名前はまだ……
「そういえば。アクナさん。この子の名前はなんて言うんですか?」
エノーミさんのところにお世話になってから早一ヶ月。その間もさまざまな出来事があった。あんなことやこんなこと。そして一番の出来事はもちろんこれだろう。あろうことかオレが子虎ちゃんのお世話をすることになったことである。なんて簡潔すぎる解説なんだ。子虎ちゃんは目を覚ましてから、まるでオレが親であるかのように凄い勢いで懐いてくる。四六時中そばから離れず、ちょっとでも遠くに行くと、ものすごい声で鳴き叫ぶ。アクナさんも初めは自分の家(森の中)に連れて帰っていたが、どうしてもオレがそばにいないと子虎ちゃんは落ち着かないということで、ほとほと困り果てオレに預けることにしたようだ。
それを聞いた時はまさかと思ったね。二度言ってもいいかな…。よし、まさかと思ったんだよ! オレが神獣を育てることになるとは……。正直荷が重い。だって神の獣と書いて神獣だよ。相手は神なんだよ。異世界人であるほか、なにもない凡人であるオレがそんな大役を仰せつかっていいわけがない。
もちろん、すぐに断ったさ。でもエノーミさんとアクナさんはなぜだか大丈夫だと言って取り合わない。まるで、二人とも初めからこうなることがわかっていたみたいに……。まあ、とりあえずそれは置いといて、最終的にはオレが押し切られる形となりこうなったわけだ。
その短い脚でよたよたと走り寄ってくる様は、言葉に言い尽くせないほどかわいすぎる。
(名前はまだない、のじゃ)
某夏目漱石の小説に出てきそうな言葉だな、おい…。にしても、まさかその小説を知ってるのか? いや、まさかね…。
「それは何かのギャグですか? 名前がないわけないじゃないですか」
(うーむ…、そういわれてもな~。本当にまだ名前はないんじゃよ)
「またまた~……。よりにもよって神に名前がないわけないでしょ」
(まあ、それもそうなんだがの……。確かにそう思ってしまうのも無理はないと思うんじゃが、我ら神獣はこの世界の一種象徴と言っても過言ではないんじゃよ。だから例を出せば、この世界のミニチュアみたいなものであるのかの~。我らは時を重ねるとともに、この世界の歴史のように名前は自然に付けられていくんじゃよ)
「へ~……。そうなんですか。そじゃあ名前は誰にでもわかるようになるんですか?」
(い~や。我らはそれを本能で悟る。じゃから他人ましてや人間にはわからないようになっている。まあ、そもそも言語自体が違うがの)
なるほど。この世界の時・出来事が名前になるのか。つまり名前=この世界の歴史ってことかな。なんとなく自分の中でしっくりとくる。
オレは肩に乗っている白いモフモフの生き物を横目で見た。
かわいいな~。この子も、将来すごい名前が付くのだろうか。こんなかわいい子に…。なんかしんみりとしてきたな。
(前にコタローには話したと思うが、我の名前はお主らの言語とは違うものなのじゃ。このアクナという名前も実際は我の夫がつけてくれたものなのじゃ)
ふ~ん、夫ですか…。想像もできないな。前も言っていたがアクナさんの旦那さんとはいったいどんな人なんだろう。いや、違うか。どんな虎さんなんだろうか。そのうち聞いてみようかな。聞けたらだけど……。きっと変な人なんだろうな。
(なにをにやついた顔をしているのじゃ?)
「なんでもないですよ。ちょっと面白いことを考えてしまっただけです」
思わず、おかしなことを考えていたのが顔に出てしまったようだ。
それにしても、やっぱりオレの性格は変わっていない。この世界に来てからけっこう経つのにもかかわらず。
オレはどうも昔から人のプライベートに踏み込むのが得意ではなかった。例え仲のいい友人同士であっても、軽々しく『今彼女いる?』とか『どこの学校いってるの?』とか聞くことができないのだ。いや、そういう表現はちょっと違うかな。聞きたくないといった方が正確かもしれない。自分でもどうかしていると思う。知りたいという好奇心はあるのだが、それを上回る自制心というか、恐怖心というか、うまく言葉にできないがそういったものに負けてしまう。きっと相手も聞かれたら何の躊躇もせずに答えてくれるのだろう。それはわかっている。むしろ聞いてくれたほうが相手にとっていいのかもしれない。オレだってそうだもん。でもできない。なんでだろうなぁ。自分自身に苦笑してしまう。でも、オレはこの性格がけっして嫌いなわけではない。言葉にしないほうがいいこともこの世にはたくさんあると思っている。沈黙は美徳なり。この場合ちょっと意味が違うかな…。
(さっきからボ~っとしてどうしたのじゃ? せっかく我が直々に説明してやってるというのに)
おっと……まずい、まずい。どうやらマイワールドに浸っていたようだ。
‘私の悪い癖’ by 杉―――、……わかる人はわかるよね。
「すいません。何でもないです。気にしないでください」
(そうか、ならもうその話は置いておいて我から頼みがあるのじゃが)
頼み? アクナさんからの頼みとは何だろう…。脳内のシナプスを流れる電気信号がわずかな時間でフル稼働し神系繊維を隅々まで駆け巡る。しかし、思い当たる節は全くない。嫌なことでなければいいが…。
(何もそんな不安そうな顔をせんでも。ただこの子の名前を考えてほしいだけじゃ?)
名前……? 何だそんなことか。安心した。
(いまそんなことか、とか思わなかったか? 言っておくが、仮にも神の名を考えるんじゃぞ)
「なら、自分で付ければいいんじゃないですか。親なんだし」
(う…、まあ、そ…そうなんだがの~)
なぜだかアクナさんの歯切れが悪い。様子がおかしい。まるで何かを隠しているみたいだ。
「何を隠しているんですか?」
「親だから逆に気を使ってしまうものなんだよ」
不意に後ろから声が飛んでくる。いつの間にかエノーミさんが帰ってきていたようで、すたすたと歩いてくる。
「いや、意味分かんないですよ。本当にそういうものなんですか?」
「そうだよ。そういうことにしておけ。賢いコタローなら遠くないうちにきっとわかる。アクナの娘の名前が決まったら教えてくれよ。言い名前期待してる」
エノーミさんはそう言うと、さっさと自分の部屋へと消えていった。
(我もいい名前待っているぞ)
アクナさんもいそいそと家の外へと出かけて行った。
なんなんだよもう。二人とも何か隠しているのは明白である。今もあからさまに話を終わらせたことからよくわかる。ただ、そのうちわかると言っていたから本当に隠したいわけではないのだろうが……。二人が教えてくれないならしょうがない。
「別にどうでもいいか……」
そう言うのを気にするのは好きじゃないし。
翌日、オレは二人に子虎ちゃんの名前を帝としたことを告げた。
理由は特にない。ただ、雰囲気というか、オーラというか、そう言ったものが自分たちとは違う地位の高いものを連想させたからだ。地位が高い→天皇……×、地位が高い→貴族→王……×、地位が高い→貴族→帝……○。天皇では名前っぽくない。王もしくはキングでは男になってしまう。子虎ちゃんは女の子だから却下。なら同じようなもので帝。これならゴロ的にも悪くないし、女性の天皇でもおかしくはない。このような簡単な図式が脳内に出来上がって決定した。
二人とも予想外なことに思いのほか気に入ってくれたようであった。
ただ、この時のオレはこの名前の重要性。そして二人がこの時どんなことを考え、どんな気持ちでいたのかを知る由もなかったのである。




