安寿の胸の内
翌日、雪江は安寿を中庭に連れ出していた。
やはり、ずっと奥向きに閉じこもっていると息が詰まる。それに周りにいつも誰かがいるから、あまり込み入った話は避けていた。
龍之介が夕べ、聞き捨てならない事を言っていた。明知と安寿には夫婦関係が久しくないと。けれども加藤家の跡取りを産まなければならない安寿、それでは困るだろう。明知が安寿を抱こうとしないのか、それとも安寿が? それはわからなかった。それを聞きだそうと思っていた。
今、側室は加藤家の下屋敷にいるのだ。だから、安寿が子を宿すには絶好のチャンスだというのに。それとも別の理由があるのか。
始めは、二人でいろいろ話しながら歩いていたが、雪江がいつ、そのことを切り出そうかと意識したとたん、口数が少なくなっていった。すると安寿も黙ってしまった。
どうしよう。どうすればうまく聞き出せるのか。
「あ、あのさ、安寿姫。明知様とは・・・・・その・・・・」
言葉に詰まる。安寿もきょとんとした顔で雪江を見ていた。
「えっと、最近、その・・・・・・」
「雪江様? なんでございましょうか」
「あのう、明知様とはうまくいってるのかなって思って・・・・・・」
思い切ってそこまで突っ込んで言ってしまった。
安寿は途端に顔を暗くし、口をつぐんだ。雪江に見られたくないものを見られてしまったかのように気まずい感じになっている。
あ~だめだ。どうしよう。ズバリ言いすぎたみたいだ。こういうの、苦手。
雪江はなんとかその場を取り繕おうと思うが、何も言えないでいた。
言えば言うほど、事は悪い状況になりそうだ。
どうしようと内心焦っていると、安寿が後ろに控えている二人の侍女に言った。
「わたくしは雪江様としばらくここにおる。そなた達は屋敷の方で待つようにな。用があれば呼ぶ」
安寿の侍女がすぐさま「はい」と返事をした。雪江もお初の方を見て、うなづいた。お初も一礼をして、その場を離れて行った。
二人の侍女の姿が見えなくなってもなかなか安寿は口を開こうとしなかった。怒っているのだろうか。雪江があまりにもプレイべートなことを聞いたから。興味本位で聞いたわけではないと言わないと誤解されそうだった。
「あのう、もし気を悪くしたらごめんなさい。なんか、以前に会ったときと二人が違って見えて……それで・・・・心配になったんです。失礼だった? ごめんね」
また、しどろもどろだった。やはりきちんと武家言葉を覚えないとやばい。
「おわかりになりましたか・・・・」
安寿がポツリと言った。
十六歳の少女だと思っていたが、そこには妙に大人びた女の顔があった。
「まあ、なんとなくですけど」と言葉を濁す。
「明知様が側室を、そのことはご存じでございますね」
「はい」
「わたくしは、本当に子供でございますね。初め八千代に会ったとき、あ、側室の名でございます。わたくしは正室らしく、威厳をもって堂々としていようと思いました。そして、女同士、奥向きでいがみ合ったりせず、仲良くしていこうと考えておりました」
すごいな、さすが、生まれながらの姫だけある。雪江ならそう考えられない。
「わたくしの父上も数人の側室がいて、母もその中の一人でございました。普通ならば姫が生まれたのならがっかりするところを、兄たちの中に姫はわたくし一人でしたから、かわいがられて育ちました。母もご正室様も仲が良くて、まるで姉妹のようにしておりました。わたくしもあのようになりたいと考えていたのです。でも、それは子供から見たホンの表面上だけだったのかもしれませぬ」
安寿は一度、言葉を切った。そして、また決意したかのように、続けた。
「側室、あの八千代は年上で、落ち着いていて姉のようにやさしく、それでいてわたくしを立ててくれました。初めはそれでうまくいっていたのです。しかし、周りがわたくしたちを放っておいてはくれませんでした」
「周りって?」
「気づくと奥向きの……侍女たちが、真っ二つに分かれていたのでございます。わたくし派と八千代派」
「ええっそんなことって」
雪江は言葉を飲み込む。
「それはどこの屋敷でもあることにございます。誰でも自分の仕えている者にはひいき目で見て、その者の味方になります」
ああ、なんか想像できる。それって江戸城の大奥でも正室派と側室派で別れ、お互いにいじわるするってこと、実際にあったらしい。雪江自身も面白おかしく噂の種にされていたから、なんとなくわかった。
「わたくしはそれに惑わされずにやっていこうと思っておりました。しかし、あの八千代が、初めて明知様との夜を迎えた時、やはりわたくしの心は痛みました。痛くて、痛くて眠れないほどでした」
安寿の顔がゆがむ。その時を思い出して泣き出しそうになっていた。
「翌日の侍女たちの噂が耳に入りました。明知様がことのほか喜んでおられるという」
「ひっどい。なに、それっ」
その場にいない侍女に何がわかるのだ。正室には侍女が控えているが、側室との夜伽には宿直か老女(武家の奥向きに仕えた侍女の長のこと)などが付き添う。そしてその者たちは、その夜伽のことについて決して口外することはないはずだった。
「はい、それは八千代側の侍女が立てた根も葉もない噂だと後になってからわかりました。しかし、その時のわたくしは、それをすべて本当のことだと受け取ってしまったのでございます」
それは巧妙な作戦だった。
その当時、十五歳の安寿姫、しかも輿入れしてまだ一年もたっていない。子供もいなかった。
そんな小娘、揺さぶるのは簡単だったろう。正室の方がプレッシャーは多い。心の乱れは激しい。そしてその八千代は、安寿よりも四つも年上だった。中学生と女子大生の違いだった。
「明知様は安寿と八千代、分け隔てなく接してくれました。けれど、ある夜、ふと、この安寿に見せるやさしさは、あの八千代と同じ、いいえ、むしろあちらの方へもっと通いたいのにわたくしを哀れに思って、無理をしてこちらにもお通い遊ばされているのかと思い・・・・・。そう思ったらもうどうにもならなくなりました。月の物(生理)と言い訳し、一度明知様を拒むとますます受け入れられなくなり・・・・・・」
「受け入れられなくなったって?どういうことなの」
少し厳しい声を出してしまった。
「明知様に触れられることが怖くなってしまったのでございます。知らない間に自分であの八千代と比べてしまっていて、明知様にがっかりされたくないと思い、そう思えば思うほど体が動かなくなってしまって」
安寿の肩が震えていた。涙がこぼれていた。
「もういいよ。安寿姫。もう、いいから」
ちょっと深く聞き過ぎたかもしれない。
「わたくしは側室との戦いから逃げ出してしまったのでございます」
安寿は、側室の八千代がきてから、ひと月で明知との夜を拒否していた。
雪江は事の重大さに驚いていた。それでも明知はちゃんと安寿のところへも通ってくれていたという。表面上は何事もないようにと。明知が通わなくなれば、また噂の種になるからだった。
「わたくしは何度も謝りました。明知様はわたくしがこうなったのも全部自分の責任だと、そしてわたくしの隣で寝ているときが一番気が休まるのだとおっしゃってくれるのです。わたくしにはそれが申し訳なく思って・・・・・・」
明知はやはりいい人だなと思う。虚弱体質でなければきっと安寿だけでよかったのに。
「しかし、その後・・・・・・」
「へっ、なんかまだあったの?」
「火事になる数日前のことにございます。あの八千代の懐妊騒ぎがありました」
「懐妊って……騒ぎ?」
「はい、八千代が急に食が進まず、しかも気分が悪そうだったと」
側室が来たのが十二月だった。そして新年、今は二月、つわりの症状が出るには早すぎた。
「そう言う噂はすぐに奥向きに広がって、お母上様もお出ましになられたほどでございました」
「ええ、そんな」
「八千代がすぐに打ち消しました。前夜に八千代の嫌いなものが食膳に出され、無理して食べたところ、ずっとその味が残っていて翌朝まで。それで食が進まなかっただけだと申しておりました」
「ねえ、それってわざと? 安寿姫を揺さぶるために立てた噂なの?」
「わたくしの周りのものは、みなそう言って怒っております。しかし、わたくしの衝撃はそのことではございません。あのお母上様が・・・・・・八千代に優しいのでございます。そのような噂に惑わされ、大騒ぎをするなとわたくしが叱られ、噂の根源である八千代にはいたわりの声をかけたのでございます」
「ええ、あの理子様が?」
「はい、八千代はお母上様が、明知様のためにふさわしい側室をと、探し出したと聞きました。しかも近江水口藩の城内に仕えていた八千代をと。お母上様が八千代の味方と知ってわたくしは・・・・・・。そこであの火事になり、わたくしたち女人たちは下屋敷へ移ることになりました。側室ももちろんのこと、いつも顔を合わせなくてはならなくなり、わたくしは自分の部屋から一歩も出られなくなっておりました」
安寿は雪江が思っていたよりも深刻に悩んでいた。いや、悩むというよりも病的な心労で、考えることが悪い方へいってしまうのだった。
結構、昼ドラのようにドロドロしているかもしれません。