はじまり
これまでか……。思いのほか短い異世界ライフであった。
異世界に来て早々オーガから必死に逃げた。エノーミさんに出会い、今日猫ちゃんに遭遇した。そして何より魔法を使えた。ファンタジーの定番とも言っていいあの魔法を。まさか生きているうちに魔法を使えるとは思ってなかったのでかなりうれしかった。その後はまたオーガから必死に逃げ続けた。
あれ? オレって逃げてばっかりじゃ……。
わずか一日にも満たない思い出が走馬灯のように思い出す。不思議と地球での出来事は思い出さない。20年も暮らしていたことよりも、たった1日のほうが自分にとって印象深かったということか。
だとしたら、なんか悲しい気もする。自分の生きてきた20年はなんだったんだろうと思ってしまう。しかし、自分がいなくても良かったと思えるほどオレはうぬぼれていない。親がいて、家族がいて、友達がいて、恋人がいて。どんな人にとっても、少なからず他人とのつながりを持って生きている。もちろんオレもそうだ。つながりを持つ人はつながった人にとってなにかしら存在する意味があったということになると思う。
オレの眼前には勢いよく降りあげられたオーガの棍棒がまさに振り下ろされようとしている。
最後に猫ちゃんを視界の端で確認する。かわいかったな。真っ白でもふもふで。肉球もやわらかかった。もうちょっと触ってたかったな。オレは静かに目を閉じる。
(願わくばこれが夢で、現実(元の世界)に戻れますように…)
「……」
おかしい。いつまでたっても来るべき衝撃が来ない。
あ~、そうか。気がつかないうちに、もう死んじゃったんだ。死んだら痛みなんて感じることも無いだろうし。きっと痛みなんて感じる暇も無かったのだろう。ということは、いまどこにいるのだろうか。死後の世界か。もしくは地球に戻れたか……。
オレはことのほか達観した気持ちで、ゆっくりと目を開けた。
「緑だね……」
視界いっぱいに広がる濃淡様々な緑色。若さあふれる新緑から、長い年月を重ねてきたであろう木々。針葉樹ではなく、全体的に丸い感じを受ける広葉樹が多い。その中心にはひと際雄大な自然がそびえ立っていた。
「おっきいな~」
遠まわしに言ってみたが、結論を言おう。景色が変わってない。と言うか、オレは死んでなかった。
なぜだ。何があった。
オレは現状の把握に努める。
「……え?」
オレは自分の目を疑った。昨日はよく寝たはずだ。睡眠時間的には全く問題ないはず。目をこすって再び前方を確認してみる
「……虎?」
やはり目の錯覚ではなかったようだ。オレの目の前、さきほどオーガがいた位置に大きな虎がいる。その力強い四肢でどっしりとその場に身構えている。その姿は神々しく、まるで一体の彫刻のようである。
驚きのあまり心臓の鼓動がうるさいほど聞こえていた。
死ぬと思っていたら、死んでいなくて、目の前には猛獣と言われる虎。まさか、まさかの展開である。とりあえず何でもいいから大声で叫びたい。
「そうだオーガは?」
……あらら。見なかったことにしておこう。そのほうがいい気がする。右手には地面にべったりと口づけしているオーガらしきものを発見した。ピクリとも動かない。死んでるのか…? いや今はそれどころではない。
いまだ混乱している頭を必死に落ち着け考えてみる。今の状況、おそらくこの虎がオーガを吹っ飛ばしたのだろう。見る限り他に理由が思いつかない。そして思いつくのがなぜ虎がいるのかということ。常識的に考えると、かなりマズイ。オレはわずかな距離を挟んで虎と半ば向かい合っている状態。オーガを平然と吹っ飛ばすほどの虎。オーガではなく虎の方に食われるのだろうか。別にもうどっちでも構わないが。
動くに動けない状態がしばし続く。こういう時に限って、鳥のさえずりや風によって木々の揺れる音がよく聞こえる。静寂がオレの緊張感を一層強いものにしていく。
虎はオーガのことをまるで気にしていないようだ。ちらりとも目を向けない。子猫ちゃんの上にかがみこんで何かを確認しているのかじっと見つめている。気のせいか幾分心配そうな表情にも見える。
「ガルッ」
虎にしては似つかわしくない気の抜けたような鳴き声を上げると、今度はその顔を俺に向けた。
その顔にはやはり、えも知れぬ威圧感があふれ出している。突き刺さるような視線が呼吸をすることさえ忘れさせる。恐ろしいはずなのだが、オレは視線をそらせない。そらさないと言った方がいいかもしれないが。なぜだか恐怖感はかんじないのだ。正面きって虎と目を合わせられている自分にビックリしている。
改めて全身を観察してみる。全身真っ白な虎。汚れたり、くすんでいるような部分は少しも無い。口元からは恐ろしげな鋭い牙を二本覗かせている。すらりとしていて、かつ筋肉質で力強い四肢。ふさふさとしたシッポはその半ばあたりで二つに分かれている。
うん? 二股のしっぽ……。どこかで見たような。
あ、そうだ。猫ちゃんだ。
ここにきて気が付いた。猫ちゃんと同じだ。猫ちゃんのシッポも二股に分かれていた。
親子であるのだろうか。だとしたらヤバい。肉球とか、もふもふとした脚とかいろいろ触りまくってしまった。(効果の不確かな魔法を使ったことは気にしない)
これは自分のことをさぞ怒っているだろう。
虎はのっしのっしと近づいてくる。
どうしたものか……。
オレは近づいてくる虎から目を離せずにいたのだった。