夫婦の問題
「明知殿と安寿姫が、ここの中屋敷にしばらく身を寄せることとなった」
雪江の行動が止まる。箸でつまみ上げた揚げ出し豆腐がコロリと畳に転がった。それでもそのままの姿でこっちを見ていた。
どうやら、龍之介の言った言葉を反芻しているらしかった。
「身を寄せる? それってさ、明知さんと安寿さんがここへ、この屋敷へ来るってこと? あの龍之介さんと同じ顔をした明知さんよねっ」
よほど信じがたいのだろう。雪江がしつこいほどの表現をしてくる。
「さよう、あの明知殿と奥方の安寿姫だ」
雪江は箸を握ったまま、腕を高く上げる。嬉しい時にやる決め動作をしていた。飛び上がらんばかりの勢いだった。
「やった~。安寿姫が来る。会えるんだ。ここで暮らすのね。お屋敷が元通りになるまで? ねっ、そうでしょ。そうしてっ」
「たぶん、そうなると思う。兄上も承諾してくれた故」
「きゃ~、すごい。安寿姫のとこにも行きたいと思っていたの。行かなくてもここにいるんならいつも会えるっ。うれしい」
龍之介は、雪江の言葉にやはり、と思っていた。今回のお光のことがなくても、雪江はきっと安寿のところへ通うことになっていただろう。雪江の外遊びは続くのだ。
「この奥向きの座敷、六つを使ってもらおうと思う。南側の日当たりのいい方をな。そして、明知殿はこの奥向きから出るときは、頭巾をかぶっていただく。わしとそっくりなので、家臣たちが困らないためにも」
「はいっ、はいはいはいはい」
雪江は嬉しくて、有頂天になっていた。少し沈めておく話をする。
「雪江、よく聞くのだ。明知殿は、火事から逃れ、下屋敷に身を寄せていたが、その後三日間、熱が続いて臥せっておられたそうだ」
雪江がはっとした表情で、龍之介を見た。
「ここに来るのは、人も多く、落ち着かぬ下屋敷ではゆっくりと養生できぬということでだ。そこのところをわきまえて行動するのだぞ」
こっくりとうなづく雪江。はしゃいでいた気は薄れていた。いつも気軽に遊びに行くなと諭していた。
「それと・・・・・・」
「ん?」
まだ何かあるのかという目を向けられる。
それは、二人をここに呼ぶことの本当の理由だ。
「安寿殿が・・・・・・、ずっと側室とこじれているそうだ」
「あ・・・・・・」
それは雪江も気になっていたことだったのだろう。すぐに顔を曇らせた。
「それは明知殿にも関わっている難題でな、そんなこともあって、あの二人だけを特別にここへ呼んだのだ」
「わかった。プライベートな生活へは入り込みません」
まったくとため息をつきたくなる。
雪江は、この龍之介が特別な言葉を使うことにいろいろと言わなくなってから、許してくれていると思っているらしく、ますます頻繁に使うようになっていた。大体想像で判断しているが、雪江本人はこれでいいのか、いいと思っているのかと問いたくなる。龍之介としては、諦めているが、これから明知と安寿を前に、きちんとした言葉遣いができるのか疑問だった。
そのうちに、雷を落とさないといけないのかもしれない。
「夫婦仲というものは、いろいろと複雑にできている。仲がよさそうに見えても、心は冷え切っている二人もいるだろうし、ましてや側室がかかわってくると、事はもっと複雑であろうからな」
「ほんと、わかった。あまりそういうこと、聞いて慰めようとか思わないし。だって、私達にはそういう人がいないから、何も言えないじゃない」
「そう、その通り。わしらには想像はつくが、実際のところ、わからぬ難事だ。その愚痴は聞いてやれるが、意見はできぬ」
雪江も真摯に受け止めてくれている。
「で? いつ来るの」
「あちらの支度次第だが、明日の夕方にはこちらに来ることになっている。引っ越しではないから」
「明日? すっごい」
また、満面の笑みを浮かべていた。
「うれしいか」
「もち、まじで嬉しい。龍之介さん、ありがとう。だから、大好き」
「では、今宵の寝所は?」
「やっだア。一緒に決まってるじゃないの。誰が別だって言ったのよっ」
それは雪江だろうと思ったが、機嫌をなおしたばかりなので、なにも言わないでおく。
上機嫌の雪江にホッとしていた。やはり、雪江はこうでなくては。
火事以来、明知のことが気になっていた。
新年から明知は、他愛のない近況を書状にして送ってくれていた。龍之介も雪江の様子やらを簡単に書いて返信していた。
その中で一度、一人の妻だけを愛する幸せを綴ったものがあった。気になり、そのことを単刀直入に切りだしてみると、安寿と側室の拗れが書いてあった。そして安寿は火事以来、明知にも笑顔を曇らせているとのことだった。
この屋敷に二人を呼ぶことは、火事の時に考えていたことだった。それに雪江がお光のところに入り浸ることを防ぐことも考慮して、正重に許しを得た。明知と安寿がここにいれば、雪江の外遊びも落ち着くだろうと思ったからだった。
翌日、雪江は二人が到着するのを心待ちにしていた。
南側の部屋は、加藤家から新しい調度品が届き、すでに所狭しとうまっている。
火事の時、余計なものは持ち出せなかったから、この際、すべてを新しくするつもりなのだろう。
暖かな昼下がり、二人を乗せた籠が到着した。
久々に見る明知は、熱が出たことを聞いていたから心配していたが、以前より顔もふっくらして元気そうに見えた。顔色もいいし、笑顔も変わらない。
安寿も雪江を見て、嬉しそうににっこりと笑った。しかし、その顔はやつれていて、目の下に隈があった。眠れていないと顔に書いてあるようだった。いくら化粧を濃くしていてもわかる。
思ったよりも安寿の苦悩は重いと雪江は感じていた。
しかし、雪江はそのことに気づかないふりをして、安寿と他愛のない話をする。
今まで興味のわかなかった着物の話、つい四日前に利久が訪れていた。その時、奥女中たちと共に顔を出していた。
その利久から着物のうんちくを聞いたのだ。
そして利久はお光のことを簡単に話して、また、近々京の方へ行くと言っていた。それはお光がまた一人ぼっちになるということだった。
雪江は、利久から買い求めた簪と朱塗りの櫛の話をした。
町人や商家の娘の間には、流行があるそうだ。大名の奥方たちはずっと屋敷内に引きこもっているから流行に疎い。でも流行を追う必要はないとも言った。
お光のところへも行きたいが、今は安寿たちがここに落ち着くまでは我慢しようと思っていた。
その日の夕餉、雪江たちは明知と安寿と一緒にとっていた。
安寿はここへきて少し休んだせいか、表情も安心しているようなリラックスしているように見えた。
元の明るいかわいらしい姫に戻ってほしい。
裕子たちが、明知の好物を聞きつけて、カレイの煮つけにしてくれていた。その骨は、から揚げにしてバリバリと食べられる。それもおいしかった。
若者だから少しはボリューム感のある食事の方がいいだろうという配慮だった。
食事中、もっぱら雪江と安寿が話していた。
龍之介も明知もほとんど話さず、黙々と食べていた。双子故、何か話さなくても通じるものがあるのかもしれないと思い、聞いてみた。
「ねっ、双子の不思議って聞いたこと、あるけどさ。二人が離れたところにいても、別々の環境でも同じことをしたり、思っていたりするって、本当かな。やっぱ、二人もそう?」
龍之介が雪江を一瞥した。そして次に明知を見た。
明知は、常に穏やかな笑みを浮かべたまま、龍之介を見ていた。
「たとえば?」
と龍之介がたずねてくる。
「う~ん、たとえば、同じものを食べようと思ったとか? 一番最初に食べたものってなに?」
「わしが先に口にしたものは、つくだ煮とご飯」
明知が興味深そうに言った。
「わしはカレイの煮つけ」
龍之介がすました顔でそう言った。カレイの煮つけは龍之介の好物でもあった。
「なんだ、違うじゃん」
雪江が不満そうにそうつぶやいた。
安寿が吹きだした。それでもあからさまに笑ってはいけないと思ったのか、声に出さずに肩を震わせて笑っていた。
「じゃあ、今何を考えてる?」
と聞いてみる。
「おなごはにぎやかだと思った」
と明知が言う。
「わしも同じく、おなごはうるさいとおもった」
と龍之介。
雪江は龍之介に食ってかかる。
「なによっ、にぎやかとうるさいは違うでしょ。なんで同じくなのよっ」
「なあに、同じ意味であろう。明知殿はよい言い方をしたまで、わしは正直にそう思ったことをそのまま言ったまでのこと」
と涼しい顔をして言う。
明知が笑う。
「相変わらず雪江殿は楽しい」
「はい、やかましいことで」
と龍之介が付け加えた。
「ちょっとっ、龍之介さん。違うでしょ。楽しいとやかましいはさっ」
「人というものは、同じことを思っても別の言葉で表現するものなのだ、そう言っただろう。よく覚えておくように」
と澄まして龍之介に言われ、キィ~となる雪江だった。
明知が笑い、安寿もけらけらと笑った。
雪江はその笑顔を見ながら、自分が笑われてもいいかと思いなおしていた。この二人がここに居る間、癒されてくれればいいと思った。
明知は、奥向きに閉じ込められても全く苦にならない様子で、ずっと書物を読んだり、勉学に勤しんでいた。
「藩主の嫡男に生まれなかったら、学者になりたかった」と言う。
安寿はやはり、その普段の笑顔には曇りがあった。最初に会ったときはあんなに素直に明知が大好きだと表現していたのに、今はどこか義務的に明知に付き添っている。二人には見えない壁のようなものがあった。
「ここには側室がいないのに、なんで?」
雪江は、中奥の龍之介の部屋にいた。
明知たちが奥向きに来てから、龍之介は雪江との寝所から遠のいていた。なんとなく近すぎて、コトを行う気分でもないし、こうした内緒話も避けていた。
そんなつもりではないが、気にしはじめると自分たちの生活も影響し始めていた。他のカップルと同居することが、こんなにも思いのほか気をつかうことになるとは思いもしなかった。
「わしもここに二人でおれば、元通りになれると思うたが、なかなかそう簡単にはいかぬようだ」
「でもね、安寿姫は明知様が寒そうにしていると綿入れをかけてあげたり、咳が出るとすぐに背中をさすったり、甲斐甲斐しい奥さんしてるんだけど」
「だからと言って、夫婦は心も結ばれていると思うのは早いぞ」
雪江はその発言を聞いて、あっけにとられる。
「どういうこと? 仲がよさそうに見えるのになんでよ。そういう振りをしてるってことなの?」
「ったく、そなたは単純だというのだ。皆がすぐに怒ったり、笑ったりしていると思っている」
「ええっ違うの?」
「世間ではそうやすやすと感情を表に出さぬもの。顔は笑っても心では悲しんでいることもある」
「え~、悲しかったら泣こうよ。絶対できない、そんなこと」
龍之介が諦めた顔で息をついた。
「まあ、気にしなくともよい。雪江には無理な事。それに必要ないと思うぞ。わしはもうそなたの感情丸出しに慣れてしまった。今更仮面のようなわずかな表情の動きから、その心を読むことは億劫だ。少なくともこの屋敷内ではな」
褒められているのか、けなされているのか、複雑な気持ちだった。しかし、龍之介は今の雪江でいいと言っているのが伝わった。まあいいかと思う。
「あの様子では、あの二人、最近まで肌を合わせてはおらぬよう」
「へっ、どういうこと?」
龍之介が雪江を抱きすくめる。
「こういうことだ」
「きゃっ」
あ、そういう事っすかっ。




