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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第17章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅰ~

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言葉の笛と、午後の剣

朝の家は、外のスブッラより静かなはずなのに、静けさの中に細い音が何本も走っていた。

蝋板を引っかく尖筆の音。

巻物をめくる乾いた擦れ。

水差しが卓に置かれる鈍い音。

遠い台所から、鍋の蓋が触れ合う小さな金属音。

それらが重なって、家そのものが勉強をしているみたいに聞こえる。


カエサルは席に着いていた。

背筋は伸ばしている。

伸ばしているだけで、心は伸びない。

蝋板の上には文字が並ぶ。

並ぶほどに、眠気が増える。


向かいに姉のマイオルが座り、落ち着いた手つきで尖筆を動かしていた。

その横に妹のミノルがいて、文字よりも兄の顔を見て笑いを堪えている。

少し離れて、家庭奴隷の息子ティロが同じように板へ向かっていた。

ティロの字は丁寧で、丁寧すぎて、逆に急いでいない強さがあった。


カエサルは尖筆を机に置いて、わざと大きく息を吐いた。


「これ、いつまで続くんだよ」

「石みたいな文字を並べたって、腹は減るし、足も速くならない」

「それに、眠くなるだけだ」


ティロは顔を上げて、困ったように笑った。


「でもさ、少しだけ頑張ろうよ」

「今日の分を終えたら、午後はアリーナに行けるんだろ」

「終わらせた方が早いと思う」


ミノルがすぐに口を挟む。

兄を刺す時だけ、頭の回転が良い。


「お兄ちゃん、ださい」

「ぶーたれてる顔が、もう負けてる」

「負けてる人は、午後も弱そう」


カエサルは椅子の背に体を預け、わざとらしく眉を上げた。


「負けてるのは文字だ」

「こんな小さい線で俺に勝とうとするのが悪い」

「俺は剣の方が好きなんだ」


マイオルが尖筆を止めずに言う。

声は優しいのに、刃がある。


「好き嫌いで決めなくていいのよ」

「あなたは、剣が好きなんでしょう」

「なら、文字も剣と同じだと思いなさい」

「手を動かして、相手より速く、正確に」


ミノルが鼻で笑う。


「お姉ちゃん、優しくしなくていいわよ」

「この人、褒めると調子に乗る」

「ほら、今も乗りかけてる」


カエサルがティロを見る。

助けを求める目だ。


ティロは小さく肩をすくめた。


「……でも、マイオルの言うことも分かるよ」

「文字って、相手を動かすんだって先生が言ってた」

「相手の心を動かせたら、剣より速い時があるって」


「心って何だよ」

カエサルは頬を膨らませる。

「心は見えない」

「見えないものは、鍛えにくい」


その時、教師のグニポが部屋に入ってきた。

歩き方に無駄がない。

無駄がないのに、どこか柔らかい。

空気を壊さずに支配する歩き方だった。


グニポは四人の顔を順に見て、特に誰も責めないまま口を開いた。


「朝から賑やかだね」

「賑やかな家は悪くない」

「ただし、言葉の賑やかさには順序がいる」


カエサルがすぐに言う。


「先生、勉強がだるい」

「だるいものは、だるいんだ」

「だるいのを無理にやると、俺は不機嫌になる」


ミノルが嬉しそうに頷く。

ティロは慌てて首を横に振る。

マイオルは溜息を飲み込む。


グニポは笑った。

笑い方が、勝っている人の余裕だった。


「だるいと言えるのは、まだ余裕がある証拠だ」

「余裕があるうちに、覚えておくといい」

「言葉づかいは、時に武器よりも勝る」

「巧みな話術や修辞は、多くの人を動かす笛にもなる」


カエサルは尖筆を指で回しながら聞く。

聞いているふりも上手い。


グニポは続けた。


「君がいつか戦場に出るなら」

「剣で敵を倒すだけでは足りない」

「味方の足を前に出させる必要がある」

「恐れて動けない者の背を押すのは、腕力だけではない」

「言葉は兵の士気の養分になる」


ティロが目を輝かせた。


「ほらね、だから大事なんだよ」

「ちゃんと覚えたら、いつか役に立つ」


カエサルは頬を膨らませたまま、机を指で軽く叩く。


「だからってさ」

「今すぐ役に立たないものを、今すぐ詰め込むのは嫌なんだよ」

「笛だか養分だか知らないけど、腹が減るんだ」

「俺は午後の方が得意だ」


ミノルが即座に言う。


「はいはい、午後の人」

「午前は弱い人」


マイオルがようやく筆を置き、兄を見る。


「午前が弱いなら、午前を強くすればいいだけよ」

「あなた、強くなるのは好きでしょう」


カエサルは言い返そうとして、止めた。

言い返すと、姉の理屈の方が長い。

長い理屈には勝てない。

勝てない戦いは避ける。

それも才能だと、本人は思っている。


午前の勉学が終わると、家の中の空気が少し緩んだ。

その緩みは、午後へ向かう助走みたいなものだった。


出かける支度をしていると、廊下の向こうから母アウレリアの声が聞こえた。

使用人の声も混じっている。

声は低い。

低い声は、子どもに聞かせるつもりがない声だ。

だからこそ、耳に残る。


「また麦が上がったの」

アウレリアの声が言う。

「戦役が終わっても、町はすぐには戻らないのね」


「はい」

使用人が答える。

「油も布も、少しずつですが上がっています」

「兵が帰ってきて、口が増えた分もありますし」

「商人が不安を値段に乗せています」


「不安は、いつも先に請求書になる」

アウレリアが静かに言った。

「子どもに見せる顔と、帳簿に向ける顔は違う」

「けれど、同じ家の顔よ」


その言葉が、カエサルの胸に引っかかった。

昨日の“帰ってきた人の顔を覚えなさい”が、別の形で蘇る。

戦争は遠く。

だが、値段は近い。

帰ってくるのは兵だけじゃない。

不安も帰ってくる。


カエサルは戸口で靴を履きながら、小さく舌打ちした。

世界が勝手に動いて、自分だけ置いていく感じが嫌だった。


午後。

アリーナへ向かう時間になると、体が軽くなった。

カエサルにとって、体を動かすのは“自分で世界を動かせる”時間だった。

勝てば勝っただけ、理由がはっきりする。

言い訳も修辞も要らない。

汗は嘘をつかない。


パイダゴーゴスのヘルメスが前を歩く。

背は高くない。

だが歩幅が一定で、子どもが勝手に先へ行かないように空気で抑える。

ティロが横に並び、少し緊張した顔で荷物を持っている。


「今日は何をするんだい」

ヘルメスが言う。

「剣か。馬か。あるいは両方か」


「両方やりたい」

カエサルが即答する。

「今日は頭が疲れてるから、体の方で取り返す」


ティロが苦笑した。


「取り返すって言い方、変だよ」

「でも、分かる」

「僕は逆だな」

「体が疲れると、頭で取り返したくなる」


ヘルメスは二人を見比べる。


「良い」

「違う癖を持つ者が一緒にいると、互いの欠けが見える」

「欠けが見えるのは恥じゃない」

「見えないままの方が危ない」


カエサルは石畳を蹴りながら言う。


「俺の欠けは、午前だってミノルが言う」

「でも午後は欠けてない」

「午後だけで生きていけたらいいのに」


ティロが少し真面目な顔で言う。


「午後だけで生きられる人って、少ないよ」

「午後が強い人ほど、午前を持った人が必要になる」

「先生の言う笛の話も、たぶんそういうことだと思う」


カエサルは答えず、唇を尖らせた。

反論が浮かばない時の癖だった。


そこへ、横道から少年が駆けてきた。

息が切れているのに、笑いが先に来ている。

ルフスだ。

ティロの友達で、噂好きで、負けず嫌いの塊みたいなやつ。


「おい、遅いぞ」

ルフスが言う。

「アリーナの良い場所、もう取られるぞ」

「今日は勝負しようぜ」

「剣も馬も、どっちもだ」


ティロが慌てて言う。


「勝負って、怪我したら困るよ」

「先生に怒られる」


「怒られるくらいで済むなら安い」

ルフスは平気で言う。

「負ける方が痛い」


カエサルの目が、ようやく本当に起きた。

眠気が消える。

火が点く。


「いい」

カエサルが言う。

「やる」

「ただし、泣くなよ」


「泣くかよ」

ルフスは笑う。

「泣くのは負けたやつだ」


アリーナに着くと、砂の匂いがした。

血の匂いまではしない。

まだ子どもの時間だから。

それでも砂には、何度も踏まれた記憶がある。

踏めば踏むほど、足が地面を掴む。


カエサルが剣を取る。

木剣ではない。

重さのある練習用の剣だ。

構えた瞬間、周りの子どもたちの空気が変わった。

同じ年頃のはずなのに、距離が一段違う。


最初の一歩が速い。

踏み込みが短くて深い。

腕だけで振らない。

腰が先に動く。

剣先が迷わない。

迷わないのに硬くない。

柔らかいのに折れない。


ティロは思わず声を漏らす。


「……すごい」

「同じ人間が持ってる剣に見えない」

「僕が書く字みたいに、線がまっすぐだ」


ルフスが歯を見せて笑う。


「負けるかよ」

「その線、俺が曲げてやる」


勝負は続いた。

剣の稽古のあと、馬に移る。

カエサルが鞍に乗ると、馬が落ち着く。

落ち着くのは馬の方なのに、周囲は逆にざわつく。

まるで最初から一組だったみたいに、動きが噛み合う。


ルフスは必死に食らいつく。

必死なのに、楽しそうだ。

負けず嫌いは、勝ちたいだけじゃない。

強い相手がいること自体が嬉しい。


ティロは汗を拭きながら見ていた。

自分は勉学で優れている。

それは分かっている。

でも、目の前の動きは、言葉より先に人を動かしてしまう。

笛、という比喩が少しだけ分かった気がした。


午後の稽古が終わると、体は重いのに心は軽かった。

汗をかいた分だけ、世界が一度洗われたように見える。

帰り道の風は冷たい。

冷たいのに気持ちいい。


ヘルメスが言う。


「よく動いた」

「動いた後は、腹が空く」

「腹が空くのは生きている証拠だ」


ティロが頷く。

ルフスはまだ興奮が残っていて、歩きながら勝負の言い訳を探している。

カエサルは何も言わず、空を見た。

空は青い。

青いだけで、今日が勝った日みたいに感じる。


その途中。

通りの向こうから、噂が流れてきた。

噂は人の口から口へ渡るたびに形を変える。

だが“芯”だけは同じ匂いを持つ。


「また揉めるらしいぞ」

誰かが言った。

「英雄が帰ったってのに、ローマは静かにならん」


「物が上がるわけだ」

別の誰かが言った。

「平和より先に、値段が走る」


カエサルは足を止めなかった。

止めると、噂に捕まる気がした。

けれど耳は勝手に拾う。

昨日見た帰還の列。

母の低い声。

グニポの言う笛。

今日の剣。

全部が一本の線で繋がりそうで、繋がらない。


ティロが小声で言う。


「ねえ」

「また戦争になるのかな」

「僕らの知らないところで、また何かが決まっていくのかな」


ルフスが鼻で笑う。


「決まるなら、勝つ方がいい」

「勝つなら、俺は負けない」


カエサルは何も言わなかった。

ただ、明るい通りの先にある影を見た。

影はまだ薄い。

だが薄い影ほど、広がるのが早い。

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