表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第17章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅰ~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

206/274

名前で殺す街

アリーナの砂は、その日いつもより乾いていた。

乾いた砂は足を取らない。

だから走れる。

走れる日は、余計な衝突も起きやすい。


木剣がぶつかる音が、あちこちで跳ねた。

笑い声。

息の荒さ。

馬のいななき。

汗の匂いが風に溶け、日差しはそれを甘くも苦くもした。


カエサルは剣を回し、最後の一太刀を止めた。

止め方が速い。

止めた後に、体がぶれない。

周りの同年代が一拍遅れて真似しようとして、砂を蹴って崩れる。


「今の、止めるの早すぎだろ」

ルフスが言う。

「見えないって」

「いや、見えてるんだけど、こっちの目が追いつかない」


「追いつけ」

カエサルが言う。

「追いつけないなら、最初から遅い」

「遅いなら、遅いなりに近づけ」

「距離で誤魔化すな」


ルフスは舌打ちして笑った。

負けず嫌いの笑いだ。


「言うことだけは、もう将軍みたいだな」

ルフスが言う。

「その口で俺を煽るの、楽しいだろ」


「楽しい」

カエサルは即答して、少しだけ口角を上げた。


その時だった。

少し離れた場所で、空気が変わった。

笑い声の種類が違う。

稽古の笑いではない。

獲物を見つけた笑いだ。


ティロの声が聞こえた。

小さい。

小さいのに、必死に平らにしている声。


「やめてくれないか」

ティロが言っていた。

「僕はここで練習をしているだけだ」


別の声が被せる。

年は同じくらい。

服の質が違う。

言葉の乱暴さが、守られて育った乱暴さだ。


「練習だってさ」

貴族の息子の一人が言う。

「奴隷の息子が、何の練習をするんだよ」

「字でも書いてろ」

「砂に字を書けばちょうどいいだろ」


周囲が笑った。

笑いが、ティロの居場所を削っていく。

言葉の刃だ。

カエサルは、フォルムで見た光景を思い出すより先に、足が動いた。


「おい」

カエサルが言う。

「何してる」


ルフスも遅れて並ぶ。

遅れたのが悔しいのか、声が大きい。


「お前ら、相手選べよ」

ルフスが言う。

「稽古相手なら俺がいるだろ」

「口で強いのは、剣が弱い証拠だぞ」


貴族の息子たちは、カエサルを見て目を細めた。

敵を見つけた目ではない。

もっと嫌な目だ。

値踏みして、名前を数える目。


「ユリウスか」

一人が言った。

「そりゃ強いわけだ」

「強い家の子は、弱いのが好きなのか」

「なんで奴隷の息子なんかと、そんなに仲良くしてるんだ」

「お前の家の名が泣くぞ」


ティロが息を飲む。

ルフスが一歩前に出る。

だがカエサルが先に口を開いた。

声が低くなる。

低い声は、怒りの形だ。


「泣くのはお前らの方だ」

カエサルが言う。

「名前の後ろに隠れて、弱い相手を囲んで笑う」

「それが貴族の稽古か」

「剣じゃなくて舌を鍛えてるのか」


「はは」

相手が笑う。

「舌の方が便利だからな」

「お前もフォルムに行けば分かる」

「それとももう分かってるのか」


カエサルの中で、何かが切れた。

切れたのは理屈の糸だ。

残ったのは、形にした怒りだけ。


「決闘しろ」

カエサルが言った。

「剣でやれ」

「今ここで、誰が誰を笑うか決めよう」


ルフスが目を見開いた。

ティロが一瞬、止めようとして口を開きかける。

だが言葉が間に合わない。

カエサルの怒りは、もう宣言になっていた。


貴族の息子たちは、顔を見合わせた。

そして、面白がる顔になる。

勝てると思った者の顔だ。


「いいぜ」

相手の一人が言う。

「ただし条件がある」

「一対一で、三人勝負だ」

「お前だけじゃない」

「その奴隷の息子と、そっちの口だけのやつも出せ」


ルフスが噛みつく。


「口だけじゃねえ」

ルフスが言う。

「口があるだけだ」

「剣もある」


ティロは青くなった。

戦うのが怖いのではない。

巻き込まれるのが怖い。

自分が原因だとされるのが怖い。

この街は、そういう形で人を殺す。


「僕は」

ティロが言いかける。

「僕は、別に」


「出る」

カエサルが言った。

ティロの言葉を遮った。

遮ったことが、すぐ後悔になる。

だが引けない。

今引いたら、ティロは一生“奴隷の息子”のまま、ここで笑われ続ける気がした。


「ティロは出る」

カエサルが言う。

「俺が出ろと言ったら出る」

「俺が勝てば、お前らは二度とその言葉を使えない」


相手が肩を揺らして笑った。


「ユリウスは命令も上手だな」

「じゃあ決まりだ」

「ただし、今日じゃない」

「大人の目が多いと面倒だからな」

「後日、改めてやる」


ルフスが吐き捨てる。


「逃げるのか」


「逃げねえよ」

相手が言う。

「勝つから日を選ぶんだ」

「それに」

「“名前”ってのは、負けた方が痛い」


その言葉が、砂より硬く残った。

カエサルは奥歯を噛んだ。

痛いのは分かっている。

だからこそ、勝たないといけない。


貴族の息子たちは去っていった。

去り際に、わざと砂を蹴って、ティロの足元にかける。

小さな仕草がいちばん汚い。


残された三人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。

汗が冷えるより先に、胸が冷える。


ティロが震える声で言った。


「……ごめん」

「僕のせいで」

「僕がいなければ」


「やめろ」

カエサルが言う。

声を荒げない。

荒げると、ティロが余計に縮む。


「お前のせいじゃない」

カエサルが続ける。

「お前の生まれのせいでもない」

「笑う方が悪い」

「悪い方を黙らせるだけだ」


ルフスがティロの肩を小突いた。

乱暴に見えるが、手加減がある。


「それにさ」

ルフスが言う。

「三人勝負って言ってくれたの、向こうの失敗だ」

「俺が一人勝てば、空気が変わる」

「空気が変われば、あいつらは崩れる」


ティロは小さく首を振った。


「でも僕は」

「剣の勝負なんて」

「僕は勉強の方が」


「勉強は逃げ道になる」

カエサルが言う。

「でも今日は、逃げ道じゃなくて道を作る日だ」

「道ができれば、勉強も守れる」


自分で言って、自分が少し驚いた。

父とルキウス叔父の話が、口の中に残っていたのだ。

剣と紙。

どちらも、居場所を作る。


その日の夕方。

ユリウス家には客が来た。

ルキウス叔父ではない。

もっと軽い匂いのする客だ。


「お前の家は、いつ来ても硬いな」

男の声が玄関から聞こえた。

「石が多いのか」

「それとも、顔が硬いのか」


カエサルが振り向くと、そこにストラボ叔父がいた。

ルキウス叔父より口が先に動く。

目が笑っているのに、笑いだけでは終わらない目だ。

フォルムの空気をそのまま外套に染み込ませてきたような男だった。


「ストラボ叔父上」

カエサルが言う。

呼び方の後に、少し迷いが出た。

この人は距離の取り方が難しい。


ストラボはカエサルの頭を軽く叩く。

優しい叩き方だが、油断はさせない。


「聞いたぞ」

ストラボが言う。

「アリーナで揉めたらしいな」

「剣で解決するのは分かりやすい」

「だがローマは、もっと手軽に人を殺す」


カエサルが眉を寄せる。


「殺すって、何を言ってる」


ストラボは冗談みたいに肩をすくめた。

冗談みたいなのに、冗談で済ませない声だった。


「ローマは名前で殺す」

ストラボが言う。

「“奴隷の息子”」

「“貴族の面汚し”」

「“裏切り者”」

「そういう札を首に掛けてやれば、剣がなくても人は倒れる」

「倒れたところを、みんなで見て見ぬふりをする」

「便利だろ」


笑える言い方だった。

でも笑えない内容だった。

カエサルは拳を握った。


「だから俺は剣でやる」

カエサルが言う。

「剣なら、勝ったか負けたかがはっきりする」

「名前よりましだ」


ストラボ叔父は目を細めた。

ルキウス叔父の確認の目とは違う。

もっと意地悪で、もっと期待している目だ。


「まし、か」

ストラボが言う。

「いいな、その直線」

「だが覚えとけ」

「勝った後に、お前の名前が相手を殺す番が来る」

「その時に笑えるか」

「笑えないなら、勝ち方を選べ」


その言葉は、針みたいに刺さったまま抜けなかった。

ルキウス叔父は“紙と法”で街を守ろうとする。

ストラボ叔父は“言葉と札”の汚さを笑いながら見せてくる。

同じユリウスの名の下に、幅がある。

守り方が違う。

怖がらせ方も違う。


カエサルはその夜、寝床で天井を見た。

後日の決闘のことを考える。

剣の稽古のことを考える。

ティロの震えた声を思い出す。

そしてストラボ叔父の言葉が、笑い声の形のまま胸に残る。


ローマは名前で殺す。

だから自分は、名前で殺させない勝ち方を探さなければならない。

そう思った時、少年の拳は、砂の上で握った時より強く握られていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ