第十二話
「見えました。敵軍です!」
「ついに来ましたか」
朝焼けに大地が橙色に染まる頃、早朝の冷たい風が髪をなでて流れていく。
ルリーナは城壁の上に立って、遥か遠方の地平線を眺めた。うっすらと、黒い雲のように見えるのが敵の軍勢だろう。
「ルリーナ卿、我々に勝ち目はあるのですよね?」
不安げに言ったのは、共に城壁に上っていたゲルダだ。身を切る風に頬を軽く染めながら、その目は敵軍から逸らせないようだった。
初の実戦がこの戦というのは、ついていないのかもしれない。
「やれるだけのことはやりました。後は、陛下と市民次第ってところですかね」
既に、城下には軍が迫っている旨が下達されている。城外に逃れられる者は既に荷物をまとめて王都を抜け出しているところだろう。
それでも、数多くの市民が城壁の中に残っている。王都に住む者の多くはその外に身寄りもない。
あるいは、住み慣れたこの王都を離れるということは考えられない。という者も居るようだ。
「王都が包囲されるとは……」
以前にも危ういところまで押し込まれたことがあるようだが、王都を直接に包囲されるというのは滅多に起こることではない。
そんなに度々、首都を包囲されていては大問題だろう。とはいえ、リュング一帯を奪われた時には仮設の砦まで攻め込まれたらしいが。
「確かに相手さん、随分と数を揃えましたね」
千を数えるだろう兵が整列しているのを見ると、まだ遠くにも関わらず中々の威圧感を覚えた。
これだけの数が集められるのなら、他国との戦の時に呼んで欲しい。
「それだけ本気、という事でしょうか」
「その本気は外に向けて欲しかったですねー」
どうして内戦というか内輪もめにだけ本気になるのか。
この前の戦だって、これだけの軍を動員できていればもっと楽に終わっただろうに。
外国との戦争だと自領地の戦力を全て出す訳にもいかず、他の諸侯の動向にも気を払わなければいけないからだろうけれど。
「これだけの数が居るんだから早々に城を明け渡せ、ってことでしょうけれど」
数こそ多いが、おそらくその実態は徴募してから時も経っていない新兵が殆どという間に合わせの軍だろう。
そうでなければ計算が合わない。幾ら有力諸侯の集まりといえど、獅子王国全軍の遠征と同等の数を集めるのはかなり無理があるはずだ。
「ここからでは旗印も見えませんね」
敵軍の本隊よりもむしろ、傭兵がどれほど参加しているかが気になった。
新兵ならあるいは同胞に向かって弓引くのを躊躇ってくれるかもしれないが、傭兵となればそうも言っていられない。
自軍優勢と見た時の傭兵ほど厄介なものも居ないものだ。逆に劣勢となると早々に手を引くのだけれど。
「いつまでも見てても仕様がありませんから、もどりましょうか」
「は、はい……」
両手に息を吐きかけて温める。初夏とはいえ早朝はまだ冷える。
気圧されたのか、固まったようになったゲルダの背中を押して階段を下りる。
途中、歩哨に出ていた兵に労いの言葉を掛ける。彼らは敵が見えたということで、連絡のために右往左往していた。
戦時という事もあって緊張しているのか、いちいち礼をして見せるのだが、ここにいると彼らの仕事の邪魔になりそうだった。
「どうだった?」
「はい。ぱっと見、千人は居るかと」
「事前情報の通りだな」
ゲルダと別れて部屋に戻れば、エセルフリーダがニナナナに手伝われながら鎧を身に着けているところだった。
ルリーナに割り当てられた部屋はしばらく使われていない。
「王都にはどれほどの人が残っているのでしょう」
「細かくは解らないが……」
「お館様、腕を」
「ああ」
着々と武装が整っていく。全身鎧の着装で乱れた髪に丁寧に櫛を通すナナだったが、無頓着なエセルフリーダのことだからどれほど意味があるかは謎だった。
「細かくは解らないが、万の単位で居るだろうな」
「住民の管理も課題でしょうかねぇ」
税を取り立てるための台帳がないでもなかったが、それを管理する文官らとの連携は微妙なところだった。
そもそも、城を運営するために集まった人々は諸侯らと浅からぬ縁があるもので、王子閥との諍いはここにも影響を与えていた。
現在の王城内は機能不全気味で、早いうちに対処しないと国の運営どころの話ではない。
「女王陛下がああいう性格で助かりますけれど」
「それは……そうだがな」
ルリーナの物言いにエセルフリーダは苦笑で返した。
王子閥とは実質的に前王妃、王太后の派閥でもあるので、自然、城に居る侍女の類はその息がかかっているものが多い。
全員を解任して新たに雇用した者と入れ替えたいところだが、今の情勢でそれを行うのも難しく、昔からアイラの世話をしていた数人を除いて半ば遠ざけている程度なのが現状だ。
暗殺をしようと思えば絶好の位置にある彼女らが城中に居るということで、気の休まるときもないとは思うのだが。
「おはよー、おねーちゃん、エセルフリーダ」
部屋の扉をノックもせずに入ってきた件のアイラの調子はこの通りだ。
「おはようございます。陛下」
「陛下、なんて他人行儀じゃなくてアイラでいいってば」
もはや、取り込み中で臣下の礼が取れないことについては言及するまでもない事になっていた。
「アイラさん一人ですか?」
「そうじゃなきゃこうして入ってこれないでしょ?」
着替え中だったみたいだし。という彼女だったが、その辺りの常識はあるのか。
「そうなると今頃、デレクさんが探し回っているのでは」
「部屋におねーちゃんのところに行くって書置き残しておいたから大丈夫でしょ」
また、従者らの目を盗んで部屋を抜け出してきたのか。
アイラの神出鬼没ぶりについては、既に城内で話題になっていた。
厨房やら詰所やら練兵場やらと、いつの間にか現れるものだから気を抜けないという訳だ。
「まぁ、毒を入れる隙もない。と言えなくもないのですかね……?」
どこまで考えた上での行動なのかは解らないが、危なっかしいように見えてつかみどころがないのがアイラという少女だった。
「で、敵が着いたんでしょ?」
「もう報告行ってましたか」
「ううん。でも見たから」
そういえば、天守は城の中でも高い位置にあったか。外を見れば敵の軍勢も見えるだろう。
「しかし、随分と早起きですね」
「着付けとかあるから、昔から起きるのはこんな時間だよ」
そういうものか。しかし、今のアイラの格好は適当なものだった。
一人でも着れるようにだろうか、スカートと上衣が一体になったような服に、上着を羽織っているだけである。
申し訳程度にちょこんと乗せられた王冠がなければ、良い所のお嬢さんぐらいに見える。
「侍女が来ちゃったら抜け出せないじゃない」
「それもそうですね……?」
納得しかけたが、何かがおかしい。それでいいのか、国家元首。
そういえば、初めて会ったときも動きやすそうな服装をしていたのを思い出した。
「意外と面倒でしょう。あの服」
「解らなくもありませんが……」
ルリーナも幼い時分には正装していた事もある。
騎士の着る全身鎧に対抗するかのようにいくつもの部品に分かれたドレスは窮屈で、他人の手がないと着ることもできないようなものだ。
「陛下! 陛下は何処にいらっしゃる!?」
廊下から、衛兵と思わしき声が聞こえる。アイラはうんざりとした顔で溜息を吐いた。
「ほら、お探しですよ」
「はいはい。それじゃまた広間でね」
思ったより早かったな、などとつぶやきつつアイラは部屋を出て行った。
これからの方針を決める軍議をまた開かねばならない。
「あ、そうだ。おねーちゃん」
「何です?」
「今度の演説、おねーちゃんに任せるから」
「……えー」
平民に呼びかける演説。今回の戦は彼らの士気に掛かっていると言っても良い。
だからこそ、折を見て彼らのやる気を引き出すような声を掛けてやる必要があるのだが。
「ゲルダさん辺りじゃ駄目なんですか?」
「うーん、悪くはないと思うけれど、ゲルダって何だかんだ貴族だし」
なにより、平民を動員しようというのはルリーナの発案なのだから。
そう言われてしまえば、反論も思いつかない。
「じゃ、後でねー」
ひらひらと手を振って扉の向こうに消えていく小さな背中を見送りながら、ルリーナもまた溜息をついた。
幸い時間はあるものだから、何か文言を考えておくべきだろうか。
「責任重大だな」
「ぬー、傭兵ならさておき、市民に向かって何を言えばいいのか」
冗談めかして笑いながら言うエセルフリーダに対して、ルリーナは頭を抱える。
そもそもルリーナはこの国の民という訳ではない。今となれば村一つとはいえ領地を持つ身だが、元をたどれば傭兵でしかないのだ。
「はい、お館様」
「着装終わりました」
「うむ」
全身鎧を着こんだエセルフリーダが、具合を確かめるようにがしゃがしゃとそれを鳴らす。
こうして彼女が装甲を身にまとっているのを見ると、戦争状態に入ったのだという実感も湧く。
「常在戦場とはいえ、少々、息苦しいですね」
「そうか? もう慣れてしまったが」
鎧が重いと思うようになったらおしまいだ、と彼女は言う。確かにそういうものかも知れない。
ルリーナも腰から提げた剣が重いなどとは思わないことだし。
城壁に上がり哨兵の前に出るという事で、ルリーナはもう鎧を着ている状態だった。
「これからは根比べだな」
「ええ。暫くは耐えて貰わないと」
籠城戦に入ったからといって、すぐに打って出るという訳ではない。
ある程度は諸侯の軍にも血を流してもらうことになる。あるいは、市民たちにも。
「初めから市民を動員できれば良いのですけれど」
「無理な相談だろうな、それは」
多少の準備も必要であるし、この際、平民にも危機意識を持ってもらわなくてはならない。
そのためには多少の犠牲が必要で、だから、これからの人死にはその実、ルリーナらが殺すようなものでもある。
「人心というのも厄介なものです」
それが偽らざる本音だった。合理的に考えれば、初めから総力で当たれば被害は限定できただろう。
だが、彼らを立たせるには、物語が必要だった。そう、まるで英雄譚のような。
将の仕事は兵を生かすことではなく、兵の死に場所を定めることだとはよく言ったものだ。
死地に送られた兵にこそ意味がある。少ない人死にで多くを助けられれば、それが最善というものだろう。
いや、あるいは、時に人命よりも優先させるべき事があるのだ。
「諸侯に説明すると聞いたときは心配したものですが」
「そこは陛下のお力だろうな」
今回の作戦、いや、謀略と言った方がよいだろうか。これを発案したときには、友軍の諸侯も騙す気でいた。
勝利の為とはいえ、領民に死んでくれなどとは簡単に言えないだろう。そこを捻じ曲げたのはアイラだ。
彼女が大義を与えたのだ。意味のない死は受け入れられないが、そこに意味を見出せば容易くそこへ向かう。
ルリーナには理解しがたいところである。勝ち目のない場所に送られたら、恨みこそすれ正直に死んでやろうなどとは思えない。
「さて、それでは行くか」
「はい。お供します」
ニナナナが使用人然と頭を下げるのに見送られながら、エセルフリーダとルリーナは肩を並べて城中の廊下を歩き始めた。
朝早く、常ならばまだ寝起きで静かな城も、非常時とあって喧噪に包まれていた。
事前に情報が入っていた事もあり、混乱からくるそれではなく、統制された騒々しさではあった。
中庭からは、兵の点呼を取る声が聞こえてくる。諸侯は今回の策を知っているが、下々の彼らはそれを知らないものだ。
上からの指示を信じるしかない彼らを哀れととるか、それでも自らの職務に向かう姿を見事と取るかは人次第か。
「申し訳ない……いえ、ありがたいものです」
それが前者と後者の捉え方の違いから出てくる言葉だ。
「兵の期待には応えなくてはなるまい」
「ええ」
犠牲を無駄にしないためにも、などとは言うつもりはなかった。それは余りに都合のいい言葉だ。
兎にも角にも、稼いだ時間で何とかするしかない。タイミングを見計らうのも重要だった。
「……いけますかね」
そんな弱音が、口をついて出る。
エセルフリーダは横目でルリーナを見ると、そうだな、と頷いた。
発案者の自分が言う事ではない。叱責されても仕方のない事だったと失言に口を噤むがもう遅い。
「私も、もちろん陛下も、いけると踏んで乗ったんだ」
エセルフリーダの顔を見ることも出来ず、唇を噛んで下を向いていたルリーナに掛けられたのはそんな言葉だった。
「何、気にすることはない。失敗したときは、失敗した時だ」
どうやらそれは、彼女なりの励ましのようだった。
顔を上げて彼女を見れば、口の端に笑みを浮かべている。
「そうなったら、一緒に逃げてくれますか?」
「そうだな、それも良いかもしれない」
顔を見合わせて笑いあう。そう、どう転がってもやることをやるしかない。
分が悪い賭けでもないのだ。ここはひとつ、肝を据えて行くしかないだろう。




