昨日まで同じ杯を回した相手を、今日、言葉で差し出す。

剣より安い密告が、剣より確実に人を殺す。


家の外が急に危険になる。

危険は刃物の形では来ない。

挨拶の形で来る。

確認の形で来る。

親切の形で来る。

その全てが、名簿の下書きになる。



ユリウス家では、アウレリアが家を組み替えていた。

家は同じ形に見えて、内側の配置が変わる。

変わることで生き延びる。


玄関の者を増やす。

裏口の者を替える。

台所の動線を短くする。

物置の鍵を一つ減らし、持つ者を一人にする。

灯りを外に漏らさない布を増やす。

水甕を移す。

非常用の袋を見えない場所へ置く。

書簡の焼却箱を用意する。


そして、口を閉ざす訓練を始めた。

訓練という言葉が、正しかった。

黙るのは性格ではない。

技術だ。


家人を集める。

アウレリアは怒鳴らない。

怒鳴れば、声が外へ漏れる。

外へ漏れれば、名簿の裏に書かれる。


「言っていいことは、決まっている」

アウレリアが言う。

「言ってはいけないことも、決まっている」

「分からないなら、言わない」

「分かったふりもしない」


家人の顔が硬い。

硬いが頷く。

頷きが揃う。

揃う頷きは、恐怖で揃っている。


ティロが横で紙を配る。

短い文。

玄関で言う言葉。

帰る相手に言う言葉。

会わない時の言い方。

保留の言い方。

誰の名を出していいか。

誰の名を出してはいけないか。


紙が、舌の代わりになる。

紙は噛まない。

紙は余計なことを言わない。

だから今、紙が必要だ。


カエサルは主の席でそれを見ていた。

見ているだけで、腹の底が冷える。

家を守るというのは、剣を構えることではない。

口を閉じさせることだ。


コルネリアは荷をもう一度点検していた。

点検は泣き方の代わりになる。

泣けば止まる。

点検すれば進む。

彼女は進む方を選ぶ。



その頃。

街のどこかで、誰かが言った。

小声で。

しかし小声は、今のローマでは最も遠くへ届く。


「ユリウスの子も載ったらしい」

「カエサルだ」

「名簿に」


その噂は、使者より速く家へ来た。

速い噂ほど、当たりやすい。

当たる前に人の顔色を変える。


ユリウス家にも、断片が流れ込む。

玄関の者の耳。

台所の者の目。

裏口の者の恐怖。


ティロが戻ってきた。

顔が白い。

白いが声は潰さない。

潰せば、家が潰れる。


「……変な話が回ってる」

ティロが言う。

「カエサルの名前が名簿にあるって」


部屋の空気が止まる。

止まってから、ゆっくり動き出す。

動き出すのは叫びではない。

計算だ。


カエサルはすぐに立ち上がらなかった。

立ち上がると、椅子が空く。

椅子が空けば、家が揺れる。

揺れれば、外がそれを嗅ぐ。


「……確かか」

カエサルが聞く。


ティロは首を横に振る。


「まだ噂」

「でも、噂が出る時点で誰かが書いてる」


アウレリアが言った。

声は低い。

低いのに、家全体へ届く。


「噂の段階で、動く」

「確定を待ったら遅い」


コルネリアがこちらを見た。

目が揺れない。

揺れないようにしている。

揺れたら崩れるからだ。


カエサルは頷いた。

頷いて、喉の奥で氷が鳴る。


「準備は?」

カエサルが言う。


ティロが即答する。


「紙はまとめた」

「印章は持てる」

「連絡先も三つに分けた」


アウレリアが続ける。


「金も分けた」

「馬も手配できる」

「逃げ道も二つ」

「今夜のうちに動ける」


今夜。

その言葉が、剣の抜きどころみたいに重い。

カエサルは息を吐いた。

吐いた息が白い気がした。



場面は移る。

スッラの陣営。


天幕の中は静かだった。

静かな場所ほど、命令がよく響く。

地図が広げられ、名簿が置かれ、封蝋が並ぶ。

剣は壁に立てかけられている。

だが主役は剣ではない。

紙だ。


スッラは椅子に座り、紙を指で叩いていた。

叩く音が乾いている。

乾いた音は、躊躇のない音だ。


そこへ若い男が二人。

ポンペイウス。

クラッスス。

どちらも若い。

若いのに、座り方が軽くない。


「スッラ殿」

ポンペイウスが言う。

「その名は……やり過ぎでは」


クラッススも続ける。


「ユリウスの少年です」

「父が急死し、たまたま主人になっただけ」

「ここで死刑は」

「余計な波紋を呼ぶ」


スッラは顔を上げない。

上げないまま言う。


「波紋は抑える」


ポンペイウスが言葉を選ぶ。

選びながら、核心だけを置く。


「彼はまだ十六」

「若すぎます」


スッラの指が止まる。

止まってから、ゆっくり顔を上げた。

目が乾いている。

乾いた目が、若者二人を通り越して何かを見る。


「若いからこそだ」

スッラが言う。


クラッススが眉を寄せる。


「何を」


スッラは淡々と言った。


「覚えている」

「アリーナで見た」

「目だ」


その一言で、天幕の空気がさらに冷える。


「少年の目に」

スッラが続ける。

「マリウスが宿っていた」


ポンペイウスが息を飲む。

クラッススの口元がわずかに歪む。

マリウス。

名は死んでも、刃になる。


スッラは紙を指で押さえた。

押さえる指が、処刑の印みたいに動かない。


「名は氷だ」

スッラが言う。

「氷は、溶ける前に砕く」


外では兵の足音が揃っている。

揃った足音が、街の道を思い出している。

ローマはまた、名で凍り始めていた。

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