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五:演奏前にひともんちゃく

「……何だって?」

「キミだよ! そのバイオリンの音を探してたんだ。そしてようやく見つけた!」

 人間はカップに残っていたぬるい茶を飲み干した。

「それでね、キミさえよければ、もう一度聞かせてほしいと思ったんだ。

 いやいや、音だけじゃない。こんなにきれいな音をだすキミ自身のことも、もっと知りたくなった」

 それだけだよ、と人魚は悪びれることなく微笑んだ。


 人を疑うことや人の心を読むことを知らない人魚には、基本的に悪意はない。ましてや下心なんてない。

 だがそんな人魚と違って、人間はそうでもなかった。

 むしろ人間は猜疑心のかたまりのようなものだったのだ。

 森を抜ければ人にぎわう街がある。市場もあるし食事処もある。娯楽施設もあれば本に満ちた図書館もある。

 暮らすに困らぬ街を離れ、わざわざ人気のない森に住居を構えている。人の目を避けるようにして、人間は森に隠れている。

 

 自分から人を避けるようにして暮らしているのもあるが、その人間は街の人々から避けられていることを知っている。

 だからなのか、好んでこの自分に会いたがるおかしな者がいるとは思っていなかった。人魚の突然の訪問は、人間の心を大いにかき乱した。


「……というか、おまえ」

「うん」

 人間の低い不機嫌な声にも人魚は動じない。

「人魚ってのは本当なのか?」

「うん、本当だよ。証拠も見せてあげたいとこだけど……魔女の薬はまだ時間があるし、時間切れになって元に戻ったら、海まで帰るの大変だし」

「ああうん、証拠はいいや……。

 で、もう一度確認するが、本当に俺の音色が気になっただけなんだな?」

「うん!」

 人魚の声が明るくなる。人魚のいう『音』のことになると、とてもうれしそうになる。

「誰かに言われて来たとか、俺の家を探りに来たとか、そういうことはないな?」

「?? うん、誰かに探してこいって言われてないし、キミのお家のことを知りたいわけじゃなかったし」

「……。嘘をついてるようでもないな」

「嘘? どうして嘘をつく必要があるの?」

「そこからかよ! ……まあいいや」

 人間はこれ以上の詮索をやめた。天真爛漫な人魚をみていると、こちらの疑いや警戒をする気力が失せる。

「ねえねえ、ほかに聞きたいことはない?」

 人魚が身を乗り出して人間に聞いてくる。本当に他意はないし悪意はない。

「いや、いい……。もういいや……」

「そう? 答えられることは何でも答えるよ」

「いらねえ、誰かの差し金でないなら何も咎めねえ」

「そっかそっか。

 じゃあ私の番ね」

 人魚は席を立つ。とっとっとっ、と人間の隣に移って、彼の手を自然にとる。

「……!」

 一瞬だけ人間の顔が赤くなった。

「キミさえよければさ、もう一度その音を聞かせてほしいんだ!」

「……な」

「バイオリンだっけ? 人間が音を出す機械だって魔女が言ってた。私の探してた音はそれだったんだね。

 でもそれはキミが出さなきゃ私は満足できない。

 今度は一番近くで、キミの音を聞きたいんだ。だめかな?」

「音ぉ? バイオリンの? 俺のなんてただ趣味で適当に弾いてるだけだぞ。街にいけばもっといい腕の演奏家なんていくらでもいるからそっちを探せば……」

「だめだよー! キミじゃなきゃいけないんだよー! 腕がいいとか有名とかそういうのじゃだめなんだよー!」

「うわうるせえ」

 人魚は子供のようにわめき散らした。

「同じような音は海からたくさん聞いてた。バイオリンだけじゃない、もっとほかのちがう楽器の音も聞こえたし、人間の歌声も聞こえてた。


 でもそれじゃなかったんだよ。そんないくつもの数え切れない音の中から、私にはキミの音だけがきれいに思えた。

 この、なんて言うのかな……、とっても透き通ってるんだ。透明の宝石みたいにさ、太陽にかざすときらきら光って、それでそれで……えっと、とにかく!! 私はキミのバイオリンの音を聞きたいんだよ!」

 一気にまくしたてて、人魚はそう告げた。

「お願いだよ。会ったことを人魚の仲間に言いふらすなっていうなら誰にも言わない。キミのことは仲間たちには秘密にする。やれって言うなら、できること全部やる! 

 だからもう一度、キミの音を聞きたい」

 お願いだ、と人魚はしきりに人間に懇願した。

 

 人間としては、別に人魚に何かさせるつもりはまるでない。人目につかず、ひっそり暮らせる環境が維持されればそれだけでよかった。

 街の誰かに言われてこちらの様子を見に来たわけでもないのはすでにわかっている。

 ここで気ままにバイオリンが弾ければそれでよかった。

 やっとつかんだ平穏が保たれるのなら、ぜいたくなことを望むつもりはない。


 ただ気になったのだ。

 無名の、というか本職の演奏家でもない、バイオリンはただの趣味で弾いているだけの人間を、ここまで求めるこの人魚の娘のことが。

 弾いてほしいならいくらでも弾く。ただ、他人に頼まれるほどの演奏ができると思っていないだけなのだ。


 弾いてほしい、聞かせてほしい。それなら別に聞かせてもいい。

 それを押しとどめていたのは、単純に、人魚への疑問がわいたから。


「……別にイヤとも何とも言っていないが」

「じゃあきかせてくれる!?」

 しょんぼり沈んでいた顔が一気に輝きを取り戻す。切り替えは早いようだった。

「ねえねえ! イヤじゃないんでしょ? だったら聞いてもいいよね!」

「わかった! わかったわかったから! たのむからまず離れろー!」

 人魚は人なつっこいを通り越して常識が逸脱している。

 人間の手を取って、自分の胸に持って行っている。人魚に自覚はないのだが、人間の手は明らかに形の良い人魚の胸に触れているのだ。

 まだあどけなさを残す顔が人間の顔の鼻先まで迫っている。海の匂いがかすかに漂っていた。

(近いし……、しかもなんか当たってるし!!)

「じゃあ弾く? 弾いてくれる?」

「弾くから! 弾くから! まずは離れてくれってば!! 特に手!」

「手? あ、そっか」

 納得したように人魚が手を離す。

「手が捕まってたら、バイオリン弾けないもんね!」

(そっちじゃねえー……! いやもういいや……何も言うまい)

 人魚と距離が置かれてひとまずほっとする。

「弾いてやるから……ちょっとだけ落ち着け。準備すっから」

「うん! じゃあ静かにしてる」

(その声がすでに静かじゃねー……)

 邪気のない人魚に何を言っても無駄なのはわかっている。人間はため息一つついて、ケースにしまったバイオリンを取り出した。


 人魚はそれらの動作を珍しげに見守っていた。いつの間にか椅子に座り、さっきまでのお喋りをぴったり止めた。彼女なりに静かにしているということなんだろう。

 あの明るい声を最初は疎んだものだが、ぴったり消えたら消えたで寂しいものだ。

(まあ、落ち着いて弾けると思えば)

 そう言い聞かせて、人間は改めてバイオリンを持つ。

「曲目は」

「うん?」

「弾いてほしい曲はあるか?」

「うーん……、じゃあ、さっき弾いてたのがいいな!」

「はいよ」

 人間はふっと目を伏せて、すぐにまた開く。

 さっきまで顔を真っ赤にしながらあわてふためいていた人間はいない。

 穏やかな表情で、バイオリンをかきならした。

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