王都の逆襲 —— 『インペリアル・スタウト』で迎え撃つ防衛戦【後半】
荒野に響くのは、雄叫びではなく、金属が腐り落ち、革が裂ける不気味な「腐食音」だった。
王都が誇る最新鋭の魔導装甲。教会の祝福を受けたはずの聖銀の盾。それらが、ウィルが放った漆黒の霧――インペリアル・スタウトの飛沫を浴びた瞬間、まるで数百年放置された廃屋のようにカビに覆われ、ボロボロと崩れ落ちていく。
「な……馬鹿な! 私の『聖十字の鎧』が、ただの酒に、食い荒らされているというのか!?」
団長ガストンは、鞘の中で肥大化し、二度と抜けることのなくなった剣を握りしめ、絶叫した。
彼ら聖騎士団にとって、装備は信仰の証明そのものだった。それが「不浄」と蔑んだビールの酵母によって、物理的に「消化」されているという事実は、死よりも深い屈辱だった。
「言ったでしょう、ガストン団長。これは戦うための酒だ、と」
ウィルは、漆黒に染まり、激しく脈打つ右腕を抑えながら冷徹に告げた。
「あなたの装備は、有機的な結合を魔力で強化しすぎていた。だからこそ、俺が造り替えた『捕食酵母』にとっては、これ以上ないご馳走だったんです」
兵士たちの間に、もはや戦意は残っていなかった。
喉を焼くインペリアル・スタウトの濃厚な旨味と、12%を超えるアルコールが彼らの脳を直接揺さぶっている。極限の渇きと疲労の果てに味わった「禁断の快楽」は、騎士としての規律をドロドロに溶かし去っていた。
一人、また一人と、重い鎧を脱ぎ捨て(あるいは、崩れ落ちた鎧から這い出し)、地面に膝をつく。彼らの手には、武器の代わりにリネットが配ったジョッキが握られていた。
エルザが、静かに一歩前へ出た。
彼女の周囲には、聖女としての神々しい光ではなく、醸造を支える冷却の魔力が揺らめいている。その冷徹な美しさに、ガストンは息を呑んだ。
「エルザ様……! なぜ、王都の至宝たる貴女が、あのような男に……!」
「ガストン、あなたはまだ気づかないのね」
エルザの声は、夜風のように涼やかだった。
「私たちが信じてきた『清浄』は、ただの停滞だった。……でも、ウィルが造るこの漆黒は違う。これは、死んだ麦に新たな命を吹き込み、時間を味方につけて進化し続ける『生きた奇跡』なのよ」
彼女は手元のジョッキを軽く傾け、その漆黒の香りを愛おしそうに嗅いだ。
「このインペリアル・スタウトを、単なる『不浄』と切り捨てた王都の視座そのものが、この酒の深淵に敗北した。……見てなさい。あなたが守ろうとした規律よりも、この一杯の『温もり』の方が、彼らを救っているわ」
ガストンが周囲を見渡すと、そこには敗北したはずの部下たちが、スタウトの魔力に酔いしれ、頬を赤らめて幸福そうにため息をつく光景があった。
アルコールが恐怖を麻痺させ、濃厚な糖分が生命力を呼び覚ます。
それは、厳格な教義では決して与えることのできない、「生」の肯定だった。
だが、その「祝祭」のような光景を切り裂く、冷たい一閃が空を走った。
「――やはり、騎士団などという無能な駒に頼ったのが間違いであったな」
大樽号から少し離れた岩陰から、影が伸びる。
現れたのは、白い法衣に身を包み、顔の半分を仮面で覆った男。枢機卿直属、王都禁忌審問官――ベネディクト。
彼の背後には、騎士団を囮に使い、隠密裏にウィルを暗殺するために潜伏していた「処刑部隊」が控えていた。
「団長、お前の任務は終わりだ。……装備をカビさせた無能な騎士は、ここで異端者と共に殉教せよ」
ベネディクトが杖を掲げると、空中に巨大な「浄化の魔法陣」が展開された。
それはウィルの発酵を止めるためのものではない。周囲の酸素ごと、生命の熱を「白化」させて消し去る、殺戮のための光だった。
「……っ、カイルさん!!」
「わかっています!!」
カイルが抜剣し、ウィルの前に立ちふさがる。リネットもまた、酔っ払ったふりをかなぐり捨て、袖口から黒塗りの投擲ナイフを滑り込ませた。
しかし、ベネディクトの放った光の障壁は、二人の接近を許さない。
「不浄なる醸造家よ。お前の右腕に宿るその魔力……。それは酒などという高尚なものではない。ただの『腐敗』だ。世界を汚すその腕ごと、塵に還るがいい」
ウィルは、激痛に震える右腕を見つめた。
右腕は今や、インペリアル・スタウトのタンクと魔導的に直結し、漆黒の魔力を吸い上げ続けている。血管ははち切れんばかりに膨らみ、そこから琥珀色の火花が散っていた。
「……カイルさん、リネット。……下がっていてください」
「何を言ってるのウィル! あんなのまともに喰らったら……!」
「……大丈夫だ。俺はまだ、このスタウトの『本当の力』を、誰にも飲ませていない」
ウィルが大樽号の最終バルブを、力任せに引き抜いた。
タンクの中に残っていた、最も濃厚で、最もアルコール度数の高い「澱」の部分――それはもはや液体ではなく、どろりとした魔力の結晶体だった。
「バルカンさん! 炉の温度を、一気に臨界まで上げてください!!」
「がっはっは! 死ぬなよ、若造! ……行けぇ!!」
魔力炉が爆発的な音を立て、漆黒の液体がウィルの右腕を介して「気化」した。
荒野に広がったのは、先ほどまでの甘い香りではない。鼻を突くような鋭いアルコールの刺激臭と、すべてを飲み込むような「闇」の芳香。
「ギフト『全解離』――インペリアル・ヴォイド(漆黒の虚無)!!」
ウィルが右腕を突き出す。
ベネディクトが放った「浄化の光」が、その黒い霧に触れた瞬間――光そのものが、シュワシュワと音を立てて『発酵』し、砕け散った。
「な……魔法を、発酵させただと……!? 馬鹿な、事象を分解しているというのか!」
「魔法も魔力も、世界の理の一部。……なら、それさえも『美味しく』熟成させたまでですよ」
ウィルが放った漆黒の霧は、審問官たちの法衣を腐らせ、杖を枯らし、彼らが拠り所にしていた魔導回路を、一瞬で「ただの枯れ木」へと変えてしまった。
ベネディクトは、自分が信じていた「光」が、泥臭いビールの霧に飲み込まれ、甘く熟成されていく恐怖に、初めて仮面の下で顔を歪めた。
「ひ、卑怯な……! このような、不浄な力……っ!」
「……帰って枢機卿に伝えてください。……次は、王都のその椅子ごと、発酵させてやるってな」
5.夜明けの乾杯
審問官たちが命からがら退却し、荒野に再び静寂が訪れた。
聖騎士団長ガストンは、鎧も武器も失い、シャツ一枚の姿で地面に座り込んでいた。彼の前には、ウィルが最後に注いだ、穏やかな泡立ちのスタウトが置かれている。
「……団長。……これ、もう毒じゃないですよ。ただの酒です」
ガストンはしばらく無言でそのジョッキを見つめ、やがて、震える手でそれを取った。
一口。ゆっくりと、その漆黒を喉に流し込む。
「………………負けだ」
彼は短く、だが憑き物が落ちたような声で呟いた。
「……私の剣では、この味には勝てん。……不浄などと、どの口が言えたものか。……これは、あまりにも温かい」
騎士団の四百名は、もはや征討軍ではなく、ただの「ウィルに命を救われた酔っ払い」の集団となっていた。
「ウィル様!!」
エルザが駆け寄り、意識を失いかけたウィルを支える。
ウィルの右腕は、漆黒の魔力を使い果たし、元の肌色に戻りつつあったが、手のひらには消えない「焦げ茶色の紋章」が刻まれていた。
「……やりましたね、エルザさん。……騎士団全員と、乾杯できました」
「バカ。……死ぬかと思ったわよ。……でも、最高の黒だったわ」
リネットがカイルの肩を叩き、バルカンが大笑いしながら予備の樽を担いでくる。
荒野の真ん中で、王都最強の軍勢を相手にした「防衛戦」は、史上稀に見る「全員泥酔」という形で幕を閉じた。
だが、ウィルは知っていた。
王都は、枢機卿は、この敗北を許さないだろう。
次に迫る影は、さらに巨大で、冷酷なものになる。
しかし。
「……さあ、次はどんな酒を造りましょうか」
ウィルの言葉に、仲間たちが笑顔で応える。
不浄の醸造師の旅は、いよいよ世界という名の巨大な樽を、発酵させようとしていた。




